『静夜』
「山田先生、お邪魔してもいいでしょうか」 ふいに、声がした。 夜気を、乱しもしないのだな。 伝蔵は、杯を置く。 「半助か」 「はい」 まだ五つとは言え、月影もない。 明るい夜なら、すらりと戸を開ける半助も、 闇の静けさにつられてか、はばかるように、身の幅ほどに板戸を開く。 そして、そのまま、動きをとめた。 挨拶の言葉を、のみこんだようだ。 「意外、かな」 その間を受けて、伝蔵がつぶやく。 揺らめく影を、表に放たないよう注意深くすべりこむと、 半助は、ぴたりと部屋を閉ざす。 彼の気遣いは、よくわかった。 手燭ひとつの明かりでも、この闇には凶器のようだ。 「いかがされました…」 やっと、半助が口を開く。 おやまあ、この態を見られてしまったとはな。 酔った頭で、伝蔵は自嘲する。 「なにか、用かな?」 自分の声が、遠くから響いてくる。 「いえ…、急ぐことでは、なかったのですが」 目のやり場に困っている。 そうだな。 明日もまた、あの[は]組と格闘しなければならぬというのに。 この酒の量は、理解に苦しむな。 なんとなく、同情を、半助に向けて。 「そうか…。では、明日、聞くとしよう」 目もあげず、伝蔵が答える。 手燭の灯めがけて、部屋中の影が押し寄せている。 そんな闇夜だ。 伝蔵の表情のほとんどは、その中に沈み、 肩先や耳や幾筋かの髪が、光を帯びて浮かび上がる。 ただそれだけなのに、その姿は、普段は現れない、彼本来の凄みを曝け出させる。 殺気とは違う、底無しの。 半助は、わずかに、身じろぎをする。 「山田先生…、お体に、障りますよ」 「悪いが、今日は、引き取れ」 言い捨てて、また、伝蔵は、杯をあげ、飲み干す。 その声は、落着いているが、強い。 半助は、少し迷ったようだ。 が、にじり出る。 「山田先生」 まったく。 野暮な奴め。 察せぬか。 返答代りに、また、ぐい、とあおる。 杯の端から目をやると、心配げな年若い同僚が、板戸の側に控えているのが見える。 はてさて。 どうしたものか。 一喝するか。 半助は、言葉を探したまま、こちらを見つめている。 まだまだ青いくせに、わしを相手に、一人前にものを言うのだからな。 頼もしいような、手に余るような…。 やれやれ。 お前さんには、困ったものだ。 半助から顔をそむけたままで、伝蔵は、ふと、やさしい目をする。 そして、聞こえないくらいの、静かな声で。 「…いいから。大丈夫だから…。もう、お行きなさい」 「…はい」 不承不承に、半助が、返事をする。 けれども、まだ、ひざは付いたままだ。 ためらいがちに、伝蔵を覗っている。 「…どうした」 「あのー…」 頭をかきかき、照れたように笑む。 「せっかくなので…、わたしも、お相伴させて頂けないかなと思って。 こんな機会には、なかなか、ありつけませんからね」 笑顔の中で、目だけは、笑っていないことを、伝蔵は知っている。 ただ、まっすぐなまなざしで。 「お邪魔でしょうか」 まったく…。 まったく、本当に。 こいつときたら。 あきれたわい。 伝蔵は、杯を満たす。 「杯は、ひとつだぞ」 「ずるをしないんなら、構いませんよ」 傍らによった半助は、楽しそうに言って、一息で飲み干す。 「おやおや。大丈夫かね」 「山田先生が思ってらっしゃるより、強いんですよ」 半助は、にっと笑う。 いや、笑って見せているのだ、こいつは…。 いつものように、かわりなく。 伝蔵は、黙って杯を、また満たす。 手燭の明かりを背に受けて、連なる影の間を、 杯だけが、酒を受けては、ゆるやかに交わされる。 夜気が濃くなってゆく。 杯をあたためる、お互いの掌のぬくもりだけが、ここにいる証のようだ。 「実はな、」 口を開いたのは、伝蔵だった。 ひとり言のように。 半助が、酒をつぐ。 相槌のように。 「実は…」 言葉が、でない。 何と言うのだ。 生徒を失ったらしい、と。 すでに一人前の、昔々の教え子を。 風の便りに聞いたのだと。 目を伏せる。 この若者に、この心境を吐露したところで、なんになろう。 伝蔵の心は、重く沈む。 つがれた杯を奪うように、口をつける。 どれほど飲み下しても、言葉は喉の奥で、塊になったままだ。 酒の力も、及ばない。 気持ちを、何にも託せない。 半助は、先をうながさない。 そう、よくある話。 だが、この胸を噛む。 教えること、 教えられないこと、 教わらないままのこと。 お前達の命についても、同じこと。 わしは、お前達を、きっと、見届けてやるから。 そんな言葉をのんだまま。 くりかえす日々。 明日からも、また。 口元に杯を寄せ、思いを啜る。 すまんな、こんな態でしか、今は、いられない。 お前さんに、このざまを、何と告げよう。 だが、自分でも、どう説明していいのか、わからないんじゃよ。 すまんな。 こんな時、こんな晩に。 お前さんを、傍らに置いてしまって。 「わたしも、頂きますね」 動きを止めた伝蔵の手から、やわらかく杯を取り上げると、 半助が手酌で、ぐいと、あおる。 肩越しの衣擦れに気づいたように、伝蔵がつぶやく。 「わしにも、くれ」 「…はい」 杯が、静かに手渡される。 その酒が、ただ、痺れるようにのどを伝わってゆく。 悲しいのだ。 守ってやることは、できないから。 そう、守ってやることも、できないから。 見届けるのが、せめてもの、償い。 ただ、いつも、お前達を遠くから、思っているから。 生き延びていておくれ。 あの日、別れた時のままに。 …風が、頬を撫でるようだ。 面影。 呼ぶ声。 明るい空。 足もとへ、やわらかに群がる、子供達の影。 そこへ立っているかのような、瑞々しい気配。 …酔っているのかの。 いつのまにか、杯を、絞るほどに掴んで。 その手は、投げ出すように膝に置かれている。 杯の内側で、手燭の灯が、震えながら、静かに燃えている。 伝蔵は、それを、じっと見つめている。 なぜ、こんなにも、わしの指は、杯を握り締めているのだろう。 まるで、何かを押さえているようだ。 杯と一緒に、押さえこんで。 そして、まばたき。 わしは、泣いているのかも知れんな…。 「山田先生…、月が昇ってきたようですよ」 ふと、半助が顔をあげた。 板戸の境が、ほのかに明るい。 断りも無く、半助は手燭を吹き消す。 伝蔵が、はじめてまともに、半助を見やった。 いつもの、あの目で。 半助は、伝蔵の膝に手を置く。 「もう、やすみましょう…。明日も、あの[は]組が待っていますから」 杯が、いつのまにか、半助の手に移っていた。 「…実は、私も、もう動けません」 少し、笑って。 「今晩は、このまま居てもいいですか」 「…無理をしおって」 「先生ほどじゃ、ありませんよ」 そして、静かな口調で。 「わたしには役不足。わかっています。 助けてなんて、差し上げられない。 見守ることしか、できない。 でも、…あなたを置いて、行くことはできない」 「なぜ」 「なぜでしょうね」 半助が、ため息混じりに、そっと笑む気配がする。 「あなたがご迷惑でも、わたしはそうしたい」 「迷惑じゃ。杯まで取られて」 「杯しか取っていませんよ…。わたしにできるのは、そのくらいですから」 伝蔵は、苦笑を浮かべる。 「なにもせずとも、よい」 「はい」 半助は、素直にうなずく。 お前さんは、こんなにも静かに、わしの側で飲めるのだからな…。 わしの無言を引き受けて。 「山田先生の、子供達を見るまなざしが好きですよ。 先生の、自身を与える強さが好きですよ」 半助が、ぽつりぽつりと言う。 「山田先生は、わたしの標です。だから…大事な人なわけで…」 月の光が一筋のびる床に、こぼれて落ちる、やさしい声。 「どんな遠くにいても、あなたとともにいたいのです…。 あなたの言葉がわたしを支えてくれる。 あなたの生き方、あなたの信条が、道を照らしてくれる」 伝蔵は、黙って聞いている。 「だから、あなたを、私に刻んでおきたい。あなたと云う人を、つかみたい…。 …だから、…だから」 言いかけて、逡巡する。 「…いえ。 …おこがましいですね。すみません。酔ってますね、わたしは…」 半助は、天井をあおいで。 「わたしは、山田先生の生徒のつもりですから」 「…難儀な生徒じゃわい」 伝蔵が、つぶやいて、押し黙る。 ささやくほどの声で。 「…ならば、死に急ぐなよ…」 「わかっていますよ…」 部屋の中は仄暗く、互いの表情は見えない。 ただ、その声の様子に、ふたりは、床に落ちる月明かりを見つめて、黙る。 ふと、この秋の最後の虫が、鳴く。 Fin. |
いつもサイトに遊びにきてくださる真杞様にいただきました。 山田先生と土井先生が大好きとおっしゃる真杞さん。 このしっとりとした作風と、山田先生の色気にくらくらして、強引に説得してここに納めさせていただきました。 山田先生、弱みを見せまいとしながらも、どこかやはり土井先生に心許してしまうところがあるのでしょうか。それとも、そうさせてしまう何かが土井先生にあるのでしょうか。 思わず私も一献傾けたくなってしまいます(笑) 真杞さん、改めてありがとうございました。 |