今はなき『マイノリティの告解室』の講評


 
平成20(2008)年9月26日(金)、『マイノリティの告解室』というYahooブログに「ボーイソプラノの美学」という題で、本ホームページからの文を引用しながら、持論を展開してくださったT.Sさんという方がおられます。

 日本の少年合唱を盛り上げようという理念のもとに良質の情報を発信し続けている「ボーイソプラノの館」というホームぺージがある。管理者のボーイソプラノに対する考察は実に鋭く、中でも「ボーイソプラノの美学」と題する項目の文章は秀逸である。そこから少しここに引いてみたい。


 漫画家の砂川しげひさは、次のように述べています。
……月下美人という花がある。ぼくは、アレッド・ジョーンズを聴いて、真っ先にこのはかない花を思い出した。この少年は自ら滅びゆく運命を拒絶して、今の時期をただ美しく、一生懸命咲き誇っていることに感動する。この月明かりに光ることに全力を注ぎ込んでいる短い開花を、「むごい」ととるか「極限の美意識」と捉えるか、人それぞれだろうが、ぼくは絶対後者をとりたい。
 また、堀内修は、男がボーイ・ソプラノの声にひかれるのは、永遠に失った少年時代の声に憧れるからという説を、あまりあてにならないとしながら紹介しています。
 私は、ボーイ・ソプラノの美を、ただ可愛らしさだけによるものではないと考えます。それは、「天使の歌声」という言葉に象徴される、清純でストイックな美しさであり、また、同じ高さの声を持つ少女や大人の女には出せない、少年だけが出し得る透明な世界であると考えます。しかし、その時を精一杯生きている少年たちは、おそらく、その本当の美には気付いていません。美は、むしろそれを愛でる人の心の中にあるものではないでしょうか。
 大人は、知っています。自分が成長の過程で失ってきた美しいものがいかに大きいものであったかを。また、人は年齢に係わりなく、聖なるものに対する憧れをもっています。それらが、ボーイ・ソプラノの歌声を聴くときに、心に甦り、現れてきます。ボーイ・ソプラノを聴くとき、心が洗われ、安らぎをもたらすのはそのためではないでしょうか。


 まさにボーイソプラノの美はここに言いつくされているように思われる。この上私に付け加えるべきものは何もないが、蛇足を承知で述べておきたい。儚く移ろい、やがて失われることに定められているがゆえの美。ここで、ふと私は考える。これははたしてボーイソプラノだけに限られたものだろうか、と。これはわれわれ人間の一生そのものではないのか。
 ここにボーイソプラノの魅力の秘密があるように思われる。われわれは優れたボーイソプラノに耳を傾けるとき、その音楽を通して生そのものに思いを馳せているのではないだろうか。フォーレの、ウェッバーの「レクイエム」がボーイソプラノを起用した名曲中の名曲としてわれわれを魅了してやまないのは、おそらくこのためである。有限の存在としての人間を送るにあたり起用された、有限の美を究極的に体現するボーイソプラノ。彼らの声は走馬燈のように凝縮された人間の一生を聞く者のうちに想起させる。「天使の声」「天国的な美しさ」といった形容は誇張でもなんでもない。彼らが歌う「レクイエム」に耳を傾けるとき、実際われわれは死を先取りして天に誘われ、過ぎ去った生に涙しているではないか。
 音楽の魅力を言葉にするのは難しいが、とりわけボーイソプラノのそれを語るのは至難の業である。ボーイソプラノについて語る時、それそのものを表現する術を持たないわれわれは、上に引いた砂川しげひさのように、あるいは月下美人を引きあいに出したりするなどして比喩に走る。音楽を前にした言葉のむなしさを痛感しているからだ。
 しかし言葉の無力を知ってはいつつも、沈黙することのできない私は、これからもボーイソプラノの魅力について語っていくことになるのだろう。