第11回「自分勝手」

 ひさびさのエッセイである。社会人となって9ヶ月。ということは関東人になって9ヶ月ということである。早いものである。大体、関西に5年いた(「いざるを得なかった」という言い方が正しいかも)ので、関東に慣れるのには時間がかかる。そもそも、「大学生」という多感な時期に、関西という、自称(この「自称」は私の自称ではなく、関西人の「自称」である)「義理人情に厚い」土地に5年もいれば、それなりに性格が変わってしまう。と言っても、もともとの性格がかなりマイノリティを含んでいる上、気質が合っていたということもあって、なかなか居心地が良かった。が、そんな場所を蹴ってまで、就職のためとは言え関東、しかも日本一人口の多い市である横浜に住んでいるのである。私の性格をご存知な方はわかると思うが、私は人が多い場所が(博打場以外)大嫌いである。

 そんな私が関東に馴染めるはずもなく、時は過ぎている。収穫と言えば、「われめでポン」が見られるということぐらいである。何しろ深夜番組がつまらない。仕事柄、深夜と朝しかテレビを見ないのであるが、そのどちらも大変つまらない。こうなるとネタの仕入先がなくなるのである。どんな時も笑いのセンスを忘れない私にとって、これは死活問題である。いや、テレビ等メディアのネタをそのまま使うというのであれば簡単である。リソースは今のIT社会では豊富にあるし、拾ってきたことをそのまま言えばいいのである。しかし、それでは芸が無い。応用が利かない。そもそもどんなリソースを使えばウケるのか、私は知らない。私が普段情報を入手しているリソースと言えば、朝日新聞、スポニチ(関東版)、日刊ゲンダイぐらいのものである。「Newton」や「DesignWaveMagazine」でもいいが、それではアカデミックになってしまう。サークルにあまり縁の無い現状、このネタは、はっきり言って寒さを呼んでしまう。わかる人間が少ないのだ。「アカデミック=マニアック」という図式が世の中 にはびこっている「世間」という枠組みの中で生きていくには仕方のないことなの かも知れないが。この辺ができない人間が、おそらく「順応性が無い」と言われ、 その順応性の無い人間が「引きこもり」になるのであろう。

 ギャンブルやると、「引きこもり」という言葉を感じなくなる。それは、競馬場で叫んでいる人(勿論、私を含む)を見ているからである。ギャンブラーは自分勝手なのである。故に周りが見えない。払い戻しで取りあえず拾った馬券を片っ端から突っ込んでいるオヤジを見かけるが、あんなのは愚の骨頂である。日本もまだまだ「先進国」とは言えないであろう。

 いや、別に私が自分勝手であると言っているわけではない(これはあくまで「自称」であってひょっとしたら自分勝手かもしれないが)。ギャンブラーに文句を言っているわけでもない(そんなことは無駄以外の何者でもない。彼らは意見を聞かないくせに能書きはたれる「自分勝手」であるからである)。でも、世の中、私に適合していないことが多すぎる、と言いたいのである。あ、これってやはり自分勝手なのであろうか。しかし、とりあえず基本的な政治ネタが言えない社会はつらい(得意分野の一つが潰されているからである)。この世の中、閣僚の名前よりも浜崎あゆみの歌の歌詞を知っている方が優遇されるのである。最近の芸能に疎い私には致命的である。だいたい、「デヴィ夫人」と「メガワティ」ってどっちが有名?という問いに10人が10人とも「デヴィ夫人」と答えてしまう。「メガワティって誰?」と言われるかも知れない。かたや元大統領夫人、方や元大統領の長女(しかも現大統領)。どっちが有名かは明白である。RUQSなら10人ともメガワティと言うであろう。それはそれでおかしいが。

 ともあれ、この社会で「社会人」として生きていかなくてはいけない。ここは、私色にみんなを染めるしか無かろう。それが「自分勝手」やっちゅうねん。


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