春休みのある朝。半助はまだ暗いうちに何かの気配を感じて、ふと目が覚めた。それはまさに気配というもので、何かの物音、のような響き、何かの匂い、のような空気が伝わってくる。眠っていたにもかかわらず、それのために目が覚めるほどの。
半助は半身を起こして、感覚をさらに研ぎすませる。家の中でだれかが、というようなものではない。もっと遠く、もっと大きな何か。 隣の部屋ではきり丸と、例によって遊びにきていた乱太郎としんべエが、軽い寝息だのいびきだのを立てて眠っている。半助は子供達を起こさぬようにそっと起き上がり、身支度を整えた。 そのとたん、と言ってよい。町の半鐘がじゃんじゃんと鳴り響き始めた。さすがの3人も、びっくりして目を覚ました。しんべエは体だけ起き上がっていたが、目は眠っていた。乱太郎はあわててメガネを捜し、きり丸ははいずるようにして襖を開けた。 「先生、火事、どこ?」 「火事ではない」 返ってきた半助の緊迫した答えに、3人組もようやく本当に目が覚めた。さすがに忍たまである。 「だって、半鐘が……」 反論しかけたきり丸に、半助は「しっ!」と指をあてて黙らせた。 緊迫した空気が家の中に漂う。町の人たちも半鐘の音に次々と起きだして、外に出て騒ぎだした。 と、まもなく、だれかが大声で叫びながら走ってくるのが聞こえた。 「大変だ! 兵隊だ! どこかの軍が攻めてきた!」 町の人たちの悲鳴が聞こえた。 「先生!」 3人がそろって半助を見た。半助は緊迫した表情ながら、さすがに落ち着きはらっている。 「すぐに着替えなさい」 半助はそれだけ言った。3人ともすぐに着替えをすませ、さらに半助に言われて苦無と手裏剣も懐に忍ばせた。半助も町にいる時にしては珍しく、忍び刀を腰に差した。 4人が外に出ると、ようやく明るくなりはじめた時分であった。町の男たちがわらわらと、町の東の入り口へ向かっていた。朝もやの向こうにぼんやりと、旗指物が見える。 「行ってみよう」 半助に3人の子供がぴったりくっつくようにして、町外れまで来てみると、どこぞの大名の軍が竹やりを町の周囲に張り巡らせているところだった。街道の入り口はどこも兵によってふさがれている様子だ。 「何ごとじゃ! 町の衆、道を開けてくだされ!」 ざわめく人々をかきわけて、この町の代表者である町年寄りがあわてふためいてころげるように前に出てきた。町年寄が息を切らせて前へ出ると、一人の武将が4,5人の槍を持った武士を従えてきて大声を出した。 「わしはシビレタケ城の城主である! この町は完全にわれわれが封鎖した! 封鎖を解いてほしくば今日よりわがシビレタケの支配下に入り、税を納めよ! 全面降伏のしるしとして、本日中に銭百貫を差し出せ! それが嫌ならば、即刻この町焼き討ちにしてくれる!」 集まってきていた町の者たちからいっせいに怒声が挙がった。 「黙れ!」 武将が怒鳴り返し、槍隊がずいと前に出ると、町衆はじりりと後ろに下がった。 「何もただ銭を取り立てようというのではない。ドクタケあたりなら有無を言わせず攻めてこよう。われらはそのような者どもから守ってしんぜようと言うのだ」 「し、しかし、この町はずっと中立を通してまいりました。このあたりの大名も皆それをご存じで……」 町年寄は震えながらも敢然と抗議した。 「甘いわ! この戦国の世に、そのような暗黙の了解など、いつ破られてもおかしくないのだ! われらのような温情ある勢力の配下に入れるだけ幸運と思って当然であろう!」 「そ、そんな……」 再び町衆から抗議の声がざわざわと挙がった。 「ええい! ならばおまえらにわれわれと戦う力があるとでも申すか! 従うか、焼き討ちか、二つに一つじゃ!」 「そのような重大事、今すぐここで返答するわけにはまいりません。町の主だった者たちとよくよく相談いたさねば……」 町年寄は青ざめて言い募ったが、この程度は予測の範囲内であったらしい。あっさりと 「ふん。ではしばしの時間を与えよう。昼までに返答せい。返答なき時は服従の意思なしと見てただちに町に攻め入るからそのつもりでよくよく相談いたせ」 シビレタケの城主はそう言い捨てると、さっさと陣幕に下がっていった。 たちまち町じゅうが大騒ぎになった。女たちは子供をかかえて家の中で不安そうに身をすくめ、男たちは外に出て、ある者は武器になりそうなものを手にとり、ある者はこれからどうなるのかと噂しあい、またある者は町から逃げ出す算段をしていた。 町年寄の屋敷にはすぐに町内の有力者たちが集まり、額を寄せて、どうしたものかと相談を始めた。 半助たちは家に帰った。3人組は、あまりの事態にただただ驚いていたが、そこは忍たまというべきか、先生が一緒という安心感からか、町の人たちと比べれば落ち着いていた。 それでも、 「先生、うちに帰れなくなっちゃった。どうしよう」 しんべエが泣きそうな顔で言った。 「大丈夫だ。そういつまでも封鎖しているわけではない。すぐに帰れるよ」 半助はこんな時でも優しい笑顔で言った。 「先生、でももうすぐ春休みが終わりますよ。学校に間に合うんでしょうか」 乱太郎が心配そうに言った。 「きっと学園ではもう情報を得ていると思うよ。学園長がそれなりの対策を講じられるだろう。助けが来るよ」 半助は楽観的なようだ。 「でーっ、こんなんじゃあさりの仕入れもできないし、おれのアルバイト……」 「おまえは少し黙っていなさい!」 半助に一蹴され、きり丸は (ちぇっ、ぜってー逆えこひいきだ) きり丸は声に出さずに毒づいた。 「とにかく、ここでいらぬ心配をしいても仕方ない。こんな時はまず……」 「まず?」 3人は半助の顔を見上げた。 「朝飯を食おう」 きり丸と乱太郎は力が抜けてこけたが、しんべエはころっと元気になった。 「うん、そうだね。腹が減っては道草食えぬだよね」 「戦ができぬ、だ」 ともあれ、4人は腹ごしらえをした。食べ終わると半助は、いつもの授業みたいに3人に言った。 「わたしはちょっと外の様子を見てくるから、おまえたちはここで留守番していなさい」 「えーっ、おれたちも行きたいよ。なあ、乱太郎」 きり丸が唇をとがらせた。 「だめだ。これは訓練じゃない。本物の戦なんだぞ」 「けど……」 「きり丸、おまえこの町を焼かれたくないだろう?」 きり丸はびっくっとして目をそらした。 「わたしは様子を見て囲みを突破し、学園と連絡を取る。おまえたちにはここでやってもらいたいことがあるんだ。ちゃんとできるな?」 半助はきり丸、乱太郎、しんべエの頭に順番に手を置いてじっと見た。 3人も珍しく真剣になって半助の顔を見た。 「だけど先生、あんなに厳重に囲まれちゃってるのに、突破なんてできるの?」 乱太郎がたずねた。 「調べてみないと分からないが、べつにここは要塞じゃない。きっと出られる。だが、おまえたちが一緒ではちょっと無理だ」 3人は互いに顔を見合わせ、それから3人とも力強くうなづいた。 「うん、分かった。おれちゃんとやれるよ。何をすればいいの?」 もう日もすっかり高くなったが、町年寄りの屋敷では、まだ何の結論も出ていなかった。降伏か。しかし百貫もの銭をどう都合するのか。戦うか。武器もなければ侍もいない。援軍を求めに行くか。どうやって外部と連絡を取るのか。それぞれの主張がぶつかるばかりで、少しも意見がまとまらなかった。 町年寄りは、しばし休憩をと言って中座し、中庭に出てきた。ほーっと大きく息をつく。どうしたらよいのやら、かいもく見当もつかない。どうするのが町の人々にとって最善なのか。 「町年寄り殿」 不意に呼び掛けられて、町年寄りは驚いて振り返った。振り返ってもっと驚いた。そこには黒っぽい独特の衣服を身に着けた男が立っていた。世に言う「忍者」だということはすぐに分かった。 「静かになさってください」 忍者はそう言ったが、もとより町年寄りは驚きすぎて声も出ないでいる。 「あやしい者ではありません」 「と言うてその格好は……」 「ですよね」 忍者はしれっとして言った。顔は目だけを出して、半分以上が隠れている。声はくぐもっているが、恐ろし気な雰囲気も脅すような口調もない。町年寄りは、とりあえず命を取られる心配はなさそうだと判断した。 「何の用じゃ。まだ結論は出ていないわ」 町年寄りは忍者を、シビレタケの者が様子を伺いにきたのだと思ったらしい。 「いえ、わたしはこの町に住む者です」 「なんじゃと?」 「もちろん、ふだんは、いわば借りの姿で生活しております。それで、失礼ながら顔をお見せするわけにはまいりませんが、この窮状をなんとかしたいと思ってまいったのです」 「そ、それはまことか!?」 この状況で、忍者が力を貸してくれると言うなら願ってもないことだ。だが、それを信用していいものかどうか。 「まことかどうか、まずわたしの話を聞いてください。いずれにしても、町に犠牲を出さずにすむとは思います。もし信用されないとしても、わたしはわたしで勝手に動きますから」 町年寄りは忍者から事細かに作戦を聞かされると、感心したようにうーんとうなった。それから 「分かった。そなたの言うとおりにしよう。ほかに妙案もないのじゃ」 昼近くになり、町年寄りその他の代表者たちが、シビレタケの陣屋にやって来た。数人の供の者が荷車を押していた。荷車には何か荷物がたくさん積まれていた。 代表者たちは城主の前に連れてこられ、震えながら平伏した。 「ここへ来たということは、全面的にわれらに従うということじゃな」 シビレタケ城主は満足げだ。 「は、はい。町に犠牲を出すわけにはまいりません。しかし……」 「しかし、なんじゃ」 「銭百貫というのは、わが町では無理でございます」 城主の顔がとたんに険しくなった。 「それで済むと思うのか!」 「め、めっそうもございません。それで、その、代わりと申してはなんですが、町じゅうから金目のものを集めましてございます」 「金目のものだと?」 城主は興味を示して身を乗り出した。町年寄りは内心しめたと思った。さすがに、長年町年寄りを勤めてきただけあって、たやすく内心を読ませるようなことはしない。 「はい。近頃の一流の大名さまは、書画や茶などをたしなまれるとか。こちらのご城主さまはドクタケのような乱暴者ではないとのことですので、きっと、芸術を解される方と拝察いたします」 シビレタケ城主は、にやりと笑みを浮かぶのを隠すことはできなかった。とりわけそんなたしなみがあったわけでは決してない。それでも、町年寄りが言ったとおり、一流とされる大名たちにそのような流行があることは知っていた。 「むろんじゃ。わしはドクタケなどとは器が違うからな」 町年寄りはほっとした。 「そうでしょうとも! 私どもが見込んだとおりでございました。それでは早速、ともかくも持参した品々をお目にかけたく存じます」 そうして代表者たちは、荷車に積んできた荷物を、一つ一つひも解いていった。 「これはかの有名な大野豆腐先生の掛け軸でございます。こちらの宿屋の主人が所蔵していたもので大野先生が旅の途中でこの町をおとずれ、その際に……」 「これは干菓子山粥井先生の新作でございます。近ごろは京の都でも人気の絵師でございますので、なかなか手に入れるのは苦労でございますが、こちらの呉服屋が……」 本当かウソか分からない美術品の来歴を、代表者たちと協力しあって延々と述べていった。いや、その品そのものが本物かどうかさえあやしいようなものだったが、シビレタケ城主にそれを見破る眼力はなかった。 そのころ、半助はシビレタケの陣に近づき、様子を伺っていた。やがて一人の足軽が、用でも足そうとしたのであろうか、一人で茂みのほうにやってきた。 半助は音もなくその足軽の背後に回り込み、首筋に手刀を入れた。足軽は声も出さずに白目をむいて倒れた。半助は足軽を茂みの中に引きずっていくと、身ぐるみをはぎ、手足を縛り上げ、薬を染み込ませたさるぐつわをかませた。そして取り上げた足軽の着物や帷子などを自分が身に着けていった。 その姿で、半助は堂々とシビレタケの陣の中に入っていった。そのまま、まっすぐ炊事場のほうに歩いていった。昼餉の仕度の煙りだの湯気だのが立ち上っていた。 半助が炊事場に近づくと、ちょうど、城主の分の食事であろうか、また一人の足軽が特別の膳に食事を載せて、運んでいくところだった。 「ああ、ちょうど良かった」 半助はいつもの笑顔でその足軽に近づいていった。足軽同士、お互いに全部の顔を見知っているわけでは、当然のことながらない。同じ衣装を身に着けていれば味方だと思うものだ。しかも、相手は少しもあやしい雰囲気などない。堂々と話し掛けてくるのだ。食事係の足軽がなんの疑いも持たなかったとしても、本人の責任ではない。 「今、町の連中が何やらお宝を殿にお見せしている最中だ。中断させたくないので、近習の方が呼びにくるまで陣幕の外で、警護当番のおれに待機していろとのことだ」 「そうか。どうだ、お宝は拝めるか?」 「いや、外を警備するだけだ。おれたちの身分じゃ、とても中なんかのぞかせてはもらえないよ」 半助は皮肉まじりの口調で言った。それがさらに、食事係に親近感を抱かせた。 「そうか。じゃあ、食事は任せた。気を付けて運んでくれよ」 「もちろんだ」 半助は膳を捧げ持って陣幕のほうへ行った。 いよいよ陣幕の側まで来たとき、城主の近習の者であろうか、一人の侍に呼び止められた。 「おい、きさまいつもの食事係とは違うな」 「はい。いつもの者が急な腹痛だということで、お殿さまのお食事が遅れてはいけないからと代わりを頼まれました」 まるで用意していたかのような答えだ。しかし、侍は疑わしそうな目で半助をじろじろと見た。 「そうか。ではここから先はわしが運ぶ。お前は膳を置いて持ち場に戻れ」 半助は、とんでもないこと、と言わんばかりに目を見開いた。 「そういうわけにはまいりません。わたしが頼まれたのです。責任をもってお殿さまにお届けしなくては」 「何を言うか! わしが届けると言っておるのだ! 何の問題があるというのだ!」 「わたしは炊事場の頭からも、確かにお殿さまの陣幕までお届けするようにと言われたのでございます。途中でほかの方にお渡しするようにとは言われませんでした!」 実直そのもの、という表情を装って、半助が反論した。 「ええい! 融通のきかんやつめ! 炊事係ごときとわしと、どちらが上だと思っておるのだ!」 「そうは言っても、頭に怒られるのはわたしでございます! それともあなたさまが代わりに叱られてくださいますので?」 「ばかなことを申すな! さっさとわしの言うとおりにすればよいのだ!」 「ならば、一筆書いてくださいますか? わたしがあなたに言われて膳を渡してきたと証明してください」 侍は舌打ちした。半助は勝手に、膳をそっと下に置いて、懐に手を入れた。 「ここに紙と筆をもっておりますので」 「わかったわかった。早くこちらによこせ!」 ところが、 「あっ、しまった」 半助は手から何かをぽろっと落とした。それは、地面に落ちて、花火のようにしゅーしゅーと火と煙を上げた。侍はよほど意表を突かれたらしく、なぜ足軽がそんなものを落としたのか考える間もなく、 「ば、ばか者! このようなところで火など! はよう消さんか!」 言いながらも、自分の足下にあるそれを、踏み付けて火を消そうとした。ところが、急にふらふらと目を回して倒れてしまった。 半助はその侍も人目につかないところに引きずっていくと、何ごともなかったように膳を取り上げて先へ進んだ。 シビレタケ城主は昼餉を取りながら町の者に宝の披露を続けさせていたが、もともと芸術の素養など本当はない男だ。だんだん長々とした来歴にも飽きてきた。 それを見計らったように、町年寄りは年代物の壺を取り出して、急に声色を変えた。 「これは『ひとえりの葉茶壺』と言われているものでございます。殿様もうわさぐらいはお聞きになれたことがおありかと存じます」 「ああ、ふむ」 城主はあいまいな返事をした。 「なぜそのように呼ばれているかと申しますと、この壺は持つ者によってはたいへん不吉なものと言われております。その昔、これを最初に手にした貴族は気が触れて朝廷に謀反を企て、島流しにされました。その後、ある大名はこれを手にしたとたん戦に敗れ、またある豪商は一夜にして身上をつぶし……」 「ええい、もうよい」 城主は不快げに手を振った。 「そのような不吉な壺、なんのつもりで持ってきたのじゃ! 嫌がらせのつもりか!」 「と、とんでもございません。つまり、この壺がなぜ『ひとえり』と呼ばれているかと申しますと、人を選ぶということです。壺が見込んだ者には逆に天下を取るほどの幸運があると言われております。ところが、なかなかそのような器の持ち主はおりません。それで最後の持ち主が、わが町の寺に保管を頼んだのでございます。天下を取るにふさわしい方が現れるまで、人に害をなさぬよう封印しておいてくれと……」 「ほう」 城主は「天下」という言葉に興味を持ったらしい。 「それで寺の住職が、この町に目をつけるとは、もしやしてなかなかの人物かもしれぬから、これを持っていけと……。ああ、いやいや、しかし殿様が恐れをなすのももっともなこと。これはわれらが持ち返りまして、住職に勘違いであったと申しましょう」 「ああ、いや、それには及ばぬ。住職こそ、このわしに目をつけるなど、なかなかの眼力であると見ゆる。なんの、わしはそのようなもの、恐ろしくはないぞ。そうじゃ、天下じゃ。何もわしは私利私欲のためにここに来たのではない。天下を平定して民百姓を幸せにしてやろうと思うてのことじゃ」 「そうでしょうとも、そうでしょうとも」 そんなやり取りがあって、また次々と荷を開けていた時のこと。町を見回っていた兵が、ころげるように慌てて戻ってきた。 「た、大変です!」 「どうした! 騒々しいぞ!」 部隊長が戒めた。しかし、兵の顔はこわばり、息を荒げている。 「ま、町に、ふ、不吉なことが次々と……」 「なんだと?」 「ですから、町の者たちが不吉だ不吉だと騒いでおりまして、騒ぎは大きくなる一方で……」 「何がそんなに不吉だというのだ!」 「観音様が涙を流されました」 「は?」 部隊長はあっけにとられた。 「嘘ではございません! わたしも一緒に見ましたので」 別の兵も口を添えた。 「ほかにも、神社の狛犬が吠えたとか、仏像が立ち上がったとか、ばあさんの腰がのびたとか……」 「なんだ、それは!」 「ですから、わたしどもが見たのは観音様だけで、あとは噂なのですが、とにかく町じゅうが大騒ぎなのです」 「そのようなこと、殿になんと申し上げればよいのだ」 部隊長は困惑した。 その時だった。その「殿」の陣幕のほうから、うわーっという声が上がった。兵士たちは、恐怖の色を浮かべて顔を見合わせた。部隊長は兵たちを叱責すると、陣幕のほうへ駈けていった。 そこはまさに大騒ぎになっていた。 「殿が御乱心めされた!」 「ばか者! そのようなこと大きな声で申すな!」 「か、帰してくだされ! われらは町に……」 「医師か薬師を呼べ!」 部隊長は呆然とした。なんと、シビレタケ城主がかん高い笑い声をあげながら、刀を振り回し、 「天下はわしのものじゃ!」とか「首を取れ!」とか、その他何かわけの分からないことをわめいていた。町の者たちは恐れをなして逃げようとし、侍たちは、こんなことが町に漏れてはとそれを留めようとし、何人かは城主を取り押さえようと必死だった。 「こ、これはいったい……」 部隊長は近習の一人に声をかけた。 「わからん。先ほどから何やら笑いだしたと思ったら、急にこのようなことに……」 荷車のかげに隠れた町の者たちが叫んだ。 「呪いだ! たたりだ! あのひとえりの壺の!」 そんな大騒ぎのシビレタケ軍のところへ、一人の法師がやってきた。法師はなにものかに引き寄せられるようにシビレタケの陣に近づいた。すかさず、二人の侍が槍を突き付け、法師の足を止めた。 「どこへ行く! ここは今通ってはならん! よそへ回れ!」 法師は臆すことなく、空を仰ぐようにして、侍に言った。 「いやなに、この辺りまで来ましたところ、何やらまがまがしき気の漂うのを感じたので、おはらいをしてしんぜようと参ったのじゃ」 侍たちは顔を見合わせた。もしかして、殿の乱心はその「気」のせいなのではないか。しかし、だれも通してはならぬと言われているのに、勝手にこんな法師を通して良いものだろうか。 その沈黙をどう解してか、法師は軽い調子で言った。 「ああ、何も礼をよこせなどとは言わぬぞ。これも修業のうちじゃ。ただでかまわん」 ちょうどその時、一人の足軽が走ってやってきた。 「お侍さま、殿のことで、だれか医師か薬師、さもなくば僧なり巫女なり呼んでこいと命じられました。わたしを外に出してください」 「そうか。そのような命令があったか」 侍たちは、責任逃れができてほっとしたようだ。 「ちょうど旅の法師が、おはらいをと申して来たところだ。こいつを連れていけ。金はやらんでいいぞ」 こうして法師と足軽は連れ立って陣幕のほうに向かった。途中、二人が互いの顔を見てにやりと笑いあったことに気づくものはいなかった。 「ちょうどよいタイミングでしたね。大木先生。お似合いですよ」 「間に合ってよかった。それで何を使ったんだ?」 「ツチハンミョウを少し」 「ほう。しかし、昼飯に盛ったのではすぐに飯があやしいと気づかれただろう」 「ですから少し細工をして、胃の中で消化されるのに時間がかかるようにしました。効果が出たのはつい先ほどです」 「ほおー。なかなかやるな」 そう。すべて半助が策を立ててやったことだ。町を難無く抜け出て学園に向かった半助は、すでに学園長からの連絡でこちらに向かっていた雅之助に出会い、作戦を伝えて助力を頼んだのだった。 陣幕に着くと、そこはまだ先ほどの大騒ぎが続いていた。半助は大声を上げて、町の者が逃げ出すのを阻止しようとしている副将を勤める侍に呼び掛けた。 「もし! 法師さまをお連れしました!」 副将はけげんな顔で半助と、半歩下がっている法師大木を見やった。 「法師など呼んだ覚えはないぞ」 「いえ、実は旅の法師さまが、ここにまがまがしき気があると申されて、おはらいをと申し出てくださったのです」 ふだんならば歯牙にもかけなかったかもしれない。しかし、この状況だ。副将は、藁にもすがる気持ちになって話にとびついた。 「そうか、やはり何か不吉なことがあったのだな。ならばちょうどよい。殿が見たとおりじゃ。はよおはらいをして、殿を元に戻せ! 役にたたなかったらほうり出すぞ!」 「わかったわかった。なに、心配はいらん。わしに任せておけ」 雅之助は悠然として城主の前に進み出た。近習はもうほとんど城主を押さえ付けているのも限界の様子だった。雅之助はそれらしい仕種で錫杖を振り上げ、何やら呪文を唱えたりした。それから錫杖をぴたりと城主に向け、何かを見通すようにじっと見た。 「ふむ。わかった」 「何が分かったのだ! 殿は治らぬではないか!」 「そうだ。これはここに居たのでは治らん。まがまがしきはそこな男ではなく、この町だ」 「なんだと?」 これには固唾を飲んで見守っていた町の代表団も、心外だという顔をした。 「そこの城主は、手に入れてはならぬものを手に入れたのだ。その男のものにはならぬものを、自分のものにしようとしたのだ。何かが起こっているのはここだけではあるまい」 あまりの符号に侍たちは驚き、怖くさえなった。 「ではやはりその葉茶壺のせいなのだな。おい、おまえたち、もうこの壺を持って帰れ! しかし、今見たことは口外するでないぞ! 見張りの兵を付けるからな!」 副将は八つ当たりぎみに町のものを脅したが、雅之助はそれをとどめた。 「いやいや、それでは状況は変わらん。もうここから引き上げられよ。町そのものが不吉なのじゃ。ここから去るのがいちばん。いや、そうでなければこの殿様はこのままだろう。言うことをきかんというなら、わしはもう知らん。それより早く決断せんと、呪に取り殺されるぞ」 まだ因習だの迷信だのが生きている時代のこと。追い詰められたのは副将だ。城主に判断はできない。このままここに留まって、城主に何かあっても自分の責任。おめおめ退散して、後で城主に怒られるのも自分。どちらも嫌だ。 その時、城主が大声を上げて、刀を振り回した。皆がびくっとした。 「ほれほれ、早く決めろ」 雅之助は無責任に副将をせかした。 「わ、わかった。残念だがひとまず城に戻ろう。なんの、こんな町の一つや二ついつでも……」 精一杯の強がりを見せて、しかしシビレタケ軍はついに撤退することになった。 あわてて撤退していくシビレタケ軍を、町の人たちは歓声を上げて見送った。大声でやじをとばす者もあった。持っていった宝物(本当に宝かどうかは不明だが)と共に帰ってきた代表団は、歓喜の声で迎えられ、もみくちゃにされた。 「ようやってくだされた! 皆様!」 「いやいや、われらは町年寄り殿の言うとおりにやったまで」 「さすがは町年寄り様!」 「ああ、いや、わしはべつに……」 町年寄りはあいまいに答え、困惑した顔をした。半助から、決して自分のことは口外しないように固く固く言われていたが、手柄を横取りするようで胸が痛んだ。しかし、名前も知らないとはいえ、本当のことを言ってしまえば、かえってあの忍者が迷惑するだろうことは分かっていた。 お祭り騒ぎの町の人たちと少し離れて、乱・きり・しんの三人組は、少し心細げに立ちつくしていた。 うまくいったのだ。でも、先生はどうなったのだろう。夕闇の中に小さくなっていくシビレタケ軍を見送っていると、不意に後ろから声をかけられた。 「ただいま」 「わーっ!」 3人は驚いて腰を抜かしそうになった。振り向くとそこには、いつもの普段着の土井先生と、法師姿のままの大木雅之助が立っていた。 「土井先生!」 3人は声をそろえた。半助はにこにこと、3人の頭を順番になでた。 「よくやったな、3人とも。とても効果的だったぞ」 つまり、町の「不吉」騒ぎはこの3人が引き起こしたことだったのだ。 「せんせーい、こわかったよー」 「よしよし、泣くなしんべエ」 「遅かったじゃないですか。心配したんですよ」 「すまなかったな、乱太郎。ちょっと二人ばかり気の毒な人を助けるのに手間取ってな」 「?」 「それより、なんで大木先生が一緒なんですかぁ?」 「なんだ、きり丸、その不満そうな顔は』 雅之助がげんこつできり丸の頭をぐりぐりとやった。 「いてて! べつに不満てわけじゃ……。だって学園にだれもいなかったんですか?」 「ああ、おったらしいぞ。斜堂先生と松千代先生がな」 それで3人は納得した。この二人の先生に能力がないというわけではない。忍術学園の教師である以上、たとえ教科担当であっても優秀な忍びであることは確かだ。ただこの二人の場合、技能よりもその性格のために、実戦向きでないこともまた確かだった。そこで、6年生を使ってすばやくシビレタケの動向を捉えていた学園長は、杭瀬村に遣いを出して、大木雅之助を半助の町に行かせたのだ。 「さあ、うちに帰ろう。夕飯の仕度をしなきゃ」 半助は、まるで学校から帰ってきたのと変わらない口調だった。 「大木先生もいかがですか。お礼というほどのものはできませんが」 「おお、昼飯食いそこねたからな。今晩は泊めてもらうか」 「えーっ、大木先生も泊まるのかよ」 「久しぶりに甲賀忍法についてじっくり教えてやるぞ。うれしかろう」 雅之助はまた、きり丸の頭をぐりぐりとやって、豪快に笑った。 「それはいい。きり丸、ただで授業が受けられるぞ。よかったな」 「でーっ! いや、嬉しいです、嬉しいですってば! いてて! くそ!」 5人、いや4人は笑いながら、一人はぶつくさと言いながら、お祭り騒ぎを離れて家路についた。 |