第12回「受験」

 「センター試験」。受験生なら誰もが 一度は通る(と思われる)、言わば受験生の登竜門である。

 普通、「受験」と言えば、高校受験と大学受験であろう。かく言う私もそうであった。但し、高校3年の時の栄光のおかげで大学受験は楽をさせてもらったが。そこは天下の立命館。倉木まいでも入れてしまう、懐の深い大学である。しかし、謎のA判定が多いが。

 「スウィートホーム」というドラマをご存知だろうか。テーマは「お受験」だった。小学校入試である。もはや「受験」では無い。「今日は誰とどうやって来ましたか」などという質問で優劣を決めるのである。ったく学歴社会ってヤツは。私は学歴社会を否定はしないが、ここまで極端な事例が世の中にあると思うとゾッとする。

 話は戻ってセンター試験。前述通り、イカサマ入試だった私は、センター試験なるものを受験していない。担任が「受けるな」と言ったからである。当時、まだ天の邪鬼になりかけだったので、そこは言うことを聞いて受験料だけ損したが諦めたのだ。受験日は下宿先を探していたのである。

 そんな私が言うのも何であるが、「センター試験」云々の前に、「学力低下」が根底にある日本において、そもそもの意義を失いつつあるような気がする。一番顕著なのが「算数」であろう。「円周率はおよそ3」って何や!そりゃ、小数点以下何百桁まで言えとは言わないが、3.14ぐらい覚えろっちゅうねん。あ、あと「台形の面積算出の公式」を小学校で教えなくなるらしい。小学校って一体何教えんねん。私は勉強(と言うか物事を覚えること)が好きだったのでそんなに勉強を苦にしなかった(あくまで小学校時代の話であるが...)記憶があるが、「ゆとりの教育」で今後の社会を背負える教育が出来るのかどうか、今から疑問である。

 かと言って従来の教育が正しかったかというとそれはそれで疑問であるが。 社会人になって、高校での勉強がそのまま役に立ったという記憶が無い。もちろん、今までの学習の積み重ねが現在の自分であるから、役に立っていないわけでは無いのだろうが。それにしても、大学で覚えたことの方がよっぽど使える。まあ「学生」なんて通過点の1つにしか過ぎないから、当然と言えば当然である。

 では、どういった教育がいいのであろうか。いくつか具体例を挙げようと思う。

その1:「数学」の充実

 これは、前述の円周率云々のくだりを受けての話もあるが、もっと実生活に密着した学力を身につけるべきである。私は、「植木算」や「鶴亀算」を実生活で使ったためしが無い。それならば、必要とされる能力を集中してやるのも手ではないか。例えば、現在、競輪では3連単(1,2,3着を順番通り当てる車券)を発売している。中央競馬では、6月から3連複(1,2,3着を順不同で当てる馬券)を発売する。競輪は原則9車立てであるとする。で、問題。

Q:「競馬の3連複は何頭立て以上の時に競輪の3連単より当たる確率が低くなるでしょう」

これぞ、実生活に密着した、まさしく「教育」である。ちなみに、解答はと言うと...

A:競輪の3連単の的中確率は、1/93=1/504、
競馬が、x頭立てとすると、的中確率は、1/x3。ゆえに、

1/x3<1/504

を解けばよい。解くと、およそ15.5が出る(3次不等式なので3つ解が出るが、2つ虚数が出る)。 xは正の整数なので、答えは16と出る。

 この問題(question)の問題(problem)は、計算にやたら時間がかかることである。事実、私は1時間以上かかった。現役生ならそんなにかからないだろうけど。学校の問題としてはふさわしくないかも。久々に3次不等式なんぞ解いたわ。あーしんど。

その2:「家庭科」の充実

 私は料理が好きである。上手下手はともかく好きである。「衣食住」というように、人間が人間らしい生活をするのに最低限必要な要素が家庭科には沢山詰まっていると思う。「衣」は、ユニクロの中国工場見学。これ行くと多分、富岡製糸工場がどんなものであったかがわかり、「ああ野麦峠」の勉強にもなる。うーん、何て教育的。「食」は居酒屋新メニューの考案。勿論、並行して酒の席での会話や席順(上座とか)も覚える。んで社会に出た時に役に立つ。うーん、何て教育的。「住」は、...って住って家庭科か?

 こんな教育だと「学校が楽しい」という学生が沢山出てくることうけあい。ただしオヤジ化することは間違いない...。


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