五月雨のころ 一


 忍び道具の入った袋と忍び刀をガシャリ! と利吉は自室の隅に乱暴に投げ出すと、立ち尽くしたままそれをにらみつけた。それでも気が晴れるわけではない。かえっていらいらが増すようだった。八つ当たりなのはどこかで自分でも分かっている。だからといって納得できるものではない。
「利吉、お夕飯ですよ。いらっしゃい」
「あ、は、はい」
 母の呼ぶ声に利吉は平静を装って返事をする。そして部屋を出かけてふと足を止め、今ほど放り出した道具と刀をきちんと片付けてから部屋を出た。几帳面のゆえではない。父・母に見つかったら叱られることが分かっているからだ。つまりはその程度の範囲でのささやかな反抗であるわけなのだが。
「何をむすっとしておるんじゃ」
 食事時、むろんふだんからおしゃべりというわけではないが、それにしても仏頂面の利吉に伝蔵は言った。
「父上がわたしを置いてさっさと帰ってしまわれたからです」
利吉は伝蔵の顔も見ずに答えた。
   母親は、息子がその言葉の裏に山ほどの不満を込めたことを感じて、少し眉を上げて利吉を見たが、口出しはせず伝蔵の反応に任せた。
「子供のようなことを言うな。一人で帰れぬ場所でもあるまいに」
「そういうことではありません!」
伝蔵がわざとはぐらかそうとしていることに利吉は腹を立て、バチンと音を立てて箸を膳に置いた。
「子供じゃないとおっしゃるなら、わたしの意思も聞かずに勝手に物事を決めないでください!」
「子供じゃないとしても半人前だろうが」
伝蔵はどこ吹く風だ。
「だったら父上がわたしを一人前にしてください! なぜあの人なんですか。どこのだれとも分からない人に、なぜ教えを請わなくてはならないんですか!」
「半助のことか?」
 伝蔵が彼を「半助」と呼ぶようになったのはただの成り行きだった。最初は、すっかり半助を弟子扱いして「半助、半助」と呼びつける翠庵の真似をして、からかい半分に「半助」と呼んだところ、存外に本人が嬉しそうな顔をしたものだから、ついそのままになってしまったのだ。
「なんなんですか、あの人は」
「おまえは手合わせをしてきたんじゃろうが」
 利吉の問いに直接は答えてくれないのがまたいらいらに拍車をかける上に、半助と手合わせしたときのことを聞かれるのは屈辱だった。見くびっていたわけでも自惚れていたわけでもないのだが、父を含め、今まで自分の相手をしてくれた人間たちのように明らかな手強さを感じなかった。感じなかったにもかかわらず、少しも自分が主導権を握れないまま終わってしまった。
「もちろん父上が選ばれたのですから腕の立つ方だろうと思いますけど!」
「なら問題ないではないか」
「そうではなくて! あの人のことをわたしは全然知らないんですよ! なのにいきなり勝手に決めないでくださいと申し上げているのです!」
「身元はわしが保証するぞ」
「そうじゃなくてですね!」
「おまえの意思はこの際関係ない」
「関係ないって、そんな!」
「利吉」
 母親がついに口をはさんだ。
「お父上の判断が間違っていたことはありませんよ」
「……」
 そう言われては利吉は黙るしかなかった。これ以上何を言っても聞き入れてはもらえないということを悟ったからでもあったが。
 それは分かってはいるのだ。伝蔵が自分のためにならないことをするはずがないことも。
 だが、幼い子供ならば、わけも分からず親の言うなりになるのが良いのであろうが、利吉はもう13歳。もっときちんと父である伝蔵に向き合ってほしいと思うのだ。忍者などという特殊な職業でなければ、13歳といえば世間一般ではもう大人として働いている年齢なのだから。
 そんな利吉の強烈な自我の芽生えに気づいているのかいないのか、伝蔵はすまして食事を続ける。
 利吉は仕方なく再び箸を取り上げてやけくそのように飯をかきこんだ。

 翌日には伝蔵は学園に戻ってしまった。よけいに利吉は自分がないがしろにされているような気がした。
 見返してやる。
 利吉はそう決意した。すぐに、あの翠庵のところに身を寄せている男の指導など「卒業」し、自分が師たり得る人物は山田伝蔵のほかにいないのだということを示してやる。そのための努力ならいくらでもしてやる。

 半助の、というより翠庵の都合もあって、半助との訓練は毎日ではなかった。何回目かの訓練の後、汗を拭う利吉に、半助は竹皮の包みを差し出した。
「腹減ったろう? わたしが作ったんだよ」
 利吉がとまどいながら包みを開けると、握り飯と野菜の煮物が少し、入っていた。
「一緒に食べようよ」
半助はにこにこと、もう一つの包みを揺らしてみせた。自分の分なのだろう。
「は、はあ……」
 正直言うと利吉は、うざい、と思った。半助の意図が見えるのが嫌なのだ。
 半助は利吉との訓練のときも、いつもの笑顔だった。父と比べたら格段に優しかった。それが腹立たしいのだ。自分は近隣の里の子供たちではない。忍者の卵としたって優秀なほうなのだ。子供扱いしないでほしい。
 それで利吉のほうは、今まで決して半助に笑顔を見せることはなかったし、必要最小限の会話しかしたことはなかった。土井半助という人間について、どういう人間なのか、父がなぜこの人を自分の師として(もっとも利吉は決して認めていなかったが)選んだのか。その疑問と好奇心はあっても、忍者に個人的な詮索をしてもせんないことは分かっているので聞こうともしていなかった。
 とはいえ、せっかく差し出してくれた好意をむげに断るほど礼儀知らずではない利吉は、一応の礼の言葉を述べて、黙って食べた。
 半助も自分の分の握り飯を手に持ったまま、じっと利吉を見ている。利吉はその視線が気になって、口を動かすのをやめて半助を見た。自分に何か言ってほしいのだろうとは思うが、べつに利吉のほうは半助と意思疎通を図って仲良しこよしする気はない。
「どうかな。君の口に合うかな。翠庵先生はわたしの料理は美味しいと言ってくださるんだけどね」
 何の心配をしているのだ、何の。新婚の妻じゃあるまいし。この人のこういうところが嫌なのだ。自分の機嫌をとろとうとしていることが見え見えなところが。
 もちろん美味しいとは思うが、そう言ってあげればこの男は喜ぶのだろうけれど、それもシャクだし、かといって不味いと嘘をつくほど幼くもなく、利吉は返事に窮した。だが半助のほうはさして気に掛けない様子でにっこり笑って、
「ああ、ごめんごめん。君のお母上の手料理にかなうはずはないよねえ」
などと一人合点していた。


 少し遅めの夕餉を食していた翠庵も、半助の視線が気になって手を止めた。
「なんじゃ。何か用か」
「いえ……」
半助は小さく溜め息をついた。
「わたしの料理、まずくはないですよね?」
「んむ? うまいと思うが……?」
 今まで一人暮らしで自分の身の回りのことなど構わなかった翠庵にとっては、半助が助手としてのみならず家事全般でも役に立ってくれているのは実にありがたいことだった。
「でも先生は今までが今までだから、あんまり味覚はあてにならないですよね」
「失礼な奴じゃのう。うまいと言ってやっておるのに」
「でも利吉くんが何にも言ってくれないんですよ。笑ってもくれないし、うち解けてくれないんですよね……」
 そういうことか、と翠庵は事情を推察するが、それでは少しずれているのではないかと、心中でよけいなお節介をする。
「これでも少しは自信があったんですけどね」
「何の自信かの」
「年少の者の世話をやいたことだってあるし、料理にも……」
 料理は関係ないじゃろう、と翠庵は思うが、人間関係などというものは所詮本人が体得していくしかあるまいと黙っている。
「利吉は特別じゃからの」
「特別、ですか」
「あの年頃の、あんな才能のある子を指導した経験はおまえさんにはなかろうて」
「そう言われればそうですが……」
初めてのことだから仕方ない、とは開き直れない様子である。
「このまま何もできなかったら山田殿に申し訳が立ちません」
「そう生真面目に考えんでもよかろうよ」
翠庵は半助の気を楽にするようにのんびりと言った。
「伝蔵殿がおまえさんを選んだのじゃからの。あれは人を見る目だけは確かじゃよ」
「だけはって……」
ようやく半助の顔に笑みが戻った。
 それを確認して翠庵はうなづき、食事を続けた。山田伝蔵が選んだのだ。間違いはあるまい。それが利吉のためなのか、半助のためなのかは知らないが。一体何を企んでいるのやら。いや、あるいは企んでいるのは大川殿かもしれぬて。
 その思案を翠庵はみそ汁と共に飲み込んだ。
 





いつも素敵な作品を頂いてお世話になっております真杞様から以前リクエストを頂いておりました。「Abend Lied」の後、利吉が半助とどのように打ち解けていったのか、利吉が半助を「先生」と呼ぶまでということでした。
実は「Abend」を書いたとき、それ以後のこととそれ以前のこともぼんやりとした構想として持っておりました。しかし、半助が学園に来るまでとなると長過ぎるのであそこで切ったという経緯もあり、喜んで書かせていただくことにいたしました。
といっても今回もまた半助が学園に赴任するところまでは行かないんですが(笑)、でもってまた連載になっちゃうんですが(捧げ物で連載すな)、しかも書くの遅いと思いますが、
少しでもお楽しみいただければ幸いです。




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