翔一が美杉家を出て、一年経った冬。
普段、面倒臭そうに台所に立っている真魚だが、今日は珍しく嬉しそうだ。
「真魚ネエ、今日は珍しく、嬉しそうじゃない。今日の飯は期待できそうだなぁ。」
太一が台所を覗き込んでそう言った。
「違うわよ。今は夕食作ってるんじゃないんだから。」
「だったら、何作ってるんだよ。」
そう聞かれると、突然、真魚は顔を下に向けた。
「ちょっと、ね・・。」
そして耳のあたりが少し赤くなっていた。
「ひょっとして・・。」
太一はカレンダーを覗き込む。 今日は2月13日。
「ははぁ。」 太一はにやけながら、真魚の顔を覗き込む。
「なっ、何よぉ。」
真魚は顔を太一からそらすようにして言った。
「確かにこれはチョコレートの材料だな。」
言いながら、板チョコを少し割って口に運ぶ太一。
「ちょっと、太一、食べないでよ。」
真魚が顔を赤くしながらも、太一に怒鳴る。
「うわー。真魚ネエが怒ったー。」
口に含んだチョコレートをボリボリかじりながら太一は逃げた。
「全く。」
真魚はぶつぶつ言いながら、板チョコを湯煎にとかしはじめていた。
「えっと、これで、いいんだよね・・。」
チョコレートの作り方を載せている雑誌と真魚は真剣な眼差しで睨めっこしながらぶつぶつ言っている。
「それから・・。」
太一はにやにやしながら、近くにソファに座り、チョコレートと苦闘する真魚を見ていた。時々、鍋を落した鈍い音と、真魚の悲鳴が聞こえる。
「本当にチョコレートになるんだか・・。」
そうこうする内に真魚は一段落したらしく、
「よし、後は冷蔵庫で冷やすだけ。」
言いながら、チョコレートの入ったハート型の入れ物を冷蔵庫に入れた。
「というか、本当にチョコレートになるわけ?」
太一が不可解そうな顔で真魚に尋ねる。
「なるに決まってるでしょ。」
「どーせ、俺のじゃないしね。」
「あんたには100円のチョコくらいあげるわよ。」
「ちぇっ、ケチねえ。」
「うるさいわね。貰えるだけありがたく思いなさいよ。」
「はいはい。」
不満の顔を残したまま、太一は頷いた。
それから、チョコレートが固まる、待ち時間、真魚は暇つぶしに雑誌を手にとり、ソファに座る。しかし、チョコレートが気になるのか、目は雑誌というより、冷蔵庫に向かっている。
(本当にチョコレートになるのかなぁ・・。)
ぼんやりとそんなことを考えるうちに、真魚はいつのまにか眠っていた。
それから・・。
「あっ・・。眠ってたみたい・・。」
ソファから身を起こした真魚は時計に目をやった。
「もう、固まってる頃よね・・。」
そう言って、冷蔵庫を開け、チョコレートが入っているハート型の入れ物を取り出した。
「うん、イイカンジ。あとはこれを取り出して。」
「ああ、うまくとれない。やば・・。」
真魚は包丁を取り出し、チョコレートを切り離していく。切り離したものの、チョコレートは大分削られてしまい、ハートに見えるか怪しいものであった。
「あ〜、失敗だぁ・・。」
がっくりと肩を落したが、明日は2月14日。その上平日。もう時間がないのだ。
溜め息をつきながら、真魚は、雑貨屋で買ってきた、ラッピング袋を取り出し、不格好なチョコレートを包む。
「包めば、見れるんだけどなぁ・・。」
そんなことを、言いながら、リボンでラッピング袋を結ぶ。
「あ〜、でも何か変・・。」
仕上がりを改めてまじまじと見た真魚は不安に陥る。これを翔一が食べてくれるのだろうか。ましてや、翔一は料理となれば、プロなのである。自分の作った不格好なチョコレート見て美味しそうだと思うだろうか。
(やっぱ料理って普段からしないと、駄目なんだ・・。)
普段、料理をすることを嫌っていた自分を真魚は心から悔やんだ。
「でも今更悔やんでも、ね・・。」
言いながら、チョコレートを大切そうに、紙袋に入れた。
「あ〜、かなり不満だけど・・。」
一言、ぼやき、大切そうに、紙袋を抱え、自分の部屋に戻り、机の上に、置き、寝支度に入った。
その夜、真魚は眠れなかった。初めて作ったチョコレートを心を込めていることには自信はあるが、決して良い出来ではないチョコレート。
溜め息を何度も突き、真魚は、ベッドの上をゴロゴロしていた。その間、真魚は久久に翔一と暮らしていた日々を思い出していた。
(翔一君ってほんと、マメだったよなぁ・・。)
翔一と過ごした時間の一つ一つが鮮明に蘇える。その度に真魚は、幸せそうな顔、もしくは苦笑した。
「もう一度、翔一君と・・。」
不意に今まで口にも出したこともない言葉が独り言としてポロリと出てくる。思わず、口を抑えるが、改めて翔一がいなくなり、笑顔で送り出した筈の自分が一番寂しかったことに気付く。
そんなことを考えるうち、数時間。何時の間にか、窓の外は明るくなっていた。
「やだっ、遅刻。」
慌てて制服に着替え、真魚は階段を降りた。
「真魚、朝ご飯は?」
美杉教授がご飯をつごうとしたが、
「いらないっ。」
そう言うと、真魚は家を飛び出した。
それから、学校を終え、真魚は家に帰って机の上のチョコレートに目をやる。時間は午後5時。翔一の店が終るのは、午後8時。
(あと三時間。)
その間、真魚はそわそわしっぱなしだった。
(どうやって渡そうかな・・。)
(こういう時って何か言えばいいのかな・・。)
「何だよ。真魚ねえ、落ち着きがないなぁ。」
あいも変わらぬ口調で冷やかしにやってくる太一。
「いちいち、やかましいわね。あんたは。黙ってなさい。」
「おお、バレンタインだからってピリピリしちゃって。」
「怒るわよ。」
真魚の反応に太一ははしゃぎながら逃げていった。
そうこうするうちに、外は暗くなり、時刻は8時だった。
真魚は時間がくるなり、紙袋を抱えて家を飛び出す。
翔一が営んでいる店、「AGITO」は美杉家から歩いていける距離であったので、真魚は自転車に乗って、少しこいで、すぐに到着した。
そして、店の入口に立った。最後の客とすれ違うなり、真魚は息を呑んで店の中に入っていた。店の雰囲気は翔一の性格が表れていて、アットホームで暖かみを感じさせるもので、真魚はここに食事にくる度に、そう思ったものだった。
レジの前に立ち、一度、深呼吸をした。
それから。
「翔一君。」
その声に白いコックの服を身にまとった翔一が姿を現す。
「真魚ちゃん。どうしたの?こんな時間に。」
「あの、今日って、その・・。」
思わず言葉が詰まったが、小さく息を吸って真魚は言葉を続けた。
「バレンタインでしょ。だから・・。」
そして、チョコレートの入った紙袋をきょとんとした翔一に渡すと、はにかみ笑いを浮かべた。
「もしかして、これ、俺に?」
翔一は目を大きく見開いて自分の顔を指差した。
真魚ははにかみ笑いを浮かべたまま、頷く。
「その、失敗しちゃって。美味しくないかもしれないけど・・。」
真魚の言葉を聞いてか聞かずか、翔一は無垢な笑顔を真魚に向けた。
「いやぁ、嬉しいなぁ。真魚ちゃんからチョコレートが貰えるなんて。」
「本当に、嬉しい?」
真魚は顔下に向けながら、目だけ翔一に向ける。
「勿論だよ。俺、チョコレート大好き。」
「良かったぁ。」
「ねぇ、開けていい?」
「えっ、今・・?」
翔一の言葉に真魚は不格好なチョコレートの姿を思い出す。正直、目の前で開けては貰いたくないのだが。
真魚は苦笑しながらも、
「う、うん、いいよ。」
「わーい。」
無邪気に喜ぶ翔一とは逆に真魚は気が気ではなかった。翔一は紙袋を開き、チョコレートを包んでいるラッピング袋を取り出し、中からチョコレートを出した。
真魚は、その瞬間、思わず、翔一から目を反らしてしまう。しかし、翔一の反応もかなり気になるので、恐る恐る、顔を翔一に向けると、本当に嬉しそうな顔で真魚のチョコレートを眺める翔一がいた。
「あの、これ、ハート、なんだけど、失敗しちゃって。見えない、よね・・。」
真魚は少し小さ目な声で言った。
「そんなこと、ないよ。美味しそうだよ。」
「本当?」
「うん。」
翔一ははっきりと、そして、笑顔で頷いた。
「食べていい?俺、お腹空いちゃって。」
「うん。」
次第に真魚も嬉しくなった。今度ははっきりと頷いた。
「頂きまーす。」
翔一は不格好なハート型のチョコレートを口に運ぶ。
「いやぁ。美味しいなぁ。それにこのチョコレート温かい。」
「温かい?」
「うん。真魚ちゃんの心がこもっているっていうか。まぁ、そんなカンジ。嬉しいなぁ。」
その言葉に、真魚は胸が詰まるのを感じた。そして、心から思った作って良かったと。翔一の言葉に舞い上がったのか、真魚はふとある言葉を口にすることを考える。
そして、真魚は一息ついた。
「翔一君。」
「何?」
翔一は不思議そうに真魚を見つめた。
「あの、ね・・。その、私、また翔一君と・・。」
途中まで口に舌が、思わず口を抑える真魚。真魚は思い出したからだ。笑顔で翔一を送り出し、応援することを決めた、一年前の自分を。ここで自分が我が侭を言って翔一を困らせたら、あの時の決心は水の泡である。真魚はこのことは言うまいと思い直す。
「ううん。何でもない。」
「そう、なの?」
翔一の顔は不思議そうだったが、少しして、笑顔に戻った。
「真魚ちゃん。今日はありがとう。そうだ。ちょっと待ってて、俺、送っていくから、家すぐそこだし。」
「いいよ。翔一君、これからまだ忙しいんでしょ。」
「いいって。いいって。こんな時間に女の子を一人で帰らせたら駄目だよ。」
そう言いながら、翔一はエプロンと帽子を取った。
それから真魚は自転車押し、翔一は歩いた。
「何か、俺、逆に真魚ちゃんが帰るの遅くしちゃったみたいだね。ごめん・・。」
「ううん。翔一君が一緒だと心強いから。」
「今日は本当にありがとう。俺、嬉しくて。」
「私も同じ。翔一君の笑顔が見れたからね。」
真魚は少し顔を赤らめ、下向き加減に言った。
「俺も久々に真魚ちゃんの笑顔見て何だか、安心しちゃった。」
「ねぇ、翔一君、また、こういう風に会えるかなぁ。」
真魚は思い切ったように口に出した。
「勿論だよ。真魚ちゃんが会いたいと思えば、俺はいつでもここにいる。」
翔一は力強く、そして、明るくそう言った。その言葉が真魚にとってどんなに嬉しかったか。
「じゃあ、翔一君が会いたいと思えば、私もここにいる、から。」
「うん。」
翔一は無邪気だが、一年前にはなかった、誰かを安心させる、少し成長した笑顔を真魚に向けた。真魚にとって、年上にも関わらず、どこか幼く感じてしまっていた翔一だったが、今日は本当に頼もしく映った笑顔でもあった。