三浦智子は、あかつき号事件以来、東京に戻ったものの、アパートを変え、会社も辞めた。何をすることもなく、その場しのぎに過ぎない、失業保険で暮らしていた。
友人の篠原佐恵子は、あの事件で、会社も辞めると同時に、雑貨屋を開くこともやめた。そして、実家の兄のもとに帰った。
三浦智子は、会社での篠原佐恵子以外の友人との関係すら、絶ち切った。会社を辞める時も、突然消えるような形であった。辞表は出したものの、いつ、提出されたのか、同僚の中で知る者はなかった。
アパートの方も、あかつき号のメンバー以外の人間に住所を教えていなかったので、知るものは殆どなく、訪ねる者も、皆無に等しかった。
そして、時折掛かってくる電話は、あかつき号のリーダーの木野薫か、その次のリーダー格である、相良克彦くらいであった。友人の篠原佐恵子は、あの時のショックで心を閉ざしていると風の噂で聞いたのみであった。
そんな時、だった。三浦智子が街で偶然、津上翔一に出会ったのは。津上翔一は、どうやら、過去の記憶をなくしているらしく、当然あかつき号のことも、覚えてはいなかった。
三浦智子は、アパートに帰ると、ふと考え込んだ。
それから、昼間、風谷真魚という、津上翔一と一緒に歩いていた少女が彼女に教えた、電話番号の書いてあった紙切れをハンドバッグから取り出し、眺めた。
受話器に手をかけ、その番号にダイヤルする。
一体、自分は、彼に会って、何をしようというのか。
水のエルの言葉だと、自分が未来を奪われたのは、あの男の所為なのではないだろうか。
会って、恨みの言葉を言いたいのだろうか。記憶を思い出させ、自分と同じ苦しみを味わわせたいのか。
出会った時、彼は、津上翔一は笑っていた。
できるものなら、自分も記憶喪失になりたかった。
もし、そうなっていたら、自分もあんな風に笑っていられるのだろうか。
そんなことを思いながら、三浦智子は、ゆっくりとダイヤルした。
トゥルルルル。
呼び出し音が鳴る。
「はい、美杉です。」
電話に出たのは、風谷真魚だった。
「あの、今日街で会った三浦ですが。」
「あの、何か、思い出したんですか?」
「すぐに翔一君と代わります。」
風谷真魚は少し慌ただしい口調で言うと、保留音を流した。
暫くして、津上翔一が電話に出た。
「もしもし、津上翔一ですけど。」
「あの・・。もしかして、俺のこと、やっぱり・・・。」
そう言う彼の口調はやはり、不安げだった。
彼は暗に語っていた。
”何も知りたくはない”と。
三浦智子が明日会いたいと言うと、
「はぁ、明日は、一応大丈夫ですけど。」
気乗りしない返事ではあった。
少なくとも、三浦智子にはそう聞こえていた。
(恐れている。)
三浦智子はそう感じ取った。少し、罪悪感が心を傷めた。このまま、彼に接触しない方が、彼の為なのかもしれない。
しかし、三浦智子も知りたかった。
彼に会って、確かめたかった。
しかし、何を確かめたいのか、分からなかった。
とにかく、会うしかない、そう思った。
気乗りしない、津上翔一と約束を交わし、受話器を置いた。
三浦智子は、すぐに、報告のため、木野薫の携帯電話に連絡をよこした。
「三浦ですが。思いがけない人間に出会いました。」
「思いがけない、人間?」
「はい、異形の者に変化したあの青年に間違いありません。」
「そうか・・・。」
「記憶を失っているようですが。」
「そうか・・・。」
「明日、会う約束をしました。」
・・・。
少しの会話で電話は切られた。
それから、三浦智子は、その場に座り込み、溜め息をついた。
脳裏に浮かぶ、自分の辿る筈であった、普通の人生。
会社を辞める、篠原佐恵子を送り出し、自分は、また、普通に会社に勤め、いずれは、結婚することだってあったかもしれない。
しかしそんなことはもはや、縁遠いものになっていた。
水のエルの絶望の宣告。
さらに、光の余波によって与えられた、超能力は、僅かながらも、彼女の中で覚醒しつつあった。
彼女は、テーブルの上に無造作に置いてあるコインに手を翳してみる。
それだけで動き始める、コイン。
この力の為に、これからの未来は奪われてしまった。
忌々しい能力だった。
三浦智子は、さらに、弄ぶように、指を宙でなぞり、コインを動かしていた。それは、無駄な力を持て余しているかのような光景であった。
「うっ・・・。」
彼女は、不意にうめいて、腕で体を包むように、クロスさせた。
時折、彼女を襲う、体の火照り。最近、その回数が増えてきた。
(私も、そろそろ・・・。)
いつも、脳裏をよぎるのは、「死」という一文字だった。
三浦智子は、再び津上翔一のことを考えた。
「彼は、幸せそうだった・・・。」
自分達と同じ運命を背負いながらも、笑っていた、津上翔一。
嫌な記憶は彼の頭の中から消え去られてしまっている。何も知らない彼は笑っていた。
三浦智子は、考えてみた。
記憶を取り戻した時、津上翔一は果して、どんな態度を示すのだろうか。
己の運命を呪うだろうか。それとも、立ち向かうことができるだろうか。
しかし、これだけ明確であった。
記憶を取り戻さない方が、彼の為になるのだと。そういう意味で、自分が明日、津上翔一と会うことは、彼を不幸にしてしまうのではないだろうか。会って、自分は真実を告げられるのだろうか。
そして、津上翔一、彼自身の心。
彼は、何も思い出したくはないということは明らかだった。
そんな考えが脳裏をよぎった後、三浦智子は、思わず自分自身を嘲笑した。
「こんな時に人の心配か・・・。」
自分の未来は、奪われているのと同然なのに、人の心配をしている自分自身があまりに滑稽だと、三浦智子は思った。
彼女は、翌日、創造主自らの手で限りある、未来の終わりを告げられることまで予測していただろうか。