蒼空に捧ぐ 戦闘第308飛行隊の軌跡
昭和20年1月
フィリピンに進出し壊滅状態にある221空戦闘308飛行隊を継承する部隊として252空戦闘308飛行隊が館山基地で発足される。
司令は元221空司令の斎藤正久大佐、飛行長は新郷英城少佐であり、戦闘308隊長には、平田嘉吉大尉が着任する。
1月下旬
252空戦闘308飛行隊は、茂原基地へ移動し、本格的に錬成に入る。
2月初旬
硫黄島に進出し壊滅に瀕していた252空戦闘317飛行隊の残存搭乗員に戦闘308飛行隊への転勤命令が出され、戦闘308飛行隊硫黄島派遣隊として位置付けられる
2月8日
硫黄島派遣隊の小沢清飛長が単機、B−24編隊に突入、体当たりを敢行、戦死。全軍布告2階級特進。
2月10日
硫黄島派遣隊から内地の戦闘308本隊に異動予定の竹内昭中尉の交代要員として、山下輝雄中尉が着任するも邀撃戦に出撃、未帰還、戦死。竹内中尉は硫黄島残留となる。この日、硫黄島にて広嶋功飛長も戦死。
2月11日
船本幸雄飛長、戦死。詳細不明。
2月16日
米機動部隊艦載機が関東一円に初来襲。各航空隊より戦闘機が発進、邀撃作戦を展開する。茂原より戦闘308も戦闘311と共に出撃するが、接敵情報が乱れたため発進が遅れ劣位戦となり木次亮中尉、松下武男一飛曹、安井輝治二飛曹、井尻慶三飛長の4名の未帰還者を出す。西岡義春飛長機、被弾し霞ヶ浦基地に不時着。栗栖正友飛長機、被弾、陸軍水戸飛行場に不時着。黒木順一飛長機、被弾炎上、火傷を負いながらも落下傘降下する。西岡孝二飛曹機、九十九里浜上空にて被弾、浜辺に不時着する。
硫黄島派遣隊の濱野満澄上飛曹は、硫黄島への米軍上陸舟艇への反復攻撃を行い、巡洋艦に対しても銃撃を加え誘爆撃沈させた後、敵戦闘機と交戦、戦死。全軍布告、2階級特進。
2月17日
前日同様、邀撃戦に出撃する。詳細不明。
2月19日
戦闘308飛行隊は茂原基地から香取基地に移動する。
2月20日
戦闘308は、252空から601空所属となる。司令は、杉山利一大佐で副長は、吉富寛二中佐。
3月11日
記録には三輪英夫飛長、戦闘308にて戦死とあるが実際にはカロリン方面に梓特別攻撃隊として出撃し、戦死している。
3月16日
硫黄島派遣隊、田島進吾二飛曹戦死。
3月20日
戦闘308、香取基地から百里原基地に移動。
[写真:戦闘第308飛行隊、集合写真(百里原基地)
開戦以来のベテラン、松山英二少尉、岡部健二飛曹長、
吉田一平上飛曹の姿がある。]
3月28日
戦闘308を含む601空の主兵力に九州・第1国分基地への移動命令が出される。
発進準備中の攻撃第1飛行隊の彗星が機銃の試動で誤射をし、尾部タンク被弾、炎上。搭載中の500キロ爆弾が誘爆し、消火活動中の整備兵や搭乗員ら16名が殉職、10数名が負傷する。そのため国分進出は、1日延期となる。
3月29日
601空戦闘308、戦闘310の零戦、44機が発進。天候不良のため21機引き返す。18機、明治基地不時着。2機、陸軍明野飛行場不時着。1機、陸軍横芝飛行場不時着。1機、明石基地不時着。1機、豊橋基地不時着。
3月30日
前日、各地に不時着の零戦、国分に向け前進する。
百里原、21機発進、うち19機明治基地着。1機、百里原に引き返す。1機、厚木基地不時着大破。杉山司令、輸送機に便乗し、整備員らとともに百里原を出発する。
3月31日
各地に不時着の零戦、国分に向かう。そのうち20機到着する。
[写真:第1国分基地に進出中、岡山陸軍飛行場に不時着した栗栖 飛長]
3月末〜4月上旬
百里原に残存の戦闘308の兵力は、百里原及び香取基地において錬成及び防空任務に就く。
4月1日
百里原から国分派遣の戦闘308、310の零戦、44機のうち38機が移動を完了する。
4月3日
菊水部隊天信電令作第38号が発令される。沖縄攻略中、及び沖縄近海に展開する米機動部隊を掃討するための攻撃隊が601空からも編成される。戦闘308、戦闘310から32機が出撃、奄美大島と喜界島の中間で米軍機約30機(戦爆連合)を発見、交戦する。未帰還8機。戦果10機撃墜。戦闘308からは、清水真大尉、中谷竜上飛曹、山崎省平飛長の3名が未帰還、戦死者を出す。
午後4時48分、菊水1号作戦が発令される。
4月6日
菊水1号作戦が発動され、第1国分基地より210空の第1次機動部隊攻撃隊が出撃する。発進に際して、上空哨戒のため戦闘308と戦闘310の零戦8機が発進する。
松本勝久二飛曹、千葉県上空にて錬成訓練中、僚機と接触し墜落。殉職する。
4月7日
特攻隊として601空攻撃第1飛行隊の彗星11機が第1国分より発進、戦闘308と戦闘310の零戦28機が制空隊として出撃する。途中、天候不良のため制空隊は引き返す。戦闘310の零戦1機、未帰還となる。
百里原基地に残留の戦闘308、戦闘310のうち12機がB―29、P−51の邀撃に出撃。銚子上空にて交戦し、戦闘308の石田哲也飛長と西岡義春飛長がほぼ同時にB−29に対する直上方攻撃を敢行中。石田機が1機に空中衝突、撃墜にいたる。石田飛長は落下傘降下するも重傷、10日に戦傷死。B−29搭乗員の、落下傘降下が西岡飛長によって確認されている。
4月8日
戦闘308、第1国分基地から攻撃のため発進。詳細不明。途中、引き返す。
4月9日
戦闘308、機動部隊攻撃のため第1国分基地から出撃。詳細不明。
4月10日
戦闘308、第1国分基地から攻撃のため発進。詳細不明。途中、引き返す。
4月11日
戦闘308、戦闘310所属の4機の零戦が第3御盾601部隊として爆装で特攻出撃する。喜界島南方でF6F群と交戦、安田卓郎二飛曹(S308)と平賀左門二飛曹(S310)が戦死、桂正中尉(S308)が徳之島陸軍飛行場に不時着、機体が転覆し重傷を負う。1機は、喜界島に不時着。
制空隊として戦闘308、戦闘310の零戦22機が第1国分を発進。喜界島上空でF6F群と交戦後、帰投する。戦闘310の1機が未帰還となる。
[写真:西岡義春氏]
4月12日
菊水2号作戦が発動される。
制空隊として戦闘308、戦闘310の零戦20機、出撃するも整備不良機多く、引き返しが相次ぐ。出撃取止めとなる。
4月14日
制空隊として戦闘308、戦闘310の零戦15機が発進する。うち2機が発進時、接触事故を起こし1人は代機で発進、1人は発進せず。全機、敵を見ず帰投。
4月15日
菊水3号作戦が発令される。
翌日に控えた菊水3号作戦の予備作戦として、すでに米軍に制圧されている沖縄中飛行場への機銃攻撃隊が編成される。戦闘308から3人、戦闘310から1人が出撃する。指揮官、岸忍中尉(S308)と3番機、田中克次郎飛長(S308)が未帰還となり、梅林義輝上飛曹(S310)と浪松政吾飛長は、沖縄上空でF6F、約10機と交戦、徳之島陸軍飛行場に不時着。この銃撃隊、4機の出撃に際しては通常の出撃として送り出されたが、後に第3御盾601部隊として扱われ特攻隊として記録された。
百里原基地からの零戦16機(S308、S310)が第1国分基地に到着する。
4月16日
菊水3号作戦が発動される。
戦闘308、戦闘310の零戦28機が制空隊として出撃する。指揮を戦闘308隊長平田大尉が執り、第1国分を発進、喜界島と奄美大島間においてF6F12機、F4U6機と交戦。F6F3機撃墜、F4U1機撃。戦闘308の近田鋭夫二飛曹、小池昭夫二飛曹と戦闘310の奥海真中尉が未帰還となる。
4月17日
制空隊として戦闘308、戦闘310の零戦16機が出撃。奄美大島上空にてF6F、F4U群と遭遇、252空戦闘機隊が交戦し、601空戦闘機隊は上空支援となった。戦闘308の岸田善藤二飛曹機が奄美大島上空付近で編隊から離脱、未帰還となる。
第3御盾601部隊として爆装零戦隊4機が特攻出撃する。2番機故障発進せず、3番機エンジン不調引き返す。奄美上空にて4番機が薄く煙を吐きつつ1番機から離脱して行く。1番機は喜界島沖でF4U2機の追撃を受け、爆弾を投棄、反撃し1機に損害を与える。その後、喜界島基地に不時着。4番機の佐藤一志二飛曹(S308)は未帰還となる。
4月20日
戦闘308、鹿児島上空にてB−29邀撃戦。
4月21日
戦闘308、機動部隊攻撃に出撃するも引き返す。詳細不明。
4月22日
戦闘308、機動部隊攻撃に出撃するも引き返す。詳細不明。
4月24日
フィリピンに残留していた海軍航空隊搭乗員、または消息不明者はこの日をもって玉砕したものとして戦死認定された。その中には、以下の旧221空戦闘第308飛行隊の搭乗員も含まれていた。船戸巌一飛曹、梶山舗喜男二飛曹、佐川一雄二飛曹、伊沢光男二飛曹。
4月26日
戦闘308、鹿児島上空にてB−29邀撃戦。
4月27日
戦闘308、鹿児島上空にてB−29邀撃戦。桜島上空にて哨戒中の広瀬武夫大尉機と栗栖正友飛長機がB−29を志布志湾上空に発見、攻撃をするも隊長機が被弾し人吉基地に不時着する。
戦闘308、戦闘310は第1国分から第2国分基地に移動する。
4月28日
成島敏夫一飛曹、戦死。詳細不明。
4月下旬〜5月上旬
第1、第2国分基地に進出中の601空戦闘機隊は、百里原基地に復帰する。菊水作戦によって機数が減少したため搭乗員の移動は、輸送機か汽車に頼ることが多かった。
[写真:鹿児島から百里原に汽車にて移動中のS308、S310、K1の隊員たち](京都、都ホテルにて宿泊した際、女優の花柳小菊や映画関係者らとともに記念撮影したもの)
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