『糸』
母が若いころの着物を引き出して手入れしているのを見て、久しぶりに家に帰っている利吉は不思議に思った。
「母上、それをどうなさるのですか?」 「谷向こうの丹羽様のところに嫁に来た菜々どのに着ていただこうと思っているのよ」 「でも、それはたしか昔父上からいただいたものだったのではないのですか?」 もしや、とうとう愛想づかしを、とほんのわずか勘ぐってきいてみる。もちろん本気で心配などしているわけではないのだが。 「そうですよ。まだおまえが生まれる前のことで、京の都でわざわざ見繕ってきてくださったのよ」 母はしばし、思い出してうっとりとした笑みを浮かべた。 「なら、なぜそんな大切なものを手放しておしまいになるのです?」 「大切だからですよ。もう私には着られないし、かといってこのまま長櫃の中で眠らせておくのも可哀想。お父上も分かってくださるわ」 そう言って、利吉の母は愛おしそうに着物をなでた。 「菜々どのならきっとお似合いになるわ。大切な思い出が生きてゆくのだと思うと、嬉しいわ。本当は、おまえが花嫁を迎えたら、その方に着ていただこうと思っていたのだけど……」 「あー、その、わたしは……」 「逃げる算段はしなくてよろしい」 ぴしりと言われて利吉は浮かしかけた腰を下ろす。 「いつまで待っていてもよい方を連れてこないのだもの。それはともかく、これを丹羽様のところに届けてきてちょうだい」 利吉は話が妙な方向に発展しなかったことにほっとして、すぐさま一山向こうの隣人のところへ向かった。 大切な思いのこもったものだからこそ、伝えたい。同じようなことを言っていた人がいたな。利吉はふと思い出して、笑みがこぼれた。 「ひどいですよ、土井先生」 たまたま土井半助の家を訪ねていた利吉は、思わずそうつぶやいた。 「何が?」 半助は、利吉のそんな言葉に怒る様子もなく、唇の端にいつもの笑みを浮かべながらせっせと手を動かす。 「それはわたしの母が土井先生のために縫ったものですよ」 「そうだよ。今でも感謝しているよ」 「それをきり丸くんにあげてしまうんですか? まさか、わたしが同じものを持っているから嫌だとかおっしゃるんじゃないでしょうね」 それを聞くと、今度は半助は声をたてて笑った。 「まさか。君のお母上がわたしたちを兄弟のように考えてくださって、光栄に思っているよ」 「だったらなぜ…」 半助は針を動かす手を止めて、利吉に向き直った。 「感謝しているからだよ」 利吉は、分かりません、というふうにその形のよい眉をひそめた。 今から4年ほど前のことだった。 たった4年なのに、ずいぶん以前のことに感じる。しかし、矛盾するようだが、利吉の記憶にはまだ鮮やかにその日々は残っている。 そのころ、利吉はしばしば土井半助に忍術修行の相手をしてもらっていた。留守がちの父、伝蔵の代わりに、どれほど多くのことを教わっただろう。 家の周囲(といっても隣の家というのは隣の山の中だったりする)には、忍者の家が何軒もあった。その中には利吉と年の近い男の子もいて、互いに忍びの技を競ったりもしたのだが、利吉の才能が図抜けてきて対等に相手になる者がいなくなっていた。 そのため、伝蔵が利吉の相手をしてやってくれと連れてきたのが半助だった。 半助は、何か任務中に負傷して、そのリハビリ中だということだったが、利吉にはどこにどう怪我を負っていたのか分からないほど見事に技を使いこなしていた。 半助は、山の麓にある元忍者の医者の家に世話になっていた。半助は薬草の知識もたいしたもので、良い助手を得たと、医者のほうも喜んでいたのを利吉は聞いたことがあった。 そのころの利吉の目に映る半助は、朗らかで優しくて世話好きで。もし日頃修行の相手をしてもらっていなければ、この人が忍者だと言われても信じなかっただろうと思う。 利吉も、伝蔵が連れてきた様々な忍者に会っていたが、そのような人たちに何かしら見られた鋭さ、陰り、隙のなさといったものが半助からは感じられなかった。それゆえ、さすがに口にこそしなかったものの、あまり忍者には向いていない人なのではないかとさえ思っていたものだった。 そんな印象は、しかし徐々に変わっていった。 ある日、槍術の稽古をしていたとき、突然半助は槍を引いた。 「今日は何か身が入らないようだね。この辺でやめておこう」 これが父・伝蔵であるなら一喝されていたに違いない。しかし、たしなめるでもなくただ穏やかに言った半助に、利吉はかえって反発した。 「そんなことありません! いえ、すみません。ちゃんと気合い入れてやります! お願いします!」 むきになってそう言い返した利吉に、半助は首を振った。 「体が疲れているのではないようだ。何か心配事でもあるの? わたしでは相談相手にもなれないかな」 むしろ寂しそうにさえそう言った半助に、利吉は驚いて構えていた槍を下ろした。 「実は母が……」 利吉の母が、数日前に風邪を引き、なかなか良くならないまま、だんだん熱が高くなってきてしまった。心配してそばに付いているという利吉を母は、そんなことで修行をおろそかにするような精神で忍者がつとまるかと気丈に叱りとばし、追い立てたのだった。 母の言うことももっともだが、利吉は利吉で、父親不在の間は母を守るのは自分の務めぐらいの決意でいるものだから、無理をしてこじらせてはと気が気ではなかったのだ。 そんな気持ちを振り切るために修行に身をいれようと思っていたのに、まさか気取られるなんて。両親以外に自分の内を読まれたことなどない利吉が驚愕したのも無理はない。 半助は話を聞くと、そのころはまだ半助より大分低かった利吉の頭に手を置いて、 「じゃあ、ついておいで」 そう言うと、麓の家に降りていった。 そこで半助は幾つかの薬を持って、それから利吉とともに山田家へと向かった。 半助が山田家へ来ることはほとんどなかった。伝蔵が学園から帰宅するときは、たいてい一度は半助を家へ呼んだが、伝蔵がいないときに半助が利吉たちのもとへ来ることはなかった。利吉が誘っても断った。「それは山田殿に失礼に当たるから」というのがその理由だった。 その半助が自ら利吉の家に来るというのだから、利吉は再度驚いた。もちろん、嬉しくないわけはなかったが。 家に上がると半助は、当然のことながら利吉の母にあいさつをした。 「利吉くんがちらりと、お母上が寝込んでおられると言ったものですから、そんなときに何をしているのかと私が叱りまして、こうして無理に帰宅させました。しかし、利吉くんはこんなことで修行をさぼるわけにはいかないと言いますので、看病の合間合間に私が兵法の話でもしてさしあげようかと思いまして、図々しくもこうして上がったわけでして」 感激している母親と、すらすらと口上を述べるがごとき半助を代わる代わる見て、利吉が思ったことといえば (この大嘘つき!) 利吉が、やはり半助は忍者だと確信した瞬間かもしれなかった。 だが、当然半助は自分と母のために嘘をついてくれているわけで、感謝の念を禁じ得なかったのもまた確かだった。 半助は薬を煎じて利吉に渡し、細々とした指示をした。そして利吉が母親の看病をしている間に自分はせっせと家事をこなしていた。 夕食時、利吉が止めるのも聞かず、母は起きていろりの間まで出てきた。そして半助の作った夕食を、ほんとにおいしいと言って食べ、部屋の中を見回した。 利吉もしっかり者ではあるが、まだ14歳の少年のこと。数日母親が寝たり起きたりしている間に少しばかり雑然としていたはずの家の中はすっかり片づき、部屋の隅には洗濯物がきちんとたたんであった。 「ほんとに何から何までお世話になって。土井さんは家事がとてもお上手でいらっしゃるのね」 ほめられて半助は少し紅くなった。 「上手などと。わたしは一人暮らしをしておりましたので、必要に迫られてやっているだけですから」 「そうですの。ああ、殿方が家事をほめられたって嬉しくはないですわよね。私ったら。ごめんなさいね」 「いえ、そんな……」 恐縮する半助を見て、母は、ほほ、と笑った。 そんなことがあってしばらくのことだった。利吉は母が、新しい反物を裁断しているのを見た。 「あ、その色は父上のものではありませんね。わたしに新しいのを作ってくださるのですか?」 「ええ、ついでにね」 「なんですか、ついでって」 「土井さんに差し上げようと思うのよ。この前のお礼にね」 なるほど、と利吉は思ったが、少しおおげさすぎやしないかとも正直思った。そんな利吉の内心を見透かしたように、母は付け加えた。 「日頃おまえがお世話になっているお礼ですよ。それに、この前はどうせおまえが修行をさぼったのでしょう?」 「さ、さぼったわけではありません!」 利吉は仕方なくいきさつを正直に話した。 「どうせそんなところだろうと思ったわ。なのに気を遣ってあんなことを言ってくださって。これくらいのお礼をしなければ気が済みませんよ」 父のことも自分のことも、いつもすべてお見透しの母に舌を巻きつつ、それにしても半助が喜びそうなものならほかにもっとあるのではないだろうか。おなごや子供でもあるまいに、と利吉は思った。 だがそれも、自分の思慮の浅さと母の読みの深さを思い知らされることになった。 父が帰宅して半助を自宅に招いたとき、それこそついでのような顔をして、母は出来上がったその着物を半助に渡した。 「利吉に仕立てたついでだからおそろいなの。こんなものでよかったら着てくださいね」 やっぱり母は元くの一だ。どっちがついでなんだ。 だが半助は、それを受け取ると利吉の母の顔を見て、一瞬泣きそうな顔をした。 利吉は、そのときの半助の顔を忘れることができない。 笑うと思っていた。いつものように。笑顔で、無邪気に喜んで礼を言うと思っていた。だが、半助は泣きそうな顔をして着物を抱きしめ、深々と頭を下げた。 利吉にはあずかり知らぬことであったが、利吉の母は、半助が家事に手慣れていること、着ているもののつくろいも自分でしているようだということを観察して、これはただ1、2年一人暮らしをしただけではないと察したのだ。伝蔵からは何も聞いてはいなかったが、おそらく、早くに母親と別れたのだろうと。 それならばと考えたのが、「母親の手縫い」の着物であったのだ。その思いを、半助もまたしっかりと受け取ったのだった。 「だからね、わたしだって少し無理をすれば新しいのを仕立てることはできるさ。だけど、多分きり丸がほしいのはそういうことじゃないんじゃないかと思ってね」 「というと?」 「例えば、あの子はよくわたしにバイトの手伝いを押しつけるけど、じゃあ、手伝わないからその分授業料を援助してあげると言ったら、素直に受け取るだろうか」 そう言われれば利吉もなんとなく分かる。きっと伝蔵だって、少しくらいの経済的援助はできるだろう。それをしないのはきり丸の自尊心を尊重しているからだ。だが、そんなきり丸の精一杯の甘えなのだろう。半助にバイトを手伝わせるのは。 そんなきり丸ならば、新しく買ったものより、こうして半助が仕立て直したお下がりのほうが喜ぶかもしれない。おそらく半助があげたいものは、「着物」ではなくその「気持ち」なのだ。きっと母親もそれを喜んでくれるだろう。しかし……。 利吉は谷向こうの丹羽家にそれを届けた。丹羽の家も忍者で、利吉より一つ上の新一郎が最近嫁をもらったのだ。 菜々は、これで氷ノ山の者の妻として受け入れてもらえた気がするといってたいそう喜んだ。 新一郎もちょうど在宅していて、礼を言いに出てきた。 「そういえば、土井先生にたまにお会いすることはあるのか? お元気か?」 と新一郎が尋ねた。彼も、半助が麓にいたころ世話になったことがあった。 「ああ、お元気だ。ここにいたころよりむしろ明るくなられたような気がする」 「そうか。いいな、おまえは。そういえばあのころからおまえは土井先生を独り占めしたがっていたものな」 「そ、そんなことはない」 「いーや、そうだった。いつだったか、土井先生とおそろいの着物を母君に作って頂いたって自慢してたじゃないか」 「自慢なんぞしてない」 利吉は憮然とした。 「ま、おまえは一人っ子だから、兄貴分ができて嬉しかったんだろうけどな」 子供っぽい独占欲があったことは今となっては認めざるをえないが、まさか他人の目にそんなふうに映っていたとは。 「あの着物はどうした。おまえの宝物なんだろう?」 からかうように新一郎が言った。 今は半助の教え子とおそろいだなんて、とても言えない。 「あれは、あー、そうだな。あんたに息子が生まれたらプレゼントしてやるよ」 利吉はにやりと笑ってそう言った。 |
これは「Abend Lied」の後の話になります。 昨年『レントゲン』様(水城るう様)で土井先生お誕生日企画をやったときに出品させていただいたものです。 『レントゲン』の企画部に行きますと、これに『回雪』の小雪様が絵を付けてくださっていますので、そちらもぜひご覧ください。 また、拙宅宝物蔵の「お裁縫」(かるら様)もあわせてご覧いただけるとなお良いかと…。 |