分類不能



 青年、中年、老人――。
 美由紀にとって成人男性の分類はその3種類程度だ。
 青年以下なら少年。
 つまり世の「男性」の分類はそれですべてだ。

   あの人は、何だろう……。

 美由紀は寝台ベッドに寝転がって脱力していた。
 前の学院と違って寮生の中に差別はない。全員が2人部屋。けれど年頃の少女たちであることに配慮して、カーテンで部屋は一応仕切られ、それなりのプライバシーは確保されているのがありがたい。そのカーテンは淡いピンクの小さな花が散らされているし、壁も無味乾燥な灰色ではなく、オフホワイトの壁紙が貼られている。
 戒律に縛られないここでは、その壁を映画のポスターや人気俳優のブロマイドで飾っている少女たちも多いが、美由紀のベッドの横はまだぽっかりと空いたままだ。

 今日、美由紀は半日探偵に引っ張り回された。
 おかげでここしばらくの迷いも怖れもどこかに吹っ飛んでしまった。何の解答が得られたわけでもないのだが、とにかく粉々に飛び散って、どうでもよくなってしまった。そんな気分だ。

 辿り着いた探偵事務所でほとんど腰を落ち着ける暇もなく、神田から中野に引っ張っていかれた。そこに着いて初めて美由紀は、そこがあの時の拝み屋の家だと知った。
 その後、探偵は、和寅と呼んだ青年に宣言したとおり――あの青年の本名は何と云うのだろう――美由紀を喫茶店に連れていった。紅茶が飲みたかったのだろうと云われたが、美由紀はそんなことは云った覚えはない。仮称和寅さんが勝手にそう云っただけで。
 それでも探偵に連れていかれた店は、美由紀が今まで入ったことのないようなしゃれた内装で、ちょっとわくわくした。レンガ造りの欧州ヨーロッパの田舎の家みたいだった。といっても美由紀はもちろん欧州の家など実物は知らない。
 そこで探偵は美由紀の希望も訊かずに紅茶と珈琲と、ケーキを二つ頼んだ。喫茶店など入り慣れていないから、美由紀はどうしていいかわからない。だから勝手に頼んでくれて全然構わないことは構わないのだけれど。
 そしてケーキは、とても美味しかった。カステラにジャムを挟んだようなのじゃなくて、ふわふわのスポンジに、丁度季節の苺が乗っている。クリームだって、白いだけで何の脂肪なのかわからないべたべたしたのじゃなくて、口に入れるとあっという間に溶けてしまう。何とか云う人工甘味料とは違う、本物のお砂糖の上品な甘さだ。
 美由紀はもったいなくて一切れ口に入れると、目をつぶってじっくり味わってから呑み込んだ。
 目を開けると、探偵が頬杖をついて嬉しそうにこちらを見ていた。
 美由紀は急に気恥ずかしくなって赤面した。まるで田舎娘丸出しだったろうか。
 でも探偵は莫迦にするでもなく、
「気に入った?」
と訊いた。
 美由紀が素直に、はい、と答えると、さらに嬉しそうに、うふふ、と笑った。
「探偵さんは食べないんですか?」
「食べるよ。君もどんどん食べなさい」
「はい」
 そうして探偵も美味しそうに、しかし美由紀のようにもったいながることもなく、ぱくぱくと食べ始めた。
 美由紀はその様子を、つい凝乎と見てしまった。なんだか可愛い。こんなふうに遠慮なしに食べてもらえたら、作った人も作り甲斐があるというものだろうな。
 そういえばずっと前両親と、親戚の結婚式のために旅行に出て、そこで入ったお店でケーキを食べたことがあった。
 まだまだ日本中何処でも食糧が足りなくて、ケーキなんて贅沢品だった。
 両親は、生まれて初めてのケーキを頬張る美由紀を、ずっとにこにこして見ていた。
 ――お父さん、お母さん、食べないの? 美味しいよ。
 ――美由紀が食べるのを見ているほうが楽しいよ。
 ――もう一つ食べる? お母さんのをあげようか?

 あのとき食べたのも、こんなふうな苺の乗ったケーキだった。

 さっきの探偵も、あの時の両親と同じような気持ちで自分を見ていたのだろうか。
 今、自分も、せっせとケーキを口に運ぶ探偵を見て、両親の気持ちが少しわかるような気がする。
 そう思うそばから、それはどこか間違っているような気もしてくる。
 美由紀の視線に気づいたのか、探偵が手を止めて顔を上げた。
 何? と問いたげに鳶色の瞳で見返してくる。
「あの、足りますか? わたしのも食べます?」
 何を考えていたわけでもなく、咄嗟に美由紀がそう云ってしまうと、探偵は何が面白いのか、声を立てて笑った。

 結局美由紀は喫茶店での紅茶とケーキを探偵に御馳走になってしまった。
 もちろん美由紀は図々しい性格ではないので、自分の財布を取り出したのだが、探偵に留められた。
 大体こういう場合、男性のほうが支払うものだということは知ってはいたが、それはやはりその男女が交際中という場合なのではなかろうか。
 たとえそうであっても美由紀には、男性が勘定を持つ必然性というものがわからない。ましてや自分と探偵はそのような関係ヽヽヽヽヽヽヽではない。ここへ連れてきたのは探偵だが、元はと云えばいきなり押しかけたのは自分のほうだ。
 大丈夫ですちゃんとお金持ってきてますときっぱり云ったのだが、探偵に、
「大人の云うことは聞きなさい」
と諭すように云われ、その時には店中の注目を浴びていることにも気づいて、やっと美由紀は財布を仕舞った。

 大人、か。
 確かにそうなのだが。
 さっきはまるで子供みたいでやけに可愛かった。
 というより、思い返してみれば、最初から美由紀の知っている大人たちとは違っていたと思う。
 年齢的には青年という部類なのだろう。でも、益山や柴田と比べると、なんだか妙に威圧感があった。
 探偵より年上のはずの馬鹿な教師たちや警察や海棠なんかより、ずっと真実が見えていた。
 なのに、老成したところがなくて、むしろ子供っぽい。
 確かに自分は子供でこの人は大人なんだけれど。やっぱり美由紀の既成概念にある大人には当て嵌まらない気がする。

 その後、今度は拝み屋のところで宣言したとおり、ほとんど戻るような形で青山のボウリングセンターなるところに連れていかれた。
 高いんだろうか。高いのだろう。
 何をする場所なのかがわからない。わからないものの、客はいかにもヽヽヽヽといった垢抜けた、比較的若い男女がほとんどだ。
 美由紀の父も一応会社社長ではある。銃後はさすがに我慢しなければならないものも多かったが、それでも飢えるというほどのことはなかった。恵まれた環境で育ったという自覚はある。
 が、ここにいるのはきっとそんなレヴェルの人たちではない。自分がいるのは絶対場違いだ。
 ガラガラと騒々しい音がする。横文字が氾濫し、何やら食べ物屋が幾つも入っている。美由紀は顔を引きつらせて、とにかく探偵に付いていくしかなかった。
 すらりとしたとても綺麗な若い女性に案内され、小さなテーブルとソファのある所へと連れていかれた。美由紀が初めてと知ると、その女性はルールやら何やら説明しようとしてくれたのだが、明らかにしどろもどろで、すぐに探偵に遮られてしまった。
「ちょっと見ていればすぐわかるよ」
 そう云って探偵はソファに偉そうに足を組んでどっかりと座った。
 テーブルとソファは2組ずつ並べて置いてあり、美由紀たちのすぐ横のテーブルは2組の若い男女が使っていた。
 確かに、ちょっと見ていればどういうゲームなのかはすぐ理解できた。
 細かいことはわからないが、やはりとても美人の職員が1人付いていて、点数はその人がつけてくれるらしい。
 くっ付けて置いてある2組のテーブルの分両方がその女性の担当らしく、すぐに美由紀たちに、というより探偵に挨拶をした。顔が紅い。
 隣の席の女性2人も、連れの男性から目を離して、気もそぞろにこちらを伺っている。反対側に目を向けると、少し離れた席にも綺麗な女性の職員がいて、こちらを見て惚っとしていたのを客に咎められていた。
 ここにきて美由紀はようやく、先ほどの案内人の挙動不審と、喫茶店で注目を浴びていた理由を理解した。

格好フォームなんか気にすることはない。要はあれにぶつければいいのだ」
 探偵にそう云われて、美由紀たちもゲームを開始した。
 どうやらルールだのコツだのをちゃんと教えてくれる気はないらしい。見ていればわかるとか気にしなくていいとかいう問題ではなくて、きっと探偵本人が面倒くさいに違いない。
 もっとも、美由紀もそのほうが気楽だった。
 隣では、男性2人が文字通り手取り足取り腰取りで、女性にあれこれ教示レクチャーしている。
 なんだか厭だ。
 あんなヽヽヽ下らないことを心的外傷トラウマにしたくはない。あんな下劣な男たちに、僅かでもこれからの自分を侵食されたくない。
 だけどやっぱり、あの下心丸出しの接触には嫌悪感を禁じ得ない。
 探偵が適度に自分をほったらかしてくれるのはありがたい。男というものは、なんて浅薄な思考に陥らずに済むから。
 そういえば探偵も男性であった、などと、ここまで考えてようやく思い当たるほどで、それほど美由紀は探偵に男性性を感じていなかったことに自分で驚いた。
 もちろん行儀の悪さだとか、戦闘能力の高さだとか、美由紀は十分にその目で見て知っているわけで、その点から云えば世間で云うところの非常に男性的男性であることに間違いはないのだが。
 美由紀の知る「大人」の範疇から外れているのと同様、美由紀の中の「男性」の概念にも収まらないような気がする。
 つまりは――。
 一言で云ったら変な人ってことか。
 美由紀はとりあえずそう結論付けておくことにした。

 いざやってみると、やっぱり教えてもらったほうが、などと美由紀は思った。ただボールを投げてピンに当てるだけのことが、こんなに難しいとは思わなかった。5、6回も両脇の溝にボールを落とし、勢い余って後ろにボールを転がし、盛大に探偵に笑われたが、生来運動神経はさほど鈍くはない。一度偶々うまくいってみると、それからはすぐにコツを呑み込んだ。
 美人のお姉さんが細かく数字を書き込んでいくが、美由紀は点数なんかどうでも善かった。探偵もどうでもいいらしく、一度も覗きもしなかった。
 爽快だ。痛快だ。ただボールを投げてピンに当てるだけのことが、こんなに面白いとは思わなかった。もやもや溜まったものを解消するにはもってこいじゃないか。
 少し汗ばんで、頬が紅潮してきた美由紀に、
「気に入った?」
 と、また探偵が嬉しそうに訊ねてくる。
「はい! 図書室で大声出すのと同じぐらいすっきりします!」
 周囲がうるさいので、大きな声で返事をする。
「おお、それは面白そうだ! 僕は講堂でやったことがあるが、図書室も面白かったかもなあ」
 大きな眼をさらに開いて、心底楽しそうに探偵は云う。やっぱり子供みたいだ。
 講堂か。この人なら譬え礼拝堂でも平気でやっただろうな。
 今さら同志を見つけたみたいで、美由紀は少し嬉しくなった。


 疲れた……。
 美由紀はベッドの上で寝返りを打って、だらりと俯せになってみた。
 何かにじわじわと締め付けられるような不安にかられて寮を出て、行き先もよくわからなくて独り歩き回って。それから探偵の後を追って、引き摺り回されて、文字通り駆け足であちこちへ行った。
 楽しかった。本当に久しぶりに、たくさん笑って、高揚した気分で帰ってきた。心地良い疲労感。
 もっとも探偵は、あの後今度は浅草に行くのだと主張したのだが、寮の門限に間に合わないと必死で訴えて帰ってきた。
 探偵は、門限を守るなんて馬鹿のすることだろう等々散々文句を垂れたが、結局寮まで送ってくれた。道々、門限破りのあの手この手を教えてくれながら。しかし戦前のバンカラ全盛期の旧制高校生と、お嬢様学校の女子中学生を一緒にしないでほしい。美由紀は探偵と同時代を過ごした寮監や寮長や学生達に同情しながらも、とても興味深く話を聞きはしたのだが、どれも美由紀が応用するのは無理なようだった。

 次、の約束などはしなかった。
 それでも不安はなかった。
 きっともう自分は大丈夫だ。それに多分――。


 美由紀はこの日「男性」のカテゴリーの中に、「探偵」という項目を付け加えることにした。 










誰かこのタイトルをなんとかしてくれ…。
日本初の東京ボウリングセンターでは、2レーンに1人美人のスコアラーが付いていたそうです。
しかし当初は会員制だったそうで、金持ちの社交の場みたいなとこは榎さんは嫌ったかもしれませんね。

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