第34回
まんてん

 「うまい!座布団1枚!」

 久しぶりにそんな言葉を聞いた。言ったのは、うちの上司だ。かなりセンスを感じることを私が言ったのか、よっぽど感性が合ったのか、真意はよくわからないが、日常の他愛もない会話の最中に言われた言葉である。今時「座布団1枚」という表現が珍しくて、このエッセイを書こうと思ってしまった。

 私には、この上司(仮にAさんとしよう)の感性がよくわからない。いや、感性と言うより、そのネタが面白いか否かの基準がわからないのである(一緒か)。しかもその判定基準は0か1か、オールオアナッシングである(巨人の宮本がこんな名前の歌をかつて出したらしい。結果は「ナッシング」の方であることは言うまでもなかろう)。いくら、うちの部署がデジタルな半導体を扱っているとはいえ、こんな判定は無いだろう。ま、1枚のところをX枚にするだけで応用は利くのだが、それでも今まで「座布団2枚」と言われたことは無い。笑点でも聞いたことがない(これは私だけかもしれないが)。円楽が言わないだけなのだろうか。しかし、その割には「座布団3枚取って!」とか、「全部取って!」とかは言う。大衆芸に点数をつけるのはいかがなものかと思うが、このシステムはだいぶ昔からあるはずで、言わば完成された判定基準なのだろう。納得はいかないが。

 理系が誰でもそうなのかわからないが、私は基本的に点数で物事を計るのは好きである。逆に、そういう物差しがないと物事が理解できないのである。

 かつて、ナムコが出した「ドルアーガの塔」というゲームにハマっていた。今もやれと言われれば喜んでやるゲームなのだが、小さい頃(小学生低学年ぐらいかな)は、それこそサルのようにやっていた。ゲームのストーリーなどの説明はここでは省くが、このゲームの主人公の体力というのが、ゲーム上ではわからないのである。これに釈然としなかったのが当時の私である。ある時はリザードマンもサクっと倒せるのに、ある時はミラーナイトすら倒せない。この「ある時」が私にはサッパリわからなかった。主人公は生きているか死ぬか、それこそデジタルな生き物だと思っていた。が、ある時、攻略本を見て愕然とした。画面上には現れないのがだ、体力として「バイタリティ」(そのまんまやな)というステータスがあるらしい。しかも、それはそれは緻密に計算されたものだった(アイテム取るとxポイント増加、エナジードレイン取るとyポイントになる、など)。これこそ、私が求めていたものだ!と子供ながらものすごーく納得してしまった記憶がある。今考えても、当時はRPGなどファミコンには無く、「体力」と言えば生きるか死ぬかのどちらかであった。一世を風靡した「スーパーマリオブラザーズ」が、「キノコ」「フラワー」という名の体力アップアイテムを出したのだが、当時としては画期的なシステムだったと思う。

 現在ゲームの世界で、体力を表記していないものなどはごく少数派であろう。しかし、既出だが、当時は生きるか死ぬかの2つしかステータスが無かった。そんな壁を(あくまで個人的に)破ったのが「ドルアーガの塔」だったのだ。このゲームと、後に世に出る「ドラクエ」をやって、私がSE(もしくはゲームクリエイター)を夢見ることになるのは有名な話である(大学で思い切り挫折したが)。

 今思うと、ただ単にメモリが高いからそういうステータスを作らなかっただけかも知れないが、その点には触れないでおこう(といいつつ書いてるけど)。ドルアーガの塔は、作者の遠藤氏が後に「2ちゃんねる」のレゲー板に降臨して開発時の話をされ、祭りが起きたのだが、それはまた別の話。しかし、「ドルアーガの塔の各フロアは、マップとしての領域を1バイトしか持ってなかった」という話には、正直武者震いした。当時の開発者の苦労が汲み取れる話であるが、それより、エンジニアとして震えずにはいられない話である。カラクリを聞いて、SEを諦めた選択は間違っていないと思うのである(私には思いもつかん)。

 論点がズレてしまった。点数の話だった。話を元に戻すが、笑いの場合、基準は人それぞれだろうが、それは構わない。採点者にとっては意味のある数字なのだから。お笑いスター誕生などは、大変わかりやすくて良かったもんだ。土曜日はまっすぐ家に帰ってこの番組を喜んで見たものである(静岡では土曜の昼にやっていたのだが、他地域は知らない)。以前書いた「トリビアの泉」もまた、1人20へぇを持っているという、単純明快な採点方法である。だが、お笑いの採点でも多少違いはある。それは、「1人何点までが持ち点であるか」と「満点が何点か(何段階のフェーズがあるか)」という2点である。

 前者は多種多様である。1人1票の場合もある。「爆笑オンエアバトル」などがそうであるし、前述の「笑点」も言わば1人1票のようなものである。まさにデジタル。2票の例は、「仮装大賞」であろう。3票は「ボキャブラ天国」など。まぁ、この番組はタモリが後で別な採点をするのだが(「ポイ」は0点やな)。「トリビアの泉」は20点(単位は「へぇ」)、先ごろTV放送があった「M-1グランプリ」は100点であった。また、審査員が何人かいて、審査して選ぶ、という形式もある。これは、審査員一人一人の中では採点をしているのだが、トータルで合格か不合格か(もしくは「大賞受賞」か「何もなし」か)を選択するものである。なんちゃら演芸大賞とかはこの形式が多い。

 後者はあまりバリエーションが無いように思える。特異なものを挙げると、「オンエアバトル」は545点(単位は「キロバトル」)、仮装大賞は20点、M-1は700点満点である。各々の番組内では、各々の参加者やノミネート者に対して相対的に採点されるので立派な基準となっているのだが、違う番組間では全く役に立たないものになってしまう。

 今回の論点にやっと来た。「判定基準はともかく、満点が人それぞれ」ということを言いたかったのである。何か点数をつけられた時、人は無意識にそれが100点満点であると考えてしまうのである。それが、Aさんの場合、「惜しいね。18点ぐらい」とか言うのでワケがわからなくなってしまう。惜しいと言っていることから、20点満点の仮装大賞形式を取ってるようである(後に聞くとやはり20点満点だった。合格点はもちろん15点で、14点以下だと失格時のカネがアタマの中で鳴るらしい)。「ややこしいですよ」と指摘しても、「そんな基準、誰が決めた?」と言われる。もっともな意見である。彼にならって、私もしばらく仮装大賞形式を取ったのだが、すこぶる不評だったのですぐにやめた。彼は「85.5%じゃなくて855‰だ!」なども言うので、ただの天邪鬼だろう。

 私が通った中学校(酒井美紀がおったところです)では、中間テスト&期末テストは全科目50点満点だった。中1の1学期の中間テストで数学50点だったと親に告げたら「なんだその点数は!」と憤慨した。かなり特異な点数規定であろう。未だに「うちの学校も50点満点だったよ」という意見を聞かない。しかし、これが学外の模試だと途端に100点満点になるのだからタチが悪い。「判定基準はともかく、満点が人それぞれ」が起こす弊害である。高校の時、古文で4点を取ったのだが、その際には「これって100点満点?」と聞き返されたものである。仮に50点満点だとしても、100点満点に直すと8点なのだが、そこには触れられていない。

 世界標準で、「ある事象は100分割(フェーズとしては101点)するものとする」とか作ってもらえないものだろうか。満点が100点だが、降水確率のように粒度が粗いのもやめて。世界標準より、まずはAさんに理解してもらうのが先やろうけどね。


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