後の心にくらぶれば 足首の添え木をはずし、きつくさらしを巻き直して、半助はそっと立ってみた。 保健の新野からは、まだ左足を使ってはいけないと言われていたが、体は元気なのでこれ以上授業を休むのは気が気ではない。子供たちも、もう3日も休んでいる半助が心配で仕方ないらしく、山田先生の実技にも、代わりの先生の教科の授業にも身が入らないらしい。休み時間のたびに半助のところに来ては、まだ治らないのかと涙ぐんだ目で見つめられては、おちおち気も休まらない。多少無理をしても授業に出たほうがよほど楽というものだ。幸い教科担当なのだから、さほど負担もかかるまい。 よし。大丈夫。元々古傷が痛んだだけのこと。そんなに神経質になることはあるまい。逆に、神経質になったところで今さら本当の意味で完治するわけでもない。といっても新野先生に許可を求めれば駄目だと言われるに決まっている。半助は新野に、相方の山田伝蔵にさえ黙って、今日は組の教科を担当してくれることになっていたい組の安藤のところへ行った。 「安藤先生」 「おや、土井先生、その格好は?」 「ご迷惑をおかけしました。もう平気みたいですので、授業はわたしがやります」 「そうですか」 安藤はべつに半助の足を気遣うでもなく、回復を喜ぶでもなく、すました顔で茶をすすりながら言った。 「ま、それは助かりますな。は組の子供たちはどうも落ち着きがなくていけませんね。ふだん土井先生が甘やかしているからこうなるのですよ。このたびはお手柄だったようですが、だからといって授業の手を抜いちゃいけませんよ」 「は、はい。すみません」 甘やかしてなんか、と反論したいところだが、迷惑をかけてしまったのは事実なので今回はぐっと言葉を飲み込んだ。 半助が教室に入ると、は組のよい子たちが一瞬目を見張って沈黙した後、一斉にうわー!っと大きな声を上げて半助にとびついてきた。 半助はそれをなんとかとどめて授業を始めたが、自然と笑みがこぼれるのを抑えることができなかった。 教科の授業とはいえ、授業中はずっと立ちっぱなしだ。終わりころに、わずかに鈍い痛みを覚え、歩くのに違和感があったが、子供たちの前では無視してしまえる程度のものだった。 だが、授業に出たことはすでに新野にばれていて、終わってからこっぴどく叱られた。 「土井先生! 御自分でどういう状態か分かってらっしゃるのでしょう!」 「分かっています。だから授業に出たのです。無理はしていません。ちゃんと湿布はしていますから」 「わたしがよいと言うまで左足を使ってはいけないと言ったでしょう!」 「新野先生」 半助はいつもの笑みを引っ込めて言った。 「以前にもこういうことはあったのです。少し時間がたてばなんともありませんし、少しくらい無理をしてもしなくても、今さらもう変わらないのです」 新野は、仕方ないというように首を振った。 「いいですか、土井先生。今回はわたしの言うとおりにしないと、今度こそ本当に駄目になるかもしれないのですよ」 新野は幾分脅しも含めてそう宣告したのだが、半助は再び笑みを浮かべた。 「そのときはそのときです」 新野は諦めきれずに伝蔵に相談したが、伝蔵も「あいつは言い出したらきかんから」と言うだけだった。 それから数日、半助の思ったとおり、足の痛みは良くも悪くもならなかった。授業中立ちっぱなしでいると少し痛むが、一晩休めば朝にはどうということもなかった。子供たちは、半助の足はすっかり良くなったと思っていたし、時々心配そうに見ていた伝蔵も、どうやら大丈夫かなという様子に変わってきた。 ところがそんなある日、授業の途中からずきずき、ずきずき…足が痛み始めた。半助は子供たちの前ではそんなそぶりは見せまいと、顔色一つ変えずに授業を続けた。だが、そのうち立っているのもつらくなってきた。 がたん! きり丸が突然立ち上がった。 みんなの目がきり丸に注がれた。 「どうした、きり丸」 いつもの悪ふざけではない。きり丸の目は真剣だった。 「先生! 顔色が悪いです!」 半助はしまったと思ったが、いつもの笑顔を崩すことなく 「そうか? 気のせいだろう」 と答えた。 だが、きり丸がきっかけとなって、は組の生徒たちが口々にそうだそうだと言いはじめた。 「先生、足がまだ痛むのではありませんか?」 庄左ヱ門が気がついて言った。 「ぼ、ぼく新野先生を呼んできます!」 乱太郎が立ち上がって教室を出ていきそうになった。 半助はあわててそれを留めた。 「なんともないから騒ぐんじゃない! えーと、じゃああと少しで終わりだから、座って授業させてもらっていいかな?」 「そんな、先生休んだほうがいいんじゃないんですか?」 庄左ヱ門がなおも心配して言ったが、 「そんなこと言って授業を早く終わろうとしても駄目だぞ」 半助は明るくそう言って、その言葉には組の生徒たちもようやく落ち着いて席についた。 その後、半助は座って授業を続けた。それでも終わるころには足がつらくて、歩いて部屋に戻るのも億劫だった。だが、子供たちが心配してチョークの入れ物やら教科書や資料やらを持ってくれるので、大げさだなとかなんとか笑顔で話しながら、歩いて部屋に戻った。 子供たちは気づかなかったが、もし途中で他の教師と会えば、半助が軽く足を引きずっているのに気がついただろう。 次の日には、再び半助は授業を休まなければならなくなった。 もう強がりも無理もきかないほどだった。新野の説教もろくに耳に入らなかった。 どうしてこんなことになったのだろう。以前にも同じようなことはあった。そのときは少しずつ回復していった。それほど大事にしていたわけでもないのに。今回だって、ちゃんと湿布はしていたし、走り回ったわけじゃない。 新野先生の言ったとおり、今度こそ本当にもう駄目なのか。 新野の言うとおり、再び添え木を当て、左足に力を入れないようにしていたにもかかわらず、その次の日も痛みは少しも引かなかった。 半助はうずくまるような格好で左足を抱えながら、来週の野外訓練のことを思った。この分では間に合いそうにない。 いや、もう二度と子供たちをサポートするために走りまわることはできないのかもしれない。 ここにいる以上、教科担当だからでは済まない。 自分が動けないために、子供たちに万一のことがあったら……。 そう考えて、半助はぼんやりとこれからのことを考えた。 子供たちを助けられない 教師としては失格だ ならば辞めるしかないではないか そうたいしたことではない、と半助は思う。 自分は忍者には向いていないと、ずっと思ってきたのだから。 ちょうどいい潮時ではないか。 これまでいつもそうだった。 慣れ親しんだ人と別れ、住み慣れた場所を離れ、全く別の生活を始めたことは。 自分一人、何をしても生きていける。 どうしてもこうありたい、何をしたいというものなど元々ないのだから。 今までと同じ。同じことの繰り返し。ただそれだけのこと。 これまで何度も繰り返してきたように。 子供たちと別れ、もう二度と会わず、違う生活を始める……。 本当に同じだろうか。ならばこの痛みはなんだろう。痛めた足首でもなく、いつもの胃でもなく。 胸が、切り裂かれたように痛い。 半助は自分の両手で自分の肩をぎゅっと抱いた。不安で不安でたまらない。べつにこの仕事にそんなに執着していたはずはないのに。学園を辞めて、どこへ行って何をすればよいのか見えない。 いや、先が見えないことも今までと同じはず。それでも自分は生きてきた。それなりに幸せだったはずだ。なのになぜ今になってこんなに不安なのか。何を恐れているのか。 半助は、そうしていれば胸の痛みが収まるかのように、自分の肩を抱く両手に力を込めた。 そのとき、半助の部屋の障子がいきなり開いた。半助は驚いて顔を上げた。 そこに立っていたのは、山田伝蔵だった。 瞬間、半助はいつもの笑顔を作ることができなかった。自分が泣いていたのではないかと思った。慌てて意識下で頬の感覚を確認する。大丈夫。濡れていない。 伝蔵は断りもなく入ってくると、半助の前にどっかと座った。 「だいぶ痛むようじゃな」 伝蔵は顔色も変えずにそう言った。 「それほどでもありません。でも……」 「でも、なんじゃ?」 「今までのようにはおそらく、もう……」 どう告げようか。この同僚に。この偉大な先輩に。そして命の恩人に。 かつて、任務の途中で深手を負い、左足の腱をひどく痛めた。もうこれで最期だと思ったときに、たまたま別件で来ていた伝蔵に救われたのだ。 あのときも半助は、もう忍者をやめようと思った。もう無理だと思った。この足では。 そんな半助を励まし、リハビリをさせた上、どうしても現場に戻る気がないのならと教職を紹介してくれたのも伝蔵だった。 そのおかげで今まで楽しくやってこられたのに、今また、途中で投げ出すと言わなければならないのか。 そんな半助の葛藤を見透かしたのかどうか、伝蔵が先に口を開いた。 「半助、時には自分の苦手から逃げずに立ち向かわなければならんときもあるぞ」 「こ、こんなときにカマボコなんかどうだって…」 「だれがカマボコの話をしとるか!」 「ち、違うんですか? だって今苦手っておっしゃったじゃないですか」 伝蔵はかっくりと首を垂れたが、気を取り直して、 「好き嫌いを言っておるのではない。例えば自分のことを最優先するとか、時にはわがままを言ってみるとか、そういうことじゃ」 半助はつい今までの不安も痛みも忘れて、あっけにとられて伝蔵を見た。 「わがまま、ですか?」 「そうじゃ。だれに迷惑をかけようとも、自分はこうしたいのだ、これを失いたくないのだとしがみつく。そういうことが必要なときもあるということじゃよ」 半助の長い睫毛が陰を作った。 「あんたが忍者に向いていない最大の点はそこじゃな。最後の最後まであがいてみんか」 「でも山田先生、迷惑をかける相手が生徒たちとなれば別でしょう? わたしは、子供たちを守れないのならいっそ自分が死んだほうがましとさえ思います」 「教師としてはその心がけや良し、じゃ。だがまだ早まってはならんぞ」 半助はくすっと笑った。 「死んだほうがましというのはものの例えですよ。早まるだなんて」 「そうか。じゃあ辞表なんか書くなよ」 ズバリと言われて、半助はぐっと返事に詰まった。 半助は、かなわないな、というように苦笑いを浮かべた。 「山田先生は、どうしてそこまでわたしにかまってくださるのですか?」 伝蔵には、そのときの半助の表情が、それを喜んでいるというより寂しそうに見えた。 「さあな。それはわしも一度ちゃんと考えてみなければいかんと思っとるんだがな。ま、今回はわしも何もしてやれん」 「そんなこと、山田先生」 「いや、本当のことじゃ。今回はな。ただ、もうすぐ雅之助が来よう。それを待ってからでも遅くはない」 「大木先生?」 正直忘れていた。というよりあてにはしていない半助だった。半ば脅されて事情を話した。力になろうとは言ってくれたが、どうにかなるとは思っていなかったのだ。だが伝蔵はそれを待てという。 「分かりました。では一応お言葉に従います」 「一応ではなくしっかり従っとけ!」 「はいはい」 ぺろりと舌を出して笑った半助に、伝蔵もようやく笑みをもらした。 「このアホが! ガキじゃあるまいし、なんでわしが来るまでおとなしくしておられんのだ!」 「い、痛い痛い痛い! 痛いです大木先生!」 数日後に学園にやってきた大木雅之助に、半助はまたこっぴどく怒られた。怒った雅之助は手荒く半助の足の治療をした。伝蔵も新野もその場にいたが、だれもかばってくれなかった。 だが、雅之助はわざわざ自ら甲賀の里まで出向いて、最良の薬と治療法を仕入れてきてくれたのだ。たいして当てにもせずに忘れかけていたことを、半助は反省した。 「わたしが大木先生からしっかり引き継いでおきますからね。今度こそ指示に従っていただきますよ」 「ほかの先生方にもちゃんと言っておくから、授業の心配などせずに養生するんだぞ」 「…はい……」 3人からにらまれて、半助はおとなしくそう返事をするしかなかった。 それからしばらく、3人がかわるがわる顔を出して見張りにくるのがうっとおしかったが、ほどなくして足の痛みは快方に向かった。 もうすぐ、今度こそは組の子供達に心配をかけさせずに済む。 今度は本当の笑顔を見せられる。 いや、違う。自分が、子供達の本当の笑顔を見られるのだ。 それを失うかもしれないと思ったときの自分の不安と恐怖に、いまだにとまどいを覚えつつ、半助は伝蔵に言われた言葉を反芻してみるのだった。 昔はものを思はざりけり… |