Blind but I see



 雑踏の中、僕ははたと足を止めた。
 まずい。
 さすがの僕もこれはちょっとまずいぞ。
 ここが神田の街だったら大した問題ではなかった。多分歩いて帰れるだろう。
 ここが中野でも何とかなっただろう。回れ右して馬鹿本屋のところに戻るぐらい、目を瞑っていてもできる。
 だが、生憎ここは新宿だ。さっき一緒に食事をした友人は、今頃はもう何処に行ってしまったか判ったものではない。
 こうなったら誰彼構わず呼び止めて事務所に電話してもらおうか。どこかこの辺の店に自分で飛び込んだほうが早いだろうか。
 そう思って周囲を見渡したものの、僕はすぐに天を仰いだ。
 駄目だ。 
 気持ち悪い。
 何年たっても、こういう状況にだけはいまだに慣れない。
 だけど動かなければ。
 こんな所で立ち往生しているのは僕の趣味に合わない。
 もっとも、電話して誰かが迎えに来てくれるのをただじっと待ってるなんていうのも性に合わない。
 もしかしたら、誰も、来ないかもしれないものを、待ってるなんていうのは。
 とにかく動かなければ。自力で歩いて帰るか、誰かに電話してもらうか二つに一つだ。
 覚悟を決めて視線を水平に戻したとき、
「探偵さん?」
 善く知っている声が正面から聴こえた。凝乎と目を凝らしてみる。間違いない。
「何してるんですか? こんなところで」
 訝しむような声。それでも呆れたり馬鹿にしたりしないのが彼女のいいところだ。
「君はなぜここにいるの? 女学生君」
「学校の友達の家に招ばれてたんです。今寮に帰るところだったんですけど……」
「そうか。じゃあ僕と一緒だね。それは善かった」
 僕は一気に上機嫌になった。
 あの理屈っぽい神主が云うには、世の中は凡て偶然で出来ているそうだ。僕もそう思う。そして自分にとって都合のいい偶然に対してだけ、人は必然だの運命だのという呼称を付ける。
 それならば今のこの偶然は僕にとって最高に運命的出逢いというわけだ。
 だというのに、女学生君は全然解っていない。多分まだ怪訝な顔で僕を見上げているに違いない。
「善かったんですか?」
「善かったのだ。あのね、僕もちょうど友達と会って、今帰るところなんだよ」
「あ、それでわたしと一緒ってことなんですね」
「そうそう。それでね、ここまで来たら急に目が見えなくなってしまって困っていたのだ。君も帰るところなら丁度いい。神田まで連れていってくれる?」
「えええ〜〜!? な、それ、ど、ど……」
 何だこの反応は。いつも言語明瞭な女学生君らしくもない。
「み、見えなくなったってどういうことですか!」
 何が解らないというのだ。僕は至極端的に適切に現状説明をしたというのに。可愛い女学生にこんなことは云いたくないが、少し理解力に劣るのではないか。
「見えなくなったとは視界が暗いということだ。視覚による現状認識が不可能ということだ」
「そんなこと訊いてるんじゃありません!」
 今度は怒っている。何だと云うのだ。
「ほんとに見えないんですか?」
「僕は嘘なんかつかないぞ!」
 目の前に何か動く気配がした。確かめているのか。僕はそんなに信用がなかったのか? 秘かにちょっと傷つくぞ。
「真っ暗なんですか?」
 今度は気遣うような声。
「ここは人が多いから真っ暗じゃないね」
 いっそ真っ暗になってくれたら善いのにね。そんな覚悟ならとっくにしていたし、僕はとても勘が良いから、たいして困ることもないだろう。車の運転ができなくなる程度のことだ。
「連れていってくれる?」
 もう一度訊いて、僕は右手を差し出す。
 返事の代わりに、温かい毛糸の手袋が僕の素手に触れた。
 その途端、
「探偵さん!」
 驚いたように叫ぶ女学生。今日は情緒不安定なのか?
「熱があるんじゃないですか!?」
 少女は手を放して、手袋を外したのだろうか、次には柔らかな掌が僕の額に触れた。
「高いですよ、熱」
「熱?」
 そうだったのか。それでこの状態か。なるほど。
「なんで風邪のときにふらふら出歩いてるんですか」
 また怒っているな。
「風邪なんか引いてないよ」
「嘘。風邪じゃなかったらなんだって云うんです」
「さあ?」
 どうもその辺のメカニズムは自分でも善く解らない。
 女学生君は納得したのか諦めたのか、小さな溜め息が聞こえた。
「とにかく早く帰りましょう」
 そう云って再び僕の手を握り、僕より少し前に出て、そろそろと歩き出す。どうしてもこうなるのだな。
「女学生君」
「はい」
「僕は足は悪くないんだよ」
「知ってます」
 なんだかちょっと声が尖っているような気がするが、気のせいだろうか。気のせいだな。うん。
「だからもうちょっと早く歩いてくれないかな」
「見えないのに早く歩いたりしたら危ないですよ」
「危なくないよ。そのために君がいるのだろうに」
 このままじゃいつまで経っても帰れないじゃないか。
 そう云うと、一旦足を止めた少女は、普通の速度で歩き出す。
 女学生君の普通の速度は僕には少し遅い。だけれど、彼女はとても一生懸命で、それ以上の要求はできなかった。
 段差がありますよ、右に曲がりますよ、前から自転車が来ます、いちいち声に出して知らせる。そして二言目には、大丈夫ですかと訊く。
 他人の為すがままに導かれて歩くなんて好きじゃないけれど、こんなに一生懸命な女学生君が見られるなら、見えないけど、それもさほど悪くはない。
 僕はただ前を向いて歩く。浮遊し、流れていく、意味の解らない、厭なものを視ないようにやり過ごし。ただ彼女が見たものにだけ目を向けて。
 時折現れる自分自身の姿を道標にして。
 解っている。これは彼女の純然たる好意であり、単なる親切な行為に過ぎない。それを勘違いするほど僕だって自意識過剰でもなければ青臭くもない。
 それでも真摯な彼女は可愛い。そして可愛いものは愛しい。
 この手を引き寄せて抱きしめたい衝動にかられて、繋いだ手に力を込めると、意外にも彼女は更に強く握り返してきた。そしておそらくはこちらを振り向いて云った。
「大丈夫ですよ。わたしがちゃんと居ますから」
 全く。君は全然解ってないね。
 僕がこんなことで不安になったり心細く思ったりするはずがないだろう。
 僕はね、今まで何度も他人に云ってきたのだよ。僕が付いているから大丈夫だ、安心しろと。
 僕にそんなことを云った他人は、そうだね、君が初めてかもしれない。
 こんなにも僕のために一生懸命に、こんなにも真摯に、純粋に
 これほどまでに一心に、これほど一途に、健気に
 そしてひたむきに、ただひたすらに、慈愛に満ちて……。


 ようやく駅に着いて電車に乗る。
 幸い中はすいていたようで、すぐに女学生君が空いている席を見つけてくれた。
 座ってみて初めて、随分と身体が怠かったことに気づいた。頭も重い。
 寄りかかった背後のガラス窓の冷たさを感じて、少し身体をひねって左側の頬をガラスにくっつけてみた。気持ちいい。
 ほうっと息を吐いて目を閉じると、眠気が襲ってくる。
 うつらうつらしかけたとき、右の頬にも冷やりとした感触があって目が覚めた。
 少女の掌が、火照った僕の頬を冷やしていた。
 どうしてこんなに冷たいのだろう。そういえばあの時手袋を外してそのままだったのか? いや、違う。こっちは左手だ。僕の右手とつないでいたほうだ。慥かに手袋の感触があった。こんなに冷えるはずがない。
 視えてきたのは彼女の左手と電車の窓ガラス。
 馬鹿だね。
 こんな寒い季節に、こんな冷たいガラスに柔らかな掌を押しつけて。
 優しい左手の上から自分の右手で頬に押し当てるように包み込む。微かに身じろいだようだが、そのまま手は動かさない。
 楽しくて、自然と笑いが込み上げてくる。
 なのに君ときたら、
「早く着くといいのに」
なんて、優しい声で酷いことを云う。僕はこのまま列車がずっとどこにも着かなければいいと思っているのに。
 やがて彼女のもう片方の掌が、僕の額に乗せられた。
「熱い……」
 そんな不安そうな声を出さないで。大丈夫だってさっき請け合ってくれたのは君じゃないか。
「苦しくないですか?」
「大丈夫だよ」
 僕は神だからね。そう云おうとしてやめた。
 あの時はあの牧師がうじうじしてるから、ただの方便で云っただけだったのだけれど、云ってみたらそれが正しいような気がしてきたのだ。
 嗚呼、だけどそれならば神たる僕は何処に、誰に祈れば、願えばいいのだろう。

 どうか、この少女に幸多かれと。
 そして
 願わくば
 こんな僕にも幸あらんことを――。

「大丈夫だよ。君が居るからね」
「そんなこと……」
「うふふ」
「巫山戯てる場合じゃないんですよ」
「巫山戯てないよ」
「嘘」
 僕は嘘はつかないと云うのに……。    







榎さん自覚するの巻(笑)。
微妙に弱気な探偵。こんな榎さんは正直見たくないとも思いつつ、絶対原作では書かれないと思うので見てみたいとも思いつつ…(なんやねん)。
これがいつごろの話かっていうのは不明です。
タイトルはAmazing Graceから。  


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