水溜りに映る青い空
美由紀は買ったばかりの雑誌を濡らさないように抱え込んで寮へと向かう途中、特有の甲高さを持つ子猫の鳴き声を聞いた。 足を止めて声の聞こえてくる方向を探ってみる。 親猫らしき声はしない。子猫の必死の鳴き声だけが聞こえてくる。 捨て猫? それともこの雨で親とはぐれたのかな。 探したところで寮生活の美由紀にはどうしてやりようもない。それでも、せめて雨に濡れない場所に移してあげることぐらいはできるかもしれない。もし迷子の飼い猫なら、この付近で飼い主を捜すぐらいはできるだろう。 特別猫好きなわけではない。この本も早く読みたい。でも、そんなに早く寮に帰ったって、時間を持て余すだけだから。 どのみち美由紀の目を引いた記事は一つだけだったので、それはきっとすぐに読み終えてしまう、この、『稀譚月報』。 雨の日の本屋の匂いはなんとなく落ち着くから好きだ。欲しい本あったわけではなく、ふらりと入った書店で、その雑誌が目に入ったのは偶然ではない。 美由紀はまだ一度しか会ったことがないけれど、中野の古本屋さんの妹さんがこの雑誌の記者をしているというから手に取ってみた。 職業婦人を絵に描いたような、格好よくて、知性的で、それでいてとてもチャーミングなお姉さんだった。あの人がどんな仕事をしているんだろう。憧れと好奇心で雑誌をぱらぱらとめくってみた。 美由紀の理解力には余りそうな 「一つ目小僧?」 慥かに記事の中には一つ目小僧という文字が見えたが、その挿絵は美由紀が子供の頃何かの絵本で見た一つ目小僧とは大きく違っていた。美由紀の記憶ではその妖怪は、文字どおりお寺の小僧さんの姿をしていて、顔の真ん中に大きな丸い目が一つ付いていたように思う。怖いというよりむしろ可愛いぐらいだった。 しかし、その絵の妖怪は着物なんか着ていないし、小僧にも見えない。顔の真ん中に目が一つあるというよりは、片方の目が、その絵では ざっと記事に目を通して、幾つかの単語だけ拾い読みする。 一つ目小僧……コト八日……化け物……山の神……片目神の伝説……。 さっぱりわからなかった。 わからなかったけれど、どうしてだか、この妖怪とは似ても似つかぬ美麗な探偵をつい思い浮かべてしまった。 隻眼の神。 ただそんな言葉からの連想に過ぎないのだけれど。 美由紀が彼の探偵の眼に視えるものと見えないものを知ったのは、まだほんの一月ほど前のことだった。 もちろん、本人から聞いたわけではない。千葉で世話になった拝み屋から聞いたのだ。その拝み屋にしても、美由紀が興味本位ではなく真面目に訊ねたのでなければ話しはしなかったのだろうし、その美由紀もまた、夏休みに訪れた探偵社で探偵の不在とその理由を聞かされなかったなら、わざわざ中野に足を向けるつもりはなかったのだが。 そして、拝み屋にして古本屋の主人から、榎木津の体質だか能力だかについて、わかったようなわからないような説明を受けても、美由紀にとってはそれはさして大きな問題にはならなかった。 そのために忌避したくはならなかったし、畏れようという気にもならなかった。 探偵が だから古書肆の説明と仮説は、美由紀にとっては今まで少し不思議に思っていたことの答えになったというだけだった。 「気味が悪いかね?」 おそらくは美由紀を試すように古書肆がそう云ったとき、美由紀は迷いなく首を横に振った。 ただ少し、泣きたいような気持ちになった。 改めて挿絵の説明書きを読んでみると、どうやらそれは一つ目小僧とはまた少し違うものらしい。 『稀譚月報』はお堅い雑誌だと思っていたが、妖怪なんかの記事も載せるのか。筆者の名を見ると多々良何某とあった。 美由紀がそのままそれを衝動買いしてしまったのは、本屋の主人がさっきから美由紀の立ち読みを横目で見ていたからというだけではなく、ちゃんと読んでもう少し理解したいと思ったからだった。 ずっと本を抱えていた右手が疲れたので、落とさないように注意深く左腕で抱え直し、左手で持っていた傘を右手に持ち替え、美由紀は猫の声のする方向へ歩き始めた。 数歩先の路地を曲がるとすぐのところに、民家の間に挟まれるようにして雑木に囲まれた小さな土地があり、その一角に背の低い赤い鳥居があった。子猫の声はその木々の隙間から聞こえてくる。 鳥居を潜ると、雨でぬかるんだ細い道が左にカーブを描いて続いており、その小道に沿っていくと、それは案外短くて、すぐ正面に小さなお社が見えた。 神社と呼べるほどの規模ではなく、社務所などもない。何を祀ってあるのか知らないが、かろうじて雨宿りぐらいはできそうな廂と、その下に張り出した縁がある。そこに鳴き声の発信源を抱いて腰掛けている人物を認めて、美由紀は一瞬足を止めた。 「探偵さん!」 「女学生君じゃないか!」 二人が声を挙げたのは同時だった。 子猫は全身の筋力を使って鳴き続けている。 美由紀はぴちゃぴちゃと水が撥ねるのも構わず駆け寄った。 探偵は膝の上に、白い両手で包むようにして茶トラの子猫を乗せていた。 「どうしたんですか? その子」 「そこの土手に捨てられて溺れそうになっていたのを掬い上げてきたのだ。迷える子猫を救うのは神の務めだからな」 満足そうにそう答えてから、探偵は自分の横をぽんぽんと叩いて、君も座りなさい、と云った。 美由紀は素直に従った。 少しじめじめする板に腰掛けると、探偵の背後に何やらびしょ濡れになった上に泥だらけの布の固まりが目に入った。 美由紀はそれを指先で摘み上げた。フード付きの薄手の上着だった。襟に付いているタグによれば、どうやらアメリカ製らしい。 これで子猫をくるんできて、拭いてやったのだろう。子猫は毛が少しぼさぼさしていたが、少なくとも探偵本人の髪の毛ほどは濡れていない。 「和寅さんが泣きますよ」 「あいつは泣くのが趣味だから泣かせておけばいいのだ」 洗濯をする給仕の青年は気の毒ではあるが、染みが落ちなくて着られなくなってもこの服の持ち主は気にしないだろうから、美由紀はそれ以上の追及はしない。 「捨て猫ですか? 親猫が探してるとか」 美由紀は輸入物の上着のなれの果てを元の場所に戻して訊いた。 「捨て猫だよ。箱の中に3匹入ってたんだから」 「3匹? あとの2匹はどうし……」 云い終わる前に美由紀は後悔した。探偵の顔が明らかに曇って、視線を美由紀から子猫に落としたからだ。 ああ、そうか……。 「しかしこのチビにゃんこは偉い!」 探偵は、美由紀が沈み込む暇もないほどすぐに立ち直ったようだ。 「精一杯自己主張して助けを求めたのだからな。しかもちゃんと神が通りかかったのを察知して、だ!」 いや、誰が通っても通らなくても鳴くだろう、その状況は。 それでも慥かに、猫が自力で鳴き声を挙げなかったら助けてもらえなかったのだから、ある意味探偵の言ったことは正しいと美由紀は思ってしまう。 「その上恩返しまでするのだからな。やっぱりにゃんこは偉い!」 「恩返し?」 さすがに今度は思わず聞き返してしまった。 「そうだ。女学生君をここに呼び寄せたじゃあないか」 「それが恩返し?」 「そう」 何だかわからないが、探偵がにこにこと嬉しそうだからいいかと聞き流し、美由紀は小さなショルダーバッグからハンカチを取り出した。 「頭拭いてください。風邪引くといけないから」 そう云ってハンカチを探偵の手に押しつけ、子猫を奪い取った。 探偵は少し苦笑して自分の髪を拭ったが、ハンカチ1枚では足りなかったようだ。見れば肩も濡れている。 「傘はどうしたんですか?」 「持ってこなかった」 たっぷり水分を含んでしまったハンカチを絞りながら、探偵はこともなげに云った。 「なんでこんな雨の日に傘持ってないんですか」 「だって僕が出るときには降ってなかったし」 「だけど朝からもういつ降りだしてもおかしくない空模様だったじゃないですか」 「朝の空なんて見てないぞ」 そりゃどうせ朝は起きていないだろうけど。いや、そういうことじゃなくて。 「洗って返すからね。また今度事務所においで」 探偵はハンカチを筒衣のポケットに突っ込んだ。 はい、と元気よく返事をして、美由紀は子猫を放した。 子猫は鳴き疲れたのか、くんくんと美由紀や探偵の手の匂いをかいでは、時折みゃあと何か訴えるように鳴くだけになった。 「この子、どうするんですか? 探偵さんが飼うんですか?」 「飼えない。前にも拾って帰って馬鹿寅とマスカマに大反対されたんだ」 探偵はものすごく不満そうに云った。 「あいつらいつも反目し合ってるくせに、なんでああいうときだけ結託するのだ」 それでも、本当に自分がそうしたければ下僕の反対など歯牙にも掛けないのだから、やはり探偵なりに反対される理由に納得せざるを得なかったのだろう。 「いずれにしろ東京中の気の毒なにゃんこを育てるわけにはいかないからな。神は自ら歩く猫を助く、だ。独り立ちするのはあまねく生き物の宿命だ」 後半はやはりよくわからなかったが、それでも正しいような気がしてしまう。 「そうですね。この子は強いから大丈夫ですよ、きっと」 慰めるつもりで云って、美由紀はふとおかしくなる。なんで自分がこんな大人を慰めようとしているんだろう。自分はただの小娘で、この人は何だってできるのに。 子猫がまたみゃあと鳴いた。 「おまえ自分で餌獲れるか?」 探偵は猫に話しかけながら、その背中をなでている。 やっぱり心配そうだ。 いや、心配というより何か……。 少し元気がないかな、と、俯いた探偵の顔を見て美由紀は思った。 どこがどうだとか、なぜだとか根拠はないけれど。 ただ、彼の大きな鳶色の瞳が、今は雨に降り込められて鈍色に見える。 ついこのあいだも探偵は東京・神奈川をまたにかけた連続殺人事件に関わったらしいから、そのせいだろうか。 たしか美由紀とほとんど歳の変わらない女子高生も1人、犠牲になっていたはずだ。 そんなことをぼんやり考えていた美由紀は 「女学生君」 ふいに呼ばれてなぜだか姿勢を正してしまった。 「君まで妖怪偏執狂になったのか? 今からあんな陰気な似非神主に影響されていたら正しい大人になれないぞ」 探偵は怪訝な顔をして美由紀の頭部を見ていた。 「はい? ああ、いえ、そんなんじゃありません」 美由紀は紙袋を開けて『稀譚月報』を取り出して見せた。 「ちょっと面白いなと思っただけです。立ち読みしただけなのでよくわからなくて。お化けと神様が同じなんて変だし……」 「ふうん」 まあ、そうとしか反応のしようはないだろう、と美由紀が雑誌をしまいかけると、 「それはきっと同じものだね」 探偵は細長い指で、子猫の頭をこりこりと撫でながらそう云った。 何と何が同じ? 一つ目小僧と――。 「みんなこう、自分たちの周りにぐるっと線を引いてね」 話が飛んで着地点が見えない。 美由紀のとまどいは置いてきぼりに、探偵は珍しく静かに言葉を紡いだ。 「自分たちとは違った姿形をしていたり、理解できない能力を持った者はその線の向こうへ追いやるのだね。だから神様も化け物も、境界線の向こうだっていうのは同じ」 それはそうかもしれない、と美由紀は思った。慰めるのも苛めるのも、根底にある感情は多分同じだ、と思うから。 異形の者、異能の者を崇めれば神に、蔑めば化け物になるのかもしれない。 常と異なった姿形。それはきっと醜いとは限らないのだろう。この世のものとは思えぬほど、美しいこともあるのだ。 陶器のように白い肌。 長い睫。 大きな瞳。 同性でも見蕩れる程の――。 人形のような――。 織姫――。 天使のようだと思っていた。 呪いなんていうものから最も遠いところにいると思い込んでいた。 全部、全部、ただ美由紀がそう思って、周囲の人間が決めつけていただけだった。 蜘蛛の僕の頭目だった。 本人は悪魔の申し子なのだと云った。 でも本当は、家族の愛情に飢えた、ただの子供だった……。 違う。 美由紀は慌てて小さく 探偵さんと碧は全然違う。探偵さんは大人で、強くて。碧のように自らを哀れんで虚勢を張ったりしない。 わたしを救ってくれた超越者だから――。 超越者? 境界線の向こうの? いつの間にか探偵の端正な横顔を凝視していたことに気づいて、美由紀は急に後ろめたい気持ちになって目をそらした。 どうしてこの人はそんなことを云うんだろう。 自分で自分のことを神だと豪語するような人が。 神も化け物も同じだなんて云ってしまうのだろう。 つきん、と。 どうして心臓が痛くなるんだろう。 どうしてまた泣きたいような気持ちになるのだろう。 いつの間にか雨は上がっていた。 灰色の雲がぐんぐん流れて、その隙間から時折青い空が覗く。 所詮自分には他人を、ましてや大人の男の人を理解することなどできるはずもないのだし、自分の気持ちすらこんなにわからない。 でもせめて、だからせめて、今の自分にできる精一杯のことを。 「わたし、学校で訊いてみましょうか? その子をもらってくれる人がいるかもしれない」 「君は寮生だろう?」 「わたしは寮ですけど、前の学院と違って全生徒寮じゃないですよ。だから」 「ほんとに?」 探偵があからさまに嬉しそうな顔をして、美由紀も胸の痛みがすっと消える。 「だったらそれまでうちで保護することにしよう。うん。それならいいぞ」 探偵は汚れた上着を気にもせず肩に引っ掛けると、子猫を両手に乗せて立ち上がった。 「女学生君も一緒に来たまえ。保証人だ」 一時預かるだけだからと、秘書と助手を説得するつもりなのだろう。美由紀に援護射撃しろということか。 「はい」 素直にそう答えて、紙袋と傘を持って美由紀も立ち上がる。 足元を見ると、水溜りの上を雲が足早に流れていく。 探偵を見上げると、その色素の薄い硝子玉のような双眸に、明るい空の青が映っていた。 元気がないように見えたのは勘違いだったかもしれないと美由紀は思った。 あれはきっと雨の所為だ。 探偵は美由紀が立ち上がったのを確認すると、にっこり笑って歩き始めた。 濡れた茶色の髪に日指しが煌めくのを見詰めながら、美由紀はその後を追った。 子猫がまたみゃあと鳴いた。 |