秋月杏子は眠れない日々が続いていた。

その原因は兄、秋月信彦だった。しかし、その兄は、今やシャドームーンと呼ばれ、人間の面影を無くし、銀色の機械的な身体、大きく、機械的に光る大きなエメラルドの瞳。そして、その強大なパワー。自分が昔、兄だと慕った姿は全く消え失せていた。その声も昔の兄のものではなかった。そして、その心でさえ、ゴルゴムの改造手術により、奪われ、今や、ゴルゴムの冷酷な支配者そのものであった。そんな兄に、「助けてやる」と誘われた時も、杏子は断固としてはねつけた。兄の人間達に対する、あまりにも目に余る仕打ちを目の当たりにして、彼女は、彼を兄だと思ってはいけない、そう、自分に言い聞かせた。そうでないと、現実に耐えられそうになかったからである。そして、南光太郎と兄が闘い、どちらか、もしくはどちらも果ててしまう姿など見たくはなかった。彼女は二人に対して違う類の好意を抱いていた。信彦を兄として慕う一方、杏子は光太郎に対してほのかな思いを抱いていたのも事実だった。杏子の脳裏に二人がボロボロ朽ち果ててしまう姿がよぎった。

(嫌・・。)

 杏子は体が震えた。

一層、あの銀色の悪魔とも呼べる者が兄でなかったらどんなに良かっただろう。杏子は何度もそう思った。しかし、姿や心が変わっても、彼は、妹である自分と恋人である、紀田克美のことは覚えていた。そして、二人を思う心も残っていたのである。それが、杏子を困惑させていた。

 その夜も、とりあえず、ベッドには入るが兄の人間である時の姿とシャドームーンの姿が交錯して、なかなか睡眠にありつけない。とりあえず、外へ出てみよう、眠れるかもしれない。そう思い、カーデガンを羽織り、部屋を出て、夜更前の暗闇に杏子は一人、立ってみた。

 そんな時、ふと、ある考えが浮かんだ。このまま自分が立っていたら、兄が人間の姿のまま、帰ってくるのではなかろうか。そんな感覚に襲われる。

(そんなわけ、ないのに・・。)

杏子はそう、自分に言い聞かせた。そして、次に頭を巡るのが、子どもの頃の記憶。兄はいつでも自分に優しかった。杏子はそんな兄が好きだった。小さな頃、「私、お兄ちゃんのお嫁さんになる。」などとよく言っていたことも覚えていた。

 杏子は暗闇の中思わず苦笑した。

(子どもの頃のことって結構覚えているものね。)

 しかし、杏子は今ほど、昔のことがありありと蘇ることはなかった。何かを失ってはじめて、過ぎ去った日々が幸せで、貴重であったこと思い知らされる。

 こんなところに立ったところでどうにかなるわけがない。杏子は思い立ち、寝床に戻ることにした。その時だった。

 機械的な足音が聞こえてきた。まるで、金属製のロボットが歩いてくる音であった。それは杏子も何度か聞いたことのある、シャドームーンとなった兄が歩いてくる時のそれであった。

「お兄ちゃん・・。」

暗闇の中、銀色の肢体とエメラルドの瞳が薄っすらと光っていた。その光は、あまりにも幻想的で、杏子は息を呑んだ。

「お兄ちゃん・・。」

もう一度、そう、呼んでみる。

「杏子。」

その銀色の肢体の持ち主は、抑揚のない、低い、声で彼女の名前を口に出す。兄の声とは似ても似つかないが、やはり、それは兄であると杏子は確信した。そして、兄が姿や声が変わってしまった今でも自分の名前をはっきりと覚えているのも現実。

「お兄ちゃん・・。何で・・。」

言いたいことは山ほど、あったが、言葉が喉を通らない。しかし、何か言わなければ、杏子は思った。

「どうして、あんな酷いことばかり・・。あなたの恋人である克美さんまで操って・・。優しいお兄ちゃんは本当にいなくなってしまったの?」

「昔のことは忘れたと言った筈だ。」

「違うわ。そんなことない。お兄ちゃん、私と克美さんのことは覚えてたじゃない。」

「そうだ。おまえ達を思う心だけは残っているのは本当だ。」

「だったら、何故・・。」

「宿命なのだ。」

抑揚のない、低い声だったが、はっきりとした口調ではあった。

「お願い、光太郎さんと闘わないで。光太郎さんを傷つけないで。光太郎さんを・・。」

気がつくと、自分の口から光太郎の名前ばかり出ていた。

「お前は何故、南光太郎、いや、ブラックサンのことにこだわるのだ。」

「それは・・・。」

杏子は言葉を詰まらせた。

(私はお兄ちゃんより光太郎さんの方が・・?)

今まで考えたこともなかった。信彦と、光太郎のどちらが大切なのか。どちらも等しく大切だと、杏子は信じて疑わなかったからである。初めて、経験する感情に杏子は戸惑う。

兄と光太郎、どちらかしか生き残れないとしたら、自分はどちらを望むのか。どちらを選びたいのか。自分の兄を慕う心はここまで軽薄であったのか。杏子は自己嫌悪に身を震わせた。

「私にとって、お兄ちゃんも光太郎さんも同じくらい大切だわ。」

杏子はそう言ったが、それが真実なのか、疑わしいところであった。そんな台詞を吐く自分が、偽善者じみて嫌いだった。

(私は最低の女だ・・。)

「私がお前の心を知らぬとでも思ったのか。」

低い声は口調を変えず、そう言った。

「何、を言ってるの・・?」

次第に杏子は焦り始めた。兄は見抜いていた。自分の軽薄で醜い心を・・。

銀色のそれは、杏子に近づく。

「お兄ちゃん・・。」

そして、杏子に最も近づき、その銀色の、鉄の手が、杏子の頬に触れた。それは、冷たく、人間の手とはあまりにかけ離れたものであった。その手に杏子は恐怖すら、感じた。あんなに優しかった兄に対する感情がこれなのだろうか。あまりに違いすぎる。杏子は、同じような姿を持った、光太郎の手はもっと暖かかったことを思い出した。ゴルゴムは本当に、兄から人間の温もりすら、奪ってしまったのだろうか。それとも・・。それは、自分の心の所為なのであろうか。

「嫌・・。」

思わず口を突いて出た言葉はそれだった。

「嫌・・。」

杏子は同じ言葉を繰り返す。

怖い、怖い、怖い。

自分でも兄が、怖いのか、自分の心が怖いのか分からなかった。

とにかく恐ろしかった。

訳も分からず、脅える杏子の頬からシャドームーンは手を離した。

そして、動揺した様子もなく、静かに言い放った。

「お前が来るのを待っている。」

そのまま、銀色の身体は闇の中に流れるように溶け込んだ。全身の力が抜け、そのまま、座り込む杏子を残して。