cAMP依存性プロテインキナーゼ (cAMP Dependent Protein Kinase ; cAPK) は、 標的蛋白質をリン酸化する事により、生体内情報伝達に関与する。 通常は不活性四成分錯体として存在しているが、 何らかの原因でcAMP濃度が上昇すると、 調節サブユニット(R-subunit)とcAMPとが結合し、 活性触媒サブユニット(C-subunit)を解離する。
このC-subunitは,標的蛋白質中の-Arg-Arg-X-Ser(Thr)-Hyd-(Xは任意のアミノ酸、 Hydは疎水性アミノ酸)配列を認識してSer(Thr)残基のリン酸化を行なう。 例えば、血糖値の低下によって アドレナリンやグルカゴンの放出が起こり、 生成されたcAMPがR-subunitと結合すると、 解離したC-subunitはホスホリラーゼキナーゼや グリコーゲン合成酵素の特異配列中のSer残基をリン酸化する。 その結果、ホスホリラーゼキナーゼの高次構造変化が起こり、 ホスホリラーゼのSer-14のリン酸化反応を触媒して ホスホリラーゼの活性化をひき起こす。 逆に、グリコーゲン合成酵素は不活化される。 こうして、グリコーゲンの分解が促進され、逆に合成が停止し、血糖値が上昇する。 C-subunitはX線結晶解析により既に三次元構造が決定されているが、 その構造の触媒機能、 すなわち、原子レベルでのSerリン酸化反応メカニズムは未だに明らかにされていない。 そこで、理論化学計算を用いて cAPKのC-subunitによる基質Serリン酸化機構を明らかにする研究を行なった。
方法計算には電子相関を考慮した密度汎関数法(DFT法)を用い、 基底関数として3-21G**を採用した。 ポテンシャルエネルギー超曲面上の極小点及び遷移状態の構造は、 エネルギー勾配法により求めた。 また, 遷移状態構造においては振動解析を行ない、 反応方向に唯一の虚の振動がに存在する事を確認した。 求めた遷移状態構造が反応始原系と反応生成系を結ぶ最低エネルギー経路上に存在する事を確認する為に、 この振動方向に沿って固有反応座標(IRC)計算を行なった。 計算プログラムはGaussian 94を使用した。 計算に使用したモデルの構築は次の様に行なった。 出発構造としてcAPKのC-subunitと阻害剤基質(PKI)との複合体の結晶構造(pdbcode; 1atp)を用いた。 PKIは特異配列中のSer(Thr)がAlaに置き換わったものであり、 まずこのAlaをSerに置換する事で被リン酸化基質が配位した状態を再現した。 次にこの結晶構造の活性中心には(Mn2+)2ATPが配位しているが、 cAPKによるグリコーゲン合成酵素のリン酸化実験系を参考にして、 β-リン酸とγ-リン酸とに配位しているMn2+を Mg2+に置き換え、 α-リン酸とγ-リン酸とに配位しているMn2+を除去した。 この様に改変したC-subunitの結晶構造にMonte Carlo法により水を発生させ、 生体内に近い条件を作り、 分子力場計算によりポテンシャルエネルギー極小化を行ない、 得られた構造をもとにモデル反応系を構築した。
結果及び考察まず、反応初期構造より、 基質であるSerがATPのγ-リン酸に近付くにつれてポテンシャルエネルギーが上昇し、 遷移状態構造を経て準安定構造である基質五配位中間体構造が生成する。 この素反応における活性化エネルギーはDFT法で計算した結果29.04 kcal/molと求められた。 次に、β-リン酸とγ-リン酸をつなぐO原子と、 Serと結合したγ-リン酸のP原子との距離が伸びるにつれて再びポテンシャルエネルギーが上昇し、 遷移状態(D)を経てリン酸化されたSerが系より離脱する事によりポテンシャルエネルギーが下がる。 この素反応における活性化エネルギーは3.17 kcal/molであった。 実際に酵素が働く生体内の反応温度は310 K付近であり、 これら一連の反応は十分に起こり得るものと考えられる。 cAPKによるリン酸化反応に要する大きな活性化エネルギー(29.03 kcal/mol)は、 恒温槽として働く生体より与えられると考えられる。 一方、cAPKによるSerリン酸化によって放出されるエネルギーは小さい。 この結果からATPの役割は、高エネルギーリン酸結合を切る事により、 これと共役するSerのリン酸化反応にエネルギーを与えるのではなく、 周囲より活性化エネルギーを得て標的蛋白質をリン酸化し、 その結果起こる高次構造変化によって酵素活性を調節し、 情報伝達の方向性を決定する事であると考えられる。
結論本研究により以下の事を結論とする。