人はそれを○○と呼ぶ。

 美由紀が神田は神保町を訪れたのは、松の取れた後の9日のことだった。
 7日まで実家にいて、8日に東京に戻ってきた。10日からは学校が始まるので、今日しかないと一応年始の挨拶に来たのだった。お世話になったのだからと、母親から渡された手土産もある。
 行ってみると、ちょうど探偵と和寅も昨日事務所に戻ったところだという。益田の姿もあった。
 探偵はいつもの席に座って、机の上にだらけていた。
 和寅の話によると、正月の榎木津家など来客が半端ではなく、それも大部分は探偵が「好まない種類の方々」だそうで、三が日だけで探偵の我慢は大概切れてしまう。だが、せめて松の内はと母親に留められると無碍にもできないというのが毎度のことらしい。
 そしてやっと事務所に戻ってくるころには気力を使い果たし、いつも以上に何もやる気がない。仕事の依頼なんか絶対受けるな、というのが今この体たらくということだった。
 それでも美由紀が来ると、顔を上げてへらりと笑顔になって、
「やあ、初詣に来たのだな」
と嬉しそうに云った。
「はい。お賽銭は現物でいいですか?」
 美由紀もさらりと返す。母親が聞いたら怒るかもしれないが、ここではこれぐらいでいいのだ。
 手土産と云っても、美由紀の父が経営する水産会社で加工している干物や缶詰なのだが、探偵も和寅も、そして仕事のないときはここで昼食を摂っているらしい益田も、思いの外喜んでくれて美由紀はほっとした。
 それからいつものようにソファで和寅が淹れてくれた紅茶をいただきながら、正月休みの間の話をしていたときのことだった。益田も今年は帰省したのだと云うと、
「そういえば益田さんは神奈川のご出身だったんですよね?」
「うん、そう。でも箱根山中じゃないから」
 探偵が横から茶々を入れないうちに益田は牽制する。
「それはどこでもいいんですけど、あの」
「いいんだ……」
「方言で困った経験とかありません?」
「方言?」
「そう。千葉も神奈川も東京と近いから、言葉なんてほとんど違わないようでいて微妙に違いません?」
「ああ、あるよね。うん。違う違う」
「そりゃあ東京だって山の手と下町じゃあ違いますしねえ。でも益田君の言葉が分からなくて困ったこたぁないよ」
 普段は益田のことを「箱根から向こうの者」などと田舎者扱いする和寅が請け合うのだから間違いないのだろう。
「わたしもいつもは平気なんですけど、ほら、気がつかないところで、例えば生き物の名前なんかが違ってたりするんですよね」
「へえ? 例えば?」
「うちの母なんかは、ゴキブリのことを『へいはち』って云うの。以前学校で大掃除しているときにゴキブリが出て、わたし思わず『へいはちっ!』って叫んじゃったんです。そしたらみんな、『どなたですの?』とか云って集まってきちゃって。その後大騒ぎだったんですよ」
 大人たちの悪気のない笑い声が重なる。
「ああ、解るなあ。大人になって覚えた言葉はいいんだけど、子供の頃のってのはね。僕は云わないけど、神奈川ではゴキブリのこと『せいはち』っていう地域もあるよ。似てるね」
「面白いですよね。わたしと同じように東京の外の出身で、寮に入ってる子がいて。東京の外と云ってもやっぱり関東なんですけど。その子がこの前、学校の中庭で、『あら、ハネネコがいるわ。嫌だこと』って云ったんです」
「ハネネコ?」
 だらけていた探偵が目を輝かせて反応した。
「どんな猫だ、それは。面白そうだなっ」
 身を乗り出して好奇心丸出しの探偵に、美由紀は、やっぱり、とばかりにくすくす笑った。
「可愛い名前でしょう? わたしもどんな生き物なんだろうと思ったんです。初めて聞いたし、そんな可愛い名前なのに、その子は『嫌だこと』なんて云うから、一瞬なんかお化けみたいの想像しちゃって」
「本馬鹿の影響だな。善くない傾向だゾ、女学生君。でも猫の妖怪なら僕も見たい!」
「わたしもそう思って、何何? って覗き込んだんです。そしたら」
「あっ!」
 美由紀の言葉を遮って探偵が叫んだ。
 美由紀と益田と和寅が一斉に探偵を見ると、探偵は少し口を開いて固まっていた。
 文字通り、固まっていた。美由紀の頭上あたりを凝視したまま。つい今までの楽しそうな表情も消えて。
「探偵さん?」
「う……」
 美由紀の呼びかけにも答えない。言葉というより声が出ない様子だ。元々色素の薄い顔の色も、白いというより蒼白だ。
「榎木津さん?」
 いつもおかしいとは云え、おかしさの種類がいつもと違う。さすがに不審に思って益田が声を掛けたが、探偵は黙って立ち上がった。
「寝る……」
 やっと一言そう云って、寝室に向かう。心なしか足許が覚束無い。
「せ、先生?」
 慌てて後を追った和寅の鼻先で、バタンと扉は閉められた。
「ど、どうしたんでしょう」
 美由紀は狼狽したが、益田も和寅も首を捻るばかりだ。
「なんだか顔色が悪かったような……」
「いやでも、昼食はいつもと変わりなく召し上がってらっしゃいましたぜ」
「突然寝るっていうのもいつものことだしねえ」
「でもなんかふらついてたし……」
「うーん、ちょっとご様子が変でしたねえ」
「まあいつも変だけどね……」
 埒が明かない。
「とにかく寝るとおっしゃったら寝るんだから。下手に起こしても御機嫌を損ねるだけだし、しばらくほっときましょうや」
「ごめんね、美由紀ちゃん、せっかく来てくれたのに」
「そんな、わたしはべつに……」
 美由紀は気遣わしげに探偵の私室のほうを見たが、益田も和寅もあっさり見切りを付けたらしい。
「せっかくいらしたんだから、お嬢さん、お菓子も召し上がっていってくださいよ。御本家からいただいてきたものだから美味しいですよ」
「……ありがとうございます」
「ねえねえ、美由紀ちゃん、それでさっきのハネネコって結局何なの?」
 探偵が面白がるだろうと思ったから覚えてきた名前だったのに。美由紀はかなりテンションが下がっていた。
「ああ、それがですね、こんなものがこの名前? ってちょっとびっくりしたんですけど」
「何ですよ。もったいぶらないで教えてくださいよ」
「ベンジョコウロギだったんです」
「それも解りませんな。何です、ベンジョコウロギってなあ」
「ああ、竈馬のことですよ、和寅さん。カ……」
 そして益田も和寅も固まった。


――数分後――


「探偵さん! 探偵さん!」
 美由紀は必死で事務所と探偵の部屋を隔てる扉を叩いていた。
「ごめんなさい! 知らなかったんです! わざとじゃありません、ほんとです! 嫌がらせじゃありません! 聞こえてますか? 探偵さん!」
 半泣きの美由紀をよそに、益田と和寅はのほほんと茶を啜っていた。
「しっかし厄介ですねえ、あのオジサンも」
「面白がるんじゃないよ、益田君。あれはもう好き嫌いを通り越して拒絶反応を起こしちまう体質なんだ」
「体質ならあの人の目のほうが問題でしょうに。よりにもよって美由紀ちゃんの頭の上に竈馬……けけけ」
「不謹慎だなあ、君ぁ。お嬢さんに失礼な想像をするもんじゃないよ」


   ドンドンドンドン!
「探偵さん! 探偵さんってば! 生きてますかっ!?」
 ――。
 生きてるし起きてるし聞こえてるし女学生君は大好きだが、頼むから今はもうちょっとだけほっといてほしい……。  










美由紀ちゃん、ほんっっと、ごめんなさい。っていうかこれはエノミユなのか?
記憶が視えるのってやっぱり不幸だと思うという話(笑)。
ちなみに、わたしが住んでる場所の比較的近隣の地域には、カマドウマの別名として「カミノツカイ」っていうのもあるんですよ、榎さん。いや、そう言われても私も苦手ですけどね、あれは。
 
目次に戻る