『新月』

新月。

夜、唯一、明かりを点す月は、全て顔を隠し、空は、完全なる、闇に包まれていた。

南光太郎は、その晩、無性に眠りに就く事ができずに、闇の中でバイクを走らせていた。どこに行こうという目的地もなく。

バイクの明かりは、闇を掻き分けるように、真っ直ぐ、突き進む。

光太郎は思った。

考えてみれば、ここ、数ヶ月、無意味にバイクを走らせることはなかった。別に乗らなかったという意味ではない。バイクに乗る事は、幾度となくあった。ただ、今は、バイクを走らさなければならない目的がある。それはたった、一つ。そして、それは、為し得ることが困難なこと。しかし、必ず、成し遂げなければならなかった。

光太郎は、ふとバイクを止める。

そして、バイクを降りると、前には川が流れている、下場の良い草っ原に寝転がる。

新月は、全てを闇に変え、今日に限って星一つなかった。

”俺は何をしているんだろう。”

”俺にこんな時間はない筈・・・。”

光太郎は戸惑っていた。自分にこのような寄り道などしている時間はない。しかし、身体は、バイクを走らせたがり、そして、ここへ連れてくる。

”俺は・・・。”

そんな時。

人影が光太郎の目に映る。

一体こんな時間に・・・。

午前3時くらいだろうか。

光太郎は自分の目を疑った。その影は、探し物をしているわけでもなく、ただ、立っているだけだった。その影は次第に光太郎に近付いた。

「まさか・・・。」

恐らく、ただの人間であろう。光太郎はそう思った。だが、万に一つゴルゴムだったとしたら。

光太郎は、とりあえず、身体を臨戦態勢に切り替える。

人影は、さらに近付き、その姿がうっすらと、光太郎の目に映る。

「まさか・・・。お前は・・・。」

光太郎は驚愕した。

暗闇でも見違うことのない、姿であった。

次の言葉がなかなか、口から吐き出せない。光太郎の脳裏にこれまでの出来事が駆け抜けた。

仕組まれた誕生日パーティ。ゴルゴムのアジトでの改造手術。脱走。義父の死。自分の異形の姿。

そして、シャドームーンとなり、身体も声も、心でさえも変わり果てた姿で現れた、信彦。

ひょっとして、信彦は、昔の姿を取り戻し、戻ってきたのか。

それとも・・・。

光太郎の中には、期待と、それを裏切られるかもしれない不安という二つの感情が交錯していた。

光太郎は、これまで、信彦が戻ってくる事を信じて、信じようとして戦ってきた。

しかし、正直、恐ろしかった。これまで、嫌な現実は、幾度となく光太郎を襲った。だからこそ、恐ろしいのだ。

現実を憎み、全てを信じられなくなくなるかもしれない自分になってしまうことが。希望を捨てた自分になってしまうことが。

しかし、光太郎は、確かめなければ、例え、嫌な現実が待っていたとしても、光太郎は、知らなければならないのだ。

それに希望だってある。

光太郎は、声を絞り出した。

「信彦、なの、か・・・。」

信彦の姿をした人影は、暫く口を開かなかった。

闇の中の重たい沈黙の空気が二人を包んだ。

光太郎は信彦をじっと見た。

そして、それが信彦の姿をしていることを、改めて確認した。

間違いない。

そして、その人影も、じっと、光太郎を見た。

光太郎は、考えた。この信彦は一体、何を思い、自分の前に現れたのだろうか。考えてみれば、自分は信彦を置き去りに自分だけ脱出に成功した身。信彦は自分を恨んでいるのかもしれない。

少しして、信彦の口が僅かに開いた。光太郎はそれを見逃さなかった。

しかし、それより先の光太郎がいてもたってもいられなく、声を出していた。

「すまない。俺は、お前を・・・。」

信彦の姿をした、それは、その声を出す事はなく、僅かに微笑んだ。その笑みには全く邪悪さは、感じられなかった。

「信彦。やはり、お前は・・・。」

”戻ってきたんだな。”

そう続けたかったが、声が震えて最後までその声が絞り出せなかった。

そして、信彦の姿をしたそれは、また僅かに、口を開き、何か言おうとした。

光太郎は、信彦の肩に触れようと、腕を伸ばした。

「信彦。」

光太郎は、その名前を呼んだ。

その時だった。

大きな突風が吹き、光太郎の声を掻き消した。光太郎も、その突風に思わず、信彦の肩に触れようとして、伸ばした腕で顔を覆い、ひるんだ。

暫くして、突風が止み、辺りに静けさが戻った。

そして、気がつくと、光太郎の目の前には、人影は、消え失せていた。光太郎がどんなに目を凝らしても再び、その姿を捉えることはできなかった。

あの、信彦は、自分の心が引き起こした幻覚に過ぎないのだろうか。

いや、違う。

脳裏には、信彦の見せた、あの、微笑みが焼き付いていた。あれは、シャドームーンでもない、信彦の見せた微笑みだと光太郎は確信して止まなかった。

信彦は、戻ってくる事を約束しようと、自分の前に現れたのかもしれない。

光太郎は、そう考えた。いや、そうであって欲しいと願った。

「信彦。」

”俺は、必ずお前を取り戻す”

光太郎は、希望と、強い意志を込めて、もう一度、その名前を口にした。

朝の最初の小さな光が、光太郎を照らしていた。

新月の不思議な夜は明けていった。