2、愛されてるねぇ
仕事で情報提供してもらった人に、見返りとして飯代と酒代をもつことを求められ、繁華街に向かう途中通りかかった夕暮れの商店街で、ばったりと呉美由紀嬢に出会ってしまった。 出会ってしまったと云っても、何も僕が美由紀ちゃんに出会ってしまったことが厭なわけではない。絶対にない。 ただ、僕の隣にいる情報提供者というのが、青少年の健全育成の観点から決して好ましからざる人物だったので、少しばかり、しまった、と思っただけだ。 しまった、と思ったときにはもう、美由紀ちゃんもこちらを見つけて、ぺこりと挨拶してくれてしまっていた。 そして顔を上げて、僕の隣にいる人物を、少し不審そうに見た。 まあ当然だろう。 何しろ、この情報提供人の格好ときたら、派手なアロハシャツに幅の広めな襟の付いた上着を肩に引っ掛け、金縁の眼鏡を掛けている。暴力団関係者というには迫力と血生臭さに欠けるが、せいぜい好意的に見たところでテキ屋のおっさんだ。 出会ってしまったものはしょうがない。そのまま通り過ぎるのも余計に変だし、この人間が決して僕の友人なんかではないことを美由紀嬢に対して明らかにしておくことにした。 「やあ、美由紀ちゃん、お買い物? あ、でも……」 違うか、と思い直したのは、彼女が小脇にスケッチブックを抱えていたからで、わざわざそんなものを持って買い物に出る女の子はいないだろう。 しかし美由紀ちゃんはあっさりと、はい、と答えた。それから 「益山さんはお仕事ですか?」 と訊きながら、ちらりと僕の隣に目をやる。 仕事と思ってくれるなら話は早い。 「そうなんだ。ちょっと知りたいことがあって、この人にお願いしたんだ。こちら、榎木津さんの御友人の司喜久男さん」 「探偵さんの?」 美由紀ちゃんは目を丸くして、改めて僕の隣の司さんを見た。 確かに、探偵の周辺には見るからに妙な人が多いが、それにしたって元華族の御曹司の御友人としては異色にも程があるだろう、この司氏は。 一体本業は何なのか、僕はいまだに怖くてちゃんと確認したことはない。 ただ、いわゆる裏社会の情報に通じていることは確かで、自分では直接手の出せない部分に関しての情報を手っ取り早く入手したいときには便利な人だ。 今回の仕事──といっても、娘の結婚相手の素行調査というありがちな依頼だったのだが──で調べていた相手が、どうもあまり宜しくない人間と付き合いがあるようだということが判ってしまった。その宜しくない人間というのが単なるその辺のチンピラ風情ならいいのだが、そうではない。一見普通の人間なのだが、どうも胡散臭い。そういう人間の尻尾は掴みにくい。司さんなら何か知っているのではないかと思い付いたのが一昨日のことだった。 とは云え、僕は司さんの連絡先など知らないから、駄目元で榎木津さんに恐る恐るお伺いを立ててみた。 すると、案の定片眉をぴくりと上げて、「下僕がお願い?」と不機嫌そうに返され、さんざん罵倒された挙げ句に、それでも御自ら司氏に連絡を取ってくれたのだ。 頼んでおいて何だが、珍しいこともあるものだと思ったのが昨日のことだ。 そして今日先程司さん指定の場所に赴き、榎木津さんが話を通しておいてくれたお陰で滞りなく情報を頂いて、その情報料を支払うべく、飲み屋へと向かうところだったのだ。 僕の紹介に司さんは軽薄そうなへらへらとした笑顔を浮かべて、美由紀ちゃんに話しかけた。 「司です、宜しくね。呼ぶなら喜久さんでいいよ。君は名前なんて云うの?」 「呉美由紀です」 凄い。司さんに顔を覗き込まれても気味悪そうな表情も見せないし、後ろへよけるでもない。この歳でこの度胸の据わりっぷりはむしろ問題があるのじゃないだろうか。 持って生まれた性格もあるのだろうが、やはり我が雇い主の悪影響もあるのではないかと、今さらながら心配になる。 「美由紀ちゃんて云うんだあ。何、エヅ公や益田ちゃんの知り合いなの?」 「エヅ?」 「ああ、あの探偵のこと。榎木津のエヅ」 美由紀ちゃんはそれを聞いてぷっと噴き出しかけて、手で口元を覆った。 「はい。前にちょっと……事件でお世話になって……今もお邪魔してきたところなんです」 「そうなんだあ。おうちこの辺なの?」 「いえ、学校の寮に入ってるんです。買いたい物があって、ちょっと足を伸ばしたんです」 「へえ。あ、ねえねえ、もしかして、今日エヅんとこに行くのって、前々から約束してあったんじゃない?」 「? そうですけど?」 「やあっぱりねえ。どうりであいつ、益田ちゃんに協力するのはいいけど、ぜーったい事務所に来んなって云ったんだよう。屹度僕を美由紀ちゃんに会わせたくなかったんだよ。酷いよねえ、もう結構付き合い長いのにさあ。美由紀ちゃんもそう思うでしょう?」 「は、はあ……」 美由紀ちゃんは返事に困っていた。それはそうだろう。 僕は司さんに云われてなるほどと思い至った。要するに、下手に僕が司さんを事務所に呼んだりしたら困るから、珍しく下僕に御親切下さったというわけか。 一応あの人も美由紀ちゃんの教育的環境は考えていたんだな。 あ、じゃあ、この展開は僕が怒られるじゃないか。偶然会ったなんて関係ないんだ、あの人にかかったら。隠すことは不可能だし、絶対僕のせいにされて、何のために段取り付けてやったと思ってるんだこのバカオロカスペシャル、恩を仇で返すとはこのことだ! とか云って罵倒されるんだ。 「買い物ってそのスケッチブック? それにしてはなんだかさあ」 「いえ、これは……」 美由紀ちゃんはなぜかちょっと困ったような顔をして言葉を濁した。 「美術の課題が出ていて絵の具を、あ!」 「ちょ、ちょっと司さん!」 あろう事か司さんが、美由紀ちゃんが抱え込んでいたスケッチブックをするりと抜き取ってしまったのだ。 「ふうん。なるほどねえ」 ぱらぱらとめくって、にやにやしながら見ている。 「何、エヅってば、真面目に画家デビューでもする気になったの?」 「いえ、だからその美術の課題の話をしていて……うまくいかないものだから探偵さんに見てもらおうと思ったんですけど……」 「ああ、じゃあ、こっちの猫の絵は美由紀ちゃんが描いたの?」 「は、はい……」 美由紀ちゃんは真っ赤になって俯いてしまった。 「それで、どういう話の流れでそうなったのか、もうわたしにもさっぱり思い出せないんですけど、気が付いたらそういうことになっていて……」 「思い出せないっていうか、訳の解らない飛躍した理屈で言いくるめられたんだろう?」 司さんが面白そうに云った。さすがに榎木津さんのことを能く知っている。 「まあ……。で、でも、それ全然違いますよね? わたしは緊張して顔が強ばってて、探偵さんはそれをずっと 何やら美由紀ちゃんが必死に言い訳するのを不審に思い、申し訳ないけれど野次馬根性がむくむくと湧いて抑えきれず、僕は司さんの横からそっとスケッチブックを覗き込んだ。 そこには、司さんの言い草から察するに、榎木津さん自らが描いたと思われる美由紀ちゃんの肖像があった。 鉛筆でラフに描いてあるにもかかわらず、それは僕には、似顔絵というより立派に肖像画に見えた。 ただ単に似ているとか、噂は聞いていたけど本当に大した腕前だったんだとか、そういう驚きよりも、そこに描かれた美由紀ちゃんの顔そのものが、とても新鮮に思えた。 僕は、こんな表情をした美由紀ちゃんを見たことがない。 天真爛漫な、弾けるような笑顔。 あんな凄惨な事件を経験したからなのか、僕たちと会うときは周りが大人ばかりだから背伸びしているのか、むろん年相応の可愛らしさがないわけではないが、どちらかと云えば、やはり同じ年頃の少女たちよりは大人びた印象を持っていた。 でも屹度本当は、こんな無垢な笑顔のできる子だったんだ。 榎木津さんには、こんな表情を見せるのだろうか。 榎木津さんはそれを美由紀ちゃん本人に見せてあげたかったのだろうか。 ぼんやりとそんなことを思っていたら 「愛されてるねぇ」 司さんが、何だか歌うように云った。 顔を上げると、美由紀ちゃんは目を瞠って司さんを見詰めた後、頬を赤らめてまた俯いてしまった。 けれどそこにはさっきのようないたたまれない恥ずかしさではなく、どこか満足そうな笑みが浮かんでいた。 「はい、これ、大事にしなよね。あ、云うまでもないかあ、そんなこと」 揶揄うように云いながら、やっと司さんはスケッチブックを美由紀ちゃんに返した。 「はい。ありがとうございます」 いや、美由紀ちゃん、そこはお礼云うところじゃないだろう。勝手に取られて勝手に見られたんだから。 「じゃあ、益田ちゃん、行こうか」 促されて、僕は美由紀ちゃんに手を振って別れを告げた。 あの笑顔を見せる美由紀ちゃん。 あの笑顔を描ける榎木津さん。 ──愛されてるねぇ……。 あれは、どちらに向けて云った言葉だったのだろう。 そんなどうでもいいことを思いながら僕は、ああ、もしかしたらあの絵を見たことで、榎木津さんの罵言が少しは弱まるかもしれないなあ、などと儚い期待を抱いていた。 |
誰が、誰に? ちょっと遠回りな愛の表明を書いてみました(つもり)。 言い訳は長くなるので日記にて。 |