手を繋ごう 

 誰が映画の話を最初にし始めたのかもう覚えていないが、とにかく最近人気の映画について、和寅が熱弁を振るっていたのは確かだった。
 以前ラジオドラマで人気を博していた作品の映画化で、美由紀の学校でも何人もの級友が既にそれを観に行っていた。
 ただ、級友たちの中では映画の中のロマンスや、ヒロインの相手役の男性に話題が集中していたと思うが、和寅の関心は専ら、ヒロイン役の女優がいかに美しいかということにあるようだった。
 探偵は厭な顔をして、何時そんなものをこそこそ観に行ったのだ、いやらしい、この変態などと理不尽な罵言を和寅に浴びせた。
 別にいやらしい映画でもなんでもない。映画館に足を運んでいる客のほとんどは女性なのだ。
 和寅は口を尖らせて、変態なんかじゃありませんよ先生、お嬢さんだって観たいでしょう? と話を美由紀に振ったのだった。
 そこで美由紀はつい、和寅に恨みはないのだが、「わたしはチャップリンの映画を観たいな」と本音を漏らしてしまったのだ。
 そうしたら探偵はいたく喜んだ。
 さすが女学生君だ、綺麗な女の人が泣いても面白くないが、ちょびひげおじさんが転んだら笑えるじゃないか。そして、善は急げだと云って、そのまま映画を観に行くことになってしまったのだ。
 休日の街中は賑わっていた。
 美由紀の実家のある千葉の田舎を比べたら、一体どこからこれだけの人間が湧いて出たのかと思うほどだ。
 探偵の足は速い。
 それでも美由紀と歩くときは、少しは速度を緩めてくれているのだが、美由紀としてはのんびりぼんやり歩いていたら置いていかれてしまう。
 大体半歩ほど遅れて、探偵に付いていく形できびきびと歩く。
 美由紀はそれが嫌いではなかった。
 多分、最初に出会った頃からそうだったからだろう。
 この人に付いていけば間違いないと分かっている。
   だから、安心だった。
 でも。
 美由紀は、舗道を歩く周囲の人たちを目で追う。
 春と初夏の間にある天気の良い休日。
 街を歩く多くの若者の中に、男女の二人連れは少なくはなかった。
 腕を組んだり、手を繋いでいたり、男性が女性の肩を抱き寄せるようにしている者たちもいた。
 戦前には考えられなかったことだと、先日学校の教師が嘆かわしげに云っていた。
 尤も、美由紀の実家近くではそんな光景は見たことがないから、時代の変化だけでなく、この東京だからということもあるのかもしれない。
 でも恋人たちは男性だけでなく女性のほうも、少しも悪びれるところはなく、ただ楽しそうに、幸せそうに歩いている。
 しっかりと手を握り合った男女と擦れ違いざま、女性が恋人の顔を確認するように見て、安心したように微笑む姿が美由紀の目に入った。
 彼がそこにいることを、どこか遠くの国へ行ってしまうことがないということを、確認するかのように。
 美由紀は何だか目のやり場に困って気恥ずかしいような、それでいてどこか羨ましいような気持ちになった。
 羨ましい、と思う気持ちに気付いて、自分でとまどう。
 美由紀は、あまり恋愛そのものに憧れはなかった。
 前の学校での事件が尾を引いているのかもしれないし、元々そういう性格なのかもしれない。
 だから映画だって、級友たちが騒いでいる恋愛ものより、チャップリンがいいなどと思ってしまう。
 なのに、何故羨ましいなんて思うのだろう。
 誰と腕を組んだり手を繋いだりしたいっていうのよ。
 そんな相手いないじゃないか。  突然、目の前に誰かに立たれて我に返った。
 いつの間にか探偵に後れて、少し離れてしまっていたらしい。
 美由紀の行く手を阻むように立ったのは背の高い若い男だった。髪が少し長く、シャツの前立てをボタン三つ分ほども開けている。軽薄そうではあるが、ヤクザではなさそうだ。
「可愛い女の子がそんな暗い顔してちゃいけないなあ」
 見た目通りの軽い口調で声を掛けてきた。
「一人なの? だったらどっか遊びに行かない? それとも約束でも?」
 美由紀が答える前に、男は美由紀の腕を掴もうとした。
 咄嗟に身体をひねって美由紀はそれを避けた。
「ああ、大丈夫だよぉ、変なことしないって」
 男はおどけてその手をひらひらさせて見せた。
「あの……」
 男の背後を見た美由紀が忠告する暇はなかった。
 何が起こったのか、見ていた美由紀にもよく見えなかった。
 とにかくその男の身体が一瞬にして横に吹っ飛び、探偵がその長い足を下ろすのが目に入った。
 男は痛みよりも驚きのほうがまさったようで、舗道の上で這いつくばるように身を起こすと、きょろきょろと周囲を見回した。
 歩行者たちが足を止め、遠巻きにこちらを見ている。
 探偵は、起きあがろうとした男を再び軽く蹴飛ばして仰向けに転がした。
「な……!」
 男は探偵に何か抗議しようとしたが、探偵の片足が再び持ち上げられ、自分の股間の上でピタリと止まったことに気付いて文字どおり真っ青になった。
 探偵の目がすっと細められた。
「女の子に悪さばかりしてると、死ぬよ」
 男は両手で股間をガードしつつ、冷や汗と脂汗をだらだら流しつつ、もはや声も出せずにこくこくと頷くしかなかった。
 探偵は次の瞬間にはこの男への興味を失ったようで、美由紀のほうに向き直ると、さっと美由紀の手を取った。
 そのまま、ぐいぐいと美由紀を引っ張るように歩き始めた。
「あ、あの……」
 自分の不注意を怒っているのだろうかと不安になった美由紀が恐る恐る声をかけると、探偵は足を止めて、意外にも嬉しそうににこりと笑って、繋いだ手を美由紀に見せるように上に上げた。
「これからはずっとこうしていたらいいね」
「はい……え、ずっと?」
 探偵はもう、美由紀の声には耳を貸さずに再び歩き始めてしまったが、美由紀は赤くなった自分の顔を見られなくて丁度良いかもしれないと思った。  












一度榎さんの回し蹴りを書いてみたかったんですけど
結局書けてないですよね(笑)。
アクションシーンは難しいです。
話題の映画は「君の名は」。昭和28年の公開だそうでございます。  
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