INNOCENT4万HIT記念プラスshionバースデー企画 三題噺参加作品 


三題噺 お題「びー玉」「たきび」「マフラー」



「Revenge 〜昔、僕が殺した少女〜」



                                     とっと







 いつの頃から見るようになったのかわからないけれど、時折夢の中に現れる少女。いつもミルク色の霧に中で背中を向けて佇んでいて、僕が近づいていくとゆっくりとこちらを振り向く。そして毎回そこで目が覚める。顔を見ているはずなのに、目を覚ますとどんなだったかまったく覚えていない。ただものすごく悲しそうな感じだったというイメージが残っているだけだった。

 今日もその少女の夢を見て、僕は夜中に目を覚ました。目を開けるとそこには心配そうに覗き込む妻の顔があった。
「どうしたの?」
 そう問いかける妻に「なんでもない」と一言だけ答えて、再び目を閉じる。まさか妻に、どこの誰とも知らぬ少女の夢を見て目が覚めましたとは言えないだろう。もしその少女の事について問い詰められても、僕には答えようもないし。
 ただ……、その夢を見るたびに、懐かしさと、悲しさと、恐れの入り交じったような感情にとらわれるから、多分まったく僕と関係ない娘でもないのだろうと思う。けれどどうしても思い出せない。恐れにも似た思いがあるのだから、多分思い出したくない思い出かなにかが絡んでいるのだろう。そう思うと気になるけれども、敢えて記憶の糸をたぐりよせる気にもなれなかった。ひょっとするとそれすらも心が拒んでいるのかもしれない。
 ちょっと、気分が高ぶってしまっていたけれど、無理にでももう一度寝ようとして、目を閉じた僕の顔になにかが触れる。瞼を開けると、妻の細い指が僕の目の淵を拭っていた。そのときになって初めて僕は自分が泣いていた事に気付いた。
「なにか怖い夢でも見たのかしらね。この大きな坊やは」
 僕と目が合うと妻は、そう言って悪戯っぽい目をして笑った。そしてそのまま横になると、まるで子供をあやすようにトントンと背中を叩きながら、でも結局は自分の方が先に寝入ってしまった。
 彼女が深く聞いては来なかった事に僕は安堵した。そしてこの夜初めて、何が涙を流すほどに悲しかったのだろうかと考えてみたのだった。ミルク色の霧に閉ざされて失われてしまった僕の記憶をたどりながら。

 窓の外は鮮やかな色に彩られた秋も終わりを告げ、すっかり季節も冬支度を整えていた。今年も残すところ後、ひと月。そろそろなにかと忙しくなってくるころだ。僕たちは毎年、このころから少しずつ、大掃除の準備をする。いつも窓拭きなんかから少しずつ進めていくのだけれども、今年は少し様子が違った。来春生まれてくる予定の子供の為に、より多くのスペースを、この狭い家の中に確保する必要に僕らは迫られていた。だから家中の収納スペースも見直しをかけ、いらないものは極力捨てるようにすることにしたのだ。
 そんなわけで、今日から休みの日には一つずつ押し入れをひっくり返して整理をはじめることとなった。妻が生活関連の部分をとりあえず担うので、僕は自分の身の回りからはじめる事にした。
「引っ張りだしたものに見入っていちゃダメよ。ちゃんと必要最低限のものだけを拾いだして後はすぐに捨てられるように整理してね」
 僕の性格を見越してか、やる前から妻には釘を刺される。彼女にとってはそれほどでもないが、ここは僕が三十年近く住み着いている家だ。どんなものでもその一つ一つに思い出が染みついている。割り切ってやらないとあっと言う間に思い出の海に放り込まれてしまうだろう。
 僕は自分が書斎代わりに使っている部屋の押し入れからすべてのものを掻き出すと、ごみ袋を片手に次から次へとそこへ放り込んでいった。ここは今は書斎だけれど、その昔は子供部屋として僕が使っていた部屋だ。それこそこの家のなかでも、僕の歩んできた歴史のほとんどが収納されている。油断はできない。一度思い出の世界に旅立てばそれこそ日が暮れるまで気付かずに過ごしてしまうだろう。そうなったら彼女からお目玉を食らう事は必然。また「離婚してやる〜!」と騒がれては叶わない。
 話がそれるけれど、彼女は怒ると必ずと言っていいほど言うのだ。「離婚してやる〜!」って。冗談だとはわかっていても心臓によくない。どうしてあゞも簡単に「離婚」、「離婚」と騒げるのかと不思議になる。
 片づけを始めてからは、最初こそ順調に整理していた僕だけれども、時間が経つに連れてそのペースは下降の一途をたどるようになった。別に思い出の世界へお出かけしていた訳じゃない。ただ、捨てられないのだ。ものを手にとってこれは捨ててもいいだろうか? それとも取っておくべきだろうか? と考えた時に「あゞ、これはあの時の……」と自分の歴史の一こまにぶちあたり、捨てるのが惜しくなってしまうのだ。そうして僕の回りには、やっぱり思い出の山が積み上げられていった。
 昼食の準備を終え僕を呼びに来た妻は、狭い部屋の中でがらくたに埋もれるようにして途方に暮れる僕を見て、腰に手を当てながらも苦笑した。
「こうなるとは思っていたけどね」
 そう言って部屋の中を見回す彼女。
「どうでもいいけど、今日中にそれ、なんとかしてよ。明日の朝までそのままだったら、全部私が捨てちゃうからね」
 笑いながらもそう言い放つ妻に僕は情けない顔で懇願したんだ。「それだけは勘弁」ってね。でも彼女の返事は冷たかった。
「だったら今日中になんとかしてね」
 そう言ってニッコリ微笑む彼女。でも目は笑っていなかった。
 妻からの怒りの波動に煽られた僕は、午後になると猛スピードでがらくたの整理にあたった。もう深くは考えないで、手にとった瞬間の判断でいるもの、いらないものを仕分けていく。こうなると妻の手で目茶苦茶に整理されるか、自分の手でそうするかの差しかないのだけれども、少なくとも全部捨てられると言う最悪の事態だけは免れる。余裕があったら後から捨てるものをもう一度見直そうと思いながらも、次の瞬間には燃えるものを庭へと運び出していた。整理するにしてもその場所を確保しなければならないからだ。
 そうやって、庭の中央に置いた一斗缶に燃えるものを詰め込み、部屋に戻って一息ついた時に、僕は押し入れの奥にまだ小さな段ボール箱が一つ残っている事に気がついた。それはふたを何重にもガムテープで止められており、よほど大事なものがしまってあるかのようだった。僕は、こんなものをなんで気付かずに残していたのだろうと不思議に思いながらも引っ張り出してみると、中から古ぼけた小さなマフラーと、ボール紙でできた小さな白い箱に詰め込まれたビー玉がでてきた。
 なんでこんなものが?
 そう思った瞬間、そのどちらにも見覚えがある事に気付いた。それはどちらも遠い昔、まだ僕が子供だったころのものだった。

 僕は幼いころ、どちらかと言えばいじめられっこだった。祖母がアメリカ人の僕は、いわゆるクォーターという奴で、しかもなんの因果か、白人系の祖母の血が色濃くでてしまい、一見外国人かと見紛うような容姿だったのだ。
 そんなだったから僕は子供の頃、激しいコンプレックスを抱いていた。それでなくても子供の世界と言うのは残酷で、自分と違うものに対しては排他的な感情が働く。僕はいつも同い年の子供たちから爪弾きにされ、一人で遊ぶ事が多かった。そんな僕の唯一の友達が祖母が買ってくれたビー玉だったんだ。
 ビー玉といってもいろいろある。僕はどちらかと言うと一般的な玉の中に柄を流し込んであるような奴よりも色がついているだけで無地のビー玉が好きだった。占い師なんかがもっている水晶玉みたいにそこには世界が移るように感じていたのかもしれない。今となっては記憶が定かではないけれども。
 僕はビー玉をはじいて遊ぶと言うよりは、それを眺めて、光に透ける彩りを楽しんで過ごしていたように思う。窓から差す光に照らされ、机の上にそれらが落とす色付きの影がとても幻想的で、それを見ているだけで僕は多くの友達を持つ別世界へと入っていけたのだ。
 そんな僕にも一人の友達ができた。記憶が定かではないけれども、多分小学校の低学年かせいぜい中学年になったばかりの頃だったと思う。隣の家に一人の少女が引っ越してきたのだ。
 親の都合で引っ越してばかりいるという彼女は、僕と違って活発で社交的で、転校してきてからもすぐにクラスのみんなと打ち解け、多くの友達をもった。そして家が隣同士のせいか、それとも引っ越してきたばかりで先入観がなかったせいなのか、彼女は僕にも平気で話しかけてきたり、遊びに誘ったりしてくれた。でも、これまで人づきあいと言うものをほとんどした事のない僕は、そんな彼女に戸惑うばかりだったんだ。
 そこまで思い出した時に、おぼろげながらに記憶の中の少女と、夢の中の少女の姿がダブった。そうか、夢の中の少女は、彼女だったのだ。今でも夢の中の少女は後ろ姿しか思い出せないけれども、ショートに切り揃えられ、飛ぶとフワフワと舞い上がったさらさらの髪は彼女のものと瓜二つだった。
 でも何故、彼女が夢の中に出てくるのだろう。あれからもう20年以上たつと言うのに。今日、ビー玉を見るまで思い出す事さえなかった少女だというのに。
 そう言えば彼女はその後どうしたのだろう。彼女はいつ頃僕の側からいなくなったのだろう?
 少女の誘いにも要領を得ない僕に、彼女はあきれるかと思いきや、それ以後も僕は何度も強引に彼女に手を引かれてみんなの所へ遊びに連れ出された。そうなってみて初めて知ったが、いつのまにか彼女は女の子の中でもリーダーになっており、男連中も一目置く存在となっていた。特に男連中の中でもがき大将的存在だった魚屋の息子(当時は店の屋号を取って魚八のあだ名で呼ばれていた)が彼女のことを好きになったみたいで、彼女が頼めばたいていの事には首をたてに振っていた。
 そんな魚八もさすがに僕の事となるとちょっと渋って、なかなか首を縦に振ろうとしなかったのだけれども、彼女になにか強く言われると不機嫌そうな顔で僕の方にノッシ、ノッシといった感じで歩いてきた。
「おい! お前、アイツがどうしてもっていうから仲間に入れてやっけど、代わりに俺のいう事はなんでも聞くんだぞ!」
 たしか彼は開口一番、僕にそう言ったんだと思う。要は友達と言うより、子分格という事になったみたいだけれども、僕はその日、彼らの仲間入りを果たしたのだった。それに子分格というのであれば、たいていの子が彼の子分格であり、そういった意味では友達でも子分でも大差はなかったんだ。
 それからの僕は、男連中からもお声がかかるようになり、みんなと一緒に遊んだり、彼の少女と二人で遊んだりと、ずいぶん社交的な毎日を送るようになった。でも僕はどちらかと言えば、彼女と二人で過ごす方を好んでいたと思う。男連中の間では良いように使いっ走りにされたりもしていたから。
 でも彼らは最初の頃と思うとずいぶんと僕にやさしくなった。それは僕の正しい有効活用を思いついたからに他ならない。これまで僕はずっと一人だったから時間は腐るほどあった。だから勉強なんかも結構やっていたりする。だからそう、彼らはいつも、僕の宿題を写していたんだ。その代わり交換条件としていろんな面で優遇される事もあった。そして気がつけば、決して逆らう事がなく、なにかと便利な僕は魚八の取り巻きのなかでも一番のお気に入りになっていた。
 僕は少女のお陰もあって、うまく仲間の中に溶け込めていたと思う。彼女は誰か一人を特別扱いすると言う事もなく、みんなを平等に扱った。だから最初に僕を強引に仲間に連れ込んだ時はいろいろと冷やかされもしたけれど、直にそんな事は誰も言わなくなった。かえって僕の方が「あの時はアイツがお前に気があると思ったのにナァ」とニヤニヤといやな笑みを浮かべながら言われる事が多くなった。
 僕は彼らに打ち解けたと入っても、決して人づきあいが得意になったわけではなく、ずっと仲間うちで過ごしてきた彼らに比べて、そういった点で社会的な対処能力に著しくかけていた。つまる話し、そういう風に冷やかされた場合、どう受け流せばいいかまったくわからなかったのだ。自然、顔を赤らめて俯く事となり、周囲は余計に「こいつはあの娘にホの字だぞ」とはやし立てる事となる。そしてそれがあながち間違いでないだけに余計に始末が悪かった。
 そんな、僕とみんなの関係がおかしくなったのはその翌々年の冬だった。

 彼女と出会ってからの三年あまりで、僕を取り巻く環境は目まぐるしいほどに変わった。内気でいつもひとりぼっちだった僕は、いつのまにか番長の知恵袋的存在で、グループのなかでもみんなにナンバー2的な目で見られる事が多くなっていた。なにか問題が起こると魚八は必ず僕に相談してきたし、そういった意味で組織を支えるブレーンになっていたと言っても過言じゃなかった。
 でも、相変わらず魚八は少女に首ったけで、だから比較的彼女と仲のよかった僕は、陰で結構威嚇され続けてもいた。
「あの娘には手を出すなよ。そのうち俺がものにするんだからな」
って。
 小学生でものにするもなにもあったもんじゃないけれど、子供たちのリーダーで、上に年の離れた気の荒そうなアニキを二人持つ彼は、少し大人ぶって見たかったんだろう。きっとその辺の台詞も、彼のアニキ達の受け売りだったんだと思う。ただ、僕は「ものにする」と言う意味がわからないなりにも、なんとなくその言葉のもつニュアンスに、毎回胸が締めつけられる思いがしたのを覚えている。

「あれが初恋だったんだなぁ」
 今にして思えば、そう言える。でもそのころはなにもわからなかった。まだ小学生で色恋のいろはもわからぬ上に、人づきあいもまだ初心者だった僕には無理からぬ事だった。ただ、訳もわからぬままに感情が振り回されていた。
 「手を出すな」と言う事が具体的にどう言うことかわからなかった僕は、その年のクリスマスに大チョンボをやってのけた。事もあろうに、僕はみんなを出し抜いて彼女にクリスマスプレゼントをあげたのだ。
 その年の秋も深まったころに、彼女が「寒くなったらマフラーがほしいね」と言っていたのを僕は覚えていた。それで、小遣いを叩いて、その年彼女にマフラーをプレゼントしたのだ。その代わりに彼女は僕の大好きな無地のガラス玉を幾つかくれたんだった。

 僕は、ビー玉と一緒にでてきたマフラーを手にとると、それを眺めた。薄汚れてはいるけれどその柄には見覚えがある。これは、あの時僕が彼女にあげたマフラーだ。でもなんでそれがここに?
 僕はさらに記憶の糸をたどる。もはやそれは思い出に浸ると言うものではなかった。正直僕は怖かった。その先に待ち受けているものが。僕の頭はそれ以上先に進むなと警鐘を慣らすかのようにガンガンと痛み出していた。それでも僕はなにかに取りつかれたかのように一生懸命記憶の糸をたぐりよせる。

「マフラーほしいって言っていたの、覚えていてくれたんだ」
 僕がマフラーを手渡すと、彼女は本当に嬉しそうにそう言った。そしていきなり僕に抱きつくと唇を重ねてきた。ビックリして腰を抜かした僕を見下ろすようにしていた彼女は、両手を腰にあてるとあきれたように言った。
「女の子からファーストキスをもらえるって言うのに逃げる奴があるかぁ」
 そう言いながらも彼女は笑っていた。それにつられて僕も笑った。そしてそんな僕らを見ている奴がいたんだ。
 僕は翌日魚八に呼び出された。僕が呼ばれるままに彼の家に行くと、そこには彼とその取り巻きが勢ぞろいしていた。魚八はその真ん中に腕組みをしてでんと腰を下ろしていて、不機嫌そうに僕を睨んでいた。そんな彼になんて声をかけたらいいのかわからなくて立ち尽くしている僕に、彼はドスの効いた声で言った。
「俺はお前に何度も手を出すなって忠告したよな」
 そのときになって僕は初めて呼び出されたわけがわかった。そして手を出すなと言うのがどう言う事かも。これまでに築いてきた僕の地位が一気に瓦解するのを感じた。この中では彼は絶対で、僕は既にこのとき、優秀で使える彼のブレインではなく、一人の裏切り者に成り下がっていたんだ。
 彼の怒りを買ったらどうなるかわからない。そんな恐怖に僕は思わず後ずさりする。でも、いつのまにか僕は狭い部屋の中で彼の取り巻きに囲まれ、進退に窮していた。そしてついに僕はヘナヘナと腰が砕け、その場に座り込んでしまった。そんな僕を彼は軽蔑したように見下ろす。同じように見下ろされるのでも、前日に少女から見下ろされた時とはまったく違っていた。
「本当は思いっきりヤキいれてやろうかと思ったけれど、お前みたいな奴を相手にすると俺の沽券に関わる」
 そう言うと魚八はのっそりと立ち上がって僕の方に歩み寄った。座っていてさえ威圧されるのに、床にへたり込んだまま、大柄な彼に仁王立ちで見下ろされると、それだけで僕は震えが止まらなくなった。
「お前と俺じゃあ、体力差がありすぎるからハンデなしでできる勝負をしてやろう。今から家に帰ってビー玉を全部持って来い。ビー玉勝負だ!」
 彼の魂胆が僕にはわかった。彼は僕のビー玉を全部取り上げるつもりなんだ。そう、あの娘からもらったビー玉も全部。多分、目当てはそっちの方だ。彼は僕があの娘からもらったものを持っているのが気に入らないんだ。そしてその中には僕が一番お気に入りのグリーンの無地のガラス玉もあった。

 僕はこのとき、そのお気に入りの一個を残して他のものは全部彼に取られる事を覚悟した。どうやってもすべてのビー玉を守るなんて不可能に思えたし、できれば彼女からもらったビー玉だけでも守りたかったけれども、魚八は僕のビー玉コレクションを全部把握している。前日に彼女からもらったビー玉以外は全て彼に見せているから、僕がどんなビー玉を何個持っているか全部知っているのだ。持って行ったビー玉の中に彼の知らないビー玉がなければ、すぐに隠している事がばれてしまう。
 少女からもらったビー玉はガラスの鉢に入れて、机の上に飾ってあった。誰かが部屋に入ったりしたらすぐにわかってしまう。僕は弾かれたように立ち上がると、たった一個のビー玉を隠す為に魚八の家を飛び出そうとした。でも、それすらも叶わなかった。
「おい、チョロ。お前、ついて行ってそいつがビー玉を隠したりしないか見張って来い」
 魚八の言葉は僕には死刑宣告のように聞こえた。僕は泣いて魚八に哀願した。一個だけ見逃してほしいと。恥も外聞もなかった。どうしても一個だけ、その一個だけは手元に置いておきたかったのだ。それを取られる事は、丸ごとそのまま彼の少女も彼に取られてしまう気がした。
 でも……、僕の願いは聞き入れられなかった。僕は根こそぎごっそり宝物を彼に奪われてしまった。
 魚八からの帰り道、僕は悔やみきれないほどの自責の念と、不条理な怒りにとらわれ、泣きながら歩いていた。どうして彼らの仲間に入ってしまったんだろう。仲間にさえならなければ僕は彼女とだけひっそり付き合っていけた。どうして僕はあの娘にプレゼントなんてあげたんだろう。そんな事しなければ、宝物を根こそぎ取られる事もなかった……。
 泣きべそかきながら家に戻ると、玄関の前で僕のあげたマフラーを首に蒔いて少女が待っていた。
「ビー玉、どうしたの?」
 それは詰問するような強い調子ではなく、どちらかと言えば、心配しているようなやさしい声だった。どうやら彼女は、僕がビー玉を全部持ち出すところを見ていたらしく、心配になって様子を見に来たようだった。でも、僕はどういう理由であれ、彼女がくれたものをその翌日には遊びで全部失ったという事が妙に後ろめたくて、なにも言う事ができず、彼女の目を見る事さえ怖くて、ただ俯くだけだった。
 そんな僕を見ると彼女は腰に手を当ててフンと鼻を鳴らした。
「どうせ魚八でしょ。しょうもない奴ね」
 そう言うと彼女は僕の前にしゃがみ込み、下から見上げるようにして僕の顔を覗き込んだ。
「泣いてたってしょうがないでしょ。私が取り返してあげるから一緒に来て!」
 僕はその少女に手を握られ、引きずられるようにして今、泣きながら帰って来た道を逆戻りする羽目になった。はっきり言って女の子に引きずられて仕返しに出向く自分が情けなかったけれども、それ以上に繋がれた手がなんか熱かった。こうしていられればビー玉なんてどうでもいい気分だった。
 彼女は魚八の家の前まで来ると、大声で彼を呼んだ。二階の窓から何事かと言った感じで、彼とその取り巻くが顔をのぞかせる。
「こら!魚八〜ぃ。あんた、弱いもの苛めして、それでも大将か! この子から取ったビー玉、すぐ返してやりな! でないと二度と遊んでヤンないぞ!」
 彼女は近所中に響くような大声でそうわめいた。窓からでていた魚八の顔がみるみる真っ赤になる。そうするうちに彼の顔だけ窓枠の中に消えると、ものすごい勢いで飛び出してきた。そしてものすごい顔で僕の方を睨む。
「そんな顔したってダメだよ。」
 彼女は僕を庇うかのように腰に手を当てて魚八の前に立ちふさがる。
「あんた、この子の事これまで散々利用してきたじゃん。人の事良いように使った挙げ句にものまで取り上げるなんて最低だよ。あんた男の子の中の大将なんだから、もっと下の連中をいたわりなよ!」
「うるせぇ!」
 彼女の行動がどんどん魚八を怒らせているのがわかった。彼女が僕を庇えば、庇うほど彼の怒りは増幅されていった。僕は少女の袖をそっと引っ張った。
「もういいよ。ビー玉はまた買ってもらうから……」
 僕の言葉に彼女は振り向くと魚八に対するより、さらに大きな声で言った。
「よくない! いい、こう言うのは一回許しちゃうと何度でもやられるの! ダメなものはダメってちゃんとルールを作っておかないと、なんでもかんでも魚八のいう通りになっちゃうんだから!」
 僕は返す言葉もなく、小さく頷いた。
「さあ、ビー玉返して!」
 さらにそう詰め寄る彼女に、魚八は真っ赤な顔のまま、僕に話しかける。
「返すもなにも、あれは勝負して俺が勝ったからもらったんだよな! 男のルールに従っただけだろ、おい!」
 それにも僕は頷いて返す。
「それ見ろ! だからビー玉は返す必要ない!」
「あんたが無理やり誘ったんでしょ。この子ビー玉遊びなんてしたことないんだから!」
「なんと言おうがこれは正々堂々とやった勝負の結果だ! 女が口はさむな!」
 もう既に、僕は蚊帳の外で、彼女と魚八の喧嘩みたいになってきていた。でもお互いに譲り合う事がないから、話は平行線のまま、いつまでたっても決着はつきそうにない。僕はまた泣けてきそうになった。
 そんな時、不意に魚八が声を和らげる。
「おまえにゃ、かなわん」
 それにはいい加減うんざりと言う感じも混ざっていた。
「そこまでいうなら、返してやってもいい……」
 魚八は憮然とした表情でそう言った。その後、ちょっといい難そうに口ごもりながら言った。
「ただし…… 条件がある」
 そう言うと魚八は彼女を店の脇の路地へと連れ込む。心配になった僕がついていこうとすると、
「お前はそこで待っとれ!」
 一蹴され、僕はその場に立ちすくんだ。
 二人が路地に入った後もしばらくはなにも聞こえて来なかった。けれど、そのうちに彼女の「え〜!」という大きな声を皮切りになにかぼそぼそ話す声が聞こえるようになった。僕は二人が何を話しているのか気になってそっと路地を覗いてみた。
 少女と魚八は向かい合うようにして立ち、小声で何事か話し合っているようだった。ただし、彼女は片方の手首を魚八につかまれていて、若干引き気味に見えた。
 早く助けなくちゃ
 僕はそう思ったけれど、喧嘩で魚八に勝てるはずもなく、足がすくんで動けないままだった。
 また、魚八が彼女になにか言う。今思い起こせば、それはなにか哀願している風だった気もするが、僕には彼女が魚八になにか無理難題を押しつけられているように見えた。ちょっと、イヤイヤをするように彼女が首を振る。その瞬間彼女と僕の目があった。そして彼女の目が助けてと訴えているようにその時、僕の目には映った。でも、僕は動けなかった。
 どのくらいそうしていただろう。1秒か、それとも10秒くらいか。あんまり長く見つめ合っていれば、魚八も気付くはずだったから、多分、ほんの瞬間の事だったのだと思う。彼女は溜息をつくと、上を向く。目を閉じようとする瞬間、横目で僕の方を見た気がした。次の瞬間にはもう、彼女の顔の上に魚八のでかい顔が重なっていた。僕は自分の目で見たものが信じられなかった。
 気がつくと、僕は自分の部屋で膝を抱えて泣いていた。何が悲しかったのかわからないまま、ずっと声を殺してその夜は泣き続けたんだった。
 翌日、僕は再び魚八に呼び出されて、彼女の立ち会いの元ビー玉を全部返してもらった。白いボール紙で作られた箱を横柄にほれ、と突き出され、僕はただ呆然とそれを受け取ったのを覚えている。本当はもう、魚八の顔を見るのも、彼女の顔を見るのもいやだった。その時は何故いやなのかわからなかったけれども、とにかくいやだったのだ。

 今にして思えば、それは幼稚な独占欲のなせる技だったのだと思う。僕はマフラーを見つめながら深くため息をついた。話がここで終わっていれば、それはなんでもない幼いころの苦い思い出で終わっていたはずだった。でも、僕は思い出してしまった。何故、彼の少女の事を忘れていたのか。何故、ビー玉とマフラーが一緒に封印されたかのように僕の押し入れの奥にしまわれていたのかを。あの後僕は、とんでもない事をしでかしたんだ。

 ビー玉返却の儀式が済むと、魚八は男連中を集めて、野球を始め、少女も女の子たちと遊び出した。僕はそのどちらにも入ることなく、しばらくぼーっとそれを眺めていた。もう一緒に遊びたいとは思わなかった。ただ、そのまま踵を返してうちに帰るには気持ちがすさんでいた。なにか、し忘れた事があるような気がしていた。そんな時飛び回っていて熱くなったのか、彼女がマフラーを外して、近くの木にかけた。
 魔が差す…… というのはこう言う事なんだと思う。僕は誰も見ていない隙に、それをこっそり取った。いや盗った。ほんのちょっと困らせてやるだけのつもりだった。復讐、僕を裏切った彼女に復讐してやるんだ。何をどう裏切られたのかはわからなかったけれども、その時僕はたしかに彼女に裏切られたと感じていた。これはその復讐なんだ。
 僕はマフラーとビー玉を持って、その場をこっそり離れた。誰も僕に気付くものはいなかった。僕は家に帰ると、押し入れにあった空の段ボール箱にそれらを隠した。
 その晩、僕が夕食を食べている時に、隣の家の事が話しに上がった。どうやらあの少女はまた引っ越すらしい。なんでもお父さんが転勤で、今度はえらく遠くに行くのだとか言っているのを僕は黙って聞いていた。そんな時、不意に隣のおばさんがやって来た。娘が帰って来ないけれども知らないかと言う事だった。僕は知らないと答えた。実際僕はみんなよりずいぶん早くに帰って来たし、その後どうなったのかは知らなかった。でもなんとなく胸騒ぎがした。
 そして直に大騒ぎとなった。一緒に遊んでいた子供たちの話から、夕方帰ろうと思ったら、彼女がマフラーがない事に気付いたらしく子供たちの間で騒ぎになったらしい。そしてしばらくはみんな一緒に捜していたが、日が暮れてきたので、一人減り二人減りして最後には彼女一人になってしまったとのことだった。最後の子が帰る時、彼女はそれでも必死になってマフラーを捜し続けていたという。
 僕は堪らなくなって、昼間みんなが遊んでいた公園へ走った。そこでは既に大人たちが手分けして少女の事を捜していた。日が落ちてすっかり暗くなった公園の中で、大人たちの持っている懐中電灯が蛍の光のようだった。
 僕は彼女がマフラーをかけた木の側まで行くと、そこでぐるっと辺りを見回す。地面にしゃがんで足跡も調べたけれども、そこはもう踏み荒らされていて手がかりは掴めなかった。なにか聞こえないだろうか? 耳を済ましてみたけれども、彼女の名前を呼ぶ大人たちの声が大きすぎて、他にはなにも聞こえない。僕は仕方なく、そこを中心に外側へ向かって円を描くように彼女を捜し始めた。
 どのくらい捜したかわからない。僕は公園のトイレの裏手に回った。そこの金網にちょうど子供が抜けられるくらいの穴がある。そこから公園の外に出る。この先にちょっと崖みたいになっているところがある。そこは子供しか知らない。未だに彼女が見つからないと言うことは、ここにいる可能性が高かった。僕は暗闇の中用心深くそこに近づいた。崩れた斜面の途中に白いものが見える。
「おーい」
 僕は思い切ってそれに声をかけてみる。するとか細い声がかえって来た。
「……く……ん?」
 次の瞬間僕は大声で彼女がいた事を叫んでいた。

 助け出された彼女はあっちこっち、血だらけで、そのうえ真っ青な顔をしていた。唇も紫色になっていて、僕は彼女の顔が怖くてじっと見ている事ができなかった。彼女は近くの総合病院に運ばれ、しばらく入院していたと思う。その後、彼女がどうなったかは僕は知らない。ただ、崖の所で倒れていた彼女の様子から、僕は助からなかったんじゃないかと思えた。誰のものであれ、あんなに酷い顔を見たのは初めてだったから。そして今でも彼女が助かったのか、死んでしまったのかはわからない。
 隣の家は僕の知らないうちに引っ越してしまい、気がついた時には空き家になっていた。彼女を発見した時にはずいぶんと感謝され、褒められもしたけれど、それがかえって僕から本当の事を話す勇気を奪った。僕は口をつぐみ、マフラーをビー玉をしまった箱をガムテープで何重にも封印し、全てを記憶の隅に追いやった。全部、罪の意識のなせる技だった。

 全てを思い出した僕は、急にそれらを持っている事が怖くなった。それを段ボール箱さら抱えると、庭に置いてあった一斗缶に火をつける。積めてあった紙屑なんかが直に燃え出して、庭先でちょうどたき火を焚いているような感じになった。
 そのまま僕は過去に犯した罪の証拠物件を段ボールさら燃やそうと思ったが、そのままでは一斗缶の中に入らない。あきらめて箱の中からマフラーを取り出した時……
「それをどうするつもり?」
 突然背後から声をかけられた。ビックリして振り向いた先には両手を腰にあててこちらを睨む妻の姿があった。その姿はさながら夜叉のようであり、僕は激しい畏怖の念にかられると共に、普段見慣れているはずの彼女のそのポーズに懐かしさを覚えた。
 僕の中で妻と、思い出の少女、そして夢の少女が重なる。

 そうか…… 僕は知らず知らずのうちに、偶然にも彼女と再会していたのか。そしてきっと、僕は無意識のうちにそれを理解していたんだ。なぜなら、今はっきりと思い出した。少女の夢を見るようになったのは、僕が妻との再会を果たしてからの事だったんだ。
「待っていたわよ、この日が来るのを。あなたが私のことを思い出してくれるのを、再会したその日から私はずっと待っていたんだから」
 彼女はそこで一度顔を伏せ、間をとる。僕は金縛りにでもあったように身動きがとれずにいて、立ったまま彼女の次の言葉を待った。
 少し間を置いた後、彼女は再び顔を上げる。その顔は先程の夜叉の如きものではなく、悲しみに包まれていた。
「もっともその間に、待つ理由が変わっちゃったけどね」
 そう言うと彼女はゆっくりとした足どりで僕の方へとやってくる。一歩、一歩確かめるように歩みを進めながら、彼女は言葉を続ける。
「覚えてる? 私たちが再会した日のこと……」
 彼女の言葉に僕は頷く。
「私は一目であなたのことがわかったわ。なのにあなたは私のことがわからなかった…… ううん、その昔仲がよかった幼なじみの女の子の存在すらその記憶から消し去っていた。私、悲しかったのよ」
 いつのまにか目の前にまで迫ってきた彼女は、僕の肩を掴むと下を向いて首を振った。
「悲しかったんだから、悔しかったんだから。こっちは子供の時からずっと好きだったのに、その相手はきれいサッパリ忘れちゃっているんだから」
 その時のわたしの気持ちがわかる? と彼女は下から見上げるようにして僕に言った。突然の彼女の告白には僕も少なからずショックを受けていた。まさかあの頃から彼女が僕のことを好きだなんて……
「あんまり悔しかったから、わざと教えずにあなたが自分で気付くのを待ったのよ。でも……」
 これまで抑えてきた激情をぶつけるかの様に話し続けていた彼女だったが、ここで急に声が変わった。それと同時に悲しげで、すがるような感じさえあった彼女の表情も凍りついたように硬くなる。
「でも、もっとショックだったのは…… あなたと結婚して、その箱を見つけてしまった時ね……」
 肩に置かれた手がジワジワと内側に這い寄ってくる。目の前の妻の目は殺気だっており、狂気に満ちてさえいるように僕の目には映った。
「私が死にかけた原因があなたにあったなんてね。命の恩人とも思って心から愛していた人が、実は憎んでも憎みきれない相手だったなんて……」
 彼女の手は既に首の付け根まで移動しており、それにジワジワと力が入ってくる。
「ま、待って…… ち、違うんだ!」
「なにが違うの?」
置かれた手に加わる力はそれ以上強まることはなくなったが、いまだそれは僕の肩というか、首の付け根にだいぶ近いところにへばりついたままだ。
「き、君に危害を加えるつもりなんてなかったんだ。ただ、ちょっと困らせてやろうと…… それだけだったんだ。まさかあんなことになるなんて……」
「あなたがどう思ったのであれ、私は死にかけたの。わかる? 好きな人に裏切られた時の気持ち」
 彼女の手に再び力が入り出した。このまま殺されるかもしれない。僕の心を恐怖が支配する。
「く…… 悔しかったんだ。魚八に君を取られたみたいで…… 悔しかったんだ」
 僕は絞るような声で彼女に告げた。
「そ、それに…… 君にも裏切られたみたいで…… あの路地裏で君と魚八がキスしているのを見た瞬間から僕は正気じゃなかったんだ……」
 僕の言葉を効いた彼女の表情が歪む。にぃっと口右のの端をややあげるような感じで彼女は笑うと、これ以上ないと言うくらい冷たい声で言い放った。
「そう、それじゃあ、あなたの復讐はもう、あの時終わったのよね。」
 ぐっ!
 彼女の手により一層力がこもる。脇で燃え盛るたき火の火が僕を焼き焦がすかのように熱く感じた。
「だから…… 今度は私が復讐する番よ」
 彼女の言葉に僕は思わず目をつぶった。

 次の瞬間、僕の口になにか触れる。
 驚いて目を開けると僕は彼女にキスをされていた。一瞬のうちに視線が合う。
 彼女の目が笑った。
 え?
 僕がそう思った瞬間、ドン!と突き飛ばされ、僕は無様にしりもちをついた。
「かわいい奥さんがキスしてるって言うのに逃げる奴があるかぁ」
 そんな僕を見下ろすように両手を腰にあてて立ち、彼女はそう言って笑った。でも、今のは僕が逃げたわけじゃァ……

「策略家気取りでいろいろ考えたんだけど、あれだけは失敗だったのよね。」
 一斗缶のたき火に手をかざしながら彼女はそう言って笑った。
「誰にも言っていなかったけれど、あのクリスマスの頃にはもう引っ越すことがわかっていたの。だから焦っていたのね。」
 今の妻には先程までの凄惨な表情はない。いつもの穏やかな…… いや、いつも以上に穏やかで嬉しそうな感じがする。
「だから、当時…… 大好きだった男の子に絶対自分のことを覚えておいてもらいたくて必死だったの。そんな気持ちが空回りしちゃっていたのね」
「それって……」
 ひょっとしなくても僕のことを言っているのだろうか? 僕は彼女の言うことが信じられなかった。
 たしかにそう思わせる部分もある。マフラーをあげた後のキスとかは、そう思わせるだけのものがあった。でも、彼女はその後すぐに……
「あなた意外に誰がいるって言うの?」
 僕の考えを見透かしたかのように彼女が答える。
「だからあのクリスマスの時に、あなたにマフラーもらえたのは、本当に嬉しかったんだから」
 僕は脇腹をつつかれて、身を捩った。彼女の顔に浮かぶ、悪戯っぽい笑みは無垢な少女のもので、昔と何ら変わることはなかった。
「あなたを連れてビー玉を取り返しに言ったのもね、本当は自分の為だったの。あのビー玉をもっている限り、それを見たらあなたが私のことを思い出してくれるだろうと思っていたから」
 本当なのだろうか? その当時から本当に彼女は僕のことが好きだった?
 僕の心の中では、その後起こったことがどうしても刺となって突き刺さっていた。まぁ、どのみち昔のことだ。いまさら気にする程のことでもないのかもしれないけれど、こう言う話になってしまうとどうしても確かめたくなってしまう。
「でも…… 君はあの後…… ムガッ」
 でもそんな僕の言葉は強引に口をふさがれる形で途切られてしまった。
「それは言わないで…… 自分でも馬鹿なことしたと思っているんだから…… あれが全てを狂わせちゃったのよね……」
 そう言って彼女はほうっと深い溜息をついた。
「あの時ね、魚八にビー玉を返す代わりに俺ともキスしろって言われたの。そんなつもりはなかったんだけど、あの時あなたが今にも飛び出してきそうな感じでこっちを見ているのが見えたから…… ひょっとして危なくなりそうになったら助けに来てくれるかなぁなんて考えてたのよね。それで振りだけって思ったら本当にされちゃった」
 あまりにもあっけらかんと言う彼女に僕も苦笑した。
「だって、あなた、助けてくれなかったんだもの」と取り繕うことも忘れない。彼女の口からぺろっと赤い舌が覗いた。
「で、結果はご存じの通り。あなたは怒って帰っちゃって、挙げ句の果てにあんな暴挙にでて全ては目茶苦茶。覚えているどころか、私は封印されちゃって今日まで表にでて来れなかったって訳ね」
 改めて事実を知って僕もため息をついた。結局は彼女の悪戯心と、僕の醜い嫉妬心が全てを狂わせたって訳だ。彼女も僕があそこまで嫉妬に狂うとは思わなかったんだろうな。それで……
「それで、君は死にかけて僕に復讐する為にここに帰って来たわけだ」
「違うわよ。だってここに帰って来た時はあなたが犯人だったなんて知らなかったんだもの。純粋に大好きな人に会いに来ただけ。それに、死にかけたって言うのは嘘。怪我自体は擦り傷だけで大したことなかったし、たしかに風邪をこじらせて肺炎にはなりかけたけど、ただそれだけ。驚かしてごめんね」
 そう言うと彼女はそっと僕の手を握ってきた。
「策士策に溺れるってこう言う事を言うのかしらね…… ってなに笑っているのよ」
 さきほどは、やけに熱く感じたたき火の火が、今はとても暖かく感じられる。僕が昔、殺した少女があの頃とまったく変わることなく今、僕の目の前に帰って来たんだ。こんな嬉しいことはなかった。つまらないことでずいぶんと遠回りしたけれど、今日から僕らは新しい一歩を踏み出せるだろう。ちょっとすねたような表情で僕を見る妻を見て僕はそう思った。でも……
 不意に僕を見る彼女の表情がゆがみ、不敵な笑みがこぼれた。
「どうでもいいけど、あなたは笑っていられる立場なのかしらね? まだわたしの復讐は済んでいないのよ」
「えっ?」
 彼女の言葉に僕は耳を疑った。復讐ってさっきので終わったわけじゃなかったのか?
「甘いわね。マフラーがなくなった時、私、本当に悲しかったんだから」
 そう言うと彼女は僕ににじり寄り、背伸びをするようにして首に手を回した。そして悪魔の笑みを浮かべながら耳元で囁くように言ったんだ。
「さあ、どうやって復讐しようかしらね」

END