傍に居て・後 それきりまた黙りこくってしまった探偵が、しばらくしてやっと美由紀のほうを向いた。 にこっと笑って「帰ろうか」と云った。 「もう、いいんですか?」 声が震えないように、まだ幾らでもここで過ごせそうであるかのように、そう訊いた。 気遣われたり遠慮されたりするのは厭だった。 「うん。いいよ」 探偵は答えて、その日初めて美由紀に手を伸ばした。 ざくざくと砂を踏みしめて探偵に近付く。 美由紀の手も探偵の手も冷えきっていたけれど、つながった掌は少しずつ体温を取り戻していった。 今度は少し車を走らせただけで、探偵は車を停めた。 美由紀は自分でドアを開けて車から降りた。 探偵はごく自然にこちらに回ってこようとした様子だったが、美由紀が自分で開けたのを見て、特にどうという反応もせずに、先に歩いていって、すぐ前の洋風の建物の扉を開けた。 美由紀は辺りを少しだけきょろきょろと見回してから、急いで探偵の後に続いた。 そこは別荘地の中にあるレストランだった。 レストランと云っても堅苦しそうな雰囲気は何処にも無い。豪華な山荘というような趣だった。 床は板張りで、特殊な油が染み込んでいるようで、滑るような感覚はまるでなく、しっとりとした感触があった。 隅のほうには本物の暖炉があった。中央には大きな薪ストーブもある。どちらも火が入って赤々と燃えていた。 テーブルも、太い木の切り株をそのまま生かしたいびつな丸で、もちろん表面が傷まないように加工が施してある。 何組かの客がくつろいだ様子でワインを飲んでいる。皆周りにあまり遠慮なしに、お喋りしたり、声をたてて笑っている。 どちらかというと上品な居酒屋のようでもあった。 美由紀が興味津々に店内を観察している間に、黒っぽいチョッキを着た若い男性が来て、探偵が幾つか何か注文をした。 探偵がコートを脱いだので、美由紀も慌ててそれに倣う。本当はまだもう少し身体が温まるまで着ていたかった。 ほどなくして先ほどの男性が飲み物を運んできた。探偵には珈琲、美由紀にはココアだった。 美由紀は詳しくは知らないが、食事の前に珈琲やココアというのは多分あまり一般的ではないのではないだろうか。 しかし運んできた男性店員は、嫌味にならない程度の笑顔で「ごゆっくりどうぞ」と云ってカップを置いていった。 美由紀は両手で包むようにカップを持って口元に近付けた。二、三回ふーふーと吹いてから一口含む。チョコレイトをそのまま液体にしたような甘さと温かさが、冷えた身体に染み渡り、身体の芯から溶けていくようだった。 もう一口飲んで、美由紀はほうっと息をついた。 「寒い思いさせちゃったね」 そんな言葉にはっとして見ると、探偵はカップを片手に持ったまま美由紀を見ていた。 「あ、いえ、そんなには……」 美由紀は下を向いてもごもご云った。 しまった。こんな、いかにも暖まってほっとしましたみたいな態度、これじゃ海岸で我慢していたのが水の泡だ。 美由紀の間抜け振りが可笑しいのか、やせ我慢を見抜かれたのか、探偵は「ごめんね」と云いながらもくすくす笑った。 「探偵さんは寒くなかったんですか?」 「寒かったよ」 「そうは見えなかったですよ」 「僕は寒くても平気だったからね」 「平気なんですか?」 「うん。君が居たからね」 ぼっと音がしたかと思うほど、顔が熱くなった。 なんてことをさらっと云ってるんだろう、この人は。そんなこと云われたら、女の人は勘違いしちゃいますよ。 勘違いしちゃうじゃないですか。 美由紀はなるべく探偵の顔を見ないようにしてココアを飲み干した。 その後の食事は愉しいものだった 最初美由紀は、本格的な西洋料理が出てくるのではないかと内心若干緊張していた。ナイフとフォークの使い方は学校で習ったが、実際にレストランでそのような食事をしたことはないし、自信があるわけではない。 しかし探偵の注文したものはサンドイッチだったので、美由紀の心配は杞憂に終わった。 ただし、サンドイッチと云ってもそれは美由紀が見たこともないような代物で、こんがりと美味しそうな焼き色のついたパンと、何の肉だか判らないもののローストと(後でそれは七面鳥だと探偵に教わった)野菜が何層にもなっていて、美由紀は顎が外れるかと思うぐらい大口を開けなければならなかった。 探偵は一皿ぺろりと平らげたが、美由紀は途中でお腹一杯になってしまい、最後の一切れを探偵に押し付けた。 よくここまで頑張った、さすが女学生君、いい食べっぷりだったなどと、探偵は褒め言葉のつもりなのだろうが、年頃の女の子が云われても嬉しくもない。美由紀は恨めしそうに上目遣いに睨みながらオレンジジュースを飲んだら、それがまた探偵の笑いを誘ってしまった。 時折、美由紀はあの日の事を思い出していた。 探偵に視えていないはずはない。 その後美由紀が逃げ帰ったこともきっと解るだろう。 美由紀のその行動が意味するところも、きっとばれているに違いないと美由紀は思った。 だが、探偵は何も云わないし、以前と変わりなく接してくれる。 次にどんな顔をして会えばいいのか、このまま会えないかと胸がぎゅっと絞られるように痛んだことなど嘘のように、悩んだ自分が馬鹿みたいに思える。 そんな馬鹿な自分の顔を、探偵は今しっかり見ていてくれる。あの日の記憶ではなく、今の美由紀自身を。 だから今はそれでいい。それ以上の感情は、まだしばらくばれてない振りをして仕舞っておこうと美由紀は決めた。 寮に戻ってきたときには、門限はすっかり過ぎて、夜中と云っていい時刻だった。届出は出してあるものの、さすがに遅すぎる時間帯だ。 探偵は、舎監に一緒に事情を説明してあげると云って車を降りた。 いくらさほど風紀に厳しくない学校とは云え、普通なら男性と二人きりでこんな時間までいたなどと、却って心象を悪くしそうだが、探偵なら年が離れすぎている分保護者として見てもらえるかも知れない。あわよくばまた訳の解らないことを云って煙に巻いてくれるかもしれないなどと不謹慎なことを考えて、美由紀は素直に好意に甘えることにした。 寮の門を潜ろうとした時、美由紀はぐいと腕を引かれ、次の瞬間には探偵の両腕にすっぽりと抱きしめられていた。 「あ、あの……」 探偵の心音が聞こえ、自分の鼓動も速くなる。 「ありがとう。今日は、一緒に居てくれて」 少し掠れた声が上から降ってきた。 やっぱり、どこか常時と少し違う。 美由紀は体を探偵から離して、その顔を見上げた。 「わたしで善かったんですか?」 探偵は心底意味が解らないというように目をしばたかせた。 「どうしてそんなこと云うの?」 「だって……」 何も云ってあげられなかったから。 わたしが子供だから。 「迷惑だった?」 「人の迷惑を気にするなんて、探偵さんらしくないですよ」 ──大丈夫ですか? という言葉を美由紀は発することができなかった。探偵が盛大に噴き出してしまったからだ。 「なかなか云うようになったね、君も」 「そういうつもりじゃないんですが……」 本気で心配したのだけれど。 「じゃあ、また神田に来てくれる?」 「はい」 「また誘いに来てもいい?」 「えーと……」 「なんでそこで迷うんだ!」 「もっと早い時間に来てください。門限前に帰れるように」 「うん! 解った」 本当に解っているのだかどうだか怪しくなるような子供じみた返事をする探偵に、今度は美由紀のほうが噴き出した。 笑いながら両手で探偵の腕を取って引っ張った。 「じゃあ、とりあえず今日は一緒に怒られてください」 怒られるのは厭だとか、舎監は美人かとかぶつぶつ言い続ける探偵を引きずるようにして、美由紀は寮の玄関に向かった。 夜の空気はしんとして冷たかったけれど、美由紀はもう少しも寒くはなかった。 |