君が為



 だらだらと続くいい加減な傾斜の坂を登り切ると、美由紀は汗びっしょりになった。
 独りでこの坂の上にある拝み屋の家にいくのはもうこれで何度目かになる。この坂を登ったり降りたりするのにかかる時間が、案外美由紀は好きだった。
 本当は神田の探偵と一緒に来る予定になっていたのだが、約束どおり探偵事務所に寄ったところ、探偵は急遽その兄に呼び出されて断り切れず、出掛けたとのことだった。必ず後から探偵も中野に行くからと、如何に探偵が申し訳ながっていたかとか、如何に兄上の要請には断りづらいのだとか必死に訴える和寅を制し、急用が入ったぐらいで怒りませんから、と笑顔で云い置いてからここへ来たのだった。
 古書店の前で一度汗を拭き、ハンカチをぱたぱたと団扇代わりにしてのぼせた顔を冷ましたつもりだったが、玄関口に出てきた千鶴子は、さぞ暑かったでしょうと美由紀を気遣い、すぐに座敷へと上がらせ、井戸水で冷やしていたという冷たい麦茶を出してくれた。
 座敷には古書肆の妹である敦子と、小説家の関口もいた。肝心の古書肆は不在だった。不在と云ってもつい先ほどまで居たそうなのだが、裏手にある神社に用があると云って、席を外しているとのことだった。
 そうして3人で楽しくおしゃべりしていたときだった。
「千鶴さん、千鶴さん! 女学生君は来てるかい? 素敵なお土産を持ってきたんだよ」
 庭から大きな声がして、玄関にも回らず縁側から探偵が上がり込んできた。両手で大きな木箱を抱えている。
「やあ、敦ちゃんも来ていたのか。それは丁度善い。流石敦ちゃんだ。しかも清々しく可愛い!」
 探偵が敦子を可愛いと云うのは本当に心からそう思っているからなのだろうと美由紀は思うのだが、敦子はどうもただの挨拶代わりと捉えているらしく、照れもしなければ喜びもしないで受け流している。
 探偵のほうでもそれを気にもせず、当然のように美由紀の隣に腰を下ろした。(この場合むしろ、美由紀が先に探偵の定位置の隣に座ってのだが)そして、
「待たせて済まなかったね、女学生君。君は今日も最高に可愛くて偉い!」
と、極上の笑みを浮かべて美由紀の頭を撫でた。
 美由紀は、まだ慣れない。というより、敦子に可愛いと言うのが本気ならば、きっと自分にそう云ってくれるのも本気なのだろうけれど、探偵の事務所内ならともかく、他人の前で臆面もなく云われてしまうと、どう反応するのが正常なのか解らなくて困ってしまう。ましてや、年下の美由紀から見ても慥かに可愛い敦子に比べたら自分なんて。
「いえ、あの……。お兄様の御用事、早く終わったんですね」
 結局誤魔化してしまう。
「なあにが『御用事』なものか! あの馬鹿兄貴がっ!」
 誤魔化すのには成功したようだが、どうやら探偵にとってはかなり厭なことを思い出させてしまったらしい。
「どおっしても仕事のことで助けてほしいだの、火急の用だの何だのと云うから、よっぽど困った事態に陥ってるのかと思って格別の親切で行ってやれば! 新しい店に入れるジュークボックスをどれにしたらいいかと、それだけだったんだぞ! 珍しく仏心を出した自分が忌々しいぐらいだっ!」
 敦子は横を向いて口元がひくひくするのを手で隠している。関口はあきれ果てた目で探偵を見ていたが、探偵に呆れているのか、その兄上に呆れているのかは定かではなかった。
「で、でもお兄様のお役に立てたならいいじゃないですか」
 美由紀は探偵を宥めるように云った。美由紀はまだ探偵の兄に会ったことはないが、やはりと云うか何と云うか、風変わりな人だとは聞いていた。身勝手に弟を呼び出す兄も、それに文句を言いながら出掛けていく弟も、他人から見たらなんだか微笑ましくもあるのだが。
「それより榎さん、それは一体何なんだい?」
 まだ延々と兄を罵倒したそうな探偵の気を逸らせたのは、関口の素朴な質問だった。探偵が抱えてきた木箱は、座卓の真ん中に鎮座在している。
「何って、見れば解るだろう、ハコだよハコ。関君、君の大好きなハコじゃないか」
 探偵がにやりと笑って云うと、関口はものすごく厭そうな顔をした。多分本当は嫌いなのだろうと美由紀は思った。箱が嫌いというのも、箱が大好きと同じくらい意味が解らないのだけれども。
「箱は見ればわかりますけれど、何が入ってるんですか?」
 見かねたのか、敦子が口を出す。
「さすが敦ちゃんは賢い! 最初からそのように訊くのが正しい! これはね、ジェラートと云うものだ」
 云いながら探偵は箱の蓋を外した。
「「「ジェラート!?」」」
 女性陣3人の声が見事に重なった。
 木箱の中にはドライアイスがみっしりと詰めてあり、蓋を外した途端、冷たい蒸気が立ち上った。白いドライアイスの真ん中に、アルミか何か金属製の円筒形の入れ物が嵌っており、探偵はその蓋も取った。
 女性3人が思わず上体を伸ばして覗き込む。
 ジェラートは最近人気が出てきたイタリア風のアイスクリームということだったが、美由紀は噂だけで、まだ食べたことはなかった。多分千鶴子もそうなのだろう。少女のように瞳を輝かせている。
 そもそもジェラートを売っている店自体が少ないし、大抵はお洒落な商業施設の中などにあって、そこに行くというだけで、女子中学生ならずとも一般庶民にはまだまだ大変なことなのだった。
 敦子なら食したことはあるかもしれないが、こんな暑い日に家で食べられるなんて贅沢はないに違いない。
「兄貴の店にあったから、くっだらない用事で呼びつけた詫び代わりに寄越せと云ってきたのだ。千鶴さん、お皿3枚ね」
「はい、え? 3?」
 立ち上がりかけた千鶴子が思わず探偵と関口を見遣った。女性3人の分ということなのだろうが、もしかしたらすでに食してきたかもしれない探偵はともかく、千鶴子としては関口を慮るのは当然だろう。
「僕の存在は無視ですか」
 千鶴子に助け船を出したのは、何時の間にか戻ってきて音もなく敷居のところに立っていた拝み屋だった。
「まったくあんたは、ここをどこだと思ってるんです」
「京極んち」
 少しの動揺も見せずに探偵は答えた。
「じゃあここの主人は誰です」
「千鶴さん」
 嫌味でも揶揄いでもなく、それが当然の如く即答した探偵に、拝み屋は渋面を深くして溜め息をつきながら所定の場所に正座した。
「千鶴子、皿は5枚だ」
「5枚……」
 探偵の分は本当にいいのだろうかと千鶴子がまだ逡巡していると、
「千鶴さん、5枚でいいよ」
と探偵がにこやかに云ったので、千鶴子はようやく台所に立った。
 戻ってきた千鶴子が、硝子の器にオレンジ色のジェラートを上手に盛り付けていく。横合いから探偵が口を挟んだ。
「千鶴さん、少し残しておいてね」
「え?」
「雪ちゃんの分。猿に持って帰らせるから。猿は雪ちゃんに分けてもらえば善い」
 ということは、5枚でいいと云った中に関口の分は入っていないらしい。
 千鶴子は可笑しそうに「はいはい」と答えて、2人分には十分な量を容器の中に残した。
 探偵はさっさと蓋を閉めると、関口の尻をを蹴って立たせた。そして木箱を関口に押しつけると、その勢いと重みに関口がよろけるのも構わず、関口の肩を押しながら喚いた。
「ほら、溶ける前にさっさと持って帰れ。坂で転ぶんじゃないぞ。転んでも箱だけは死守しろ! 偶には男を見せろ!」
 関口は何やら悲壮な顔で、探偵にもごもごと何か云おうとした。それが礼なのか文句なのか美由紀には判別できないまま、関口は探偵に追い出されてしまった。

 漸くに落ち着いて、皆がジェラートを口に運んだ。
 美由紀が食べたことのある普通のアイスクリームよりしっとりとして濃厚で、でもオレンジの香りが爽やかだった。一口毎にさっきまでの暑さがすっと引いていく。千鶴子も敦子もほうっと溜め息を漏らすだけで、いつも誰かしらがしゃべっている座敷がしんとした分、気温が1、2度下がったような気がする。
 気づくと、探偵が美由紀の顔をうずうずした様子で覗き込むように見詰めていた。
「美味しい?」
「はい」
「甘い?」
「はい」
「冷たい?」
「はい」
「涼しくなった?」
「とても」
 探偵はやっと満足してにっこり笑った。
 千鶴子と敦子が意味深な視線を送りながら、可笑しそうにこちらを見ていた。
 拝み屋は少しうんざりしたような表情をしていた。
「遠くからわざわざ運んできた甲斐がありましたわね、榎木津さん。美由紀ちゃんの御相伴に与れて光栄ですわ」
 千鶴子に揶揄われて、美由紀はせっかく汗の引いた頬がまた一気に熱くなってしまった。
 自分のために探偵がこの暑い中、ドライアイスを詰め込んだ箱を抱えてきたんだろうか。
 そんなわけはない。だってここに居ることを知っていたのだから、最初からみんなに振る舞うつもりで持ってきたのだろう。
 と思うけど……。
 美由紀に貼り付くようにして探偵が嬉しそうに見詰め続けるので、その後美由紀はどれだけジェラートを食べても顔の火照りが収まらなかった。  







2009年1月アップ。季節外れも甚だしい。
白洲次郎が子供たちのためにハワイからアイスクリームを持って帰ったというエピソードを読んで発作的に書いてしまったものですから。
ジェラートは「分類不能」に書いたボウリング場内にお店があって、当時は珍しがられたとのことです。
当時の一般家庭に冷凍庫はもちろん普及しておりませんが、ドライアイスはあったそうです。
そしてまたタイトルで撃沈…。  






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