蒼空の記憶

「甲飛の友」



高橋 賢三 氏



略歴
第2期甲種飛行予科練習生(偵察)卒業
東港航空隊〜第851航空隊〜
佐世保航空隊〜第2022航空隊
〜終戦





 医者の家系に生まれた高橋氏は、周囲の期待に反して海軍を志願、入隊したのは昭和13年4月のことだった。しかし、そんな高橋氏ではあったが当初は医者の道に進むことも考え、甲種飛行予科練習生の受験と並行して大学受験の準備もしていたと言う。

 「当時、甲飛っていうのは出来たてホヤホヤでよくは分からんかったけどとにかく、飛行機に乗れる、進級が早い、途中から民間航空のパイロットに転出できるらしいって言うフレコミを聞いたんで、物珍しさに受けてみようかっていう具合でね、まあ興味をそそられたわけですな。」

 そして、いざ受験のため上京した折りに千葉にいる伯父のもとを訪ねた。
 「伯父は、たまたま陸軍のパイロットだったんで上京のついでに訪ねると『飛行機に乗せてやる』って言うもんで驚きました。でもこんな機会は、めったにないと思って喜んで乗せてもらいました。」
 「もちろん飛行機に乗るってのは初めてだったけど、乗ってみるとこんなに気持ちが良くて、快適な乗り物があったのかと驚きました。その時に『俺の進む道は、飛行機乗りだ』って決めたんです。若いときは、単純ですなあ。」

 結局、この生まれて初めての飛行機搭乗体験が、それまで曖昧だった予科練への思いを強い憧れに変え、後日の受験にも見事合格し、海軍搭乗員としての第一歩を踏み出す事になった。

 やがて、憧れの甲種飛行予科練習生として横須賀航空隊に入隊した高橋氏は、厳しい訓練、教育を通じて海軍々人としての基礎を徹底的に身に付けていくという日々を送った。

 そんな中で記憶に残るのが、乙飛と甲飛との確執、衝突という苦い経験であった。
 「もともと海軍の少年飛行兵っていうのは乙飛しかなかったのに、そこへもうひとつ少年飛行兵の養成コースをつくるもんだからややこしくなってきたんですな。」
 「そこへ来て、先にあるものを乙飛、あとにできたものを甲飛なんて呼び方したから余計にややこしくなってしまったんですよ。」

 当時、飛行予科練習生として入隊した甲飛生たちであったが、同じ横須賀航空隊には伝統ある雄飛と呼ばれる乙飛生たちが存在し、微妙な距離と関係で向き合う状況となった。
 「乙飛は鉄筋の兵舎で、甲飛は木造の仮兵舎。」
 「食卓順も乙飛が先で、甲飛があと。とにかくね我々甲飛は、間借りしているような雰囲気でしたね。」

 そんな高橋氏が、鮮明に記憶する悔しいエピソードがあった。それは、昭和12年に結ばれた日独伊防共協定を祝して来日したナチスの親衛隊ヒトラー・ユーゲントの青年兵らを迎える交歓会が横須賀航空隊で催された際の出来事であった。当初は、甲飛生もそれに出席できると聞かされていたにも関わらず、直前になって乙飛は出席で甲飛は欠席ということになり交歓会を楽しみにしていた甲飛生一同が落胆し、悔しい思いをしたという。
 「もともと甲飛は出席できなかったのか、急にダメになったのか知らんが私たち甲飛にとれば惨めで悔しかったですよ。」
 「特に亀井なんかは憤慨しとったね。彼はアメリカ生まれで英語が達者だったから交歓会でドイツの若い連中と話しできるのを本当に楽しみにしていたもんだから、可哀想だったなあ。」

 亀井とは、後の南太平洋海戦で戦死した瑞鶴搭乗員の亀井富雄上飛曹のことで当時の憤慨ぶりは並々ならぬものがあったようである。

 しかし、そのような折に甲飛生らは思いもかけなかった支那事変への従軍という貴重な体験を得ることになった。それは、たまたま艦隊実習のために乗り組んでいた艦艇が、航海中に勃発した支那事変にそのまま参加したため、偶然に乗り合わせていた甲飛生たちも従軍した形になり事後、従軍記章が授与されるに至ったのである。もちろん、この際に授与された従軍記章は甲飛2期生たちにとっては大きな励みとなり、同時に誇りとなった。

 「甲より乙と言われた当時、乙より先に従軍記章を胸に佩用できるってのは本当に誇らしいことだった。」
と、高橋氏は当時の喜びを回想する。
 「でも今にして思えば、乙飛は良きライバルで良き競争相手だったね。お互いに切磋琢磨できてよかったかも知れないな。今になればいい思い出ですよ。」

 戦後久しくなった今日もなお、青春時代を捧げた予科練での思い出を記憶に深く留める高橋氏はそう言うと、一冊の本を手に取って淋しげに、
 「この本を見つけた時、周りの者からは、『親友のお前が来たんで、西開地が顔を出してきたんだよ。』って言われたねえ。」

 それは、以前に慰霊で訪れたハワイで偶然に立ち寄った書店での出来事だった。書棚に並ぶ本の中の一冊に目が留まった高橋氏は、迷わずそれを手にしレジへと運んだという。

 『西開地』とは、空母飛龍搭乗員として真珠湾攻撃に参加した帰途、ニイハウ島に不時着して地元住民らと交戦々死した同期生の西開地重徳一飛曹のことであった

 「予科練では、こいつとは特に仲が良くってねえ、しょっちゅう遊んだなあ。いつも元気なヤツだった。」
と表紙にある西開地一飛曹の写真にむかって、まるで語りかけているかのように話す親友、高橋氏の姿があった。


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