12



 それから一月近く経って、私は漸く探偵のところにまた電話を掛けることが出来た。
 出立の前にどうしても、ちゃんと彼に伝えたい言葉があった。
 御所の外苑を並んで歩いた。最初の頃のように。
 木々は茶色の葉をすっかり落とし、季節の移ったことを告げていた。
「仏蘭西に留学が決まりました。来週には出発します」
 探偵は驚いた様子で、目を瞠って私のほうを向いた。
 私も彼に向き直って、その透き通った飴色の瞳を見詰めた。
「女学校時代の恩師に尽力していただきましたの。欧州へ行って最新のフェミニズムを学んでこようと思っています」
「フェミニズムの闘士になるつもりかい? 愚かにして諸悪の根元である男どもをやり込める弁舌を身に付けて帰ってくるわけだ。それはあんまり楽しくないなあ」
 探偵が妙に複雑な顔をしたのが何だか可笑しくて、私はくすりと笑ってしまった。
「そんなつもりではありませんわ。もっと視野を広げたくなっただけなんです。何をしたいか、何をするべきか、まだ自分でも解りませんが、勉強することでそれも見えてくるかもしれないと思ったのです」
「そう。それは善いね」
 探偵の大きな眼が私を見て優しく細められるのを、私は娘時代のように心臓を高鳴らせながら眺めていた。
「ここまで来られたのも榎木津様のお陰です。ありがとうございました」
 社交辞令でもなく、強がりでもなく、私は心からそう云うことが出来た。
 それから暫く、私の留学先のことや、入学前に先に現地で仏蘭西語の勉強をしなければならないこと、それから船旅の過ごし方など、いろいろなことを話した。
 ひとしきり歩いてから、私は足を止めた。
「今日は送っていただかないでも大丈夫です。ここから独りで帰れます」
「本当に? 無理をしてない?」
「ええ。本当に大丈夫。ではここで……」
 私は息を一つ吸い込んだ。
「さようなら」
 堂々と、そう云うことが出来た。
「──うん」
 只一言そう返した彼に会釈して、私は歩き出した。
 少し行ってから振り返ると、彼はまだ私を見送っていてくれた。私が振り返ったのを見て、笑顔で手を振ってくれた。
 陽光のようなその笑顔と白い手を脳裏に焼き付けて、私はもう一度小さく頭を下げて、今度は振り返らずに歩いていった。


 数日後、私は東京港から海路欧州へ向けて旅立った。
 甲板に立つ船客たちは、ただの旅行と思われる裕福そうな年配の夫婦や、仕事と思われる男性客、そして私と同様留学でもするのか、若い男女もかなりいた。皆、それぞれ片手に紙テープをしっかり握って、見送りの人々と笑顔を交わし合い、もう片方の手を力一杯振っていた。
 反対し続けていた両親も、最後には只私を案じ、見送りに来てくれた。何度も涙を拭う母と、頷きながら手を振る父に、私も手を振りながら大きな声でしばしの別れを告げた。
 ──ありがとう。私のことは心配しないで。お二人ともお元気でね。
 船と岸との大勢の人々の声に紛れ、両親まで私の声は届かなかっただろうけれど。
 やがて船が埠頭を離れた。
 旅立つ者と残る者とをつないだテープが切れていく。
 甲板の客の目にも涙が浮かぶ。
 その時、埠頭の人混みの中に、頭一つ分程抜け出た背の高い茶色の髪の人が見えたような気がした。
 船がゆっくりと向きを変える。
 私は急いで甲板を移動し、最後まで岸の見える位置で他の客を押し退けるようにして手摺りから身を乗り出した。
 けれどその時にはもう既に、その茶色の頭は何処にも見えなくなってしまっていた。
 目の錯覚だったのかもしれない。
 全然関係ない人だったのかもしれない。
 それでも私の胸には温かなものが広がり、私はそれを大切に抱きしめて、新しく生き直す地へと向かった。  







 
目次に戻る