どこでその戦いは行われたのかは分からない。死んでしまって横たわる光太郎を見下ろしていたのは、兄、秋月信彦だった。口元に不気味な笑みを浮かべて。
秋月信彦は口元に薄く笑みを浮かべながら杏子の所に近づく。
「嫌、来ないで。」
「来ないで・・。」
「お前は逃げられない。」
「いやぁぁぁ。」
悪夢。
「夢・・?」
目からは涙。
「いや・・。」
杏子はこの台詞を繰り返した。 最近この台詞ばかり吐いている気がする。否定したい。嫌な現実を、嫌な悪夢を。
昨日、兄、いや、シャドームーンに出会ったのは夢だったのだろうか。杏子は分からなかった。 目が覚めると杏子は既に自分のベッドの中に何事もなかったかのように眠っていたからである。昨日のことは夢なのか、それとも・・。
「何、この感覚。」
杏子は自分の体にすら存在にあやふやさを感じた。
「お前には私を否定する権利はない。」
あやふやな心と体に重くのしかかるのは、兄、秋月信彦のあの台詞。
「私は、シャドームーンをゴルゴムを否定できない・・。」
杏子はそう、呟き、愕然とした。
「お兄ちゃん・・。」
「私は・・。」
その日、杏子は一日中ベッドで眠っていた。店も臨時休業の紙を克美に頼み、貼ってもらう。 いや、眠っていたと言うよりは、ベッドでひたすら脅えていたのだが。恐怖の理由も、自分の存在もあやふやなまま、ただ、布団を被って小さな子どもが悪夢に脅えるように。
「お前は私を否定できない。」
シャドームーンの言葉が杏子の頭に響く。
「やめて。やめて。」
「杏子ちゃん。」
「杏子ちゃん。」
聞き覚えのある声であったが、これは兄のものではなかった。聞きなれた、そして、安心感を与える、低い声。
「光太郎さん?」
「杏子ちゃん。」
今度は女の声。こちらの声も知っていた。
「克美さん。」
「これは現実・・?」
二人の声ですら、現実感をなかなか感じられずに、杏子は戸惑った。
「杏子ちゃん、杏子ちゃん。」
ドンドンと杏子の部屋のドアが叩かれる音がした。 それでも杏子は現実感を感じることができず、ベッドに伏したままであった。
ガタン。
光太郎と克美はドアを開け、杏子の部屋に入る。
今朝、克美は杏子の電話を聞いて、声の様子がおかしかったので、気になって光太郎に相談し、二人で杏子を訪ねていたのである。
「杏子ちゃん?何か、あったの?」
克美がベッドを覗き込む。
「嫌・・。」
「嫌・・。」
その言葉を繰り返すばかりの杏子。
「何があったんだ。杏子ちゃん。」
「光太郎さん?」
光太郎の声に杏子は弱々しく反応を示す。光太郎の低い声が遠く近く聞こえる。できることなら、シャドームーンの悪夢から逃れ、この声にすがりつきたい、杏子はそう思った。
「私ね、私、ゴルゴムの妹なの・・。だから私もゴルゴムなんだ。」
「何を言ってるの。杏子ちゃん。あなたはゴルゴムなんかじゃないわ。」
克美は杏子の肩を揺らす。杏子は虚ろな瞳で揺らされるままになっていた。
「だって、私のお兄ちゃんなのよ。シャドームーンは。」
「違うわ。シャドームーンは信彦さんなんかじゃない。」
「そうだ。杏子ちゃん。」
「だったら助けてよ。光太郎さん・・。」
「助けてよ・・。」
杏子は光太郎のブルゾンの裾を掴み、泣いた。
「杏子ちゃん・・。」
「お願い、死なないで。お兄ちゃんにあなたを殺させないで。お願いだから。」
「分かってる。僕はシャドームーンに負けはしない。だから杏子ちゃんもしっかりするんだ。」 光太郎はそっと、杏子の肩に触れる。
「いやぁぁ・・。私はお兄ちゃんから逃げられないのよ。」
泣きじゃくる杏子。
克美と光太郎は昨日、杏子の身に何が起こったかは知らない。だが、これだけは、分かった。 彼女は、どこかで、秋月信彦、シャドームーンの姿を見ているということ。
「光太郎さん、助けて。私を助けてよぉ。」
「光太郎さん、私今日は授業ないから、このまま杏子ちゃんについてるわ。この状態じゃ心配だわ。」
「頼みます。克美さん。」
「うん。」
「克美さん。」
「何?光太郎さん。」
「杏子ちゃんは何らかの形でゴルゴム、シャドームーンに遭遇したと思うんだ。」
「ええ。私もそう思うわ。」
「このままじゃいけない。杏子ちゃんの傷をほおって置くわけにはいかない。だから、僕は・・。」
光太郎は怒りに震えていた。ゴルゴムあれだけ、仲の良かった兄妹ですら引き裂いてしまった。それを実際に目の当たりにしてしまったのだから。
しかし、光太郎は気付いたのだろうか。杏子の心の奥に潜む闇は兄妹の問題を超えてしまっていたことを。
「光太郎さん、私、思うの。杏子ちゃんを救えるのはあなたなんじゃないのかって。」
「僕が?」
「ええ。」
「杏子ちゃんは恐れてるんだと思うわ。信彦さんがあなたを死なせてしまうのではないのかって。」
「そんな・・。」
「私も怖いわ。あなたと信彦さんが闘うところなんて見たくないもの。」
「僕だって。信彦とは闘いたくはない。そんなところを杏子ちゃんにも克美さんにも見せたくはない。」
「そうね。」
「杏子ちゃん。」
光太郎は、杏子の手を握る。力を入れて杏子が痛がらないように、そっと。しかし力強く。
「僕と信彦を信じてほしい。君はゴルゴムなんかじゃない。必ず、全てがうまくいく。だから安心して欲しい。」
「光太郎さん・・。」
杏子は光太郎の目を見た。その目はまさに今まで自分を信じ、闘いつづけてきた男の目だった。信じよう、杏子はそう思った。信じたくなる男だからこそ杏子にとって大切で、特別な存在に映るのだから。
その目はいつもと同じく真っ直ぐで、澄んでいるように杏子には見えた。 「私、光太郎さんを信じてみるわ。そしてお兄ちゃんも。」
「うん。」
その光太郎の笑顔はあまりに眩しく、杏子の心の闇を振り払うかのようであった。
しかし、そう遠くない未来、光太郎が杏子の目の前で命を散らしてしまうことを誰が予測できたであろうか。
杏子の悪夢が現実になってしまうことを。