たましひ


「行かないんですか」
「行かないよ」
──せっかく女学生君が来たんだからね。
 探偵さんは屈託のない笑顔でそんなふうに云った。
「大体ね、そんな事には何の意味もないよ。君もやめておきなさい」
「意味ない、ですか」
「ない」
 きっぱり云い切られてしまった。
 和寅さんがお茶をテーブルに置いていった。珍しく黙って。
 ちらりと探偵さんに向けた視線が、常時と違って少し気遣わしげだった。

「母が聞いた話なんです。うちの近くにも出征して亡くなられた方がいて……」
 その兵士の母親は、ある日、夜中にふと目が覚めたのだそうだ。
 そうしたら息子が枕元にいた。
 息子が空腹を訴えたので、食事の支度をしようとしたら、その兵士は「さようなら」と告げて消えてしまったという。
 そしてその翌朝に、息子の戦死の報せが届いたのだ……。
 その母親は、長いこと息子への思いを語らなかったそうだ。
 戦時中には、ただ靖国の母として気丈に振る舞うしかなかった。
 そうして息子を戦争に奪われた悲しみも恨みも奥深くに閉じこめたまま、戦後の幾年かが過ぎてしまったのだ。
 ようやくぽつりぽつりと語り始めたその話を、わたしの母は聞いて涙し、補講や友達との約束のため八月まで寮に残っていたわたしに、もう少し東京に残って、靖国へお参りに行ってきなさいと電話してきたのだ。
 この日神田の探偵社に立ち寄ったのは、そこが靖国からほど近いためで、習慣によるついでのようなものだった。
 そして事の経緯いきさつを話し、深く考えもせずに、探偵さんも行きますかと尋ねたら、素っ気なく「行かない」と答えられてしまった。
 それはべつに構わないのだが、意味がない、とは。

「死んだら人間それまでなんだよ」
「それまで、ですか」
「そう。遺骨があるわけですらないんだぞ、あんなとこ」
 あんなとこ、と云いながら、探偵さんは窓の外を顎で指すような仕草をした。
「でも、戦死なさった方の魂がお別れを云いに戻ってきたんだって、うちの母が……」
 わたし自身は死後の魂というものを確信しているわけではない。
 探偵さんのように、死んだらそれまでだと云いきれるほど信じていないわけではないが、かと云って、魂が帰ってきたなんて話を頭から信じているというほどでもない。
 だから霊魂の存在の有無なんて議論をしたかったわけではないが、何となく、探偵さんの意見を聞いてみたくなったからそう云ったのだ。
「そんなの偶然に決まってるじゃないか」
 何とも拍子抜けするぐらいのシンプルな回答だった。
「考えてみなさい。息子が出征した母親なんか、誰だって毎日息子のことを考えてるさ。いつ戦死公報が来るかと覚悟もしてた筈だよ。だったらそんな夢ぐらい誰だって見るだろう」
「かもしれませんね」
「何十万人もの母親がそんな夢見てれば、中にはちょうどその次の日に広報が届く人がいたって当然だろう、確率的に。
 似たような夢見たって、生きて帰ってくれば、母親がそういう夢見てたから願いがかなったとか何とか云うんだろうさ。そんなもの後付けで何とでも云える。
 現に僕の母もそんなこと云ってたしな」
「……そうなんですか……」
「大体夢を見せるのはその人の脳みそなんだぞ。京極に聞けば詳しく説明してくれる。どうせ神社に行くならあっちに行ってきなさい」
「いえ、それはまたの機会で結構です」
 興味はあるけれど、今はその時間はない。

 探偵さんと議論するつもりもなければ、無理に引っ張り出すことが目的でもなかったので、とりあえずわたしは探偵社を辞去して靖国へ向かうことにした。
 探偵さんは椅子に座ったままひらひらと手を振っただけだったが、和寅さんがわざわざ送りに出てくれた。
 そして廊下に出て小声で、すみませんねと云ってくれた。べつに和寅さんに謝ってもらわなければならない事など何もない。
「うちの先生はいつも、毎年、この日はどこにも外出なさらないんですよ」
 わたしは思わず探偵社の扉のほうに目をやり、それから和寅さんの顔を見た。
「どういうおつもりかなんてことは、あたしらには知れませんがね。思うところはいろいろおありなんでしょうが、何しろああいう人ですからね。あたしらに理解できるような行動はお取りになりませんや」
「すみません、わたし……」
 少し、急ぎすぎたのだ、わたしが。
「探偵さん、怒ってないといいけど……」
「なあに、先生がお嬢さんのことをお怒りになる訳はありません。お嬢さんこそ、御不快に思われてなかったらまたいらしてくださいよ」
 和寅さんは笑顔でそう云ってくれた。
「はい。水羊羹でも買って、帰りにまた寄ります」
「水羊羹ですか。そりゃいいや」
 きっと探偵さんは何事も無かったような顔をして、それで水に流してくれる筈だから。
 解っていてそれに甘えるのは卑怯だけれど。

 外に出ると、高く昇った陽が照りつけて、とても暑かった。
 歩いているうちに、近くの店先のラジオから、サイレンの音が鳴り響いた。
 何処からか鐘の音も聴こえる。
 街行く人々の多くが足を止め、その場で黙祷を捧げる。
 少し迷ったが、わたしも目を閉じて頭を垂れた。
 息子を送り出した母親も、戦地に行って生還した人も、内地にいて空襲に遭った人も、この人波の中にいるだろう。
 今日はそれぞれの立場で皆、先の大戦の苦い記憶を噛みしめるのだろう。

 ああ、そうか。
 探偵さんは、今日はどこにも出かけない。
 きっと、誰にも会いたくないだろう。
 誰のことも視たくないだろう。
 それはいいのだ。わたしは彼を靖国へ連れていきたいわけではない。
 魂だって、どうだっていいのだ。
 ただ、ほんの僅かでも、彼がまだ押し込めたままの思いを吐き出してくれたら。
 そんなふうに思っただけ。

 伊佐間さんや今川さんの笑い話は聞いた。
 でもそんな楽しい場所であった筈がない。戦艦の中が。戦場が。
 関口先生と木場さんは、同じ隊にいたのだと聞いた。
 二人を残して全滅したのだと聞いた。
 そしてそれ以上はお二人とも何も云わなかった。
 云いたくないに決まってる。
 云いたくない程、酷い目に遭ったのだと、酷いこともしたかもしれないと、云わないから解る。
 拝み屋さんのことも、少しだけ聞いたことがある。
 碧のお姉さんが亡くなった事件のことを聞きに行ったときだ。
 最小限の事、というより、それは最小限以下でさえあったかもしれないけれど。
   拝み屋さんが内地でさせられていた「厭な仕事」の上官が関係していたのだそうだ。
 その「厭な仕事」がどんなものだったのか、拝み屋さんは云わなかったし、わたしも訊かなかった。
 でも探偵さんは話してくれた。
 伊佐間さんや今川さんがしでかした間抜けな事件を。
 笑いながら。
 そうして、自分だけはあの戦争で傷付かなかったような顔をしている。
 わたしにはそれが堪らなかった。
 少しずつでいいから、外に出してくれないだろうか。押し込めたままの思いを。痛みを。
 聞いて、わたしに何ができるわけもない。
 掛ける言葉さえわたしは持たない。
 でもだからこそ、当時直接戦争に関わらなかったわたしだからこそ、もしかしたらどんなことでも云いやすいかもしれない。
 そんな大それたことを考えてしまったのだ。

 やがてサイレンの音が消え、街が再び動き出す。
 わたしも靖国へ向けて歩き出す。
 亡くなった人々にとって意味があるのかどうかはわたしにはわからない。
 でも、母にとって意味があるならそれを代行したって構いはしない。
 本当かどうかなんて関係ない。
 生き遺った人が生きていければ善いのだと思う。
 片目の光を失った彼が、誰よりも戦争の記憶から逃れることのできない彼が、少しでも生き易い生き方をしてくれれば善いと思う。

 水羊羹と葛切りとどっちがいいかしら。
 そんなことを考えながら歩く八月十五日の昼過ぎは、とても暑かった。





参照:国際日本文化研究センター「怪異・妖怪伝承データベース」




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