五月雨のころ 二


 淡い新芽の色が深緑へと変わり、氷ノ山の麓の空気も湿り気を含む日が多くなった。
 利吉は相変わらず半助を師としては認めていなかったが、その力量は自分の予想以上であったことは認めざるを得なくなっていた。自分の父ほどの圧倒的な迫力を感じるわけではないのだが、やはりプロは違う、とつくづく思わされる。もっともそれぐらいでなければ、何の思惑があるか知らないが、父も自分の師としてこの男を選んだりはしないだろうけれど。
 それを認めながら、どうしても半助を師と呼ぶ気になれないのは、一つには父のその思惑がわからない、説明してくれない、そして自分の気持ちを尊重してくれないという父親への反発があった。
 そしてもう一つ……。利吉は訓練の帰り道、隣を歩く半助を見上げた。
 半助は半助で、当初の自信喪失からいささか利吉を持て余し気味になってきていた。微妙すぎるのだ、この年齢差と実力が。
 もっと幼い子ならば、半助は昔から(べつに望んだわけではないのだが)妙に子守が得意で、忍術を教えるにしてももっとうまくできると思う。逆にもっと年が近ければ、良い友人関係を築けるだろう。だが利吉はそのどちらでもなく、またそのどちらでもあるという危うい年頃だった。
 そしてもし、利吉がもっと未熟な者であったなら、逆に半助としては教えやすかったのにと思ってしまう。利吉のように年齢の割に腕が立ち、しかも自分でその自覚がある者には、下手したら自尊心を傷つけてしまいそうで、半助は、伝蔵に頼まれたのだからという気負いと、せっかくの縁なのだから仲良くなりたいという焦りとは裏腹に、どう扱っていいのかわからず困惑していた。
 そんなふうに、互いにすぐ隣にいる相手との間の空間に実際以上の距離感を感じながら歩いていると、不意に半助が足を止めた。心持ち顔を上に向け、少し首をかしげて、何かに耳を傾けているようだ。その口元がかすかに笑みが浮かんでいるようだった。
 不思議そうに自分を見上げている利吉に気づいて、半助が利吉に笑顔を向けた。
「不如帰が鳴いているね、ほら」
「は? はあ……」
「ここはなかなか素敵なところだね。大瑠璃もいるし、郭公もいるし……」
 利吉がとりわけ半助にいらっとするのはこういうときだった。だからそれが何なのだと言いたい瞬間。この氷ノ山ほどでないにしても、町中で忍術の訓練ができるはずもない。自分だって似たり寄ったりの環境で育ったのではないのか。野鳥の声ぐらいがそんなに感心するほど珍しいか。
 だが当の半助はそんなことにも全く気づかず、嬉しそうに言う。
「子供のころやらなかった? 鳴き声当て合戦」
「……やりません」
「そう? あ、じゃあ食い物探し競争は? その日によって木の実とかキノコとか山菜とか決めてね……」
「べつに」
半助はぽりぽりと頭をかいて、再び歩き出した。
 利吉は、さすがに少し素っ気なさ過ぎたかと申し訳ないような気にもなったが、やっていないものはしょうがない。そもそも利吉にはそんなお遊びをするような、仲良しこよしのお友達などいない。
 もちろん、鳥の鳴き声を聞き分けるぐらいはさせられてきた。時と場所によってそれは異なるものであるし、人間が鳴き真似をしていてもそれと見破ることができるようにだ。
「土井さんはそういうの遊びでやってたわけですか? 修行じゃなくて」
「えーっと、遊びながら修行してたというか、修行を遊びにしてたというか……」
 これだ。こういう呑気さが、「先生」と呼ぶには威厳に欠けていると思うのだ。大体、自分に限らずこの辺の若い忍者は皆、それこそ血のにじむような努力を重ねて一流を目指しているというのに、遊びながら修行したなどというお気楽さに腹が立つ。それで伝蔵も(そして利吉も)認める腕だというのがさらにむかつく。
 利吉のそんな複雑な心中など、半助には知るよしもない。
 別れ際再び半助は立ち止まった。何か言おうか言うまいかと逡巡しているようだったが、やがて思い切ったように利吉に向き直った。その顔にはやはり微笑みが浮かんではいたが、いつもの当たり障りのない笑顔とは少し違うように利吉には見えた。
「利吉くん、きみはとても才能豊かで実力があって、しかも真面目な努力家だね。でも、いや、だからこそ、かな。もうちょっと遊んだほうがいいと思うよ」
「え?」
意外な言葉に、利吉は一瞬何を言われているのか理解ができなかった。いつものように、それがどうしたと内心で突っ込むこともできない。
「遊ぶっていうと語弊があるかな。余裕を持つっていうのかな」 
「それは……」
利吉が半助の言葉を呑み込みきれずにいるうちに、半助は急にいつもの様子に戻って少し赤面しながらまた頭をかいた。
「あ、でももちろん山田殿の教育方針がおありだろうから、それに間違いはないよね。うん。余計な入れ知恵をするなと怒られてしまうかな」
そう言うと半助はあははと笑って、翠庵の家のほうへと行ってしまった。


 利吉は一人、半助の言葉を咀嚼しながら家へと山道を登っていった。
 さすがに利吉は聡い少年ではあった。半助が自分をすべて否定しているわけではないことも、今さら幼子のような遊びをするのがいいと言っているわけでもないのであろうことも察することができた。おそらく何かが今の自分には足りないのだと指摘しているのだ。だが、一口に「余裕」と言われても、それがどういう意味なのか、どうしたらよいのか、そもそも忍者にそんなものが必要なのかどうか理解できない。本当に必要ならば、父がそう言っているはずではないのか。
 だが、遊んだほうがいいなどと人から言われたのは初めてのことで、半助の言ったことを今までのようにくだらないこととして切り捨ててしまうことができなかった。
 日が沈みかけた自宅の庭で、利吉はそのままぼんやりと立ち尽くしていた。母親が気づいて縁側から声をかけた。
「利吉、帰っていたの。そんなところでどうかしたの?」
「いえ……」
 何か適当な言い訳を考えようとした利吉の耳に、そのとき不如帰の鳴き声が聞こえてきた。
「不如帰が良い声で鳴いているなと思って……」
「あら、本当ね。もうそんな季節なのね」
そう言って母は楽しそうに耳を澄ませた。利吉もとってつけたように耳を澄ませてみた。不如帰だけではない。遠くにいろいろな鳥の声がする。あれは何、これは何と聞き分けていくと、中に利吉の知らない音色も混じっている。十数年間、ここに育ったというのに。あれは何だろう。土井さんならば知っているだろうか。次に会ったときに聞いてみようか……。それがわかったからといって火縄銃の腕前が上がるわけではないけれど、と、心の隅でやはり利吉はつぶやいていた。


 その日の夜、翠庵宅の夕餉には、どんよりとした空気が垂れ込めていた。翠庵がうんざりした顔で箸の進まぬ半助に声をかけた。
「いいかげんにせぬか。自己嫌悪に陥るぐらいなら言わなければよかったではないか」
「でもなんだかどうしても気になってしまったんですよねぇ……」
「なら良いではないか。指導者として必要なことは言わねばならんじゃろうて」
「でも利吉くんを傷つけてしまったんじゃないかと思うんですよねぇ……」
「だったら明日にでも前言撤回してくればよかろうて」
「でもやっぱり今の利吉くんには……」
「ええい! もういいかげんにせい! 飯がまずくなる!」
 うっとおしさをさらに増すように、夜半から広がった雲からぽつりぽつりと雨が落ちてきた。
 田植えの季節が近づいていた。雨音と共に戦の足音もまた忍び足で氷ノ山に近づいていた。




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