リストマーク アカシックレコード【8月】



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8・31
今日は八月最後の日。
夏休みの最後でもあります。
明日からはまたあのつまらなくも充実した日々が、あの騒がしくも楽しい日々が帰ってきます。
そんな憂鬱で期待に胸を膨らませている今日このごろ。
それが起きたのはそんな時でした(?)。
(以下は過剰表現と少々の創作でお送りします)
今日AO試の書類審査の結果が返ってきました。
それは私の父によって私の部屋まで届けられました。
まず中に紙が入っている事を確認する為に明りに透かし。
次に某T大学理学部入試・広報室と書かれた封筒の口を、カッターによってゆっくりと慎重に開き、その中に入っている物を確認する。
それは一枚の白い紙。
裏返った白い紙は、その表に私の運命を載せているかと思うと、封筒を持つ手が震えてくる……。
封筒の中に収まっているその純白の紙を、その震える手でゆっくりとつかみ、慎重にとりいだす。
まだ裏返ったままの紙。
緊張の面持ちの我が父と私。
私は持っている手をゆっくりと返していく。
そしてその紙の上部からゆっくりと目を通していく。
まず右寄せで『2001年8月30日』と昨日の日付。
確かに結果が出るのは昨日だったはず。
その下には数行の空き。
その下に左寄せで『AOT期入試』と『私の受ける学科と受験番号』が、それぞれ一行ずつ書かれていて、その下に四倍角で書かれた私の名前。
そしてさらに数行の空き。
そして左寄せの『大学理学部部長』の肩書きとその下に倍角で『理学部部長のお名前』。
そしてその名前の最後の文字にかかるように大学の印が押されていた。
そして三度、数行の空き。
その後、中央揃えで『AO代一期入試第T次選考結果通知票』。
更に空き。
『あなたは、本学部AOT期入試第一次選考の結果、合格となりました。』
その一行を読んだとたん、私の中で何かが弾けました。
それは大量の不安の塊であり、その内には膨大な喜びを秘めた『何か』でした。
そこでもう私は読む事を辞めました。
そこだけでもう私は十分でした。
それ以上は、私は何も考えられませんでした。
その後で、ゆっくりと落ち着いて読んでみると、その下には第二次選考の説明として、時間と場所、そして持ち物が明記されていました。
私は小論文を書く必要が無い学科だったので、OHPは要らないので受験票だけなのですが、一応他にも幾つか持っていきたいと思います。
後は面接を残すだけです。
ここを読んでいる方にお願いがあります。
気が向いたらで良いですから、どうか私の合格をお祈り下さい。
(ぜんぜん別の話ですが、最高の野球マンガは『ドーム君(?)』か最近(?)まで『少年エース』で連載していた『甲子園へ行こう(?)』だと思います)
そういえばここが明日で一周年を迎えますね。
喜ばしい事です(?)。


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8・29
今日は書きたい事が幾つかあるので、それぞれ分けて書きたいと思います。
どれも長く、独断と偏見で書かれておりますので、読む場合はお気を付け下さい。

その一『H2Aロケット打ち上げ成功』
その二『NOёL(ノエル)ってすばらしい』
その参『『千と千尋の神隠し』を見て』

その一『H2Aロケット打ち上げ成功』

今日一時に予定していたH2Aロケットが予定より三時間遅れの四時に発射されました。
いいですねぇ。だんだん衛星軌道が近づいてきた感じで。
自由落下の無重力がほんの僅かに身近になりましたね。
多少違いますが、アームストロング船長が『この一歩は小さな一歩だが、人類にとっては大いなる一歩になるだろう』と過去におっしゃいましたが、よく考えると人類の総数で割ってみれば数億分の一。
相当大きな一歩でなければ一人数ミクロンや数ナノぐらいの前進なのですね。
『星のパイロット』の第四巻『ブループラネット』で『頭の上を飛行機が飛び、宇宙船が飛び、月はおろか火星まで行けるようになっても洗濯屋の生活は変わらない』と言う台詞の一説があるのですが、まさにその通りですね。
確かにその分野での発展は驚嘆する物かもしれませんが、それ以外に関する影響を考えた時に、どれだけの影響があるのかが問題になる場合が多いのでしょう。
だから上のような台詞があるのでしょうし、私がそう考えたのでしょう。
別にこの分野を否定している訳でなく、全く関係の無い側からの考えを書いてみただけです。
別に必要な訳でもなく、むしろその分野のみを伸ばしていくには、その部分を出来る限り排除して無駄の無い事をするべきなので、無い方が良い事もあります。
ただ、その凄さやその素晴らしさをアピールして、一般に受け入れられなければ、それは作り上げたものの一人よがりと言うか自己完結になってしまうのではないかと心配です。
余計なお世話だと言われればそうなのですが、まあ日記ですし不満があったら以下同文です。

その弐『NOёL(ノエル)ってすばらしい』

実は今日、とある用で遠出(?)をしたのですが、その帰りに古本屋でどうやら『NOёL』の攻略本らしき物を買ってしまいました。
私はサターンユーザなので、『NOёL』は第三作目しか持っていないのですが、それだけで『NOёL』にほれてしまいました。
決して怪しい意味ではなく、そのシステムと言うかプログラムの設計の仕方と言うか、私の知っているゲームの中で、ノットデジタルの対話式ゲームと言うのは、これがだけのような気がします。
確かに『ナデシコ〜ブラック・オブ・スリーイヤーズ〜』なども対話式と言えなくも無い節がありますが、あれは『デジタルノベルス』であり、あくまでも物語そのものを楽しむ物だと私は定義しています。
それに比べると『NOёL』は相手との会話を楽しむものだと思います。
逐一相手の言葉に選択肢から言葉を返したり、選択肢から自分の意見を言ったりする。
まさに相手との会話を楽しめるシステムなのです。
とあるゲーム雑誌だったと思うのですが、そこに『NOёL』について書かれていた文章では、『オタクとは一般的には、自ら好いている事に付いて話す事を楽しみとしているのことが多いので、オタクどうしの会話はあまり成り立たない。しかしこのゲームをする事によって聞き上手なオタクを作る事が出来るだろう』と書かれていました(上もこれも引用文が多かったかな)。
まさにそうだと思います。
会話をする事が苦手な人でもゲームとしても良いゲームでしょう。
その代わり、とても大変な問題が一つあります。
それは、ヴァーチャルとリアルのギャップが広がっていく、もしくは逆に近づいていってしまう事でしょう。
細かい事はとあるサイトでまさにその事を論じているのですが、そこに行けば私が書くより細かく、そして上手に書かれているはずなのでそこをご覧ください(ちょっと探せばすぐ見つかると思います)。
ゲームが限りなく現実に近づく場合は、良い意味で現実との距離を縮める事が出来ますが、逆に離れていく場合は、ギャップが離れていくか悪い意味で近づいていってしまいます。
この場合は近づいていくので、問題はあまりないと思えるのですが、それでも最低限ゲームとの区別はちゃんと付けて欲しいです(断る事も無いとは思いますが一応……)。
私は上に書いた通り、三作目しか知らないので、二作目と一作目は知りませんが、キャラクタで愛着があるのは三作目に登場したキャラクタ達です。
どうも二作目のキャラクタは、なぜか全く駄目なのです。
オタクとしての立場の観点で(重複表現)見させて頂きますと、『岡野由香』が一番好きです。
あの機械とコンピュータに関しての見事なオタクっぷりは目をみはる物があります。
あのキャラクタ(人格と言う意味で)がどうやって作り上げられたのか、ほぼ奇跡と言って良いぐらいのバランスでしょう。
(……話がまとまらない……どうしよう……)
……(しばし熟考)
このゲームを採点すると、下に出すつもりですが総合一般採点なら【95/100】です。
相対個人採点(数)をすると【9.5】です。
この採点(数)は数字の大きさは全く無関係です。
それと95の10分の一が9.5なのは関係ありません。
感覚を数字に表したもので、数字から来るイメージと実際感じたものをイメージを結び付けているだけなので、私だけの定義である為『個人』。
しかも時と場合によって変わるので『相対』
数字で表されているので『採点(数)』
となる訳です。
さて、ここでも書きますが(二度目)これは独断と偏見で、私が書いた物なので以下同文です。

その参『『千と千尋の神隠し』を見て』

一応ここから先はネタばれになる恐れがありますので、これから見たい方は、読まない方が良いでしょう。
上でとある理由で遠出したと書いてあるのは、実はこの事なのです。
始業式を控え、夏休み最後の思い出と言う事で、映画を見てきました。
見てきたのは『千と千尋の神隠し』です。
一言で言うと面白かったです。
総合一般点を付けるのなら【75/100】と言う所です。
四分の三です。個人的にはなかなかの満足度です。
もともと【/100】と書いておきながら、めったに80以上になる事は無いので、ほぼ79が満点と思って良いでしょう。
相対個人評点(数)なら【2.5】です。
ちなみに、余談ですが80以上なのは『ディスコミュニケーション』の90と『E.G.コンバット』の93。
『鉄コミュニケーション』の87、『猫の地球儀』の83で以上の四つは時と場合によって100から80の間で変化します。
さて話を戻しましょう。
まずオーソドックスに行くと、一番印象に残ったのは『正月』です。
別に話の流れには全く関係ないのですが、そこが目に焼き付いています。
話の流れはとても良い物で、『ハク』によって『千尋』が『油婆婆』の元で働くようになったり、『ハク』が『和魂盛(杜・守?)琥珀主』(『にぎみもりこはくぬし』だったと思います……違うかも)と言う『琥珀川(河?)』の主の白い竜だったり、最後の頃に一気に全てが繋がっていくのはとても見ていて爽快でした。
判子に付いていた『黒い物』を『千』になった『千尋』が踏み潰してしまうシーンには笑わせて頂きました。
笑いあり、感動ありで面白かった訳ですが、一つ聞きたいと言うか疑問に思ったのは、『千尋 』が最初に逃げようとするシーンで、川岸まで行った時に船から下りてきた人(八百万の神)の顔が、どう見ても『ディスコミュニケーション』十二巻の第68話『夏が来る』のP128〜P143までと同巻の第69話『学校の主』のP148〜P155とP159〜166Pに出てくる(ちょっと鬱陶しかったですね)死んだ子供たちの霊にそっくりなのは何でなのでしょうか?
顔の前にかかっている顔の様な変な模様が書かれた紙を付けている事や、帽子の様な物を被っている事。
一番似ているのは『黒帽』(ディスコミのキャラクタ)です。
それが唯一気になった所です。
なぜ満点でなかったかはそれとはまた別の理由なのですが……。
欠点の理由は、もののけ姫の絵がとても目立った所です。
前作の絵をとても沢山引き摺っている気がしました。
多かれ少なかれ、同じ人・同じグループで書かれた映画ですから、同じ絵になる事は仕方がありませんが、『顔無し』の一部の動きや『腐れ神(?)』の動きや体の表現などは、首を飛ばされた後数秒の『シシ神(でーたらぼっち)』の動きや『タタリ神』になった『孫の神(守・上?)』の動きに似通っていた気がします。
それだけがマイナス点です。
さて恒例となっていますが、以上はあくまでも私の考えで、独断と偏見で書かれていますので、もし不満や深いを感じた方はメールででも送って下さい。
一応善処はさせて頂きます。


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8・27
今日、とあるテレビ番組を見て一つ思ったのですが、多重人格というのはむしろ当たり前の事だと思います。
辛い過去やトラウマなどによって多重人格になるといわれていますが、普通の人間でさえ無数の人格の複合体でしかないのと思います。
たった一つの人格のみしか持たないような人間は、むしろその方が異常なのではないでしょうか。
人は多面的で、様々な方向から見る事が出来ます。
三次元で生きている人間なのですから(時間の影響も受けているので正確には四次元)、精神面も三次元なのではないでしょうか。
観測する側は精々一次元的、もしくは二次元的にしかそれを見る事が出来ないのではないでしょうか。
ならば、三次元の物体を二次元に謄写したような写真のように、写らない部分や陰になって見えない部分があってしかるべきです。
それを一面的に見て、観測しきった気になっているのは変です。
誰かの写真を正面からとって、その人の体全てを見た気になっているのはおかしいです。
背後からの写真を撮り上からの写真を撮り下からの写真を撮り左右の写真を撮り、もしそれが部分写真なら全ての部分を撮ってこそ、その人を全てを見た事になるのです。
人間は元来一つの立場から動かないで居る事が楽だと思う節があるかも知れません。
しかし、その安定し棲み慣れた立場を離れ、相手を無数の視点で見る事で、その全貌を知る事に繋がると私は思います。
それはあたかも無数の人格が居るように見えるでしょう。
それはまるで普段見慣れない言動をしたりするように見えるでしょう。
それは観測者が普段見ている面とは全く違う場所だからなのではないでしょうか。
例えば普段相手の足や足の動きしか見ていない、見た事の無い人間がいたとしましょう。
その人間が相手の顔のみを見せられ、その動きや表情の変化を見せられれば、異常に思うでしょう。
もっと分かり易いたとえにするなら、今まで甘い物しか食べた事の無い人間が、辛い物やすっぱい物を食べたりすれば衝撃を受けるでしょう。
それは食べ物の中の甘い物しか見ていなかったから、知らなかったからだと思います。
カルチャーショックを一つの人間に対して起しているのに似ていると思います。
しかしこれは相手が動かず、自分が移動した結果です。
逆に相手が動けば、相手の無数の面が自分の前に現れ、普段見た事の無い人格が現れたように見えるでしょう。
相手に近づけば近づくほどはっきり見える代わりに、相手の一部しか見る事が出来なくなっていきます。
そんな時に、相手が突然動けば見える場所が変わるでしょう。
それは普段相手の足を見ていて、それ以外を見る事が無かった人間が相手の顔を見た時の衝撃と同じ、甘い物しか食べた事が無く、それ以外を知らなかった人間が辛い物を食べた時の驚きと同じでしょう。
普通の人間でも、多重の人格を持ち、その一端を相手が見ているだけだけなのです。
その変化があまりに病的で、傍から見て以上であったとしても、それはただ、あなたの前でいろいろな面を見せようとしているだけなのです。
あなたにたくさんの自分を知って欲しいだけなのです。
記憶が途切れる事だって、人間は短期記憶と長期記憶で記憶する場所が違います。
それは異常な事ではありません。
記憶がなぜ一連でなければならないのかの理由もありません。
多少不便かもしれませんが、何とかなる物です。
しかも自分にとっていやな記憶をなぜ好き好んで甦らせなければならないのでしょうか。
自殺を望む人格だって、自分に生の衝動と同じくらいに死の衝動があると何所かの心理学者が言っていらしたはずです(ユングかフロイトだった様な気がするのですが気のせいでしょうか)。
その死の面を相手に見せているのではないでしょうか。
自分が抱える死の衝動を相手に見せる事で、自分が何所まで深い死を持っているかを知って欲しいのではないでしょうか。
自分の辛い記憶を知られたくないからかくして居る存在を、無理に呼び覚まし、相手を無意味に傷つけるのはどうかと思います。
確かに幼い頃の記憶を持っている年齢の低い人格が仕事中などに出てきてしまうと、障害があるかも知れませんが、それを温かく見守っておくべきだと思います。
それを見守れる環境と、認められる世間を作りそれと同時に、内部の人格を説得する事がまず第一歩だと思います。
内の人格を統合するのではなく、互いに共有し共生しお互いに、まさに『相手の人格を尊重』していくべきではないでしょうか。
なぜ無理に統合しようとするんでしょうか、上に書いたように、無数のパーツを見せているのに、それを一つにしてしまえばまるで顔に手と足を無理矢理くっ付けるような事にならないでしょうか。
それはどう見ても異常です。
私もここの自己紹介に『多重人格』と書いてありますが、『多重人格』の意味としては上に書いたような事と似た様な物です。
まあ以上の事は年端も行かないガキの戯言です、もし不満や意見や物言いがあるのなら何でもメールを下さい。
悪質なウイルス付きでなければ受け取ります(良質なウイルスって何だ?)。
不快を感じたらお教え下さい。

余談ですが、ここの日記は『狂人の日々』と言う題で最初書いてたのですが、アップ前に「『狂人』はちょっと」と友人に言われて普通に戻したのです。
それは、私の中の各人格がその最後に署名を入れて、それぞれ日替わりで日記を書いて行くと言う物でした。
だから、最初の頃の日記には妙な文章で書かれている物が多いと思いますが、急遽変更した痕なので、あまり気にしないで下さい。
半年ほど前にそのデータを削除してしまったのでもうありませんが、私としては面白かったと思います。
もしかしたら、突然変わるかもしれないけどね。


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8・22
実は今日の朝一時ごろから四時までにかけて、またつまらない短編の小説を書きました。
今までにない、新しいシステムを使ってみたのですが、どうなのでしょうか。
しかし、いつも書けるのは深夜で、しかも勢いで書きまくるので、何を書いているのか書いている最中は全く分かりません。
『筆が走る』という状態に近いのですが、もともと文才が無いのでそこまでしても面白くない。
書いている最中はとても面白いと思っているのに、後々読んでみるとどうかと思うような内容なのです。
小説家志望の方がここの小説を読むと勇気が出るでしょう。
今月末までには小説をアップしたいのですが、どうなる事やら。
台風も去った見たいですし、そろそろ夏休みの宿題を始めましょうか。
AO入試の為の勉強もしなければいけないので、そろそろ忙しくなります。
というか夏休み開けてすぐに面接で口頭試問があるので、すでに緊張しています。
小説も書いてアップしたいのですが、本当にあげられるのでしょうか?
今日も徹夜して小説を書いて、勉強をします。
明日の朝に寝ます。
間に合うのでしょうか?


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8・17
やっと今日でAO入試の用紙の提出が出来ました。
二十日必着で出さなければならなかったのに、調査書が先生任せなので、学校に出向してきた時しかもらえなかったのです。
AO入試の用紙が届いたのが、学校がお盆休みになる直前。
先生達が学校に来なかったので、結局盆休み明けの今日が唯一のチャンスだったのです。
しかしここまでぎりぎりで大丈夫なのでしょうか。
しかし今日は午前中に散々移動して疲れました。
学校まで行った後、鉛筆で書いた部分をボールペンに直して、その後お役所に行ってとある用紙を買いに行けば値段が分からなければ売り用が無いと言われるし、さらに近くの郵便局に振り込みに行けば銀行でして下さいと言われて、バスに乗って銀行に行って振り込もうと思えばお役所の用紙が無い性か、なんだか銀行員が後ろでごそごそ言ってるし・・・・・・。
用紙を買ってお金を振り込んでくるだけなのに、十時に学校を出たら帰ってくるのが十一時近くになってしまいました。
しかし帰ってみたら学校に担任の先生がいない。
しかも用紙が買えなかったと言ったら、話が広がって、大学の事務に直接聞くはめに。
結局その用紙の所に、振り込みの判子以外にもう一つ押してある判子で代用されているとの事で、収まってしまいました。
担任は昼食にでも出ていたのでしょうか?
担任の先生が帰ってくるまで、教室で用紙のチェックと読書を延々としていました。
時折職員室に行っては見たものの、なかなか帰って来ないようで、更に一時間半後の十二時半頃に職員室に行くと帰ってきていました。
そのまま調査書に書く事を二三事はなして再び教室に帰りました。
妙な放送が気になって(放送の内容は伏せます)職員室に行くと再び担任の先生に呼ばれ、調査書を渡されました。
後は事務室でちょっとした用紙に名前・住所・使用目的・申請内容(?)を記入して用紙関係は全て終了しました。
後は封筒に住所と名前と入試区分と受験学科を書いて、書類を中に入れ封をして終わりました。
これを持って郵便局へ。
どうやら書き留めのようなので切手は貼らず、大事を取って速達で送らせてもらいました。
これで、AO入試に関する全ての業務が終わりました。
これでゆっくり眠れると思うと、天にも昇る気分です。
なんだか陳腐で使い古された言葉ですがまさにその通りです。
しかし、盲点が一つ。
ここからちょっとした地獄(変な言い方)がありました。
何と次のバスまで時間が四時間半。
と言う訳で母の携帯に電話をかけると何度かけても繋がらない。
仕方が無いので『もののけ姫』のビデオをとある所で無料で見て、硝子製のクリーマとか言う物を衝動買いして帰ってきました。
まぁ、ここまでしても書類で落されれば、また二期のAOを受けるだけですが、受かったのなら九月に大学に行かなければならない。
そして面接。
いやですねぇ面接。
まあ大丈夫だと思うんですけどね、根拠の無い自信ですけど。
ああいう雰囲気はいやなんですよ。
あれで受けている側の能力をどう測っているのでしょう。
極度の緊張さらされた時の人間の心理と言動の実験でもしているのでしょうか?
極度でもない場合もあるし、緊張していない人もいるでしょうが、何であの状況なのでしょう。
もっと自由な雰囲気で試験すれば、もっと素の能力がはかれると思うのですが、駄目なのでしょうか?
まあ、緊張している方が能力が出る人もいらっしゃるのでしょう。
だったら二つのパターンで緊張する方としない方選べれば良いのです。
もしくは学校の授業を視察に来ると言うのはどうでしょう。
そうすれば素の能力が分かるはずです。
こっちは希望を出すだけで、選ぶのは向こうなのですから、向こうが品定めに来るべきです。
確かに自分でPRするのがAOの最たる所なのですが、それでも見に来るべきです。
更に、集団面接と言うのは受けた事が無いのですが、それもなんだかおかしな気がします。
だったらはじめから受験者全員を教室に集めて、面接でもしたら時間も人員も割かずにすむと思うのですがどうなのでしょうか?
私は向こうの立場に立った事は無いので、こういう事は不可能なのかもしれませんが、もっとマシでしかも効率的な事を考えて欲しいです。
さて、話は変わりますが、最近とあるゲームにはまっているのです。
パソコンゲームなのですが、名前をCardWirth(カードワース)と言います。
暇つぶしにとあるフリーソフトライブラリィに行って、何か面白い物をダウンロードしようとふらついている時に発見しました。
エディタもあるようで、自分でもそれに対応したシナリオを作れるので、自分で作ってライブラリィに置いたりも出来るのでしょうか。
他のいろいろな人が作ったシナリオが置いてあるので、多分そうなのでしょう。
あのゲームは一つのスタートパック(つまりCardWirth)でいくつものショートシナリオを遊ぶのに適しています。
ロングシナリオの場合は、いくつもに分けなければならなかったするようなので、話の流れが外れてしまったりするのです。
ショートのシリーズをいくつも続けると言うのは適しています。
それなら、間に何をしてもだいたい繋がります。
しかも、いろいろな人が創ったシナリオを遊べるのでソフトがほぼ無尽蔵にあり、様々なタイプのシナリオがあるので飽きる事が無いでしょう。
一度クリアしたシナリオでも、別のパーティで、別の道具を持って、別の技能を持っていったら別の攻略法が見つかるかもしれません。
そこがこのゲームの面白い所であり、新しい所(多分、少なくとも私の周りには無かった)であり、難しい所です。
私も今一つ作っているのですが、もし完成したらここで発表したいと思っています。
その時はよろしくお願いします。
いやぁ心配事が無くなったのでよく日記が書けますね。
何が心配って今日ちゃんと志願の書類が出せるか心配だったのです。
(つまり、合格できるかは心配ではない?)


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8・13
大学進学の事なのですが、どうやら行きたい大学から指定校推薦が無かったようなので、一般入試とAO入試をする事になりました。
と言う訳で一昨日、昨日と徹夜して自己PR文と志願理由を書いていました。
それが全く文章が進まない。
二日かけてPR文は原稿用紙一枚と半、志願理由は原稿用紙二枚しか書けませんでした。
小説家になりたいと言う夢を持っているくせに、ほとんどかけなくて大丈夫なんでしょうか。
まぁ。制限は千文字以内つまり原稿用紙二枚半なので、PR文は六十パーセント志願理由は八十パーセントぐらい書いた事になるので、まあまあかと思うのですがどうなんでしょう。
なんだか、最近妙な根拠は無いのですが絶対に受かると言う自信が湧いてきているのです。
三年前の高校入試の時もこうだったのですが、全く理由が思い付けないのが不思議です。
普通なら不安で不安で仕方が無いはずなのに、何でなのでしょう。
だから『落ちる』『滑る』『転ぶ』なんて言葉も普通に使えちゃうのです。
まあ、一応縁起を担いで使わない様にしようかな、ぐらいの気はありますけど。
さあ、どうなる事でしょう。
結果報告をお楽しみに?


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8・1
ガス溶接の学科試験を受けてきました。
しかも、その前に午前九時から午後三時四十五分ぐらいにかけて、一通りテキストの内容を終わらせてからでした。
何でせっかくの夏休みの中場に、何でこんな事をしなければ行けないんでしょう。
更に明日はガス溶接の実技があって、六日にアーク溶接の学科、七日がアーク溶接の実習があるんです。
もともとは学校の授業の一貫として、実習の時間にとってしまうと言う事だったので、参加をしたのに、突然それは認められなかったと言われて夏休みになったんです。
詐欺じゃありませんか。
どう考えても許可を取ってから、実行に移すべきなのに、参加者の希望を取って、更に受講・受験料を払った後に駄目ですはないです。
夏休みはゆっくりするつもりだったのに、何でこんな事をしなきゃ行けないんですか。
誰に許可を取ったのか知りませんが(多分お国関係)、そもそも先生もそんな事を知らないで実行するのも問題です。
今日はH・G・ウェルズの月世界探検(←多少間違ってるかもしれません)がお昼に放送されていたのに、諦めて学校に行きました。
ここまでしたのですから、少なくとも今日受けたガス溶接の資格だけでも受からないと救いが無さすぎです。
そういえばデジコもら見れなかったな、別に良いけど。


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