僕は色を取り戻した 

 ぼんやりと天井を眺める。
 ぼんやりとしか目に映らないが、とりあえずそこに天井があるということはわかる。


 数日前、熱を出した。
 多分数日は経っていると思う。
 外を歩いていて突然周りが真っ暗になってしまって、どうしたものかと思っていたら、偶然女学生が通りかかったので連れ帰ってもらった。
 女学生は一生懸命だった。
 一生懸命僕を心配して、手をつないで、柔らかい手で僕の額や頬を冷やしてくれた。
 あんまり一生懸命で可愛いから、抱きしめたいなと思ったけれど、電車の中なのでやめておいた。

 それからとにかく寝た。
 頭が痛いとかどこか苦しいとかいうことは全くなかったが、ただ、いくらでも寝られた。
 何度かふっと目を覚ますと、和寅に葛湯か何かを口に流し込まれた。
 医者が来て注射していったらしいが、幸いなことにそれは記憶がない。
 寝たいだけ寝たら粗方熱は下がったようだし、目も見える。
 ぼんやりしているのはいつものことだし、問題なく回復している筈だ。
 それにしてはやけに薄暗く見える。
 カーテンが閉まっているのか。
 電気が点いていないのに真っ暗ではないということは、屹度夜ではないのだ。
 その割には部屋全体が灰色だ。
 僕は色覚異常はなかった筈だが。
 起き上がってカーテンを開けてみた。
 途端に光が目に突き刺さって慌てて閉める。しばらく目が開けられなかった。
 布団を被ってごろごろしながら、とりあえず今は昼間で外は晴れているらしいということを理解した。
 

 物音に気づいたのか、和寅が顔を出した。
「先生?」
「何だ」
 顔を出さずに答えた。
「ああ、やっぱりお目覚めだったんですね。具合はいかがで?」
「平気だ」
「寒いんですかい? 毛布をもう一枚……」
「いらない」
 しょうがないので顔を出した。
 眩しくない。和寅の間抜け面がぼんやり見えた。
 米と卵も見えた。
「それよりおなかがすいた」
 そう云うと、ちょっと呆れたような安心したような顔をして和寅はさっさと出ていった。
 
 寝室に運びましょうかと云うのを断って、あっちで食べると云って事務所に出た。
 和寅は、ああ、またそんな格好でとか何とか云いながらガウンを持って追いかけてきた。
 ソファに腰を下ろして部屋を見回す。やっぱり何だか薄暗いような気がする。
「和寅、ここの電球切れかけてるんじゃないか?」
 和寅が、へえ? とか何とか声を出して電灯を見上げた。そうするとますます間抜けに見える。
「そんなことないですよ。それより先生、その格好でいらっしゃるならあちらで召し上がってくださいよ。ひょっとしてお客でも来たらどうなさるんですよ」
「探偵事務所に来る客なら、探偵が寝間着でいるのを見たら普通帰るだろう。説明の必要がなくて便利じゃないか」
「いや、そりゃ寝間着っていうか先生……」
 何やらもごもご云っていたが無視した。
「いいからさっさと食事を持ってくる! 熱が下がっても空腹で死んだらどうするんだ」


 温かい卵おじやは美味しかった。食べたら余計おなかがすいた気がしたのでお代わりをした。
「マスヤマは?」
「仕事だそうです」
「それがか」
「はあ……」
 やけに古い擦り切れたようなコートを着て、縁の黒々とした眼鏡をかけ、毛羽だったハンチング帽を被って出ていくカマオロカが見えた。それは仕事ではない。変態行為だ。
 それにしてもそういうのは相変わらずちゃんと見える。
 なのに部屋の中は薄暗いし、くすんだ色をしている。
 やっぱり電灯がおかしいのだ。電球を替えろと和寅に云おうとしたら、入り口のベルが鳴って、和寅は慌てて飛び出していってしまった。
「すいません、今日は……。ああ! こりゃあどうもどうも! すいませんねえ、わざわざありがとうございます」
 意味不明な対応だ。
「先生、先生、美由紀さんがお見舞いにいらしてくださいましたよ。あの後2回も来てくださったんですが、先生はお休み中でしたんで」
 だったら起こせばいいじゃないか。せっかく女学生君が来ていたというのに、僕は全然知らなかった。
 和寅の後ろから入ってきた女学生は、新聞紙で作られた小さな紙袋を両手で大事そうに持っていた。
「やあ、女学生君、今日も可愛いね」
 女学生は僕の顔を見ると安心したように笑った。
「良かった、元気になったんですね」
「だから大丈夫だと云ったじゃないか」
「全然大丈夫じゃなかったですよ」
 女学生は笑顔をひっこめてちょっと睨むように僕を見ながら、和寅に勧められて向かい側に座った。
 それからテーブルの上を見て、おなかいっぱいですかと聞いた。
 紙袋を置いて、中から林檎と蜜柑を一つずつ取り出した。
「あんまりたくさん買えなくて」
 少し申し訳なさそうに云いながら、右手に林檎、左手に蜜柑を持つ。
 八百屋の店先で一生懸命、一番美味しそうなのを選んできてくれたのか。
 寒かったのだろうに。頬が赤くなっている。
 右手にはつやつやの林檎。左手には水気の多そうな蜜柑。
「風邪にはビタミンCが一番ですよ」
 だから風邪ではないと云うのに。
「お好きなほうを剥きますよ」
 右手に林檎、左手に蜜柑。
 瑞々しい唇が再びにっこりと笑う。
「どっちがいいですか?」
 右手に林檎。左手に蜜柑。
 僕は……。
「真ん中がいい」






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