東京春の陣

 わたしは早々に私服に着替えると、神田の探偵の元に向かった。 
 階段を駆け上がり、勢いよく事務所のドアを開ける。カラン、と軽快な音が鳴った。
 ちょうど台所に引っ込もうとしていた和寅さんが振り返り、ソファで報告書を書いていた益田さんが手を止めて見上げる。
 2人に挨拶をし、正面の机でコーヒーを飲んでいた探偵の前につかつかと近付く。
「卒業しました! もう女学生じゃないからちゃんと名前で呼んでください。ちゃんと」
 女学生君、探偵さん、という迂遠な呼び合い方が薄い皮膜のようにもどかしく感じられるようになって、何とかしたいと思ってはいたけれど契機(きっかけ)が掴めずにいた。
 問題は、すでにわたしの本名などこの人は忘れてしまっているかもしれないということで。
 益田さんは出会ったときから「呉さん」だし、和寅さんは「お嬢さん」だ。刑事さんはなぜか「呉美由紀」とフルネーム呼び捨てだが、そうたびたび会うこともないので、それが探偵の脳にインプットされているかどうかは甚だ疑わしい。
 わたしの要求に探偵は少しも怯まず慌てずにっこり笑って
「わかったよ、美奈子君」
と云った。見事に想定内。
「全然ちゃんとしてません、木更津さん」
「名前なんて記号に過ぎないのだよ、亜由美君」
「確かにそうですけど、どのような記号を呼称として使用するかによって、対象に対する親愛の情が測れるんですよ、柏木さん」
「僕は今も探偵だし、探偵は本来唯一僕のみに許された称号なのだから、君はいつまでも僕を探偵さんと呼んで構わないゾ、紀美子君」
 わたしもにっこり笑って答えた。
「わたしの名前をちゃんと覚えてくれたらそうします、礼二郎さん」
 探偵が手に持ったカップをガシャリとソーサーに置いた。コーヒーが大量にこぼれた。
 和寅さんは派手な音を立ててお盆を床に落とし、益田さんの握っていた鉛筆の芯がボキリと折れた。
 探偵は今まで見たこともないような顔をしていた。物凄く照れくさいのを必死に堪えているような、進退窮まったがそれを下僕に悟られたくないような。

 わたしは初めて探偵に「勝った」と思った。

 それはもちろん、「あれはあれで意外に照れ屋なんだよ。そうは見えないだろうがね」と、知恵を授けてくれた中野の軍師のおかげだけれど。    





榎さんは美由紀ちゃんの名前を呼びたくないんじゃなくて、「女学生君」という呼び方が気に入っているのでささやかな抵抗をしてみただけです。
そして榎さんは美由紀ちゃんに名前で呼ばれるのが嫌なのではなくて、いきなり公衆の(?)面前で呼ばれたのでリアクションに困っているだけなのです。
神崎宏美でも「榎木津君」でしたからね。きっと付き合った女性からファーストネームで呼ばれたことがなかったのではないかと勝手な妄想です(笑)。


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