小説



時には昔の話を



                                     とっと







 無造作にテーブルの上に置かれた書簡の中に見つけた一枚の葉書。「結婚しました」の文字と共に薄暗い部屋の中で共に手を携えて、蝋燭に灯をともす男女の写真。それはもう随分と昔、私がまだ教師をしていた頃の教え子からの物だった。教職を離れてもう何年にもなるのに、最近になってチラホラと散りそびれた桜の花びらのように届く、私の苦い青春の断片だ。そんな変哲もない結婚報告の葉書が私のなかに感傷とも、あるいは郷愁とも似た懐かしい記憶を蘇らせる。

「先生、初恋ってどういう物なんでしょうか?」

 それは、私の人生をかえた一言だったのかもしれない。もう十年も昔のことになるが、私はとある高校で世界史の教師として教鞭を揮ったことがある。そこで私の人生を左右するような二人の女生と私は出会ったのだった。


「ゴホ!、ゴホ!」
 お気に入りの煙草をくわえ、放課後の安らぎの一時をぼんやりと過ごしていた私は、突然真横から聞こえた、せき込む声に我に返った。いくつかの島に別れ、長方形に並ぶ味も素っ気もないスチールデスクの群。日当たりの悪い廊下側の中央辺りに私の席はある。今年この公立高校に新卒で着任したばかりの私にはまだ、大した人脈もなく、側に来るのは頭が随分と薄くなった教科主任か、でっぷりとした腹を抱えた学年主任くらいな物だった。どちらもヘビースモーカーで、私がふかしているフィリップモーリスの煙にむせ返るような軟弱な男では無いはずだ。
 声の主を特定できずにいた私は、横目で声の主を捜す。そこで目に入ってきたのは紺のスカートにブレザー。私は想像だにしなかった珍客に慌てて顔を上げる。そして声の主の正体は……。私は残念ながら傍らに立つ少女を知らなかった。いや、これでも数クラスは受け持つ世界史の教師だ。顔くらいは見覚えあるが、名前までは思い出せない。そう言った意味で私のなかでは知らないのに等しかったのだ。
「えっと…、何か用かな?」
 声の主を確認した私は、先ほどまでの惚けた男から抜けだし、すぐさま教師の仮面をかぶる。この年頃の女の子は何を考えているかさっぱりわからない。不用意に気を許すと後で何を言われるか分かったのではないのだ。適当に距離を持って、仕事としてのみ接触するのが一番であることを私は自分の学生生活の中で学んでいた。
 しかし、彼女はそんな私を見て、事もあろうにクスクスと笑い出した。
「そんな、急に取り繕わなくても私、先生が煙草くわえてどっか遠くの世界にお出かけしていたなんて誰にもいいません」
  おいおい、その説明的な言い方が、本当はみんなと後で笑い者にしますと言っているように聞こえるぞ。私は心のなかで突っ込みながらも、まじめな表情を崩さずに彼女の出方を見守る。
「そんな怖い顔してもダメです。私もう、先生のまぬけ顔見ちゃっいましたから、怖くも何ともありません」
  まるで鬼の首でも取ったかのような発言だが、キャピキャピしたところが無く、落ち着いた物言いに私も少し緊張を解いた。どうもあの、辺りをはばからぬキンキン声はなじめない。お前達、きっと十年後に今の自分たちの姿を見たら悶絶するぞと言いたくなる。だが、私の傍らに立つ少女は、そんな他の娘には無い落ち着きを持つ、しっとりとした美少女として私の目には映った。そう、彼女は客観的に見て充分に平均水準を超える容姿を持っていたのだ。
「僕の顔はそんなに怖いのかな?」
  そんな彼女の持つ雰囲気が私を狂わせたのかもしれない。気が付いたら普段なら絶対に言わない冗談を口にしてしまっていた。これが他の生徒なら「先生は忙しいんだ。無駄話はいいからさっさと用件を言いなさい」と言っているところだろう。もっとも煙草を吹かしながらぼーっとしているところを見られているのだから、忙しいと言っても説得力は無いかもしれないが……。
 彼女も普段とは違う私の態度に少々ビックリしたようだ。多分チャームポイントと言ってもいいであろうその大きな目を見開いて私を凝視していた。
「もう一度聞くけれど、何か僕に用なのかな?」
  フリーズした彼女をリセットするために、私は彼女に話しかけた。たっぷり十秒くらいは彼女は固まっていたと思う。全く失礼な話である。
 彼女の用件は、単なる質問のようだった。昨日の授業で判りづらい点があったと言うことであったが、全く世界史なんかでそんなことする奴は初めてだ。歴史なんて言う物は所詮、暗記物だ。理解するとかじゃなく、ただ出来事を頭の中に詰め込むだけでいい。私は、二本目の煙草に火をつけながら、心のなかで悪態を付いた。
 それが彼女と私の実質的な出会いだった。何故ならその時初めて私のなかで彼女のその容姿と名前がリンクしたのだから。彼女のクラスを受け持つようになって3ヶ月、ようやく彼女は私に一個人として認識されたのだった。それまでは生徒のほとんどがそうであったように、その他大勢の中の一人でしかなかったのだ。


 私はテーブルの上からあの頃と変わらぬ銘柄の煙草を手に取る。箱の角をトントンと叩き一本取り出すと愛用のジッポで火をつけた。ゆっくりたちのぼる煙草の煙に視線をやりながら、我が人生の転換期を迎えるきっかけとなった少女との出会いに思いを馳せる。
 私の人生のなかでエキストラから、名前付きの役にまで昇格した彼女は、それからも時々私の元を訪れるようになった。そのほとんどは取るに足らない質問であり、わざわざ聞きに来るほどの物ではなかった。そして恋だの愛だのと言ったものに疎かった私は、当時の彼女の行動が全く理解できずにいた。そのころの私の持つ彼女の印象は優等生かもしれないが、ちょこちょことうるさい奴だくらいな物でしかない。ちなみに彼女が2年A組の級長だと言うことを知ったのも、このころだった。そして……。

 その日、私は鍵当番で、最後に学校を見回り施錠をしてから帰宅すると言う、ありがたいお役のおかげで誰もいなくなった真っ暗な校舎を巡回することとなった。夏とはいえど、夜の九時をまわればもう外もすっかり日が落ちて真っ暗だ。幽霊なんぞ信じちゃいないが、それでも人気のない校舎というのは、何とも居心地の悪い物だ。さっさと見回って帰ろうと思ったとき、傍らの教室から物音がするのが聞こえた。
「誰かいるのか?」
 一応声をかけてみる。しかしまさかそこに本当に誰かいるとは思わなかった。
「先生、やっと来てくれましたね」
 そこは2年A組の教室。中にいたのは、そう、例の彼女だった。
「こんな所で何をしている。もう、とっくに下校時間を過ぎているぞ」
 暗闇の中の会話。当然彼女は私の言ったことなどとうに承知の上だろう。
 私は彼女が何を考えているのかその表情から探ろうかと思ったが、それは無理な話だった。彼女は窓を背にして立っており、私の方からはちょうど逆光になる。頭のいい娘だから、その辺も最初っから計算済みなのかもしれなかった。
「先生を待っていたんです。お話ししたいことがあって」
「質問ならもっと早い時間に職員室に来なさい。また、相談ならば私ではなく担任の先生にお願いするのが筋だ」
 そんな私の返事にも彼女はめげなかった。
「質問でも、相談でもありません。お話があるだけです」
 突き放すように話す私の言葉を包み込んで言い聞かせるように話す彼女。どちらの方が大人なのか判らなくなりそうだった。
「単に話があるのであれば、明日また職員室に来なさい。もし、人前では話せないような話ならば、最初っから僕は聞かないよ。我が身が可愛いからね」
 私の精一杯の抵抗もむなしく、彼女は私の言葉など聞いていないかのように一歩前へ踏み出した。
「私、先生のことが好きなんです」


 この時のことを思い出すと今でも笑いがこみ上げてくる。私は今でもそうだが、決してもてる方ではない。生徒達に嫌われているわけでもないが、決して好かれているわけでもない。取っつきにくいが、細かいことに口出ししない都合のいい教師程度にしか思われていないはずだった。突然の告白に私はどう答えて良いやら分からずにただ彼女を見つめるだけだった。
 このころの私はどうも主導権を彼女に握られていたようだ。彼女と相対すると、どうも調子が狂う。冷静になって考えれば、これまでの彼女の行動からこういう事もアリだと判るのだが、この時の私には唐突としか思えなかったのだ。

「先生でもそんな顔なさるんですね」
 彼女はクスクス笑いながらそう言った。それで私も呪縛から解き放たれ、ようやく口を開くことが出来た。
「なんだ、冗談か。たちが悪すぎるぞ」
「いいえ、私、本気です。冗談でこんなに遅くまで教室に残ったりなんかしません」
 確かにそうだ。こんなくだらない冗談のために何時間も教室に隠れているというのは常軌を逸している。この年頃の娘達の悪戯であるならば、みんなの見ている前で告白し、私が狼狽える様を見物する方が自然であることに私も気が付いた。
「今日、先生が鍵当番なのを知ってわざわざ残っていたんです。こう言うとき委員長って便利ですよね」
 彼女はそう言ってまた、クスリと笑う。その反動で豊かな黒髪が微かに揺れた。
 全く職権乱用という奴だ。教師って奴は優等生を過剰評価しすぎる。誰が教えたかは知らないが、生徒に必要のない情報など与えるべきではない。
「わざわざ、ご苦労なことだったけれども、僕はお子さまは嫌いなんだ。恋愛ごっこなら年相応の子と楽しみなさい」
 この時私が彼女に与えた答えは実に冷徹な物だった。


 あの頃私は新卒の23歳、彼女は高校2年だったから17歳。年齢だけを考えれば、決して無理のある物ではなかった。今思えば、さほど年の違わない彼女のことをお子さま呼ばわりしたのも笑い話ではあったが、社会人1年生だった私は生徒になめられないように必死に背伸びをしていたように思う。そしてだからこそ、よけいなトラブルを避けるために、適度に距離を置いて接していたのだ。

 私の冷たい返事にも彼女は堪える様子もなく笑っていた。
「別に私、今は先生に何かを求めたりはしません。先生はお立場もあるし、私のこともまだよく知らないでしょうから仕方ないです」
 そう言うとほっと小さなため息を付いた。
「だから今はまだ、私の気持ちを知っていただければそれでいいんです。卒業までまだあと1年半ありますから。私が卒業するときに、私だけをみてくれるようになればそれでいいんです」
「残念だが、その可能性は限りなく低いね」
 彼女の一度目の告白は、そんな散々の結果で終わった。


 あの時はさすがの私も冷たくあしらいすぎたかと後から反省した物だった。年を取り、性格もまるくなってきたのか、今思い返してみると全く冷や汗ものの対応だ。あれが普通の子ならきっと泣き出してしまったことだろう。しかし、彼女はそうではなかった。
「少しはそうなる可能性もあるって事ですよね。だったら私は諦めません」
 と笑いながら言ったのだ。そして最後にはにかむように「初恋なんです」とも。
 その当時、私は彼女の言葉を心のなかで嘲笑したものだった。17にもなって初恋とはよく言った物だ。普通高校生になれば、それまでの人生の中で好きになった男の一人や二人いるものだ。特に女の子は早熟だ。男子以上に色恋沙汰にはうるさい。それこそ会話の大半が誰と誰が付き合っているだとか、だれそれは誰のことを好きだとか、そんなネタでしめられている。だから、私はその時も彼女の言葉を全く信じてはいなかった。


「先生、初恋の定義ってなんだと思います?」
 シーツにくるまりながら、いたずらっ子のように目を輝かせ、それでも真剣な面もちでそう聞いてきた彼女の言葉に、私は一瞬なんと答えて良いか分からなかった。
 彼女の告白から四ヶ月。その間に私たちは、そのどちらの予想をも上回る速度で急接近した。告白以後も彼女は精力的に行動してはいたが、それ以前と比べて得に変わったことはなかった。結局は私の方が、彼女の魅力にまいってしまったと言うことなのだろう。それまで子供だと思って馬鹿にしてきた彼女だったが、少女と大人の女性の端境期にあり、あどけなさの中に時折見せる無防備な色気に、形容しがたい危うさを感じながらも、私はすっかり魅入られてしまったのだ。
 ベットから半身を起こすと私は、枕元にあった煙草を手に取り、火をつける。そんな私の行動に彼女は一瞬顔をしかめるが、直ぐに肩をすくめ、諦めたように私を見ている。剥き出しの肩と、赤く火照った顔、それにかかる乱れた黒髪が何とも扇情的な雰囲気を醸し出している。そこにいるのは単なる17歳の少女ではなく、精神的にも、肉体的にも成熟した大人の女性であった。
「初めての恋を初恋って言うんじゃないのか?」
 私はゆらゆらと立ち上る紫煙に目をやりながら、当たり障りのない答えを返す。はっきり言って、根っからの文系人間でファジー思考の私は、何事につけ定義付けをして型にはめることが苦手だった。理論ではなく、感覚で生きる人間なのだ。
 そんな私の答えに彼女はいつものようにクスクスと笑う。
「じゃあ、恋ってなんなんです?」
「おいおい、勘弁してくれ。何となく感覚ではわかるが、言葉でなんて説明できないよ。気になるなら現国の先生にでも聞いてくれ」
 私は、下手をすると言葉遊びになりかねない質問の連続攻撃から逃げ出した。本当なら、こう言うことで彼女とのコミュニケーションをしっかりとらないといけないのであろうが、やはり私はこういった会話は苦手である。彼女はどちらかというと理づくめで考える理系タイプのようでしばしば、こういった質問をして私を困らせる。その際、いくら言葉で飾っても、そのものの本質は変わらないぞとかわすのが私の常だった。
「先生は、以前私が先生への想いが初恋だって打ち明けたとき、信じてくれませんでしたよね」
 彼女のそんな言葉に私は肝を冷やした。そんなことを覚えていたのか? いや、それ以前に私はそれを彼女に告げた覚えはない。それなのに彼女は気付いていたのか。
「確かに、これまでにも私、好きになった男の子とかいます。あの子いいなあ、とか、あの人のこと好きだなぁって」
 私は彼女の言葉に頷く。そのくらい当然の事だろう。
「でも、私の全てを投げ出しても、その人の全てを独占したいって思ったのは先生が初めてなんです」
 そう言うと彼女は、はにかんだように微笑んだ。
 そして、「だからこれが初恋なんです」とだけ言うと目元までシーツを被ってしまった。


 この頃の私たちは巧くやっていたと思う。私は彼女のあまりに真っ直ぐな想いに、時折恐怖感に似たものを感じることはあったが、それ以上に彼女を愛おしいと思う気持ちの方が強かった。漠然とではあるが、彼女との将来について考えることさえあった位だ。
 私たちの関係は、当然社会的に許される物ではなく、誰にも知られることの無いように、十分注意が必要だった。だから当然付き合い自体も秘密めいた物になってしまうのは仕方のないことだが、それは若い彼女にとってもかなりの辛抱を要することであった。この年頃の、それも女の子としては良く辛抱していたと思う。本当ならば、誰か親しい友達に打ち明けることで、その悦びを増幅させたかったに違いない。しかし彼女はそれらの不満を一切表に出すことはなかった。見ているこちらが痛ましく思うほどに。


 私は思い出の海から抜け出すと、リビングにおいてある一冊のアルバムを取り出した。そこには当時の学校行事等の写真に紛れて私たちの密かな思い出の写真が紛れている。
 私たちは写真を撮ることなども極力控えるようにしていた。些細なことではあるが、いざというときのために証拠となるような物は一切残さないよう、細心の注意を払っていたのだ。だから文化祭の最中に撮った2ショット等のように、言い訳の出来るような物しか今も手元には残っていない。

 そんな私たちにとって、ひとつの転機となる出来事があった。
 ある日、私は彼女から一人の少女を紹介される。彼女の親友だと紹介されたその少女は、彼女とは対照的に、やや、茶色みがかった髪をショートに揃え、その表情にも大人びた感じはなく、年相応のあどけなさを覗かせていた。そしてその少女は私の顔を見るなりニヤニヤをした笑みを浮かべ、一言「淫行教師」と言った。驚いて彼女の方を見ると、すまなそうに俯きながらも上目遣いに私を見ると「彼女だけには話しちゃった。私たちの関係」と呟くように言った。そして暫く私の顔色をうかがっていたが、私が怒っていないのを確認すると、ふわっと笑みを浮かべた後、へへへっと照れたように笑ったのだった。
 正直なところを言えば、この時私は厄介なことになったぞと、心のなかで舌打ちをしたものだった。これまで良く持った方だと思うし、彼女に対する怒りとかは一切無かったが、この先に待ち受けているであろう試練については不安を抱かずにはいられなかった。
「へぇ、堅物淫行教師でも、そんな顔するんだ?」
 ニタニタ笑いを浮かべて、私の顔をのぞき込んでいた少女が、そんなことを言う。私は心のなかで堅物で淫行って言うのは矛盾しているんじゃないか? とツッコミを入れながらも、そんな少女にとまどいを感じていた。私はその少女の瞳に、畏怖にも似た思いを抱く。それはまるで草原に広がる湖を私に連想させ、その澄んだ瞳に見つめられると心の奥まで見透かされるような気がする。
 少女の瞳を草原に横たわる湖に例えるのなら、彼女の瞳は森の奥に眠る深く澄んだ湖だろう。彼女の瞳は少女のそれのように、私のなかに入ってくることはなく、逆に自分の中へ私を取り込もうとしているかのように見える。私は既にその瞳に取り込まれ、それ故に彼女と一緒にいるのかもしれない。
 どのくらいの時間、そうしていたのだろう? 十秒ほどだったかもしれないし、ひょっとしたら一分ほどそうしていたのかもしれない。
「先生?」
 彼女の問いかけるような声に私は我に返った。私は決して少女の瞳に見入っていたわけではなく、少女と彼女の瞳から連想されるイメージの世界にひたっていたに過ぎない。しかし、彼女の目にはどう映ったのだろうか?
 チッチッチっと人差し指を立てて、ワイパーのように動かす少女。そんな漫画チックな動作をしながら、冷や汗ものの発言をする。
「先生。私が魅力的なのはわかるけど、彼女の前で別の女性に見とれちゃあいけないなぁ」
「せ・ん・せ!」
 少女の挑発的な台詞のおかげで、私は彼女の突き刺すような視線にさらされることとなったのだった。


 私は、短くなった煙草を灰皿に押しつけるようにしてもみ消すと、すぐさま二本目に火をつける。以前と比べれば、大分煙草の本数も減ってはきたが、当時の私はヘビースモーカーの仲間入りをするほど、煙草の本数が増えた。
 彼女と付き合いだした頃から増えだした煙草は、あの少女が私たちの秘密に加わったことによって、さらに増加の一途を辿った。彼女にとっては秘密を共有するよき相談者であったとしても、私にとってもそうだとは限らない。秘密を共有する第三者の存在は、私にとってはストレス以外の何者でもなかった。その上、少女は何かと彼女を挑発するような行動に出ることが多いのも、私の頭痛の種だった。そして、そんな二人の関係が悪化したのが、その年の文化祭のことだった。

「あれ? 先生来たんだ」
 それとなく、彼女の姿を探していた私に、声をかけてきたのは例の少女の方だった。
「先生、私もう上がりなの。一緒に模擬店回ろ?」
「一緒に回っても、何も奢らないぞ」
 少女の本心がどこにあるのか分からない私は、彼女の発言を冗談として受けとめ、その返事も冗談で返した。いくらお祭りだからと言って、教師と生徒が二人で模擬店巡りをするわけにもいくまい。ましてやそんなところを彼女にでも見られでもしたら、その後どうなるかわかった物ではない。
 そんな私の思惑を知ってか、知らずか、少女は仲間を何人か誘うと、私の手を取る。本気なのか? 戸惑う私に、少女は他の娘から見えないようにそっと耳打ちする。
「彼女は今、買い出しに行っているから暫く帰ってこないよ」

 結局、強引に引っ張られる形で私は、彼女抜きで少女達と模擬店巡りをすることになった。
 彼女がいないことに関しては特に問題がなかった。もし此処に彼女がいたにしても、私たちは恋人同士として振る舞うことが出来ない。同じ集団にいるときは常に一定の距離を取り合う事にしているが、それは別々にいるときよりもお互いの距離を感じさせる物で、私たちはどちらもその状況を好まなかった。
 しかし、だからといって今の状況も決して受け入れられる物ではなかった。少女は私の腕に巻き付くように腕を絡ませ歩いている。周囲の少女の冷やかしを冗談でかわし、それが決して悪戯の範囲を出ていないように見えるが、こんな所を彼女にでも見られたら、どう思われるかと思うと、私は気が気ではなかった。
 ドサッ!
 私の背後で大きな物音がしたのは、少女が私を引き寄せ、その耳元に何か囁こうとしたときのことだった。
 何事かと思い、振り返った私の目に映ったのは、青ざめた顔をし、睨み付けるような目で私たちを見る彼女の姿だった。
「あれ? もう帰ってきたんだ? それじゃ荷物早く置いといでよ。一緒に回ろ」
 私が、何か言わなくてはと思い、口を開こうとした瞬間、少女の方が彼女のそんな様子にかまうことなく、声を投げかける。次の瞬間、彼女は落ちていた荷物を拾うと、くるりときびすを返し、逃げるように駆け去ってしまった。少女の「変な娘」と言うつぶやきと、それに同調するかのような、他の女の子達の声。呆然とそれを聞いている私が、その場に取り残されてしまった。

 彼女と少女が近くの公園で大喧嘩をしたと連絡を受けたのは、その日の夜のことだった。そして少女が私のことを呼んでいると言われ、私は急いで現場である公園へ駆けつけた。
 現場の公園は学校にほど近い住宅街の中にあり、私が到着したときには既に、彼女たちの担任の先生が来て、二人を宥めているところだった。彼は私の姿を認めると、深いため息を付きながら歩み寄ってきた。
「どうも先生には詳しい事情を聞かなければならんようですなぁ」
 私は彼の言葉に静かに頷くことしかできなかった。彼女達の喧嘩の原因は見当が付いている。下手に騒げば、私と彼女の関係が明るみに出ないとも限らない。するとそれまで黙っていた彼女が悲鳴にも似た声を上げた。
「先生はなんにも関係ありません! これは彼女と私の問題です!」
 彼女はだだっ子のようにイヤイヤと首を振りながら、担任教師にすがりつく。普段の落ち着いた優等生の姿しか見ていない彼は、かなり驚いている様子だ。しかし、このままでは、彼女の方にまで累を及ぼしかねない。
「いや、先生済みません。どうも調子にのってしまったようで」
 私は頭を掻きながら、わざと軽い調子で彼に話しかけた。どういう手段を執ろうとも、彼女にまで累が及ばないようにしなければならない。
「最近、彼女たちがあんまり私のことをからかうもんですから、私それにのった振りをしていたんですが、どうやら勘違いされちゃったみたいです」
 全てを冗談にしてしまおう。それが私の出した結論だった。彼女の気持ちを、この年頃特有の恋愛混じりの悪戯で済ませ、それに私が悪のりしたおかげでおきた、少女同士の衝突。そう判断されれば、彼女たちに累が及ぶことはない。私も厳重注意くらいで済むであろう。
「それでは、先生はただ、彼女たちの冗談に付き合っただけで、後ろめたいことなど何もないと言うことですか?」
「そうです」
 担任は納得行かない様子であったが、私はそれで押し通した。
「お前達も済まなかった。先生が悪のりしたばっかりにイヤな思いさせてしまって。ほらこの通り謝るから、二人とも仲直りしてくれ」
 そう言って頭を下げる私に、怒声が飛ぶ。
「生徒に手を出して置いて、全部冗談ですますつもり? 先生も都合が悪くなるとそうやって誤魔化して逃げる人だったんだ」
 驚いて顔を上げた私の目に、真っ青になりながら今にも泣きそうな表情をしている彼女と、口の端を醜く歪め、私の方を睨むように見ている少女の姿が映った。
 増悪に満ちた少女の瞳は、嫉妬に駆られた女のそれであった。この時になって初めて私は全てを悟った。少女もまた私に恋をしていたのだ。彼女の瞳に宿る憎悪の炎は、自分の気持ちに気付いてさえくれない私への絶望と、その全てを独占する彼女への妬み。それらの想いが生んだ狂気が望んだ物は破滅だった。


 二本目の煙草は、私の指の間で既に燃え尽きていた。記憶の海から舞い戻った私は、手元のアルバムを静かにめくる。そこに挟まれている一枚の写真。彼女と少女が仲良く並んで笑っている、一枚切りの写真。私という存在が彼女たちの人生までも狂わせてしまったのかもしれない。
 結局私は責任をとって、依願退職と言う形で教職を去った。彼女もそれなりの処分を受けたが、とりあえず退学だけは免れたことが私にとって、せめてもの慰めであった。
 その後、私は東京へ出て、物書きのまねごとをするようになり、いつしか売れっ子と呼ばれるようにまでなった。どうやら私には教師よりもこちらのほうが向いていたらしい。

 東京へと旅立つ日、少女が見送りに来てくれた。ひとしきり自分の心ない行動を謝罪した後、彼女に一目だけでもいいから会っていって欲しいと哀願してきた。
 例の一件以来、彼女とは全く顔を合わせていなかった。会おうにも彼女の両親の監視が厳しかったし、どのみち別れる運命ならば、もう会わないほうがいい。
 少女の話によると、彼女は全ては醜い嫉妬心が招いたことと自分を責め、ふさぎ込んでいるとのことだった。学校には来ているものの誰とも話をしようとせず、クラスからも孤立していると聞いて気にはなったが、やはり会うのにはためらいがあった。
「どうしても会ってくれないんですか?」
 そんな少女の問いかけに、私は首を縦に振る。
「彼女に伝えて貰えないか? 今回のことは全ては僕のいたらなさから起こったことであり、全ての責任は僕にあるんだ」
 そう言って私は一息つくと少女を見つめる。思えばこの少女をも私は傷つけてしまっていたのだ。
「だから、許して欲しいと。彼女にも、そして君にも」
 そんな私の言葉を聞くと、少女は目に大粒の涙を浮かべ、私の胸にすがりついてきた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 そう繰り返し呟く彼女の頭を撫でながら、私は言葉を続ける。
「多分、僕たちは三人とも出会うのが早すぎたんだ。ただ、それだけのことなんだよ」
 涙をいっぱい浮かべながら、それでも私を見つめ返してくる瞳を、私は心底美しいと思った。
「だから、この先、君たちが大人になって、このことを笑って話せるようになったときには、三人でお酒でも飲もう。きっとその時にはみんな、自分たちは真剣に恋をしていたって胸を張って言うことが出来るだろうから」
 発車のベルが鳴り、私が列車に乗り込もうとしたとき、少女の唇がそっと、私の頬に触れた。
「先生、私のこの想いも正真正銘の初恋だったんですよ。私が初めて好きになった人が先生だったんですから」
 少女はそれだけ言うとはにかんだように笑い、私から離れるように後ずさった。扉が閉まり、私を乗せた列車がホームを離れる。どんどん小さくなっていく少女を見つめながら、私はいろいろあったけれども、それでも二人の少女から、すてきな初恋を貰ったんだと思えた。そして、心底、人を好きになったと言う観点から言うのであれば、私にとってもこれが初恋だったのかもしれないと、その時初めて気付き、年甲斐もなく、涙があふれ出すのを止めることが出来なかったのだった。


 私は持っていたアルバムを静かに閉じると、ソファーの背もたれに躰を預けるようにして、深いため息を付いた。あれから十年。その間に私も結婚し、もうじき子供さえも産まれようとしている。結局三人でお酒を飲むという約束は果たせなかったけれども、みんな幸せになろうとしている事に軽い安堵の気持ちがわき上がった。
 私が三本目の煙草に火をつけようとしたとき、いつの間にか妻が隣に来ていて、それを取り上げた。
「妊婦の前で煙草は御法度よ」
 そう言った彼女の瞳は、それでも笑っていた。
「ねぇ、どうかしたの? あなたすごく哀しそうな、でもどこか嬉しそうなすごく複雑な目をしているわ」
 そんな彼女に私はテーブルの上にある葉書を手渡した。
「あら、彼女もついに結婚するの?」
 そう言った彼女の瞳は嬉しそうに輝いていた。
 私はソファーからゆっくり立ち上がると、彼女を外へと誘う。
「何かお祝いを送ろうか。だって君たちはとっても仲のいい親友同士だったんだから」


お終い