地上より愛をこめて
だらだらと続くいい加減な傾斜の坂を登り切ると、美由紀は汗びっしょりになった。 独りでこの坂の上にある拝み屋の家にいくのはもうこれで何度目かになる。この坂を登ったり降りたりするのにかかる時間が、案外美由紀は好きだった。 本当は神田の探偵と一緒に来る予定になっていたのだが、約束どおり探偵事務所に寄ったところ、探偵は急遽彼の兄に呼び出されて断り切れず、出掛けたとのことだった。 古書店の前で一度汗を拭き、ハンカチをぱたぱたと団扇代わりにしてのぼせた顔を冷ましたつもりだったが、玄関口に出てきた千鶴子は、さぞ暑かったでしょうと美由紀を気遣い、すぐに座敷へと上がらせ、井戸水で冷やしていたという冷たい麦茶を出してくれた。 座敷には古書肆の妹である敦子と、小説家の関口もいた。肝心の古書肆は不在だった。不在と云ってもつい先ほどまで居たそうなのだが、裏手にある神社に用があると云って席を外していると、敦子が教えてくれた。 「榎さんに引っ張ってこられたわけでもないのにこんなところに来たということは、何か京極堂に用事でもあったのかい?」 胡乱な小説家が、彼にしては朗らかに美由紀に尋ねた。 小説家は、最初のころは美由紀のような年頃の女の子にどう接していいか解らないという風情で、少し赤面して口籠もっていたりしたのだけれど、最近は漸く慣れたようである。 美由紀は、探偵の周囲の大人達の中では、際立って自分に自信のなさそうなこの小説家が割合に好きだった。 「夏休みの宿題の相談に乗っていただこうと思って」 「やめておいたほうがいいじゃない?」 遠慮なく口を挟んだのは敦子だった。 「うちの兄貴なんかに学校の宿題手伝ってもらったら、余計な説教と蘊蓄を聞かされて混乱するだけよ」 冗談めかした口調だが、目は真面目だった。屹度苦い思い出があるに違いない。千鶴子は口元に小さく苦笑を浮かべただけで黙っていた。 「でも正直云うと、まだしっかりテーマも決めてなくて。何かヒントでも戴ければいいかなと思って」 僕がネタ拾いに来るのと同じようなものだねと関口に云われ、美由紀は曖昧に笑みを浮かべるしかなかった。学校の宿題とプロの創作活動を一緒にしていいのかどうか解らなかったのだ。 「どんな宿題なの? 兄貴にってことは、国語か社会科なのかしら?」 「ええ、古典なんです。『竹取物語』に関することなら何でも、自分でテーマを決めてレポートを書くんですけど……」 取っかかりが見つからないのだ。 子供の頃に読んだ「かぐや姫」とは少し印象が違ったのだけれど、その辺の比較論は既に級友の何人かが手を付けている。 少し変わった視点はないかと思い、そういえば、突然現れたよそ者によって富がもたらされるという類の伝説が各地にあるのだったか。以前ここの古書肆がそんなことを云っていたような気がする、と思い出したのだ。 そうだ、何かあの拝み屋さんからヒントがもらえないかな。そんな安易な考えだった。 「美由紀ちゃんは『竹取物語』を読んでどう思ったの?」 敦子が考えを整理するのを助けるような質問をしてくれた。明るいし論理的だし、学校の先生にも向いてるんじゃないかしらなどと、美由紀は感謝しながら思いを巡らしてみる。 「何だか……人間達が可哀想に思えて……」 「可哀想?」 敦子が怪訝な顔をして聞き返した。 「だって、かぐや姫は綺麗で、和歌でも音楽でも何でもできて、五人の求婚者たちのことも何もかもお見通しみたいで……」 でも、嘘をついたり、誤魔化したり、それはかぐや姫を手に入れるためにその貴族たちはそれなりに必死だったのではないんだろうか。 どうせこの地上に留まらない者ならば、弄ぶような真似をせずともほかに方法があったのではないだろうか。何だか、一人高みから愚かな人間たちの右往左往を面白がって見下ろしているようで厭だ。 それとも、もしその中の一人でも本当にかぐや姫所望の物を持ってきたら、本気で結婚してあげるつもりだったのだろうか。 大切な大切な姫がいなくなって、翁も媼も不死でいたくなどないだろうに、そんなことも解らなかったのだろうか。 この世界の人ではないから……。 とりとめもなくそんなことをぽつぽつ語った美由紀を、関口は少し意外そうな顔で見ていた。 「女の子が抱く感想にしてはちょっと変わってるね」 関口が率直に云った。 「そうですか? でもわたしも昔ちょっと思いましたよ。何人もの人生引っかき回して迷惑な人だなあって」 敦子は美由紀と似たような感想を持ったことがあるようだ。 「ええ、そ、そうなの? 女の子って、かぐや姫みたいにたくさんの人から求婚される状況に憧れるものだと思ってたよ」 「それは、勿論そういう女の子だっているとは思いますけど」 敦子はちょっと困ったように美由紀をちらりと見た。 美由紀は何となく敦子の云いたいことが解るような気がした。 ──わたしってそういう可愛い女の子じゃないんですよね、屹度。 「そうかあ……。いや、でも今の美由紀君の疑問の一つだけどね」 関口はコップに残っていた麦茶をごくりと飲み干した。 「かぐや姫は人間を見下ろしてるつもりはなくて、本気だったのかもしれないよ」 「本気?」 美由紀が聞き返した。五人の求婚者の中の誰かと、本気で結婚するつもりだった、ということだろうか。 「例の不死の薬を焼いたのが富士山だっていう話になってるだろう? その富士山付近には、竹取物語とはちょっと違うかぐや姫伝説が残ってるんだ」 それは美由紀には初耳だった。 「竹取の翁はね、富士山のふもと辺りに住んでいたんだ。駿河の国は竹細工の産地だったからね、符号が合うと云えば合う」 美由紀は関口の話に引き込まれた。 「細かいところで伝承はいろいろ違っているんだけれど、五人の求婚者というのは出てこない。ある国司が求婚したということになってるんだ。帝が行幸したという話もあるけどね。まあ大体は国司ということになってる。 そしてかぐや姫は月に帰るのではなく、富士山に登っていくんだ。まあ、今で云う富士山ということだね。そこの仙女だったっていう話なんだ。その国司に不死の薬の入った玉手箱を置いてね。 悲しんだ国司は姫の後を追って富士山に入る。するとそこには大きな泉があった。 かぐや姫は、その傍の洞の中に住んでいたという説と、その池の中に宮殿が見えて、そこで姿を変えて暮らしていたのが見えたという説がある。 話の結末もいろいろあってね。悲しんだ国司が池に身を投げて死んだというもの。泉からかぐや姫が姿を現し、二人で水の中に姿を消したというもの。国司が不死の薬を飲んで、洞の中で幸せに暮らしました、というものもある。尤も最後のは後世の創作じゃないかという気がするけどね」 「そういえば浅間神社の祭神って……」 云い掛けて敦子は何故か口を噤んだ。 「そうなんだ」 関口は構わず敦子に頷いて話を続けた。 「そう、 敦子が慌てたように関口を横目で睨んで、気遣わしげに美由紀を見遣った。 美由紀は、大丈夫です、と云うように小さく笑ってみせた。 「かぐや姫が織姫だった、ってことになるんですね。でもいずれにしても、人間じゃなかったんだ……」 ──いつかどこかに行ってしまう人なんだ。 「だけど、かぐや姫はその国司を愛してしまったのじゃないかと考えることもできるんだ。少なくとも後世の人はそう考えたから、池の中にせよ、洞にせよ、二人が結ばれる話を考え出したんだろう」 「そうか。もしかしたらかぐや姫は国司にも自分と同じ不死の者になってほしくて、その薬を渡したとも云えるかもしれませんね。上から見下ろしてたわけじゃなく。エゴと云えばエゴですけど、解らなくもないかな」 敦子がそう云い添えた。 宿題のヒントにはややこしい話だったが、美由紀はその解釈が何だか嬉しく思えた。 「大丈夫よ、美由紀ちゃん」 それまで黙って聞いていた千鶴子が唐突に口を挟んだ。 「美由紀ちゃんの大切な人は、美由紀ちゃんを置いて行ったりしませんとも」 敦子が、あっ、と何かに気付いた顔をして、それから声を出さずに口の形を「なるほど」と動かした。 「べ、べつにそんな……」 美由紀は返答に困ってうつむいた。 関口だけは三人の女性の顔を順番に見比べてきょとんとしていた。 「千鶴さん、千鶴さん!」 その時、庭から大声がして、全員そちらに顔を向けた。 「女学生君は来てるかい? 素敵なお土産を持ってきたんだよ」 千鶴子と敦子と関口は揃って美由紀の顔を見て、千鶴子と敦子はそれから顔を見合わせて、「ほらね」と云ってくすくす笑った。 縁側に現れた人形のような顔をした男のこめかみに一筋汗が流れたのを見て、美由紀は何故かほっとしたのだった。 |
エノミユじゃないし、という突っ込みは胸の内に納めてください。そしてタイトルも見逃してください。 コノハナサクヤヒメの表記は数種類ありますが、「絡新婦の理」で使用されている表記にそろえました。 何が云いたかったかというと、べつに、といったところです。すみません。 |