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出会いは思いがけないことから |
「森の会」ピアノコンサート][ −秋山直輝ボーイ・ソプラノ独唱− |
カンタービレの精神でピアノを
今、日本においてボーイ・ソプラノの独唱を聴けるチャンスは、極めて限られています。日本で最初のボーイ・ソプラノのリサイタルは、平成3(1991)年に小樽で村上友一が行ったという記録が残っていますが、たいていは、来日を含む少年合唱団のコンサートの中でトップソリストによる1曲か、合唱曲の中での部分ソロというところでしょう。5月8日、大村悦子先生が主催するピアノ教室「森の会」のコンサートの中で、門下生である秋山直輝君のボーイ・ソプラノ独唱が聴かれるというので、横浜まで行ってきました。会場の磯子公会堂は、約500席ほどの音響のよい会場でした。これまで「美しく歌う楽器」と呼ばれているヴァイオリンが、人の声に近いためその共通性を指摘する人はいましたし、また、声楽ファンとヴァイオリンファンにもかなり重なりが見られます。
ところが、大村悦子先生は、ピアノにおいても「歌う要素」を大切に指導されているそうで、今回は、従来から行ってきたオペレッタに加え、初めて合唱、ボーイ・ソプラノ独唱を取り入れたコンサート、いわば、カンタービレの精神をピアノでどう体現するかをテーマとしたピアノコンサートを企画されました。
ただ、このホームページの性格上、門下生によるピアノ演奏についての批評は割愛して、秋山直輝君のボーイ・ソプラノ独唱にしぼって、述べていきたいと思います。
クリスタル ビューティ
秋山直輝君の歌声の特色は、元気はつらつさがとりえの日本のボーイ・ソプラノには珍しいヨーロッパ系の透明度の高い美しさ(クリスタル ビューティ)です。プログラムを見ると「みかんの花咲く丘」「オンブラ マイ フ」グノーの「アヴェ・マリア」の3曲で、その持ち味が活かされる選曲がされていました。
場内放送で、横須賀芸術劇場少年少女合唱隊に所属していることや、昨年12月サントリーホールで行われた東京ヴィヴァルディ合奏団のクリスマスコンサートでソリストをしたことが紹介されました。このコンサートシリーズでこれまでにソリストを務めた少年(ウィリアム・スピアマンW君や近藤喬之君)がボーイ・ソプラノの完成期でもある中学生であったことと比べても、まだ9歳と年少であるため、これからどう成長していくのかを見守る楽しみがあります。また、伴奏はお兄さんの秋山智紀君。弟が独唱を始めたことで伴奏に開眼したという兄弟による二人三脚も聴きどころの一つです。
高音域に冴えが
第1曲目というのは、大声楽家でも声が温まらず、また緊張してエンジン全開にはならないものです。5月の連休中に伊東市にあるみかん園や「みかんの花咲く丘」の歌碑を見て曲想や歌の背景を学んできたという1曲目は、スタートにおいては、ピアノの調整が独奏用のままであったため伴奏がやや大きく感じられ、歌声が消されるところもありましたが、曲の後半の高音部になると、持ち味の透明度の高い声が、よく響くようになってきました。ピアノとのバランスも次第によくなってきました。また、曲想はよくつかんで歌われていましたが、このような有節歌曲では1番ごとに違う歌い方ができるところまで高めていくことが課題だと感じました。「みかん」は、「未完成」であってもよいのです。
いきなり、「オンブラ マイ フ・・・」と、アリアの部分の高音から始まった2曲目は、同じ音が続く部分が特に美しく聞こえました。うねりながら曲の山場へのもっていく流れにも工夫の跡が感じられる歌唱でした。今後は、レスタティーボの部分から始めることによって、陰影のある感情表現ができるようになることが期待されます。
3曲目の「アヴェ・マリア」でも、高音域は冴えていました。この曲は、おそらく現在における直輝君の一番よい側面が発揮できる曲でありましょう。声質と祈り心が一致したその演奏は、なぜ、この少年が小学3年生で東京ヴィヴァルディ合奏団のクリスマスコンサートのソリストに選ばれたかを理解するに充分なものでした。伴奏とのバランスもこの曲では、絶妙で息の合う演奏でした。
心の琴線に迫る歌唱を
せめて、あと2曲とも思いましたが、4時間にわたるコンサートの中では、聴き手のそのようなわがままは許されますまい。また、前述したようないくつかの課題もありましたが、成長期のボーイ・ソプラノを満喫できるコンサートでした。戦前におけるイタリアの三大テナーの一人と呼ばれたティート・スキーパは、オーケストラボックスからは聴き取れないほどの声量でも、清澄で優美な歌唱で聴く人の心の琴線を刺激し、観客を泣かせたそうです。一生が勉強なのですから、兄弟励ましあってより高い目標をもって頑張っていただきたいと願っています。
平成16(2004)年5月8日
秋山直輝 たったひとりのためのコンサート |
「文筆の才だけでは著者をつくることはできない。一冊の本の背後には、一人の人間がいる。」
と、哲人エマーソンは喝破した。この言葉は、歌に置き換えることもできよう。
「声の美しさや技術だけでは歌い手をつくることはできない。一つの歌の背後には一人の人間がいる。」
それは、未完成な少年の歌であっても言えることなのだろうか。いや、むしろ少年だからこそ、歌に自分の生きざまをまっすぐにぶつけることができる。それが聴く人の心を動かし、洗ってくれるのだ。
「自分の歌を聴いてくれるたったひとりの人のために歌いたい。」
そんな少年の切なる想いは、歌を清冽なものにした。
それは、10曲ばかりの楽譜から2〜3曲ずつリクエストによって歌うというコンサートであった。また、ア・カペラか、お兄さんの智紀君のピアノ伴奏という歌声に集中できるコンサートであった。結局用意されたすべての曲を聴くことになったのだが、そこには、1年あまり前東京ヴィヴァルディ合奏団のソリストをつとめたときの曲から、最近学んでレパートリーとした曲までが並んでいた。レパートリーは大きく分けて、宗教曲(「天使のパン」「ピエ・イエズ」「アヴェ・マリア」等)、イタリア歌曲(「すみれ」等)、オペラアリア(「恋とはどんなものかしら」)、日本の歌(「ゆりかご」「別れ」)の4つだった。
このコンサートで歌われた歌は、根底において「祈り」につながっていた。歌にドラマがあった。そのことの前には、どの音域も均一に響くようになってきた、高音に輝きが増してきた、トリルがきれいだったといった技術的な成長がとても小さなことのようにさえ感じられた。「恋とはどんなものかしら」は、もっとお色気のある歌ではなかったの?そんなことを小学4年生の今から期待しないでほしいなあ。
この夕べは、伸び盛りのボーイ・ソプラノ 秋山直輝の今の「歌」を聴く楽しみを満喫できる至福の夕べであった。
平成17(2005)年2月18日
「森の会」ピアノコンサート]\ −秋山直輝ボーイ・ソプラノ独唱− |
2年間の成長を聴こう
秋山直輝君のボーイ・ソプラノ独唱の生演奏を聴くのは1年3か月ぶり、コンサート会場でということになれば2年ぶりとなります。この日のコンサート会場は、美空ひばりが初舞台を踏んだという杉田劇場。と言っても、当時の杉田劇場は、昭和21〜25年の4年間だけ存在した「小屋」で、現在の杉田劇場は、その名前を受け継ぎながらも磯子区民文化センターとして甦り、メインホールは310席で室内楽などに最適です。ちなみにこの広さは、ボーイ・ソプラノ独唱にもぴったり。この日の聴きどころは、2年間の成長と兄弟のティームワークです。大村悦子先生が主催するピアノ教室「森の会」のコンサートですから、メインはピアノの演奏なのですが、歌やチェロの独奏もあるところに、いろんな角度から門下生を育てようと言う大村先生の指導理念が伺えます。今回は時間的にも2時間半とコンパクトに収められ、門下生のピアノ演奏の水準も2年前よりもかなり高くなっていたため、集中度の高いコンサートになっていました。
夢見るような調べに本領が
この日のプログラムは、「みどりのそよ風」「夢路より」「恋とはどんなものかしら」の3曲で、3か国語で歌われるというだけでなく、バラエティに富んだ選曲がなされていました。また、2年前にはピアノの伴奏と声の大きさのバランスに課題があったため、マイクで声を拾うことによってバランスをとる工夫をしていました。伴奏は、お兄さんの秋山智紀君。伴奏者としての成長が期待されます。
ヘーベルハウスのコマーシャルで一躍有名になった第1曲目の「みどりのそよ風」は、低い音からの出だしでしたが、次第に盛り上がり1番の山場を創ることができました。有節歌曲にありがちな単調さを防ぐために、5番まである歌詞を3番に縮小する意図も生きていましたが、「ボールがポンポン ストライク」の部分に弾むような躍動感が出れば、さらによくなるでしょう。さて、この日の白眉は、「夢路より」でした。透明度の高い声質と流麗で夢見るような旋律歌唱とが一致し、さらに包容力のある優しげな伴奏に支えられて、気品のある完成度の高い歌に仕上がっていました。また、1年3か月ぶりに聴く「恋とはどんなものかしら」は、憧れに満ちた歌でした。ふと、ケルビーノは何歳だろうかと考えてみました。16歳・・・それは、変声期の直前。この歌は一歩間違うと、狂おしい歌になってしまうのです。憧れに満ちた歌、いいじゃありませんか、背伸びなんかしなくても。11歳のケルビーノは恋に恋する歌こそが似つかわしいのです。
この一瞬を耳と心に刻んでおきたい
声楽は身体が楽器です。3年生のデビューから身長も15cm高くなっているということは、声の響きも微妙に変わってきています。この日のコンサートでは、得意の高音だけでなく低音域の充実ぶりを聴くことができました。
「君を夏の日の一日に喩えようか。」
シェークスピアは、少年美のうつろいやすさ、はかなさをこのような詩に歌いあげました。これは、ボーイ・ソプラノにも言えること。この一瞬を耳と心に刻んでおきたい、そう思わせるコンサートでした。
秋山直輝 ミニコンサート |
このコンサートの位置づけ
「このコンサートがあることを、ホームページで紹介しましょうか?」
「いいえ、今まで応援してくださった方々にお礼の意味を込めて、変声期が近づいてきた直輝の歌声を聴いていただこうという主旨のものですから、紹介は差し控え下さいますように、お願いいたします。」
このコンサートの案内を受けたときの私と直輝君のお母様の問答です。このコンサートは、5月3日の森の会ピアノ発表会に来られたお母様の友人が、
「もっと直輝君の歌を聴きたい。自分たちがスタッフをやるので他の人にも声をかけよう。」
というところから始まりました。ということで、このコンサートは、家族と友人で創る手作り謝恩コンサートとして誕生しました。
さて、日本の少年のボーイ・ソプラノソロコンサート(リサイタル)は極めて珍しく、村上友一が出身地の小樽で1991年に行って以来15年ぶり2番目かもしれません。
聴きどころ
秋山直輝の歌の魅力って何でしょう。それは、一言で言えば、透明度の高い清冽な声と人格的なものが結びついたところにあるといってもよいでしょう。それが最大に活かされるのは、抒情歌や宗教曲などであり、この日のプログラムも、そのような曲を中心にした選曲がなされていました。しかも、このコンサートは、アンコール曲の「少年時代」のピアノ弾き語りを除いては、すべてア・カペラで歌われ、そこには、聴き手を歌声そのものに集中させようというという意図が感じられました。また、私にとっては、2年あまりの間の成長を聴くことができるという別の楽しみもありました。そのようなわけで、成長を縦軸に、曲の多様性を横軸にしてこのコンサートを聴きました。
プログラム
T
むこうむこう 〈作詞 三井 ふたばこ 作曲 中田 喜直)
浜辺の歌 (作詞 林 古渓 作曲 成田 為三)
おぼろ月夜 (作詞 高野 辰之 作曲 岡野 貞一)
茶 摘 〈作詞・作曲不詳)
みかんの花咲く丘 (作詞 加藤 省吾 作曲 海沼 実)
みどりのそよかぜ (作詞 清水 かつら 作曲 草川 信)
ゆりかご 〈作詞・作曲 平井 康三郎)
さくらさくら 〈日本古謡)
荒城の月 (作詞 土井 晩翠 作曲 滝 廉太郎)
〜 休 憩 〜
U
天使のパン (作曲 フランク)
ピェ・イエズ (作曲 ウェッバー)
ピェ・イエズ (作曲 ラター)
ピェ・イエズ (作曲 フォーレ)
アメージング・グレイス (賛美歌)
〜映画「オズの魔法使い」より〜
虹の彼方に 〈作詞 E.Yハーパーク 作曲 H.アーレン)
〜オペラ「フィガロの結婚」より〜
恋とはどんなものかしら 〈作曲 モーツァルト)
夢路より 〈作曲 フォスター)
アンコール
アヴェ・マリア (作曲 バッハ 編曲 グノー)
少年時代 (作詞・作曲 井上 陽水)
流麗さの中にも成長の跡が
杉田劇場のリハーサル室を会場にして行われたこのコンサートは、日本の歌と外国の歌の二本立て。「むこうむこう」で始まった第1部は、日本歌曲と童謡・唱歌9曲が、2〜3曲ずつ解説入りで歌われましたが、「浜辺の歌」や「おぼろ月夜」のような流麗な歌に持ち味が生かされていただけでなく、2年前に聴いた「みかんの花咲く丘」では、曲の山場づくりにおいて、2か月前に聴いた「みどりのそよかぜ」では、弾けるような躍動感において成長を発見することができました。また、「さくらさくら」は、同じ歌詞を音程を変えて2回歌うことによって単調さを防ぐだけでなく色彩感を出していました。第1部の最後を飾る「荒城の月」は省略することなく4番まで歌われましたが、ここでは朗々とした感じが出ており、有節歌曲を1番ごとに歌い分けることができていました。また、デビュー当時課題であった声量も2年あまりの間でかなりついてきたことを伺わせました。このように随所に成長の跡を感じさせてくれましたが、「ゆりかご」だけは、音程に課題が残りました。しかし、課題は克服されるためにあるのですから、今後の精進が期待されます。
「包まれる」感覚
「天使のパン」で始まった第2部は、前半が宗教曲、後半がその他の外国曲という構成になっており、持ち味のクリスタルビューティの高音が活かせる選曲がなされていました。この中では、ウェッバー、ラター、フォーレ作曲による「ピェ・イエズ」の聴き比べが興味深かっただけでなく、「包まれる」不思議な感覚を味わうことができました。また、「アメージング・グレイス」の楚々とした歌唱は、この少年の歌の原点が賛美歌にあることを伺わせるものでした。
後半の3曲は、それぞれ持ち味の違う歌でしたが、「虹の彼方に」では、冒頭の1オクターブの音の飛躍が鮮やかで、起伏のある曲想をよくつかんだ演奏になっていました。「恋とはどんなものかしら」を聴くのは3回目ですが、1回ごとに心象の明暗がはっきりした演奏になってきました。プログラムの最後を飾る「夢路より」は、2か月前の名演が心に残っています。この日も抒情性あふれるよい演奏でしたが、この曲については歌とピアノ伴奏の絶妙な組み合わせが魅力であるということを改めて感じました。
永遠に消えないものを
ボーイ・ソプラノを愛でる心は、桜花や初霜の美を愛でる心にも似ています。ボーイ・ソプラノとして残された時間があとわずかなら、これからは時間との勝負になってきます。桜花はやがて散り、初霜はやがて消えてゆきます。ボーイ・ソプラノもまた同じ運命にあります。しかし、永遠に消えないものは、歌心やそれを支える人格です。さて、このコンサートの中でも秋山直輝の人格の片鱗は、歌の紹介や挨拶の中にも現れていました。ヨーロッパでは、ボーイ・ソプラノのことを「神様のいたずら」と呼んでいます。神様がある少年に美しい声を与えておいて、時が来たらそれを奪ってしまうところから付けられた名前です。しかし、声に偶然はあっても、人格に偶然はありえません。将来職業として歌を選ぶかどうかは別にして、半年後、1年後、3年後、10年後の歌を聴いてみたいと思わせるコンサートでした。
平成18(2006)年7月22日
続く