「翔一君。」
真魚が記憶喪失になって、二週間が過ぎた晩。美杉家の食卓の後片付けをしていた翔一は、自分の名前を呼ぶ声に振り向く。
そこには、パジャマ姿の真魚が少し照れくさそうに笑って立っていた。夕食を終え、真魚を疲れを感じ、暫く眠っていたのだが。
義彦は、仕事。そして、太一はためまくった宿題が義彦に見つかり、義彦に叱られ、自室の机に座らされ、泣く泣く宿題をやっていた。一階は、翔一と真魚の二人きりであった。
暫くの沈黙。お互いの顔をまじまじと見る、翔一と真魚。
沈黙を破ったのは、翔一の一言であった。
「真魚ちゃん・・。もしかして・・。記憶・・。」
翔一は驚いた顔で更に、真魚をまじまじと見た。
真魚は、少し笑い、下を向いた。
「ううん。まだ、思い出せない。でも、翔一さんのこと、そして、私のこと、少しでも分かったらいいかなって思って。」
「それで、どんな感じ?」
「うーん、やっぱり、まだ恥ずかしいかな。」
少し、顔を赤くする真魚に翔一は笑って見せた。
「そっか。でも何か今、やっぱり真魚ちゃんだなって、思えた。改めてね。」
「俺、真魚ちゃんが記憶を取り戻したいなら、協力するよ。ゆっくり二人で思い出していこうよ。真魚ちゃんの事。」
真魚は少しはにかみ笑いを浮かべて頷いた。
「あっ、そう言えば、俺も記憶喪失だったんだ。忘れてた。俺の事も思い出さないとね。俺もさ。」
翔一は思い出したようにそう言って笑った。思わずつられてクスクス笑い出す真魚ちゃん。そして、真魚自身も、翔一が記憶喪失の青年であることを忘れていた自分に気付く。それ程まで、翔一は、明るく、いつも前向きなのだと、真魚は改めて思った。そして、その青年に、自分の心は救われているとも。
「いいじゃない。記憶なんて、すぐに取り戻せる。俺ものんびりとやってるしね。」
「そう、ですね。翔一さんがそう言うと、何だか本当に思えてきちゃった。思い出せますよね。私のことも、翔一さんのことも・・・。」
「うん。その調子、その調子。」
そう言って翔一はニカッと笑う。そして、真魚も、翔一に微笑んだ。
「あの、後片付け私、手伝います。」
「駄目だって。真魚ちゃん、さっき疲れてたみたいだから。早く寝ちゃっ方がいいよ。ここは俺一人で十分だからさ。」
「でも、私、調子良くなったから。」
真魚の調子が良いというのは、本当だった。真魚は思っていた。さっきの、翔一の笑顔がそうさせたのではないかと。
「だったら、真魚ちゃんがもっと、もっと絶好調の時にはお願いするからさ、今日は、ゆっくり休んで。俺の為にもさ。」
俺の為に・・・。
真魚は、最後の言葉について、不意に考えてしまい、思わず、顔を赤くする。
(そんな、訳、ないよね。記憶、ないのに、私、何考えてんだろ。)
「じゃあ、お言葉に甘えて。おやすみなさい。」
「おやすみ、真魚ちゃん。」
そう言って、二回に上がりかけた、真魚はふと足を止めた。
それから、振り返り、翔一の方を見た。
「翔一さん・・。」
「何?真魚ちゃん。」
翔一は不思議そうな表情で真魚を見た。
「あり、がとう・・。」
真魚は、少し小さな声で言った。
「何言ってんだよ。当たり前のことじゃない。だって、ここが、真魚ちゃんの居場所じゃない。」
「私の、居場所?」
「そう。真魚ちゃんの居場所。」
翔一は笑って頷いた。真魚も微笑んで、また背を向けて二回に上がっていった。
そして、二回に上がる、その顔も何故か、嬉しくて、顔だけ、笑いが止まらなかった。何故こんな笑いが起るのか、真魚自身ですら、理解できずにはいた。しかし、その原因が翔一であることは、真魚は分かっていた。
「翔一君・・・。」
真魚は、もう一度、翔一を「君」付けで呼んでみた。
まだ慣れなくて、くすぐったかったが、ふんわりとした響きだと真魚は思った。
そんな、不思議と幸せな心地の中で、真魚は、うとうととし始めた。
初めて自然に眠りに就ける。今までは、どこか、眠る時も、落ち着かず、夜に脅えてきた。
しかし、今日は違った。真魚は改めて、感じた。津上翔一という人間の、温かさ、そして、大きさを。そんなことを思いながら、真魚の意識は次第に遠のいていった。