小説



デミタスカップ



                                     とっと







「ホワイトクリスマスってわけにはいかないか……」
 酒匂那珂は不意に立ち止まって天を仰ぐとぽつりとつぶやいた。どんよりと曇った空からこぼれ落ち出したのは雪ではなく、針みたいに冷たく刺すような雨。
「雪でも降れば……、願いがかなうかもしれないのにな……」
 雪が降ったからといってなにかが変わるわけではない。でも雨よりは雪のほうがなんとなく気分がいい。そんな些細な喜びが、さらなる幸せを運んでくれないだろうか?
 暫くぼんやりと天を仰いでていた那珂は、そんな自分の消極的な考えを打ち消すように首を振ると、再びゆっくりと歩き出した。

 クリスマスの夜だというのに喫茶「吾眠」の照明は全て落とされ、一人の客もいなかった。店の片隅に飾られたツリーも埃をかぶったまま闇に溶け込むように放置されている。灯といえばカウンターの上にある燭台に刺された、たった一本の蝋燭の火だけ。そして暗闇の中にこの店の主、羽黒那智がただ一人座り、揺らめく炎にその姿を浮かび上がらせていた。
 那智は自分の目の前に置かれた一客のデミタスカップをぼんやりと見つめていた。カップは白地で、金で縁取りされた周囲にミントブルーの彩色がされており、側面には金の丸縁に囲まれた人物の肖像が描かれている。そんなメダリオンが全部で三つ。ひとつが赤地、ひとつが青地、もう一つが緑地で、赤は女性、残りは男性の絵が描かれている。また、ソーサーもカップと同じデザインで、三つのメダリオンの中に三様の肖像が描かれている。彼はそのカップに描かれている肖像をまるで生気を抜かれた様な瞳でぼんやりと見続けているのだった。そしてその彼の手には、そのカップとセットと思われるやはり陶器製のスプーンが握られていた。
「今日で丸三年。ぼくもそろそろ疲れたよ……」
 彼はまるでカップに向かってつぶやく様にそう言った。そんな彼の声に応えるかの様にカップがチリチリと小さな音をたてた。

 カラン、カラン……。
 カウベルがいつもより控えめな音を立てて、静かにドアが開いた。吹き込む風に蝋燭の炎が大きく揺らめく。それと合わせて壁面に映った那智の影がまるでそれ自体が意志をもった物の怪のようにうごめいた。その不気味な様に訪問者は一瞬息を飲んだが、すぐに気を取り直すと、ゆっくりとドアを締めた。
「なっちゃん……」
 そのつぶやく様な小さな声に、那智は顔を上げ振り向く。そして弱々しげな笑みを浮かべながら言った。
「那珂……、待っていたよ」

「今日で、丸三年になるんだね……」
 那智の隣に座ると、那珂はぽつりとつぶやいた。脱いだコートを隣の椅子に置こうとした瞬間に寒さに震え、それをそっと膝の上に掛ける。その時になってはじめて那智は店内がずいぶんと冷え込んでいることに気づき、空調のスイッチを入れた。天井のダクトから温風が吹き出し、蝋燭の炎を揺らす。那珂はまるでそれ自体に生命が宿っているかの様にうごめく影に暫し見入った。先程は恐怖しか感じなかったそれが、今はやけに幻想的に見える。苦渋を共にする幼なじみの存在が、彼女の心に少しゆとりを持たせた故のことかもしれない。
「蝋燭の灯って怖い様な、それでいてドキドキさせる様な不思議な力を持っているよね」
 那珂の言葉に、那智は静かに微笑み返す。
「那珂は覚えてる? 台風の夜のこと……」
「覚えてるわよ。一人で留守番していたなっちゃんが、怖くなって窓からわたしの部屋へ逃げ込んできたときのことでしょ?」
 遠慮のかけらもない那珂の言葉に那智は苦笑しながらもゆっくりと頷く。
「そう言えばあの時、停電があってこんなふうに蝋燭の灯の中で過ごしたんだっけ……」
 那珂は昔を懐かしむかの様に視線を遠くに彷徨わせる。那智はそんな彼女を慈しむ様に見つめる。
 不意に那珂が思い出した様にプッと吹き出した。
「あの時、なっちゃん電気が消えた瞬間にわたしにしがみついてきたんだよね」
「古い話だよ……」
「あの頃のなっちゃんは、根暗な意気地なしで、凄く泣き虫で……」
 話しているうちに段々と那珂の顔が歪んでゆく。膝の上に置かれた手をぎゅうっと握りしめ、言葉を紡ぐことをやめたその口はへの字に結ばれる。那智は立ち上がると、そんな那珂の背中にそっと手をおいた。
「泣きたいときは泣けばいいんだよ……」
 那珂は顔を上げると潤んだ瞳で彼を見上げる。そして無理に笑おうとして失敗し、那智の胸に顔を埋めた。
「――なっちゃん、強くなったね。本当はなっちゃんだって泣きたいくせに……」
 切なげにすすり泣く幼なじみをそっと那智は抱きしめる。
「あの頃みたいにわたしの中でなっちゃんがずっと一番だったらこんな思いをしなくても済んだかもしれないのにね……」
「人の心ほど移ろい易いものはない。昔のことをとやかく言ってもなんにもならないよ」
 冷たくも取れる那智の言葉は、その昔彼をふった那珂への皮肉なのかもしれない。穏やかではあるけれど、キッパリと言い切った那智の声に、少なくとも那珂はそう感じた。それでも那智の言葉はあたっているのかもしれない。那智もそうだが、自分にしても愛する人に裏切られるのはこれで二度目なのだ。
「タイムリミットは今日だったね」
 そう言う那智の声は先程とは違い、慈愛に満ちている。那珂はそっと顔を上げると、彼の言葉に頷いた。
「今日中にリュウちゃんが帰らなかったら、わたし、実家(うち)に帰されちゃう……」
 涙に濡れた瞳で那珂は那智を見つめる。那智はそんな彼女の視線を受け止めきれずに顔を逸らした。
「もし、リュウがひょっこり帰って来たとして……」
 顔を背けたまま彼は彼女に問いかける。
「本当に帰って来たら、那珂はどうするの? 笑って奴を迎えられる?」
 暫く那智をじっと見据えた後で、那珂は静かに首を振る。
「多分、もう元へは戻れないと思う。だってリュウちゃんの心は多分……、リュウちゃんの心はもう……」
 はじめは小さくかぶりを振っていた彼女だが、次第に気持ちが昂り、まるでイヤイヤをする様に激しく首を振り出した。そして最後には感極まったのか言葉をとぎらせる。那智は那珂の気持ちが落ち着くまで暫く待たなければいけなかった。
 ジジジと蝋燭が小さな音を立てる。その蝋燭に映し出される世界は二人の周囲に漂う空気を取り込むかの様にさまざまにその様相を変える。壁に映し出された影が小さく揺れ動き、哀愁を感じさせた。
「でも……、わたし未だに信じられないの。リュウちゃんが……、榛名と……」
「駆け落ちしたってことが?」
 那智の言葉に那珂は遠慮がちに頷いた。
「確かに二人が駆け落ちしたって言う証拠はどこにもないしね。わかっているのは二人が時を同じくして僕らの前から姿を消したということだけ」
「最初は二人でいるところを対抗する組織に襲われたんじゃないかとかいろいろ言われたんだけど……」
 ヤクザ家業を営む酒匂家は今時珍しい昔気質のヤクザで堅気に手を出すこともなく、地元からもさほど恐れられたり嫌われたりすることもない。それでもヤクザなんかをやっていると利害のぶつかる敵対組織のひとつやふたつはある。二人が姿を消した当初は、そう言った組織に二人が襲われたのではないかと言う噂が立った。
「でも、そんな痕跡はどこからも発見されなかった……」
 那智と会話するうちに、那珂は当時に思いを馳せているのか段々と遠い目をしていく。その瞳が乾くまもなく、また潤んでくる。
「だから、結局は二人が駆け落ちしたんじゃないかって話しに落ち着いちゃったのよね。リュウちゃんがいつも榛名を口説いていたのをみんな見ていたから……。全部冗談だったのにね……」
「……」
 那珂の言葉に暫し那智が瞑想する様に目を閉じた。やや柳眉がつり上がり、眉間にしわがよる。
 突然黙ってしまった彼を訝しみ、振り向いた那珂が見た彼の顔は、険しくも整ったものだった。それでいて透き通る様な儚さを感じさせ、その横顔に彼女は見入られてしまった。
 彼のその儚くも美しい様は那珂を見入らせると同時に不安にもさせる。彼もまた自分の前から姿を消してしまうのではないだろうか? すぐにでもこの場から陽炎のように消え失せてしまいそうな危うさを彼の中に見いだしてしまう。
「なっちゃん……」
 自分でも気づかぬうちに那珂中は彼の名前を呼んでいた。まるでそこに彼がいるのを確認するかのように。
 その声はとても控えめで、ともすればつぶやくような感じではあったが、二人だけの店内、遮る音の存在もなくその声は那智の耳にまで届く。彼はふと表情をゆるめると那珂のほうを振り向いた。
「あぁ、ごめん。まだお茶も出していなかったね。コーヒーでいい?」
「えっ? あ……、う……ん」
 脈絡のない那智の言葉に那珂は一瞬戸惑ったが、そんな彼女を無視するかのように那智はカウンターの中へと消える。途中、カウンターの上に置かれていたカップを手にとりながら。
 カップを湯につけると那智はコーヒーを入れる準備を始める。慣れた手つきで、流れるように作業を進める那智を眺めながら那珂はぼんやりと考えた。先程の那智は何を考えていたのだろうと。
 那智は親友である酒匂蒼竜が本当に彼の妻に手を出したと考えているのだろうか? それまで陰に日向に二人の仲を支えてきた彼が最後にそれまでの自分の功績を全てフイにするような行動に出たと……。どんなときでも彼らの味方であり、二人の仲を取り持つことに心を砕いてきたのが彼女の夫、酒匂蒼竜だ。二人の早期結婚を画策し、実現させたのも彼。そんな彼をなんの証拠もなく、うわさに踊らされてむやみに疑う那智ではないはずだ……。
 そう考えたときに那珂の心にひとつの引っ掛かりが生まれる。
(ひょっとしてなっちゃんは……、いや、なっちゃんもあのことに気づいていたとしたら……)
 そんな彼女の思考を読み取るかのように那智が口を開く。
「今の那珂にこんなことを言うのは、水に落ちた犬を叩くみたいでいやなんだけど……」
 那智のその言葉を聞いた瞬間に彼女は察した。彼もまた気がついていたのだと。
「リュウちゃんは……、決して冗談なんかじゃなくっていつも真剣だったってこと?」
「そうだね……」
 一瞬、驚いたように目を見開いた後、寂しげな笑みを浮かべながら那智は答える。
「いつも冗談めかしてはいたけれど、リュウはいつも本気だった……。那珂も……、気がついていたんだ?」
「う……ん……」
 那珂もまた寂しそうに頷いた。
「リュウちゃんの目はいつも榛名を追っていたもの。付き合う前から彼が榛名のことを本気なのはわかっていたわ。彼と結婚するときも、まだ榛名に想いを残しているのもわかっていた。でも、それでもリュウちゃんはわたしを愛してくれた。だから結婚したの。リュウちゃんが親友と想い人の間で苦しみながらもわたしを救ってくれたように、わたしも彼を救ってあげたかったし……」
 いつしか那珂の目にはまた涙が溜まっていた。
「はじめて榛名と出会ったときからリュウは彼女に恋をした。でもその頃の彼女はとてもリュウが手を出せるような状況じゃなかった……。あのころ榛名は極度の男性不信に陥っていて、男としての酒匂蒼竜は恐怖の対象意外の何者でもなかったからね」
「それに……、なっちゃんとのこともあったから遠慮していたしね。あのころ……唯一なっちゃんにだけは……、なっちゃんにだけ榛名は心を開いていたから……。それがリュウちゃんにもわかっていたから……」
 那智はそっと那珂の瞳からこぼれ落ちた涙を指ですくった。
「リュウの性格からすれば、すぐにでも僕から榛名を奪い取りたかっただろうにね……。でも彼はそうしなかった。一生懸命榛名と距離を置こうとがんばっていた……。僕らを強引に結婚に導いたのも自分の気持ちに整理をつけるため。でも……」
「――でも出来なかったんだよね……。リュウちゃんって結構一途だから……」
 ここにはいない二人に思いを馳せたのか、暫くの間二人は黙り込む。静寂の中で時を刻む時計の音と、二人の心を濡らすかのように降り続ける雨の音だけがその場を支配した。

 「ねぇ……」と暫しの沈黙を破るように那珂が問いかけた。
「わたしずっと考えていたんだけど……、二人がね自分から姿を眩ましたことが信じられないの……」
 コトリと音がして那珂の前にカップが置かれる。
「たしかに道ならぬ恋に落ちた二人が世間から逃れての逃避行……ってタイプじゃないね。二人とも……」
「いつの話をしているのよ……」
 とぼけたような那智の返答にこの日はじめて那珂がクスリと笑いを漏らした。
「言葉にしてみると結構ロマンチックな感じが漂うけれど、今でもそう言ったことはよくあることだと思うよ。多分当事者にとってはロマンチックどころかドロドロの悲劇だろうけれど」
「人ごとみたいに言うけれど……、今のわたしたちだって大差ないのよ」
「本当に二人が逃げたのならね……」
 那智の言葉に那珂は静かに頷く。
「リュウちゃんなら、逃げずに……、ちゃんとけじめはつけると思うの。ずっとそういう世界に生きてきた人だし……だから……」
 カウンターからでてきた那智が那珂の目の前に立つ。唯一の光源である蝋燭が彼の体で塞がれ、那珂の上に黒い影が落ちた。那珂は顔を上げ逆行となった那智の顔を見る。
 カウンターに置かれたカップがチリチリと小さな音をたてた……。
 那智はゆっくりと彼女の隣に腰を下ろす。右半分だけが揺らめく炎に照らされた彼の顔を見て、那珂はスツールの上で少し後退った。それを見て笑った那智の顔が、那珂には悪魔の微笑みに見える。
 またカップがチリチリと小さな音を立てた。
 那珂がゴクリと喉を鳴らす音が聞こえたような気が那智はした。彼女の顔はやや青ざめているようにも見える。表情も固い。
 フーッと一息もらすと那智は、先程那珂の前においたカップを手にとった。
「那珂はホープダイヤって知ってる?」
「ホープダイヤって……、持ち主が次々と不幸になるって言うアレ?」
 那智は手にとったカップをしげしげと眺めながら静かに頷いた。
「――ま……さか……、なっちゃんそのホープダイヤを手に入れた?」
「まさか。そんなお金とてもないよ。アレは今でもスミソニアンに展示されている」
 心配する那珂の言葉を笑い飛ばした後で、でも……と那智は言葉を続ける。
「でも……、ホープダイヤ意外にも持ち主に災いをもたらすものはいくらでもある……」
 そう言うと那智はそれまで眺めていたカップを那珂に差し出す。
「これなんかもそう。きれいなカップだろ?」
 那智の言葉に一瞬、それを手にとるのをためらった那珂であったが、直にその魔力に捕らわれたかのようにおずおずと手を伸ばした。
 でも次の瞬間、那珂はカップを手にとると見入られたようにうっとりとし、つぶやいた。
「ほんと。きれいなカップね」
「金彩花絵メダリオンってやつで……、ミントンのものに同じようなのがあるのを見たことがあるけれど……」
 那智はソーザーの方を手にとりながら話を続ける。
「これはそれを模したものみたいだね。でも結構古い。多分百年くらい前に焼かれたものだと思うよ」
 那珂は彼の話を聞いているのかどうか……。うっとりとした表情でただカップを見つめなんの反応もない。そんな夢心地の彼女を引き戻すかのように那智の手が伸び、カップの一カ所を指さす。
「ここにメダリオンの人物頭部が描かれている。その赤い奴を見て……」
 不意に目の前に指をつき出され、夢から覚めさせられたような那珂はちょっと不満げな表情をしたが、それでも彼の言う通り、赤いメダリオンの絵に目を凝らす。次の瞬間ヒッと息を飲む音が聞こえ、彼女の手からカップがこぼれ落ちた。
 カチン! と音がしてカップが床にぶつかる。中のコーヒーが溢れ床を濡らすが、奇跡的にカップは無事だった。
「ダメだよ、那珂。もしこれが割れたら大変なことになる」
 那智はカップを拾いながら那珂をたしなめるが、彼女はそれどころではなかった。顔はますます青ざめ、その指先が震える。那智が再びカップを手渡そうとしたが、手に力が入らずにすぐに滑り落ちそうになる。那智はため息をつくと、そっとカップをカウンターに戻した。
 那智は彼女を落ち着かせるために、新たにコーヒーを入れようとカウンターを潜ろうとした。その背中に震える那珂の声が届く。
「――な……、なっちゃん……。これって……」
「描かれているのが誰だか判った?」
 那智の問いかけに那珂は自信なさ気に頷く。
「――これって……、榛名……よ……ね?」
 那珂の言葉に今度は那智が頷く。
「もし勇気があったらほかのメダリオンも見てみるといい……」
 那智はそう言ってカウンターの扉を潜る。その後ろ姿を那珂は見送った後でカップに視線を移した。しかしまだそれを手にとることは出来なかった。
「さっき僕は言ったよね。持ち主を不幸にするものはいくらでもあると……」
「――これも……そうだって言うの?」
 那珂の問いかけに、那智は悲しげな視線で答える。暫くの間、彼は口を開くことなく新しいコーヒーを入れることに専念しているかのようだった。
 静寂の中で那珂はいたたまれないような面持ちでじっとうつむいたままカップのことを考えていた。百年も前に焼かれたカップに何故榛名の絵が描かれているのか? ほかのメダリオンには一体誰が描かれているのか?
 後者はなんとなく予想がついた。でもそれが描かれている理由は皆目見当がつかない。
 新しいカップでコーヒーが那珂の前に差し出され、再び那智が彼女の横に腰を下ろす段になってようやく話が再会した。
 那智は先程のカップを手にとるとゆっくりとまわし、彼女の目の前にひとつの絵を指し示す。
「この青いメダリオンに描かれているのが……、リュウ。赤のメダリオンよりもちょっとだけ小ぶりになっている……、でもこちら……」
 カウンターの上にカップが置かれ、代わりに受け皿が持ち上げられる。
「ソーサーは逆に赤よりも青のメダリオンのほうがちょっとだけ大きい。そして描かれている絵は……、どちらも同じ……」
 皿が那珂の目の前にそっと置かれる。彼女はそれを唇を噛みしめるようにしてじっと見つめた。そしてもう一つ、赤でも青でもない……、緑のメダリオンの中にもう一つ見知った顔、羽黒那智の肖像を見つける。
 ハッとしたように那珂が那智を見上げる。
「このカップに二人の失踪の原因があるのね?」
「……」
 那智は那珂の問いかけに答えなかった。代わりにカップをそっと、皿の上に戻すとそれを手にとり暫く見つめる。
「これから話すことを最後まで聞いてほしい……。信じられないことかもしれないけれど、最後まで黙って聞いてほしいんだ」
 那智の言葉に那珂は、ただ黙って頷いた。

「このカップのセットは、とあるクリスマスに陶器職人の男が、自分の奥さんへのプレゼントとして焼いたものなんだ。男は一流のマイスターになろうとして必死に修行している最中で、決して豊かじゃ無かったけれど、そんな彼を奥さんも応援していてとても暖かい家庭を築いていた」
 カップがゆっくりと回され、二人の間をメタリオンに描かれた肖像が走馬灯のように移りゆく。
「当初このメタリオンには彼とその奥さん、そして生まれてくるはずの子供の絵が描かれるはずだった……」
「それが……なぜ?」
「彼の奥さんは、彼の才能を信じ、愛しもしていたけれど……、彼自身を愛してはいなかった……」
 那智はまたゆっくりとカップを回すと、赤いメダリオンの中に描かれた肖像をいとおしそうになぜる。そして静かにふぅと一息ついた。
「生まれてくる子供は……、彼の子では無かったんだ……」

 那智はそこで言葉をとぎると、カップをまたカウンターの上に返した。
「――なっちゃん……。まさか……、榛名も?」
 那智は静かに首を振る。一足飛びに発展していく彼女の発想に苦笑さえ漏らした。
「これはカップにまつわる話し。僕らの現実とは完全にリンクするものじゃないよ」
「――でも……」
 那珂は不安を隠しきれない。怯えたような目で那智を見つめる。そんな彼女の肩にそっと手をおくと、那智は諭すように静かに言った。
「とりあえず、最後まで話を聞いて。これは僕達の明日に深く関わることだから……」
 肩に置かれていた手がそっと彼女の髪を梳く。ショートに整えられた茶色の髪が持ち上げられてはハラハラと溢れる。溢れる髪が、蝋燭の光に照らし出されて金色の幕を作った。
 それから暫くの間は那智に抱かれるようにして身を預けていた那珂だったが、やがて気分が落ち着いたのか那智に話の先を促した。那智はひとつ頷くと、そっと彼女から離れる。

「自分の妻の裏切りを知った男は狂気にかられた。カップに描かれるはずだった幸せな家族の絵は、破局を迎えた夫婦とその間男の肖像に書き換えられ、彼は自分の血を土に混ぜて怨念を込めてセットとなるスプーンを作った。しかも彼は自分の小指を切り落とすと、それをスプーンの柄に仕込んだんだ」
 ヒッと那珂が息を飲んだ。そうして口を両手で押えながら、気味悪そうにカップの傍らに置かれたスプーンに目をやる。
「その後彼らがどうなったかは誰も知らない。誰もが知らないうちに三人とも姿を消してしまった。クリスマスの日を最後に誰も彼らを目撃した人はいないと言うことだ」

「それでその職人の男の怨念がこのカップにとりついていて、その所有者に災いをもたらすというの?」
 気味悪そうに体をずらしてカップから遠ざかった後、那珂は聞いた。そうして彼の顔を見上げた瞬間、再び息をのむ。蝋燭を挟んだ形で対峙する二人の顔は、揺らめく炎に照らされてその陰影が濃くなっている。そのせいか那珂の目に彼の顔がひとのものではないように映った。壁に映し出された揺れ動く影は怨念が彼にとりついているかのような錯覚を受ける。
 そして、那珂の様子に気づいた那智が一歩下がると今度は、そのまま消えてなくなりそうなくらい不確かな存在として感じてしまう。捉えどころのない那智の様子に那珂は困惑した。
「一般的にはそう言われているね。もっとも一般的と言うのはこのカップのいわれを知っているひと達の間ではと言う意味だけれど」
 そう言うと那智はスプーンを手にとる。そして柄の端を掴み目の前でくるくると回して見せた。
 静かで、威圧感もないはずなのに、那珂にはそんな那智の行動に違和感を覚える。どこがどうと言うのではないけれども、なんとなくらしくないと感じた。そんな彼女の視線に気づいたのか、那智はふと手をとめる。そうしておいて「でもね」と言葉を続けた。
「この話にはもう一つの説があるんだ」
 コトンと音を立ててスプーンが置かれる。那智は悲しげな顔で暫く那珂を見つめた後で再び口を開いた。
「――最初、彼の奥さんは彼の才能を愛してはいたけれど、彼自身は愛していなかったと言ったよね?」
 確かめるような那智の口調。彼は那珂が頷くまで暫し口を閉じた。
「だから彼とは別に恋人をもち、夫としての彼にはその才能で成功してもらい豊かな暮らしを手に入れる……、でも本当は違ったんだ」
「違った? 奥さんは本当は彼のことを愛していたと言うの? だったら何故……」
 那珂の言葉に那智は、当時に思いを馳せるように遠くを見つめる。那珂には一瞬彼のそんな姿が見知らぬ職人の姿とダブって見えた気がした。
「日本には内助の功って言葉があるけれど、志的にはそれに近い心境だったんじゃないかって言う説があるんだ。男は優れた才能を持ちながらも生活に追われて自分の作品を作ることがなかなか出来ないでいた。このままでは彼の才能を埋もれさせてしまうと彼女は考えたんだろうね……」
「だからって……」
「今とは時代が違う。女性が仕事に付くのもなかなか難しかったんじゃないかな? それに彼としても自分の奥さんに食べさせてもらうというのはプライドが許さなかった」
「でも、そんなのって……」
「わがままだというならば言えばいい。でも男のプライドと言うものもある!」
 いきなり語気を荒くする那智に那珂はびっくりしたように引いた。そんな彼女に那智はふと我に返ると黙り込み、小さな声で「ごめん」と謝った。
「彼はね、最初こそ芸術品的な作品をつくりたいと考えていたけれども、彼女と結婚し家族を持ったことで、普通に使われる食器類の中に芸術品にも負けないものを取り込もうと考えるようになったんだよ。彼はそれが出来ると自負していた。だから生活に追われるように在り来りに見える食器類を作っていても、決して自分の才能を無駄にしているとは思っていなかった……」
「でも奥さんは誰もが認める芸術品を作らせたかった?」
 那珂の問いかけに那智は首を振る。
「彼女は単に彼の才能が、そして才能ある彼の名前が埋もれてしまうのを惜しんだだけなんだ。いくら良いものを作ってもそれはタダの食器。名もない職人の作った数多の食器類の中に埋もれてしまう。でも名が売れ、彼の作るものに高い値がつけば生活のことを考えずに好きなものを作ることが出来るようになる」
「二人の気持ちにずれがあったのね……」
「そう……。そうして彼女はそれに気づかないまま彼のためにパトロンにその身を売った。もちろん夫には内緒であったけれどそんなことはいずればれる。怒りに狂った彼は二人を殺し、その魂を作り上げたばかりのカップに封じ込めると、自分自身もスプーンに封じ込めることで二人の魂を完全に閉じ込めてしまった。全てを知ったときには後の祭り。自分のみにくい嫉妬が全てを壊してしまったと思ったんだろうね……」

 暫くの間、二人とも無言だった。哀れな男の最後の作品となったカップを痛ましげに二人の瞳がとらえる。
「それが百年前のクリスマスのことなのね……。俄には信じがたい話だけれど……、それにしてもクリスマスにね……」
「救いようがないと思うだろう? でも本当に救いようがないのはそこからなんだ……」
「呪いが始まる?」
 那珂の言葉に那智は深いため息をつく。
「それこそ救いようのない八つ当たり的な呪いがね……。このカップを手にしたカップルは必ず破局を迎える。そして皆、姿を消していくんだ。それこそ名もない一般市民がほとんどだからなにも記録は残らないけれど、そうやって消えたカップルは両手じゃきかないって言われている」
 話を聞いているうちに那珂は急に怒りが込み上げてきた。カップにまつわる出来事自体は不幸なことであり、同情もする。しかし全ては回避し得たはずのもののはずだ。悲劇になったのは本人達の責任であり、ましてやそれから百年もたった今を生きる自分達には一切関係のないことのはずなのに……。
「リュウちゃんと榛名は……、その理不尽な呪いのとばっちりを受けたのね?」
 詰問するような那珂の問いかけに那智は視線をそらした。
「那珂には悪いことをしたと思っている……」
「なんでなっちゃんが謝るのよ! 悪いのは呪いをかけた職人でしょ? 自分がしたことを後悔したのであれば、カップのオーナーになったひと達を幸せにでもすれば良いのよ。それを逆に不幸にしていくなんて……」
 激昂する那珂とは逆にますます首を垂れていく那智に、彼女は言葉を詰まらせた。そうして突然、ハッとしたようにスツールから飛び下りると、那智の足元にしゃがみ込み、彼の顔を覗き込む。
「なっちゃん! まさかあなた……」
「すまない……。でも……、二人とも殺してはいない。ただ……殺すよりももっと残酷なことになるかもしれないけれど……」
 突然の那智の告白に那珂は絶句した。彼女は信じられないというように首を振る。そうして暫くの間、瞑目した後にできうる限り感情を押し殺した声で彼女は聞いた。彼女には信じられなかった。穏やかでいかなるときも沈着冷静な彼が、例え裏切られたからといって凶行に走るなどあり得ないと思う。
 もしこれが自分なら、それもあり得るかもしれない。那珂は自分が多分に感情に左右されることを自覚している。あるいは自分でなくても大概の人間は狂気にかられる一瞬があるだろう。でも、那智は……、那智だけはそんなことはないと彼女は信じていた。そんな彼をも狂わすほど呪いは強いものだったのか?
 ともすれば溢れそうになる感情とは裏腹に、ここまで来たら何があったのかを知りたいと言う気持ちが那珂の中で芽生え始めた。だから那珂は普段あまり抑えるということをしない感情を理性でねじ込む。
「二人に何をしたの?」
 那珂の問いかけに那智はゆっくりと顔をあげる。そうして暫く彼女の顔を見つめる。そうして彼女の決意をくみ取ると徐に口を開いた。
「カップの呪いに捕らわれたものは、取り込まれる……」
 そう言った後で、那智は那珂の反応を確かめるように彼女の顔をうかがった。那珂は目で先を促す。それを受けて那智は再び那珂にカップを手渡した。
「そのカップをよく見てごらん。百年前に作られたものに見えるかい?」
 そう言われて彼の手から恐る恐るカップを受け取った那珂は、しげしげとそれを見つめる。
 こうしてみると、カップ自体に傷ひとつなく、色あせた感じも全くない。金で縁取られた部分もそれが浮くこともなくしっかり定着しており、未だまばゆいばかりに光沢を放っている。
 那珂は一通り眺めた後で、カップを那智に返しながら首を振った。
「昨日工場から上がったばかりの新品って言われても信じちゃうわ」
「それがこのカップの魔力なんだよ……」
 那珂からカップを受け取りながら那智は答えた。
「このカップはその呪いで人を取り込み、その魂を糧として自分を維持している。さっき那珂がしたに落としても割れなかったのは、取り込まれた者の魂がカップを守るのに使われたからなんだ」
「まさか……、今その中にリュウちゃんと榛名が?」
「そう……、カップには榛名が……、そしてリュウがソーサーに閉じ込められている……。赤いメダリオンに取り込まれたものがカップを、青いメダリオンに取り込まれたものがソーサーを守るんだ……。そうやってこのカップセットは長い年月を生き残り、次なる獲物を求めて人の手を渡り歩く」
 那智はカップとソーサーをそれぞれ指さしながら説明する。それを聞きながらふと那珂はもう一つのメダリオンのことが気になった。
「なっちゃん、緑のメダリオンは?」
 那珂の問いかけに彼は苦しげに顔を歪める。
「これまでにもカップに取り込まれた人はたくさんいる。そうやってこのカップは一世紀もの間その美しさを維持してきたのだからね。そして常に消える人物は三人。一人はカップに……、一人はソーサーに……。そしてもう一人は……」
 那智はそっとスプーンを手にとる。
「二人を封印する鍵としてこのスプーンに取り込まれる……」
 那珂は衝撃のあまり、暫く言葉を発することが出来なかった。もしそうなら今、自分の目の前でとうとうとカップの呪いについて語っているこの男は一体誰なのだろう。彼の言っている話が本当であるなら、那智はすでにスプーンに取り込まれて、リュウや榛名同様ここにはいないはずだった。
「一体、それじゃあ今君の目の前にいるこの男は誰なんだって顔をしているね」
 そう言うと那智は笑った。笑ったその顔は那智のものなのに、どこか那智とは違う印象を受ける。生まれたときから二十年以上のつきあいのある一番見知った男なのに、全然知らない人のような錯覚を覚え、那珂は混乱した。
「あなたは誰? なっちゃんじゃない……。こんなのわたしの知っているなっちゃんじゃない……」
 那珂の言葉に那智の笑顔が悲しみに沈む。若干声のトーンが落ちた。
「僕は僕さ。那珂のよく知っている幼なじみの羽黒那智だよ。でも、やっぱりそうじゃない……」
「どういうこと?」
「スプーンに取り込まれてみてはじめて判ったんだ……」
 那智は怯える那珂を安心させようと、努めて冷静さを保とうとして失敗した。漏れ出した声はようやく絞り出したという感じで、それが那珂の不安に拍車をかける。
「呪いをかけた張本人にももうどうにもならないんだ。このカップセットは初めに怨念が込められてしまった。後から事実を知り、後悔しても、もう怨念が一人歩きを始めていて誰にもとめられなくなってしまっているんだ……。スプーンに取り込まれ、男と同化してみてはじめてそれが判った……」
「同化?」
 あぁ、それだからなのか……
 那珂ははじめて納得がいった気がした。今日、那智の印象が散漫だったのはもう一人の男の側面があったからなのだ。でも……。
「それは判ったけれど、じゃあスプーンに取り込まれたなっちゃんがここにいるのは何故? 取り込まれても人前に姿を表せることが出来るの? だったらリュウちゃんは? 榛名はどうなの?」
 矢継ぎ早の質問攻めに那智は苦笑し、それで少し自分を取り戻した。そうして暫く確認するかのように自分の体を眺める。そんな彼をみて、ちょっと影が薄くなったように那珂は感じた。
「どうやらあまり時間が残されていないみたいだ……。那珂の質問に答える前に、どうしてこんなことになったか話すから、どうするかを那珂自身で決めてほしい」
「どうするって……なにを……」
「これからだよ。どの道を選ぼうと、多分君はとても苦しむことになるだろうから……、だから那珂自身の手で未来を決めてほしいんだ」

 時間がない……

 那智のその言葉に、那珂はそれ以上口をはさむことが出来なかった。影が薄くなったように感じたのは気のせいではないらしい。ひょっとしたら彼は未だ完全にスプーンに取り込まれることなく戦っているのかもしれない。そう考えて那珂は改めて彼の話を聞く姿勢をとる。
「はじめはね、取るに足らない小さな猜疑心だったんだ」
 そう言って那智は告白を始めた。
「あのころリュウが僕や那珂の目の届かないところでやたらと榛名に接近していた。そんなとき榛名はちょっと僕のほうを気にしながら困惑したような表情を浮かべていたんだ。逆にリュウからはなにか懇願するような感じを受けた」
 那智の言葉には那珂も心当たりがあった。ちょっと目を離すと酒匂がなにかと榛名にちょっかいをかけていた記憶がある。そんなときはいつもちょっと離れていたため会話の内容までは確認できなかったが、言われてみれば那智のいうような感じだったかもしれない。またいつもの病気が始まったと思っていたので、それほど気に留めなかったため記憶が定かではなかった。
「気になったんで榛名になにを話していたのか確かめたことがあったんだけれども、ごまかしてきちんと話してはくれなかった。奴のプライバシーに関わるからって。それがなんか榛名らしくなくて、僕は二人のそれにちょっと不穏なものを感じたんだ……。そしてちょうどそのころこのカップを手に入れた」
 そこまで話して那智は息をついた。こうやって話している間にも少しずつ那智の影が薄くなっていっている気がする。那珂は次第に話の内容よりもそちらのほうが気になり出した。
「このカップは人の猜疑心みたいなものを敏感に感じ取るんだろうね。そうしてそんな感情を持った人間を強引に引き寄せる。はじめてこのカップを見たときから、もう目が話せなくなって気がついたら買っていた」
 そう言うと那智はカップを手にとり、床に叩きつけようとした。叩きつけようとしたが手は頭上で止まり、やがてまたそっとカップをカウンターの上に戻す。
「このカップがきてから、二人の仲が急速に近づいたかのように見えた。二人でいるときに榛名の顔から困惑の色が消え、代わりにそれまで以上に僕のほうを気にするようになった。さりげない動作でちらちらとこっちをみていることが多くなった気がした。リュウからも哀願するような表情が消え、一度なんか目があった瞬間に勝ち誇ったような笑みさえも浮かべたんだ」
「なっちゃん、それって!」
 衝撃的な告白におもわず腰を浮かした那珂を那智は制する。
「僕の目にはそう映ったということだよ。実際にそうだったかは判らない」
「でも……」
 なおも食い下がろうとする那珂に那智は諭すように話しかける。
「たしかにリュウは榛名に想いを残していた。それが積もり積もってどうにもならなくなったとも考えられる。榛名にしてもそうやってずっと影から思ってきてくれた彼にまったく好意を抱かないとは言い切れない。なにより彼女は幸せの中にいるよりも、そう言った逆境の中に自分の存在価値を見いだすところがある。だからこそ僕らはうまくいったけれども、一度幸せを手に入れるととたんにそれは不確かなものへと変化してしまうんだ」
 チリチリチリ
 そんな悲しげな那智の告白に呼応するかのようにカップもまた音を立てる。
「でも多分、それは呪いの始まりなんだよ。ただその呪いに二人が当てられて本当にそういう関係になったのか、僕のほうが当てられてただそういうふうに二人の関係が目に映るようになったのか、それは判らない。今は二人に確かめようもないからね」
 そう言うと那智は深く息を吐き、頭を抱えた。

「それからは二人の行動が何もかもあやしく見えて、僕らの夫婦仲にもいろいろと影響が出始めた。そうすると余計に榛名が僕よりもリュウを選んでいるように見えてきて……、結局は悪循環だよ。どんどん呪いの渦の中に巻き込まれていった」
「なっちゃん……」
 那智は頭をあげると、焦燥しきった顔で那珂を見る。弱々しく笑う彼に那珂は痛ましささえ感じた。
「笑うだろ。そこまで疑いながら……、でも僕は榛名に本当のことを問いただすことさえ出来なかった。聞いても本当のことなど絶対にしゃべらないと頭から思い込んでいたんだ。榛名ならそんなことはあり得ないのにね」
「それも全部カップに宿った怨念のなせる技だったのね……」
「多分ね……」

 その日、幾度目かの沈黙が二人の間を支配した。すでに那智の体は蝋燭の火で透けるほどにまでなっている。揺らめく影もずいぶんと薄いものになってしまった。新たなる喪失の予感はすでに那珂の中で確信へと変わっていた。
「決定的だったのは二人の情事を目撃してしまったこと……」
 沈黙を破ったのは、信じがたい那智の言葉だった。驚きのあまり那珂も目を見開く。
「いつだったのか……、どこだったのか……、今となってはそれも定かじゃない。だから怨念が見せた幻影じゃないかと今は思っているんだけれど……、部屋に入るとベッドがあって、二人がそこにいた。僕の姿をみて二人はかなりあわてた様子で、リュウはしきりとなにか言い訳みたいなことを言い始め、榛名は目の前で土下座してひたすら謝りまくるんだ。僕はただ……その場に立ち尽くして、目の前になる榛名の白い背中を見つめることしか出来なかった」
 那智は再び那珂を見ると寂しげな笑みをこぼす。
「後はもうなにがなんだか……。クリスマスの日に二人を前にして僕はこのカップを差し出し、呪詛の言葉を吐き出していた。そうして僕ら三人はこのカップに魂を絡め捕られてしまったんだ」

 那珂はなんと言っていいか分からなかった。話を聞く限り怨念が具体的にどのような作用を引き起こしたかは判断がつかない。那智にのみ作用して、あらぬ幻覚を見せたのか? それとも酒匂や榛名にも影響を及ぼし、二人に本当に過ちを起こさせてしまったのか……。那智は前者と見ている様だけれども、それが那智の希望的観測と言うことも考えられる。
 なっちゃんはやさしすぎるから……
 そう考えることによって自分一人が罪を背負うつもりなのかもしれないと那珂は思う。那智の性格からしてそれは十分にあり得ることであった。
「なっちゃんが悪いわけじゃないよ……」
 それは慰めではなく本心からでた言葉。那珂にとってどこまでが事実で、どこからが幻覚なのかはさほど問題ではないように思えた。心に秘めていようが彼女の夫が那智の妻に本気だったのは二人の間では今や公然となっている。魔性のカップに見入られた那智が悪いと言うのであれば、その切っ掛けを作ってしまったのは酒匂以外の何者でもないのだから。
 それに那智は消えゆこうとしている。彼がすでに死んでいるのか、それとも今死にゆこうとしているのか、今の那珂には分からなかったが、それでも今日を最後にもう会えなくなることを那珂は確信している。彼はきっとこの三年間ずっと苦しんできたのだから、最後に少しでもその重荷を下ろしてもやりたかった。
「どういう理由があれ、僕が二人を恩怨の餌食にしてしまったことに変わりはないんだ……。だから僕はこの三年間、呪いの元凶となった男の魂と協力して、封印を解く手がかりを探しつづけた。それは僕らの魂を際限なく削ることになったけど……、ようやくそれを手に入れることが出来た……」
 そういう那智に首を振りながら那珂は言葉を紡ごうとしたが、彼はそれを制止する。

「ゴメン……、那珂。本当にもう、時間がないんだ」
「なっちゃん……」
 涙を一杯溜めた瞳で見つめてくる那珂をそっと抱きしめようとした那智の手がそれをすり抜ける。その事実を目の当たりにして那珂が我慢の限界を迎える。握りしめた手を膝に起き、うつむいたままむせび泣く。そんな那珂を那智はそっと包み込む様なしぐさをした。
 温かい……
 すでに触れることすらできない那智の体からぬくもりが感じられる。その温もりに包まれたまま那珂は彼の声を聞いた。

「那珂、よく聞いて。ここから先君には二つの道がある……」
 それは聞こえるというよりも心の中に響いてくる。
「一つは……、このまますべてを忘れて暮らしていくこと……。そしてもう一つは……」
 那珂は那智の体温? が気持ち下がるのを感じる。
「もう一つは鍵を壊して呪いを断ち切ること……」
 彼が言葉を紡いでいる間にも、その気配はどんどん薄くなっていく。那珂は自分を包み込んでいるはずの那智を話すまいとするかの様にギュッと自分の体を抱きしめた。
「カップに取り込まれた人物は、鍵……、つまりはスプーンに取り込まれた者の魂をすり減らして封印されている。スプーンに宿る魂が消耗し尽くした時にそれらは束縛から逃れられるんだ。スプーンに魂が宿っている限り壊してもスプーンは再生しカップに取り込まれた者たちを封印してしまう。でも再生するたびに確実に魂はそぎ取られ消耗していくんだ」
 だから……
「だから、再生しなくなるまで那珂はスプーンを壊し続けなくてはいけない」
 そこまで話して那智は那珂の顔をじっと見る。青ざめ不安に震えるそれに向かって彼は静かな笑みを返す。
「大丈夫。もうそんなにスプーンには力は残っていない。それは今の僕の姿が現しているとおりだ。数回床に叩きつけるだけで終わるよ……」
 延々と続くかもしれない呪われた作業に対する不安を緩和しようとするかのように那智はそう言ったが、那珂は激しくかぶりを振った。
「違うの……、それでみんながすくわれるならわたしは一生かかってでもそれをやる。でも……、でもそうしたらなっちゃんはどうなるの? スプーンが再生するときになっちゃんの魂が削り取られていっちゃうんでしょ? 全ての魂が削り取られたら……、そのときは……、そのときは……」
「誰かが業を背負わなくてはいけないんだよ。那珂……、君にはつらい役目を押しつけることになって申し訳ないと思っている……、でもこのまま放っておいても僕の運命は一緒なんだ。いつかは魂の全てを削り取られて消滅する。」
 那智の体はすでに消えかけていた。半分以上が闇に溶け込んでしまい、目を凝らさないとその姿も容易には見えない。
「なっちゃん……」
 那珂のつぶやきに那智は静かに笑った。
「ほら……、那珂、雪だよ」
 那智の言葉に外を見ると、いつの間にか雨が雪に変わっていた。
「那珂にもこんな業を背負わせることになってしまって……ごめん。でもこれ以上呪いの犠牲者を増やしたくないんだ……。た……んだ……よ」
 那智の声に振り向いた那珂の目にもう、彼の姿を映し出すことは出来なかった……。

「なっちゃん……ずるいよ。一番いやな役をわたしに押しつけて消えちゃうなんて……ずるいよ……」

 スプーンを握りしめながら那珂はつぶやいた。そのまま床に叩きつけようとして、それでも出来ずにまたそれを見つめる。そんな那珂に催促するかのようにスプーンが手の中でプルプルと震えた。
 那珂は深くため息をつくと窓の外を見る。
「雪……か……」
 焦点の定まらない目で天からこぼれ落ちてくるそれを那珂はぼんやりと見つめた。
「ひとりきりのクリスマスだね……」
 そうつぶやくと那珂は決心したようにスプーンをもって外へ出た。
 何故、外でそれをしようと考えついたのか、それは那珂自身にも判らない。単に今年初めての雪を那智にも触れさせたかったのか、あるいはその無垢な白さに惹かれたのか……。
 とにかく彼女はスプーンをもって外に出ると、思いっきりそれをぬれたアスファルトに叩きつけた。

 パリン!

 乾いた音を立ててスプーンが粉々に砕ける。中から白い棒が転がり出た。しかし次の瞬間砕けた陶器の粉が意志を持ったかのようにその白い棒の周囲に集まり出す。それを見た那珂は不意に思い立ってその棒をブーツの踵で踏みつけた。カチッという衝撃が足に伝わったが、それはびくともせずに原型を止めたまま転がった。その後をやはり陶器のかけらが後を追うように滑っていく。それらが棒に多いかぶさろうとした瞬間、一片の雪がその白い棒の上に舞い降りた。
 雪が降れた部分からジューッと音がし白い煙がたなびくように上がると、次の瞬間にはボン!とはぜたように大きく白煙が吹き出した。そして煙が晴れた後には棒であったと思われるものの粉が小さな山を作っていた。
 あっけにとられてそれを見つめる那珂を覚えのある温もりがつつむ。それに導かれるように店内に入ると、壁にかけられたカップが一斉に揺れだし、カチカチと大きな音を立てた。店の隅に佇むツリーが一斉に電飾を灯し、カウンターに立てられた蝋燭の光が大きく揺れ動く。その灯に照らし出される人影がふたつ。

「リュウちゃん! 榛名!」

 那珂はあわててそこへ駆け寄る。二人は並んでカウンターに突っ伏しているものの息があった。
 ほっとした面持ちで那珂は酒匂の背中にそっと抱きついた。
「リュウちゃん、お帰り……」
 そんな三人の間をかすかな風がすぅ〜っと通り抜ける。
「なっちゃん……」
 那珂は見えるはずのないそれの気配を目で追う。店内をぐるっと回ったそれはそっと榛名の上にかぶさると、やがてその気配を完全に消した。その瞬間、眠っているはずの榛名の瞼の隙間から涙がこぼれ落ちる。
 那珂は消え去った気配に向かってそっとつぶやいた。

「なっちゃん……。メリークリスマス。そして……さよなら……」