戦後の出版事情が好転したのはわりと最近のことだそうだが、
特別読書家というわけでもなかった美由紀はそれほど不足を感じていたわけでもなかった。
それでも、東京の学校ではさすがに出版されて間もない本も並ぶのがありがたい。
千葉の学校の図書室には古くさくて小難しい本ばかり並んでいた。
ここには雑誌もあるし、美由紀が司書の先生にちょっと尋ねてみたら、
なんと関口巽先生の『目眩』を1冊入れてくれた。
美由紀がそんな、あまり有名でない作家の本だとか、探偵小説だとか、妖怪が出てくる昔話だとか、
そんな本ばかりを借りるので、美由紀の母親と同年代と思しき女性の司書が薦めてくれたのが、
前年に翻訳本が出版されたばかりの『赤毛のアン』だった。
学校の生徒達に大人気で、最初は1冊だけしかなかったのだが、
順番がなかなか回ってこない生徒たちの苦情を受けて、今では3冊に増えている。
親に買ってもらった生徒も多く、最近は漸く、一冊は本棚に残っているようになった。
美由紀だって興味がなかったわけではないのだが、借りるタイミングを逸していたのと、
毎日図書室に通ってまで読んでみようという気が起こらなかったに過ぎない。
なのに、にこにこしながら、女の子なら一度は読んでおかなくてはね、などと云われると、
なんだか教科書か副読本みたいに思えてしまう。
女の子は斯く在るべきなどという考えにはどうも美由紀は馴染まないが、
ここは斯く在るべき子女を育てる学校なのだから仕方がないといえば仕方ない。
断る理由もないので素直に借りてきて読んだのだが。
確かに、面白かった。ほとんど一気に読んでしまった。
面白かったのだけれど、それやはり話として面白かったということで、
クラスの子たちが空想ごっこなどと云って遊んでいたのはこれだったかなどと、
妙に距離感を感じながら読んだのだった。
そう。自分は他の女の子たちのように、この物語の中には入り込めない。
綺麗なものは綺麗だと思うけれど、それに対して空想を膨らませて夢見心地にはなれない。
想像を遙かに超えた現実を経験してしまったからなのだろうか。
それとも、女の子失格、かな。
そんなことは今に始まったことではないけれど。
やはりそれは美由紀にとってほんの少しコンプレックスになっていることだった。
日曜日、呼び出されて連れていかれたのは恩賜上野動物園。
もちろん美由紀は初めてだ。動物園自体が初めてだった。
戦時中は万一に備えて猛獣が処分されたという。
今はゾウも戻ってきた。カバもいる。水族館もできた。
美由紀は目を丸くして見て回った。
「わたし、本物のゾウって初めて見ました」
「鼻が長くて面白いだろう」
「はい。あんなに大きいのに静かに歩いてるし。背中に乗ってみたいですね」
何の気無しに思ったことをつぶやくと、
想像を超えた美しい外見と想像を絶する奇天烈な中身を持った同伴者が、何故だかぱっと嬉しそうな顔になった。
「うん。やっぱり女学生君は偉いな」
「な、なんですか、いきなり」
「ゾウに乗りたいなんて云う女の子は初めてだ」
「そう……ですか」
やっぱり女の子らしくないか……。
でも、それをこの人は偉いと云ってくれる。何が偉いのかは解らないけれど。
「よし。じゃあ、いつかゾウに乗りに行こう」
「え? 本当に乗れるんですか?」
「乗れるとも。親父が以前趣味でよく行っていた国では、道路をゾウが歩いているそうだぞ。人とか物を乗せて」
「道路を?」
ちょっと想像ができない。
「いつか行こう。一緒にゾウに乗ろう」
「い、一緒にですか」
「厭なのか?」
「厭、じゃないですけど」
異国の道路をゾウの背に乗って進む。この人はきっと異国の王様のように見えるだろう。
想像したら、なんだか自分だけ不似合いで滑稽だった。
「じゃあ、一緒に乗ろうね」
同伴者はお構いなしににこにこと嬉しそうだ。
いいのかな。いいのかもしれないな。
「はい。いつか、連れてってくださいね」
そんな言葉が素直に出た。
本当に行けなくても構わない。こんな話をするだけで楽しい。
日常からの脱却に空想なんかいらない。否応なく割り込んでくる非日常。
美由紀は、差し出された白い小指に、自分の指を絡ませた。