薔薇十字探偵社の当然・下
乱暴に事務所の扉が開かれ、扉の上に付けられた鐘が、詰まったような音をたてた。 「ああっ、なんと馬鹿馬鹿しい! 気分が悪い! 馬鹿が移る! 消毒だ消毒だ! 大体なんでこの僕があんなくだらない集まりに行かなければならないのだ! いくら親でもやっていいことと悪いことがあるぞ!」 探偵閣下のご帰還だった。 やはり機嫌が悪いらしい。喚き散らす声を聴かなくても、あの扉の開け方だけで分かる。 榎木津は大股で応接セットのほうに入ってくると、不機嫌な声を一気に和らげた。 「女学生君! 良い匂いが外まで漂ってくると思ったら、やっぱり君だったんだね」 満面の笑みで、美由紀をいきなりがしっと抱きしめた。 僕は目を剥いて、声も出なかった。 相手が赤ちゃんならまだ解るが、もう十代の少女に対して人前でそんなことをしていいのか。いくら変人探偵でもやって善いことと悪いことがあるだろう。 仮に恋人同士でも人前でそんなことをする人間はいない。 いや、もしかして恋人なのか? だからこんなに一所懸命あれこれ作っていたのか? と思ったのは一瞬で、美由紀は顔を真っ赤にして、力一杯手を突っぱねて探偵から離れようとした。 「もうっ、やめてください。お客様がいらっしゃってますよ、ほら!」 「客?」 そこで初めて榎木津は僕を見た。 「おお! 本権じゃないか! 相変わらず凡庸だなあ。赤ちゃんは、ああ、随分大きくなったなあ」 早苗の娘の梢のことだろう。僕は半月程前に会っている。 「ところで女学生君、これは何だい?」 僕の用件も聞かずに、閣下の興味は僕からテーブルの上に並んでいるものにさっさと移ったらしい。 「これはその……あ! いけない!」 美由紀は緩んでいた探偵の腕を逃れて、慌てて台所に駆け込んだ。 寅吉もその後を追い、益田は立ち上がり、榎木津は空いたソファに腰を下ろしてふんぞり返り、台所に向かって 「和寅、珈琲!」 と云った。 それからテーブルの上のものを不思議そうに見て、くんくんと匂いを嗅いだ。 すぐに美由紀がまた盆を持って台所から戻ってきた。盆の上にはさっきとはまた別の器が一つ載っていた。 「本を見てプディング作ってみたんです。これを冷やすんですよね? ちょっと味見だけしてみてください」 嬉しそうな顔をしてるところを見ると、今回は上手くいったのだろう。 美由紀は榎木津の隣に腰を下ろすと、探偵に匙を渡した。 「まだ熱いから、よく冷ましてくださいね」 恋人というより乳母か? はたして探偵は匙で掬ってふーふーと適当に吹いただけで、ぱくりと口に放り込んだ。 「熱、美味い!」 ご満悦のようだ。 そのまま器を抱え込んでぱくぱくと食べ始めた。 「冷めたらちゃんとカラメルソースをかけて持ってきますから、益山さんも本権さんも召し上がってくださいね」 本権さん? 「で、女学生君、そっちのは結局何なの? 良い匂いがするけど、ちょっと変わったケエキだね」 美由紀は先ほどの説明をもう一度繰り返した。 榎木津は、だからあんな本馬鹿の話を聞いてはいけないと常時も云っているだろう、などと云いながら、皿に載った物にも次々に手を出した。そして一々美由紀の顔を見て、これも美味い、こっちも美味いと御機嫌で食していった。 美由紀も、無理しなくていいですとかお世辞云わないでくださいとか謙遜しながらも、嬉しそうにしていたが、突然、 「そう云えば本権さん、お仕事のご依頼だったんですよね?」 などと、親切なのか迷惑なのか判らないことを思い出してくれた。 僕は彼女の中で本権に決定してしまったようだった。 「いえ、その、実はですね……」 榎木津には依頼したくない。 しかし、探偵本人を目の前にして、探偵ではなく探偵助手に頼みたいと依頼人が云うのも失礼極まりないだろう。 僕が逡巡していると榎木津は、 「そんなつまらないことは無しだ、無し! 僕は今日大変に不愉快な思いをしたんだから、この上につまらない依頼人の話など聴きたくない。大体せっかく女学生君が来ていると云うのに、つまらない依頼に来るなんて女学生君に失礼じゃないか」 つまらないつまらないと連呼しないでほしい。 まあ、榎木津に依頼せずに済んだのだから、僕としては助かったのかもしれないけれど。 しかし美由紀は探偵のお気に入りにしてはまともな良識ある少女だったようで、探偵にとりなしてくれようとした。 「駄目ですよ、探偵さん。本権さんは何かお困りだからいらっしゃったんでしょう。わたしは いや、どっちみち榎木津には依頼したくないんだけれど。 どうでもいいけど、なんで僕が本名を云っても覚えてくれないのに、本権だけはすぐ覚えるのだ。 榎木津は僕を半眼で見て、ふうん、とつまらなさそうに云った。 「本権はべつに困っていないんだろう。困ってるのは 慥かにそのとおりなんだけど。 社長一家の悩みなど、出来損ないのプディングほどの重みもないのだ。この探偵社においては。 美由紀がその出来損ないのプディングをどうやって作ったか細かく話すのを、榎木津は大きな眼を愉しそうにくりくりさせて聞いていた。 僕の耳元で益田が、外に出ましょうか、ご依頼の件は喫茶店ででも、と云った。 益田の後に続いて事務所を出て、階段を降りながら、僕はあの美由紀という少女と榎木津との関係を訊いてみた。 「以前の事件の関係者なんですよ。僕がここに来て最初の事件でしたからね。僕にとっても特別な思いがあります。彼女、今ではあんなふうに明るくしてますけどね、学校で友達は殺されちゃうし、変な親爺には絡まれるし、自分の云う事は誰も信じてくれないし、大変だったんですよ」 そうだったのか。 事件で。だから中禅寺とも知り合いだったのか。 「そこに乗り込んだのが榎木津さんですからね。何と云うか、まあ……。僕はそれ以来、益山さんと呼ばれてるわけですよ」 益田はそう云って苦笑した。 マスカマと呼ばれるほどは厭そうではない顔だった。 事件の詳細は聞かなかったけれど、僕は彼女が榎木津の呼称を受け入れてしまう理由が何となく解ったような気がした。 年端も行かない少女がそんな状況に置かれたら、きっと今までの世界が壊れてしまったように感じただろう。自分では普通だと思っていたことが覆されてしまったのだろう。 そんな時に、そこに善くも悪くも確固として揺るぎのない人物がいたとしたら。 存在自体が今までの自分の常識の範疇に収まらない人間に出会ったとしたら。 きっと男でも女でも、もし榎木津の外見が美男子でなかったとしても、やはりそこに引き寄せられてしまう気持ちが、僕には解るような気がする。 世間の常識というものがまだ確立しきっていない少女であれば、余計にだろう。 いわば雛の擦り込みのようなものか。 何だかんだ云いながら、探偵の周りに集まってしまう人間達は、皆似たようなものなのかもしれない。 取り敢えず僕は、そう理解したけれど……。 ただ、探偵のほうが何故あの娘をそんなに気に入ったのかは僕には解らない。 解らないほうがいいのかもしれない。あんな変人の胸の |
こんなに長くなる予定じゃなかったのに(汗)。 こんなに中身のない話なのに上中下(笑)。 本島君とこの社長さん、失礼な設定を捏造してすみません。 そして美由紀ちゃんは他人の名前すぐ覚えると思いますが、百器徒然的デフォルメということでご容赦を。 |