南溟の彼方に



【マヌス島】


これは、昭和19年10月1日、南溟の彼方に果てた私の大叔父の話です。

大叔父は、大正11年2月28日、農家の長男として和歌山に生まれました。
地元小学校高等科を卒業した後は、両親を助けて農事に精励する傍ら青年学校に通い昭和16年3月に卒業、引き続き研究科に入学、翌年3月に卒業しました。この間、銃剣術を精錬し、代表選手として度々他府県の競技大会に出場、紀州健児の意気を発揮して、数々の表彰を得たそうです。

日常の彼は優しい性格で、真面目な青年だったといいます。
殊に朝起きのよいことは近隣の評判だったほどで、家業によく従事し、秋の農繁期などは未明に起きて牛を連れ、朝食時までに一反歩位を耕すのが常でした。
優しい性格の彼は自分の間食の一部を割いてまで牛に与えていたので、牛もまた良く懐いて田畑を耕したというエピソードが残っています。

やがて、兵役検査に乙種合格(身長が低かった為)し、応召兵として昭和18年5月1日、呉海兵団に入団しました。
同月31日には、上海に渡り、上海海軍特別陸戦隊コ北部隊に入隊、猛訓練の日々を送ったそうです。

その後、艦艇勤務などを経て、昭和19年、第88警備隊として南方のアドミラルティ諸島マヌス島に進出しました。
9月、実家に届いた一通の軍事郵便(横須賀局気付ウノ一〇五ウノ一九四)は南方から届いた最後の便りとなりました。
そこには、輸送船中で同郷の和歌山出身の大崎安児海軍大佐(海兵39期:予備役から応召)と偶然出会った話が記されていました。
乗艦者名簿に同郷出身の大叔父の名があるのを偶然発見した大佐が彼を個室に招き食事を饗応してくれたこと、郷里の話に花を咲かせたことなどが綴られていました。そして、大佐が帰郷された折には、くれぐれもお礼を言っておいて下さいと申し添えられていました。
それ以降、ついに便りが来ることはありませんでした。

久しく経ってから、大叔父の手紙にあった大崎大佐が郷里に帰って来たことを知った曾祖父は手紙の通りにお礼方々、大佐の自宅を訪ねました。
ところが、大崎大佐は「戦地で坂上君とは会ったことは一度もない。」と言い張り、更に曾祖父がその後の息子の消息を何度尋ねても「知らない。」と繰り返すだけでした。
曾祖父は狐につままれたような気持ちで帰宅したと言います。

それから間もなく、終戦となりました。

戦後のある日、大崎大佐が坂上家を訪ねてきたそうです。
「私は嘘をついていた。戦時中は、すべて秘匿事項だったので何も言えんかったが、戦争が終わった今、これ以上隠す必要もないので坂上君のことをお話ししましょう。」と言うことでした。

そして、南方へ向かう艦中で偶然に大叔父と出会ったこと、郷里の懐かしい思い出話に花を咲かせたこと、「しっかりやって来いよ」と見送ったことなどを語り始めたそうです。
大崎大佐の話によれば、当時は既にほぼ米軍の占領下にあったマヌス島に再上陸を試みようとする日本軍の作戦遂行のため増派された海軍第88警備隊員として、大叔父はマヌス島に派遣されロレンガウ方面の戦いで上陸舟艇に乗組み、敵前上陸を敢行中、米軍の直撃弾を受け戦死したということでした。




田舎農家の長男として生まれ育った大叔父は、郷里から遥かに離れた南溟の彼方に海軍兵として最期を迎えました。
ちょうど稲穂が実る刈入れの季節、懐かしい紀州の田畑の光景を思い出していたことでしょう。また、優しい性格だった彼は、郷里に残した両親、兄弟姉妹のことをひと時も忘れたことはなかったでしょう。
彼が最期にどのような思いで南溟に果てたのかと思うと、切なさを感じずにはいられません。

記録にも残らぬ戦いで、祖国のため、故郷のためにと南溟に散った大叔父の純真な思いを胸に刻み、ただひたすらに冥福を祈るのみです。
どうか、とこしえに安らかなれ。



昭和19年10月1日
海軍第八十八警備隊としてアドミラルティ諸島マヌス島ロレンガウに於いて戦死
海軍上等水兵 坂上尚雄  享年23歳






〔マヌス島方面戦闘概略〕

昭和18年、日本軍はニューギニアとニューブリテン島方面の防衛強化のため急遽マヌス島に第二のラバウルを建設する方針を採る。

昭和18年4月8日、アドミラルティ諸島マヌス島及びロスネグロス島に陸軍輜重51連隊約850名を派遣し、飛行場設営を開始する。

昭和18年12月、マヌス島ロレンガウに海軍第八八警備隊、第三六防空隊など1140名の海軍部隊を派遣する。

昭和19年1月25日からは、ロスネグロス島ハインにも陸軍独立混成第一連隊第二大隊や第二二九連隊第一大隊などが増派され、これでマヌス島方面の守備兵力は陸海含めて3755名となる。

昭和19年2月29日、米軍はフィリピン攻略の足掛かりとするためアドミラルティ諸島ロスネグロス島に第六軍を主力として進攻を開始した。それは、陸海空を合わせて45000名から成る大部隊だった。

続いて3月8日、マヌス島にも米軍は上陸を開始、日本軍は夜襲などで迎撃するが圧倒される兵力の前に消耗戦を強いられ、3月27日、ロスネグロス島守備隊はマヌス島への撤退を余儀なくされた。

兵器兵員の不足、食料の不足など劣悪な環境下で善戦したが、遂に5月6日、玉砕に至る。


その後、日本軍は戦略上、マヌス島は捨て難いとして再上陸作戦を試みるが失敗に終わる。