3、君は 強い

 教室の窓を雨粒が伝う。
 美由紀はそれをぼんやり眺める。教師の声は耳に入ってくるが、その意味は脳に伝わらない。
 ここ数日ずっとそうだった。今日はもう、理解しようとする努力すら最初から放棄していた。
 今年の入梅は早かったように思う。ならば明けるのも早いだろうか。
 それまでにはあの人も帰ってくるだろうか。

 美由紀は必ず毎日新聞に目を通しているわけではない。ロビーや図書室に置いてあるが、気が向いたときに手に取る程度だ。
 あの日は、偶々だったのだ。土曜日の午後、のんびりできる時間があったからだ。
 善かったと思う。自分で知ることができて。他の誰かから聞かされるよりは。
 織作家の最後の一人だった織作茜が殺害されたということを。
 美由紀が見たのはそれでも続報だったようで、真犯人が自首してきたという記事だった。先に逮捕されていた容疑者は誤認逮捕だったということだった。
 碧のお姉さんが死んだ……。
 殺された。
 どうして。今になって何故。
 事件は終わったと、あのとき柴田さんはそう云ったのに。
 終わっていなかったということか。蜘蛛の仕掛けはまだ残っていたのか。
 これからまた、まだ何人も人が死ぬの?
 それとも、織作家の人間だから殺されたの?
 じゃあ、碧はあの家に生まれたから、ただそれだけで殺されなければならなかったの?
 蜘蛛の目的は何なの?
 小夜子は? 小夜子はただ巻き添えを食ってあんな殺され方をしたの?
 誰が。何故。
 一度は、忘れようと思った。何を聞いても納得できる筈がない。蜘蛛を憎んで生きるのは厭だ。
 だから、あの時探偵の事務所を探し当てながら、拝み屋のところに連れて行ってもらいながら、結局は何も聞かないことにして、前向きに生きていこうとしたのだ。
 なのに、今になって。
   もし、もしも、蜘蛛がまだ動いているなら。これから何人も殺されるのだとしたら。
 もしかしたら、あの事件に関わった人間すべてが殺されるんだろうか。何かの呪いみたいに。
 その記事を凝視したまま暫く動くこともできなかった美由紀は、新聞をたたむと、すぐに神田の探偵の所に向かった。
 ところが、いなかったのだ、探偵が。探偵助手の益田もいなかった。自称秘書の安和寅吉が申し訳なさそうに説明してくれたところに依ると、少しややこしい事件が起きて、探偵ともども中野の古書肆も、伊豆に行っていてもう暫くは帰れないだろうということだった。
 伊豆。
 それは、その事件というのは、織作茜の死と関係あるのではないだろうか。
 関係ない、わけはない。
 千葉の事件でもそうだった。皆、蜘蛛の糸で繋がっていたのだ。あのときの関係者たちが茜の遺体が見つかった伊豆に行っているというのに、無関係なわけはない。
 美由紀の心臓が早鐘のように鳴り始めた。
 殺されてしまうの? みんな、みんな。あの事件に関わった人たちはみんな。
 そうであれば自分自身もその標的になるかもしれないという恐怖は、不思議と無かった。実感が湧かなかっただけかもしれない。
 ただ、あの人たちに無事に帰ってきてほしいと、そればかりを必死に祈った。
 あれから毎日毎朝、美由紀は寮のロビーで新聞を見ている。
 放課後になると神田の探偵事務所に電話をする。
 和寅からは、もう事件は終わったから大丈夫だという返事が返ってくるばかりだ。ただ、事情聴取その他いろいろあって、足止めを食っているだけだからと。
 それでも美由紀は安心できない。そういうことではないのだ、きっと。あの蜘蛛の仕掛けならば。どこにどう糸が張り巡らされているのか分かったものではない。
 いくら探偵さんが強くても、絶対なんていうことはないのだから。
 先生が帰っていらしたら、すぐそちらに連絡差し上げますから。和寅はそう云ってくれるけれど、それでも美由紀は毎日新聞を見て、電話をかける。
 授業なんて頭に入るわけがない。新しい友人たちと話すのも億劫で、部屋に籠りがちになっていた。

  「呉美由紀さん、伝言ですよ」
 放課後寮に帰って、寮監から声をかけられたのは、もう七月に入っていた。
「神田の安和さんとおっしゃる方から、先生がお帰りになったと伝えていただければ解るとのことでしたけれど」
 寮監の目には少し不審の色があった。当然と云えば当然だろう。身内でもない大人の男性から電話がかかってくる女子中学生なんてまずいないだろう。
 美由紀は簡単に礼を言って、急いで神田に向かった。週末まで待ってなどいられなかった。
 夕方というにはまだ早い時分なのに、梅雨の雲が空を覆って灰色に見える。美由紀は電車を待つ時間も、電車に乗ってからさえその時間がじれったくて、自分の足で走って行きたいぐらいだった。
 美由紀がビルヂングに飛び込むのとほとんど同時に、じっとりと重い雲から雨粒が落ちてきた。
 駅から駆けてきた美由紀は、すでに息が上がっていたけれど、そのまま階段を駆け上がる。
 途中で息が苦しくなり、心臓が破裂しそうに思えても、足が止まらない。
 そのままノックすらせずに探偵社の扉を押し開けた。
 飛び込んだ美由紀に驚いて、益田がソファのところで中途半端に腰を浮かせていた。
 和寅が台所から顔を覗かせた。
 探偵は、いつもの椅子に座っていた。
 美由紀は弾んだ息も整わないまま、探偵の前に歩み寄った。
「探偵さん……」
 そのまま言葉が続かない。
 無事に帰ってきて善かったと云いたいのか。碧の姉が何故死んだかを聞きたいのか。蜘蛛の正体を知りたいのか。
「やあ、久し振りだね、女学生君」
 その場の異様な緊迫感にも美由紀の様子にも頓着無いかのように、探偵はのんびりとした笑顔で云った。
 美由紀は震える手を握りしめた。
「探偵さん……」
 榎木津が机に身を乗り出すようにして美由紀の顔を覗き込んだ。
「なあに?」
「蜘蛛は……蜘蛛はまだ生きていたんですか? みんなみんな……死んでしまうの?」
 やっと言葉が出てくると、それと同時に涙も溢れてきた。
「新聞見ました。碧のお姉さん、死んだんですよね。殺されたんですよね。どうして? 犯人は、犯人は、また蜘蛛に操られていただけなんじゃないんですか?」
 背後で益田が固まったのが判った。
 ぽろぽろと涙が零れる。
 こんな時泣くのは厭だと思う。こんなんじゃあ、まるで子供みたいだ。
 あの時探偵さんは自分のことを子供じゃあないと云ってくれたのに。だからわたしの云うことを全部信じてくれたのに。
 そう思っても、美由紀は涙を堪えることが出来なかった。
 探偵が立ち上がって、机を回り込んできた。
 美由紀は体ごと向きを変えて、探偵に向かい合った。
 見上げた探偵の顔には、暢気な笑みが浮かんだままだった。
「死ぬのが怖い?」
 当たり前のような質問だと思った。けれどそれを改めて聞かれて、美由紀はゆっくり首を横に振った。ただ死ぬだけなら、それ程怖くないような気がしたから。
 けれどそれをまたすぐに否定する。
「ううん、やっぱり怖い。怖いです。訳も解らず殺されるのは厭だし、誰かがまた殺されるのも怖い」
「それなら、蜘蛛がいなくても別の誰かに殺されるかもしれないよ?」
「そうだけど……」
 酷い会話をしていると、美由紀は頭の隅で思った。死ぬの殺されるのと、そんな言葉を簡単に使って。
 なのに、不思議に却って頭が冷静になってくるのを感じていた。
「じゃあ、碧のお姉さんが亡くなったのは、蜘蛛とは関係ないんですか?」
「さあね。蜘蛛が何をしたかったかなんて、僕は興味がないから知らない。でももし君が知りたいなら……」
「知りたいなら?」
「あの娘に変梃な部屋の鍵を渡した人物を教えてあげよう」
 娘? 変梃な部屋?
 一瞬誰のことを云っているのか考えた美由紀は、あの礼拝堂で拝み屋が碧に云った言葉に思い当たった。
 ──真犯人は君に鍵を渡した人ヽヽヽヽヽヽだ。
 真犯人、蜘蛛の正体を自分に教えるというのか。
 今まで誰も美由紀にあの事件の結末を話さなかったのは、美由紀にはそれが必要ないか、あるいは知らないほうが善いと考えたからなのだろう。
 でも今、この人は真実を教えると云う。ただし、自分がそれを望むなら、だ。
 それを知ったら、自分の中で何かが理解できるだろうか。それとも何かが壊れるだろうか。
 蜘蛛のところへ行って問い詰めるだろうか。小刀ナイフを握って小夜子たちの復讐に行くだろうか。
 それとも怯えて逃げるだろうか。
 自分は真実を受け止めきれるだろうか。自分を見失うことはないのだろうか。
 気が遠くなりそうに思えたとき、ふわりと温かいものにくるまれた感覚があった。
 背の高い探偵の腕と胸にすっぽり納まってしまったのだと理解するのに、数秒かかった。
 慌てて体を離そうとすると、頭の上から神の声が降ってきた。
「大丈夫。君は負けない。君は強い」
 そんなことない。わたしはこんなに弱虫です。
 そう云おうとした美由紀に、おまじないのように探偵が繰り返した。
「君は、強い」
 美由紀は探偵の温かく広い胸に、涙の伝った頬をそっと押し付けた。
 ああ、そうだった。この人は間違ったりしない。
 だから、わたしは強い、強くなる。

 美由紀は顔を上げて、探偵の透き通るような飴色の瞳を見て答えた。
「教えてください。蜘蛛の正体を」        







お題の趣旨を無視したようなどシリアスですいません(汗)。
もしかしたら美由紀は千葉で真相を聞いたかもしれないけど、原作にははっきり書かれてないので、うちでは聞いてないことになってました。
関口君の名前は報道されてしまったんじゃないかと思いますが、あまりにも気の毒なので、されてないことにしました(笑)。
 









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