煙草の匂いが君の匂い
美由紀がまどろみから目を覚ますと、ベッドの端に腰掛けた探偵の後ろ姿が見えた。 サイドテーブルに置かれたランプの、オレンジ色のぼんやりした光に浮かぶ、しどけなく羽織っただけの緋色の襦袢から見える白いうなじが綺麗だと、美由紀は見とれた。 普通はこういった感慨は、男性が女性に対して抱くものだろうと思うが、今更そんなことは気にしない。自分に引け目も感じない。そういう次元の話ではない。 美由紀が探偵を綺麗だなと思う時は、自分の恋人としてというより、何かそういう生き物として見ているような気がする。探偵の年齢だとか性別だとか、そういったものは頭に上らない。 探偵の手元からは細い紫煙が上っている。常時(いつ)もの光景だ。 美由紀の視線に気が付いたのか、探偵が振り向いてにこりと笑った。 「起こしちゃった?」 「いえ、そういうわけじゃ……」 探偵はまだ吸いかけの煙草を灰皿に押しつけて消すと、美由紀の横に潜り込んで横になり、美由紀を抱きしめた。 美由紀の髪に、頭の天頂辺りにそっと口づける。常時もの儀式。 「それ、何のおまじないですか?」 何とはなしに訊いてみた。常時も、煙草を吸って、それから美由紀の髪に口づける。 決められた行動を繰り返すだとか、験を担ぐなどということは絶対しなさそうなこの男が、同じ行動パターンを取ることに、少し興味を引かれていた。 「おまじないじゃないよ。匂い付け」 「はい?」 意表を突く答に、美由紀は思わず色気もへったくれもない声を上げてしまった。 匂い付け、という言葉に、犬や猫のマーキング行動を思い浮かべる。あたしは電信柱か! 探偵はお構いなしに、楽しそうに続ける。 「だって君はもう女学生じゃないからね」 「そうですけど?」 「だからもう匂い付けても大丈夫なんだ」 そう云うと探偵は本当に何か動物が自分のテリトリーを主張するように、美由紀の髪に己が頬をすりつけた。 つまり……。 美由紀は探偵にほぼ説明を期待していない。 ほぼ、と云うのは、周りの人間が云うほどいつも訳の判らない話しかしないわけではないからだ。本当に肝心なことはちゃんと云ってくれる。少なくとも美由紀には。 だから日常の些細なことで、うるさく探偵に説明を求めようとは美由紀は思わない。 それに探偵の云うことは大抵はそれなりに筋は通っているのだ。 だからとりあえず美由紀は探偵の言葉を頭の中で組み立ててみる。 女学生ではない美由紀には匂いを付けても大丈夫、と云うことは、女学生であった時分には匂いを付けてはいけない。 匂い、と云っても探偵の体臭はほぼない。 第一、髪に少し口付けただけで匂いなど移らない。 けれど、その前に探偵は……。 「我慢、してたんですか? 今まで」 思い当たる節はある。 探偵は、美由紀と居るときには煙草を吸わなかった。以前は。 美由紀が探偵社に入ってきた途端に、吸いかけの煙草を消したこともあった。 駅で待ち合わせをして、美由紀のほうが後から来た時、柱にもたれて煙草をくゆらせている探偵を、少し離れたところから見つけて、しばし立ち止まって眺めていたこともある。 まるで映画の一場面のように素敵だったから。 けれどその時も、美由紀が近付くと、探偵はまだ半分は残っていた煙草を灰皿に放り込んでしまった。 確かに、美由紀は寮生活をしていたので、煙草の匂いをさせて帰ったりすれば、少しややこしいことになっていたかもしれない。 探偵が意外にそういう気遣いをする人だということに、美由紀は疑いを持っていない。 「我慢なんかしてないよ」 屈託のない口調で探偵は答えた。 それも本当なのだろうと美由紀は思う。この人が嫌なことを我慢なんてする筈がないこともまた、美由紀は疑っていない。 「煙草じゃなくてもいいじゃないですか」 美由紀は目の前にある、むき出しになっている探偵の鎖骨の匂いをかいでみた。 先ほどの汗の匂いをほのかに感じる。 「でもこれならすぐ僕のだって判るだろう? 京極のとも関のとも違うんだ」 それは美由紀も知っている。美由紀の父のものとも違う。探偵は特にこだわっている銘柄はないようだったが、外国製の、少し細長い煙草の箱を持っていることが多かった。 僕のもの、と主張したかったのだろう。誰に向けてというわけでもなく。 美由紀はそれが嬉しかった。 所有したい、独占したいと探偵に想ってもらえる事は幸せだった。 探偵も、多分ただの自己満足なのだろう。翌日になって、髪の匂いを確認されたことはない。 だから探偵が気付いているのかいないのか知らないが、美由紀はとりあえず黙っていようと思った。 ここに泊まった翌朝は、探偵がまだ寝ている間にいつもシャワーを借りて、髪までちゃんと洗っているということを。 |
いきなり事後(笑)。 うちのサイト的には話飛びすぎです。 |