蒼空の記憶

「戦いの日々」



本田 稔 氏

略歴
第5期甲種飛行予科練習生卒業
22航戦司令部付戦闘機隊(山田部隊)〜鹿屋航空隊戦闘機隊
〜第253航空隊〜大分航空隊〜第361航空隊戦闘第407飛行隊
〜第343航空隊戦闘第407飛行隊〜終戦




 本田氏が実戦部隊に着任したのは、昭和17年4月のことであった。

 「私が初めて零戦に乗ったのは、サイゴンでした。それまで95時間の飛行時間しかなかった私にとっては、実に操縦がしやすい戦闘機という印象でしたね。」

と初めての零戦の操縦体験を回顧する。

 そして、すぐに本田氏に専用の搭乗機が割り当てられたのもこの時期であった。

 「これがお前の専用機だから大事にしろって言われて受け取ったのが、『報國祗園四号』だったんです。こいつには本当に助けられましたね。戦時中で一番長く乗った愛機ですよ。」

 その後、本田氏はこの祗園四号と共に度重なる実戦を経験して行くこととなるのだが、最初のころは操縦や空戦で失敗することが多かったという。

 「操縦に慣れんころは、着陸にてこずって何回もやり直したり、オーバーランしたりと最初はよく失敗しましたね。」
 「初の空戦では、バッファロー相手に優位から攻撃して、全弾撃ち尽くしても1発もあ たらなかったんですよ。舞い上がっちゃって冷静な判断ができなかったんですなあ 。」
苦い経験を振り返りながら本田氏は語る。

 「いざ戦場に行ってみて分かったんですが、戦を経験している者といない者とでは、大きな違いがありましたね。でもその違いは、戦を経験した者じゃないと分からないんですよ。私もそれが少しずつ分かっていきましたね。『違い』というのは、なにも技量の差だけじゃなくてモノの考え方や気持ち、覚悟という精神面での違いが大きかったと思いますね。」

 本田氏は淡々と語りながら、そんな当時を回想した。

 「戦争末期に特攻という言葉が使われ始めましたが、私はすべての出撃が特別攻撃だという考えを持っていましたね。どんな形であろうと出撃すれば常に死と隣りあわせなんですから。いつでも命懸けですよ。」

 しかし、一方で本田氏はある信念を持ち続けていたという。

 「私は、どんな窮地でも死なないという信念を持ち続けました。確かに毎日が命懸けの戦闘でしたが、『死』を覚悟したことはなかったですね。」

 また、本田氏はその信念を体現化したような空戦法を徹底し率先していた。

 「空戦には、主に優位戦、同位戦、劣位戦の3つがあるんですが、一番良いのが優位戦です。その次は、同位戦。最悪 なのが相手よりも下方にいる劣位戦なんですが、結構それが多かったんですよ。でもそんな時でも私は、できるだけ敵に 機首をむけて正面で相対する形で突っ込んでいきました。相手が避けなければ、もちろん正面衝突か相討ちですが、少しでも敵が機首をそらしたら攻撃の好機なんですよ。その時に20ミリが1発でも当たれば、それで十分なんです。」
 「でも逃げなきゃならん時は、逃げますよ。その判断を間違うと落とされますからね。」

 どのような状況下でも敵と相対する時は、『自分は絶対に敵の正面を捉えて離さない』そして、『敵は必ず機首を反らす』という強い自信のもと常にこの戦法を試みた結果、今の自分があるという。

 それほどまでに自信と信念をもってして戦場にあった本田氏ではあったが、その反面、恐怖を感じることも少なくなかったという。

 「『死ぬ』ということは考えなかったが、戦いで恐怖心が無かったかというとウソになる。口には出さないが、みんなそうだったんじゃないかなあ。」

 それは、『死』を恐れず戦ったのではなく、『死なない』という信念のもとに戦った本田氏の正直な気持ちを表現している言葉のように思える。更に本田氏は、当時の日々の心境を次のように語る。

 「私はアメリカが心底憎いと思ったことはないですね。でも戦場では、敵を落とさないと落とされるんですよ。自分が生きるために戦うんです。それが戦争なんです。」

 そんな本田氏も1度だけ仏心を感じたことがあったという。

 「戦場で敵を落とす時、ためらうことはなかったんですがね、戦争末期に1度だけためらったことがあるんですよ。」

 それは、昭和20年の343航空隊時代、紫電改を駆っての豊後水道上空戦時のことである。

 「敵機を捉えて撃とうとした瞬間、搭乗員の頭がチラッと見えたんです。私の方は、撃てば確実に撃墜できるという態勢だったんですが、一瞬ためらいましたね。『今、俺が撃てばこの搭乗員は死んでしまうのか。』っていう気持ちになったんです。あんなのは初めてでしたね。」

 「搭乗員は、仏心が出てくると危ないって言われてたから、私もぼちぼち危なかったんじゃないですかね。」

 そう語る本田氏にそれから間もなくして、遂に「死」を覚悟する場面が訪れた。

 「あれは確か8月12日でしたね。源田司令に呼ばれて『次のB−29は絶対に落とさんといかん。俺が上るから、本田、お前は2番機をやってくれ。』って告げられたんです。」

 その内容は『次のB−29』、つまり単機で進入する原爆搭載機に体当たり攻撃を敢行し、第三の広島・長崎を阻止するというものであった。

 それまで特攻には否定的であった本田氏だが、こればかりは『死』を覚悟したという。

 「たまたま紫電改の空輸中に原爆投下直後の広島上空を飛んで、新型爆弾の脅威的な威力を目の当たりにしましたね。そのあとの長崎が投下された時は、大村にいて海軍病院の方に救援活動に行ったんですが、あまりにも無惨な光景を見ていましたから、もう次は体当たりしてでも阻止せんといかんと思いましたよ。」

 この体当たり攻撃隊は、爆装をせずに出撃するもので1番機を源田實司令、2番機を本田稔少尉という2機で編成されたが、3日後に終戦となり遂に出撃の機会がなかった。

 「この話は戦後、あまり語らなかったんですが、そんなこともあったんですよ。だから、もう少し戦争が長引いてれば、今の私はなかったでしょうね。」

そう言うと最後に本田氏は、

 「私にとって戦場での経験は、僅か3年余りですが人生の中で一番、記憶に残る期間ですね。でもその間に、華々しい戦果や自慢できる話はひとつもありませんよ。」

と穏やかな面持ちで語った。


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