午睡 「なぜここへ来て寝るかだって?」 古書肆は怪訝そうというよりむしろ不愉快そうに眉間に皺を寄せて、鸚鵡返しに聞き直した。 美由紀はこくりと頷く。彼が表情ほどには美由紀の質問を迷惑に思っているわけではないことを、すでに美由紀は理解している。 「そんなことはこちらがこれに訊きたいくらいだね。今度君から聞き出しちゃくれないか。ついでに、そんなくだらない理由なら昼寝は自分の部屋でしなさいと云ってやってくれ。君の云うことなら聞くかもしれないからね。といってもせいぜい1か月間くらいしか保たないだろうがね」 「くだらないって……」 「訊かなくてもくだらない理由だということぐらいは察しが付く」 古書肆は苦虫を噛み潰したような顔でぴしゃりと断言した。 確かに、来てすぐ寝て、起きてすぐ帰るときもあると云うのだから、古書肆の云うとおり、家で寝ていれば済む話ではある。 「じゃあ、関口先生のところへ行かないのは何故なんでしょう」 「いくら暇潰しでもわざわざ陰々滅々とした気を振り撒く男のところへ自分から出掛けはしまいよ」 今度は、さも当然と云わんばかりの返答だった。 「もっとも雪絵さんは内職で忙しいからね。こんなものが邪魔をして疲れさせては気の毒だ。それぐらいならここで大人しく寝ていてくれるほうが世間の迷惑は少なくて済むとは云えるかもしれないな」 「それってつまり……」 「雪絵さんに対する遠慮だとか気遣いだとか、そんなものだと思ったら大間違いだよ。いいかね、この男の辞書にない言葉は数え切れないほどあるから一々覚える必要はないが、要するに常識と良識を持った人間が普通に考える行動原理がこれには欠落していると思いたまえ。これにはこれの論理なり原理なりがあるのだろうがね。そんなものが理解できるようになったら社会人として、いや人間としてお終いだから僕は理解したくもないよ。君も道を踏み外したくなかったらあんまり深入りするんじゃないよ」 これだけ捲し立てられたら美由紀如きはもう何も云えない。 もっともこの古書肆の辛辣さは探偵の罵言と同じで、一種親愛の情の裏返しのようなものだと美由紀は感じているので、本気で探偵と距離を取ろうなどとは思わないし、その必要もないのだろう。 その時、店のほうから年配の男性の声がした。どうやら客らしい。美由紀はここに来て、この古本屋の客というものに初めて遭遇した。あそこは書庫ではなく、本当に古本屋だったのか。 驚きが露骨に表情に出てしまったのか、古書肆は苦笑しながら軽く美由紀を睨んで立ち上がった。 そして部屋を出て行こうとして一度立ち止まって、急に思い出したかのように美由紀に向かって云った。 「以前に、お前は戦場を見ていないから楽だと云われたことならあるよ。もっとも――」 もっともそんなことは君をここに連れてきておいて、さっさと寝てしまう理由にはならないがね、と呆れたように付け加えて、古書肆は店に出て行った。 そうなのだ。今古書肆が云ったことこそ、そもそもの美由紀の疑問の根本だったのだ。 初めてここに連れてこられたときは、美由紀のために連れてきてくれたのだと思ったのだが。最近では何故探偵がここに来るのか、自分が何故ここに居るのかよくわからない。 ただ、わからなくても厭ではないし、用はなくてもなんとなく居られる場所であるらしいことはわかってきたから、今さら大きな問題ではない。美由紀があれこれ質問するのもいわば探偵が寝ている間の暇潰しのようなもので、古書肆には申し訳ないと云えば申し訳ないのだが、妙に居心地が良いことも事実ではあったりする。 理由は探偵のほうにではなく、この場所にあるのかもしれない。 美由紀は自分の傍らで長々と寝ている探偵を見遣った。 睫が長いな、と思った。 ただ長いだけではない。密集しすぎず、まばらでもなく、その先端は文字通り絵に描いたようなラインを描き出している。まるでその本数と配置までもが完璧に計算されて植えられたかのように。 綺麗だ、と思う。 ただもう単純に、極めて自然な反応として綺麗だと感じる。 美由紀はその長い睫にそっと指を伸ばし……。 ぱちりと目を開いた、というのはこのような様子を云うのだろう。 探偵は突然目を覚ますと、そのまま起き上がり小法師のように上体を起こし、人差し指を伸ばしたままの美由紀の右手を掴んだ。そしてその綺麗な睫に縁取られた目を大きく開き、端麗な顔を美由紀の目の前に近付けた。 この顔にそうされて平静を保てる人間はそうはいないが、今は珍しくむしろ探偵のほうが驚いた様子をしている。 「今、何をした?」 それは内緒です、と美由紀は云ってみたかったが、この場合その科白は無意味である。 「この前聞いたんです。眠っているとき睫を触ると、どんなに起きない人でもすぐ起きるって」 「それで試してみたのか?」 「探偵さんの睫は長くてとても触りやすかったです」 しかも本当に効果覿面だったことに、美由紀も少々吃驚していた。 「女学生君、それは絶対誰にも云ってはいけないよ」 「誰にもって、誰にです?」 「誰にもは誰にもだ! 特に和寅は絶対いけない! もちろんカマオロカにもだ! それから関に京極もだ!」 「拝み屋さんまでですか?」 「当然だ! この世に彼奴ほど性格の悪いやつはいないんだぞ」 だったら来なけりゃいいのに、とは美由紀は云わない。古書肆を裏切るようでほんの少し良心は痛むが、いずれ云っても無駄だろうし。 「もし云ったら女学生君とは絶交だ!」 「絶交ですか?」 「そうだ!」 美由紀はちょっと考え込む。どうせ元々誰にも教えるつもりはないが、もっと別の云い方をしてくれればいいのに。本気ではないに違いないと思っていても、脅しに屈するのは不本意だ。 「じゃあ、探偵さんは、わたしと絶交しても平気だってことなんですね?」 思わぬ反撃に探偵は美由紀の手を放して、今度は探偵が腕を組んで考え込んだ。 珍しいことがあるものだ。他人に何か云われてすぐに云い返せず黙り込むなんて。いつもは、意味があるかどうかとか筋が通るかどうかとかは全く別にして、とりあえず瞬発力だけはあるはずなのに。 「よし、わかった」 何がわかったんだか。にっこり笑ってそんな事を云った後は、どうせ碌なことは云わないのだから。 「じゃあこうしよう。もしも誰かにバラシたら、君が毎日僕を起こす役を引き受けること!」 「わたしに住み込みで働けって云うんですか!?」 「…………君は時々日本語が通じないね」 日本中の誰よりもその科白、探偵からは云われたくないと思う。 しかし、一瞬笑みを消した探偵はまたすぐ破顔し、楽しそうに声を立てて笑った。 「あら、何かしら? 楽しそうですね」 千鶴子が茶菓子を持って入ってきた。 「二人だけの秘密なんだよ。ね、女学生君」 「まあ。怪しいこと!」 と千鶴子が大袈裟に云って笑う。 二人だけの秘密、か。うん。それならいいかな。 「ええ、秘密なんです。今のところは、ですけど」 少しばかり焦る探偵を見て、美由紀も笑った。 |
う〜ん、尻切れトンボ。そしてまたそのまんまやんけという捻りも何もないタイトル。 当初はもっと短くして拍手御礼にでもしようかと思っていた小ネタ二つをくっつけてしまったので木に竹を接いだようになっています。 寝ている人の睫を触ると、というのは先日ネットで見て、榎さんで試したくてうずうずしていたんです(笑)。 |