昭和三十二年 早春

「ご存じでしたか、榎木津さん」
 仕事から帰ってきた益田がコートを脱ぎながら口を開いた。
 榎木津は机の上に足を乗せた格好で何やら雑誌を読んでいて返事もしない。
 普通なら「何を?」と訊き返すところなのだが、無駄なことは云うな云わせるな最初から解るように話せというのが榎木津のスタンスである。
 益田ももう榎木津の返事など待たずに、探偵机に近付きながら勝手にしゃべり続けた。
「今日聞き込み中にたまたま知ったんですよ。来宮秀美さんが帰国なさったそうじゃないですか」
 榎木津は目を上げて、ちらりと益田を見てから、「和寅、珈琲!」と台所に向かって怒鳴った。
「お金持ちの人たちの間では結構話題になってるらしいですよ」
「そんな連中の噂話を聞いて何が面白いんだおまえは」
「面白かぁないですよ。しょうがないじゃないですか、仕事なんですから」
 益田は唇を尖らせた。
「仕事じゃなくて趣味なんだろう」
「違いますって!」
 まともに返事をしていると先に進まないので、益田は話を続けた。
「それがですね、ただ帰国なさっただけじゃないんですよ。仏蘭西から旦那様、いや、御主人、も駄目だったんだな。御夫君、なら問題ないですかね」
「誰に訊いてるんだおまえは。そんなことどうだっていいじゃないか。つまりは結婚して帰ってきたってことか?」
「御明察。いや、だってフェミニズムの勉強に行ってらしたんでしょう? 秀美さん。前にほら、杉浦美江さんに怒られたことがあったもんですから。自分と夫は対等だから主人という言葉はどうとかって」
「今ここに彼女はいないし、僕はそんなことはどうでもいい」
「はあ、まあそうなんですが。とにかく御結婚なさったそうですよ。向こうの大学で知り合った日本人で、やはり先進的な考えの持ち主だそうです。本当に善かったですよね」
「そんな話を聞き出すためにそのヽヽおばさんに一所懸命媚び売ってたわけか」
 益田は物凄く厭そうな顔をした。
「媚びなんか売ってませんて。厭なこと思い出させないでください」
「その割には随分気に入られたみたいじゃないか。きっとそのおばさん、おまえをツバメにするつもりで協力してくれたんだろう。女性の純情を踏みにじってはいけないぞ」
「ツバメって時点で純情でも何でもないじゃないですか。どうでもいいんですよ、おばさんは」
 和寅が珈琲を運んできて口を挟んだ。
「それにしても目出度い話じゃないですかい。あのお嬢さん、辛い思いをなすったんでしょう。その分も幸せになっていただきたいもんですよ」
「そうですよ。福山幸子さんも昨年御結婚されましたしね。同じ上流階級の方で、あちらは再婚だそうですが」
「ありゃ、お相手は再婚だったのかぃ。やっぱりああいうことがあると、なかなかもらい手がないのかねえ」
「もらい手って、和寅さん、それは女性に失礼ですよ。再婚と云ったって前の奥さんを早くに亡くされて、まだ子供もいなかったそうだし、後妻の座を狙ってた淑女はたくさんいたらしいです。しかもそれでまだ榎木津さんより若いんですよ。」
「ふん。再婚するのが偉いんなら、長野の伯爵なんか勲章ものじゃあないか」
「そういうことじゃあないんですよ。僕が云いたいのはですね」
「先生もそろそろ本腰入れて考えられちゃあどうです?」
「煩い和寅。おまえは今出川の小父貴か。さっさと買い物にでも行ってこい」
「べつに見合いしろって云ってるわけじゃあないですよ。美由紀ちゃんのことです」
 和寅に助け船を出すつもりではないが、益田は思い切って美由紀の名前を出した。
「女学生君が何だと云うのだ」
 榎木津は益田を睨みながら珈琲を一口飲んだ。
「その女学生君じゃなくなるわけでしょ、美由紀ちゃんも。もうすぐ高校も卒業じゃないですか」
「短大に進学すると云っていたぞ」
「それにしたってですよ。彼女ももう十八歳なんだし、そろそろ将来のことをはっきりさせておいたほうがいいんじゃないかと。そういうわけで幸子さんも秀美さんもお幸せになられたことだし」
「おまえも煩いぞカマオロカ。偉そうに他人の人生設計に口を出せる分際か」
「まあそりゃそうなんですが」
 益田は苦笑した。余計なお世話は百も承知である。
 そもそも秀美の件も偶然耳に入ったわけではない。
 幸子のことも含め、社交界のその手の噂をいつでも入手できるように、ずっと前から仕事のついでに手を回していたのだ。
 やっていることは普段の仕事と変わりないのだし、いくら榎木津でも話している内容までは読み取れないのだから、ばれていないと思う。多分。
 榎木津はずっと気に掛けていたのだろう、と益田は思っていた。
 並の人間ならば勝手に自分の責任だと感じて、責任を感じている自分に満足してしまうところだろうが、榎木津は全くそんな素振りも見せなければ勿論何も云わない。
 だけれどもやはり、生き残りはしたものの生涯消えないような傷を負った彼女たちを、気に掛けてはいた筈だった。
 それはかつて榎木津の来宮秀美に対する接し方を見ていて、益田は確信していた。
 以前益田は美由紀と話していて、榎木津から将来について何か仄めかされることさえないと聞いたことがある。
 もちろん美由紀がまだ十代で学生だからということもあるのだろうが、それにしても本気で付き合っているなら、例えば卒業したらとかどうだとか、成人したらこうしようとか、その類の言葉が出てもおかしくないと思うのだが、そんなことは一切無いらしい。
 そしてそのことに、美由紀がほんの少し、不安を感じているのだろうとその時益田は受け取ったのだ。
 あの事件が尾を引いてのことなのかどうかは解らないが、もしかしたらと思って、榎木津のためというよりはむしろ美由紀のためにも、益田もまたずっと、彼女たちの動向を気に掛けていたのだった。
「最近は急に大人っぽくなりましたしねえ。女の子の成長って早いですよね。いつまでも愚図愚図してると誰かに盗られちゃいますよ」
「やかましいっ、この変態!」
 雑誌を投げつけられて、益田は慌てて机から離れた。
「僕は変態じゃありませんってば!」
「変態だろうが! 金持ちのおばさんに色目使って!」
「だから違いますって!」
 誰の為だと……とは益田は云えない。
 云えば余計に怒られるだけだ。
 まあしょうがないか。誰に頼まれた訳でもないのに、若い女性の交際やら結婚やらを探っていたわけだから。
 そう諦めて自分の分の珈琲を淹れに台所へ向かう。
 ちらりと探偵机のほうに目を遣ると、椅子を半回転させて足を下ろした榎木津は、机に頬杖をついて窓の外を眺めていた。
 早春の日射しを受けて、榎木津の口元に柔らかい微笑が浮かんでいるのを確認してから、益田は台所に入っていった。    







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