3 ボーイ・ソプラノの美学

        プロローグ 「ボーイ・ソプラノ」とは何か

 「ボーイ・ソプラノ(「ボーイソプラノ」)」の定義を明らかにしておかないと、このホームページが取り扱う領域が限りなく広がったり、逆に極めて狭い領域しか扱えないことになります。そこで、国語辞典的な意味と、百科事典的な意味を比較・吟味することを通して、このホームページが取り扱う領域を明らかにしていきたいと考えます。

(国語辞典的な意味)
出典: 広辞苑
変声期前の男児のソプラノ音域の声。

出典: 大辞林
変声期前の少年の声。ソプラノの声域をもつのでいう。

出典: 大辞泉
ソプラノに似た音色・音域をもつ、変声期前の男子の声。

出典: 精選版 日本国語大辞典
〘名〙 (boy soprano) 声変わりする前の男の子の声。ソプラノに似た澄んだ音色、高い音域をもつのでこの名がある。中世教会音楽のソプラノ部分を受持ち、現在は少年合唱の主体をなす。

出典: デジタル大辞泉 goo辞書
ソプラノに似た音色・音域をもつ、変声期前の男子の声

出典: imidas 現代人のカタカナ語辞典
[boy soprano]【音】変声期前の少年が出すような,澄んだ高音域の音色.

(百科事典的な意味)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ボーイソプラノまたはボーイ・ソプラノ(米: boy soprano、イギリス英語: treble:トレブル)は、変声期前にソプラノの音域に恵まれた青少年男子の歌手について用いる語である。
変声期以前の短い期間の少年の高音は、その独特な音色ゆえに、欧米に限らず世界各地で、宗教音楽や世俗音楽(「世俗音楽」とは、「宗教音楽」の対語として、非宗教音楽全般を指す名称)に利用されている。

出典: ニコニコ大百科
ボーイソプラノとは、変声(声変わり)前の少年の歌声、またその声で歌う少年の事である。
広義には「子供の歌声」という意味で少女の声も含む場合がある。

 これらを概観すると、国語辞典的な意味では、変声期前の少年の声という点で共通していますが、歌声であるか話し声であるかまでにはふれていません。百科事典的な意味では、音楽的な要素の比率が高くなりますが、歴史的な視点を加味するならば、元来は宗教音楽における用語であったものが、次第に「世俗音楽」と呼ばれる非宗教音楽全般にジャンルを広げていることがわかります。従って、狭義の定義(宗教音楽におけるソプラノの声域をもった変声期前の少年の声)と、広義の定義(いろいろなジャンルの音楽や音楽以外の分野【映画・演劇等】を含む変声期前の少年の声)があると言えます。ただし、「ニコニコ大百科」における「子供の歌声」という意味で少女の声も含む定義が何を出典として発信された情報であるのかは、寡聞にして知らず、本ホームページの研究対象とはしません。ただし、「少年」というのは、法律用語でもあり、国民体育大会の「少年の部」と同じ意味です。「少年」という用語をそのように使っている京都市少年合唱団やかつて少年合唱団であった西六郷少年少女合唱団等のように歴史的経緯はいろいろありますが、「少年少女(児童)合唱」や少年少女合唱団に所属するボーイ・ソプラノのソリストを採り上げることはあります。
 本ホームページは、広義の定義における「ボーイ・ソプラノ(「ボーイソプラノ」)」を対象として研究します。なお、変声は、人間として当然の成長であることから、変声後についても、継続して見守り、必要に応じて記載していきます。


     
(1) 消え去ることの美

 1980年代に、アレッド・ジョーンズ(Aled Jones, 1970~)という「百年に一人」と言われた優れたボーイ・ソプラノが、世界的にたいへん脚光を浴びました。出身地のイギリスでは、そのCDがプラチナ・ディスクとなり、少し遅れて、アレッド・ジョーンズが変声してから、日本でも、10枚近いLP(CD)ややビデオが発売されました。その解説書や紹介記事には、アレッド・ジョーンズの歌唱を通して、ボーイ・ソプラノの魅力についても各界の人が、一文を書いています。そこで、それらを参考にしながら、ボーイ・ソプラノの美について、私見を述べていきましょう。
 作曲家の三枝成章は、アレッド・ジョーンズのボーイ・ソプラノを、この喧騒の時代への慰めとなる「静的な心の平安」をもたらしてくれるものとして捉えています。音楽評論家の志摩栄八郎もまた、心が洗われ、しばし、この喧騒な浮世を忘れさせてくれると述べています。
 さらに、漫画家の砂川しげひさは、次のように述べています。
・・・・・月下美人という花がある。ぼくは、アレッド・ジョーンズを聴いて、真っ先にこのはかない花を思い出した。この少年は自ら滅びゆく運命を拒絶して、今の時期をただ美しく、一生懸命咲き誇っていることに感動する。この月明かりに光ることに全力を注ぎ込んでいる短い開花を、「むごい」ととるか「極限の美意識」と捉えるか、人それぞれだろうが、ぼくは絶対後者をとりたい。・・・・・
 また、音楽評論家の堀内修は、男がボーイ・ソプラノの声にひかれるのは、永遠に失った少年時代の声に憧れるからという説を、あまりあてにならないとしながら紹介しています。
 私は、ボーイ・ソプラノの美を、ただ可愛らしさだけによるものではないと考えます。それは、「天使の歌声」という言葉に象徴される、清純でストイックな美しさであり、また、同じ高さの声を持つ少女や大人の女には出せない、少年だけが出し得る透明な世界であると考えます。しかし、その時を精一杯生きている少年たちは、おそらく、その本当の美には気付いていません。美は、むしろそれを愛でる人の心の中にあるものではないでしょうか。
 大人は、知っています。自分が成長の過程で失ってきた美しいものがいかに大きいものであったかを。また、人は年齢に係わりなく、聖なるものに対する憧れをもっています。それらが、ボーイ・ソプラノの歌声を聴くときに、心に甦り、現れてきます。ボーイ・ソプラノを聴くとき、心が洗われ、安らぎをもたらすのはそのためではないでしょうか。「癒しの音楽」としてボーイ・ソプラノが脚光を浴びるようになったのは決して偶然ではありません。
 「少年の日は、いま」という合唱曲があります。そのクライマックスに、
「少年の日は、いま、君だけのもの」
という歌詞がありますが、そのようなことに気付いている少年は、どれほどいるでしょうか。もし、自分のボーイ・ソプラノの「美」を誇る少年がいたら、それはむしろ「醜」につながります。何故なら、この資質は、天から、あるいは両親から与えられたものであるからです。謙虚さは、ボーイ・ソプラノを清冽な美しさにします。「現代のソクラテス」と評される哲学者のアラン(本名 エミール=オーギュスト・シャルティエ)は、次のように言っています。
「もし、歌手が一寸でも謙虚さを失ったら、それは、ただの叫び声に過ぎない。」
と。
  同時に、この美は、移ろいすいものです。もし、変声期というものがなければ、ボーイ・ソプラノは、これほどの輝きを見せないのではないでしょうか。消え去るが故に美しいのです。作家・音楽評論家の増山法恵(のりえ)は、これを“変声期の残酷で輝きを増す少年たちの聖なる声”という詩的な表現で表しています。このような美意識は、桜花や、初霜の美を愛でる心にも似ています。もし、散らない桜、消えない初霜があったならば、それは、「美」といえるでしょうか。仮にそこに美があったとしても、それは、むしろ、しぶとさや不とう不屈を表すような、また違ったものになるでしょう。

        (2) 風姿花伝(花伝書)に学ぶ

 「能」を日本中に流行らせたのは、観阿弥(1333~1384)と世阿弥(1363~1443?)の父子であり、能を成長・発展させていく中で得た知見や学びを世阿弥がまとめた理論書が「風姿花伝(略称 花伝書)」です。シェイクスピア(1564~1616)より200年ぐらい前に書かれたこの書は、能に関する理論書・芸術書を超えて、人生論、生涯教育論、経営論にもふれており、現代にも通ずることがいくつもあります。そこで、「風姿花伝」についていろいろな角度から述べていきます。

    ① 世阿弥と能について

  世阿弥は、観阿弥の子で、室町時代初期に活躍した能役者です。観阿弥は、それまでにあった日本の伝統芸能である能楽の中の一つの物真似芸に、田楽の優美な舞や、南北朝に流行した曲舞(くせまい)の音曲を取り入れた新演出を採り入れ、猿楽を広げ、当時の観客の心に強い感興をおよばしたと言われています。また、その子世阿弥は、幼少期から能についての才覚があったと言われており、この親子によって、能を当時における人気の大衆演劇にまで成長させました。現代において「能」は、能楽堂で行われる格式の高い伝統芸能と位置付けられていますが、当時は民衆が集まり、飲食をしながらワイワイと楽しく観る大衆演劇的な側面もありました。

  少年時代より美貌であったこともあってパトロンとも言える時の将軍 足利義満などに可愛がられて育った世阿弥は、将軍のお抱えの芸人として成長します。その中で、当時の教養人である貴族 とりわけ関白 二条良基を紹介されて、交流することで、古典(和歌・連歌)をはじめとする上流の教養を身につけて芸術に対する知見やセンスを洗練させていきます。彼は新たな能のシステムや枠組みを作り出し、それは後世にまで引き継がれていきます。また、本来の能には「立ち合い」という戦いの場がありました。現代における「コンテスト」や「コンクール」のようなものです。そして、「風姿花伝」には、この立ち合いに勝つための戦術や作戦も書いてあります。

  義満の死後、将軍が足利義持の代になっても、世阿弥はさらに猿楽を深化させていきました。『風姿花伝』(1400年ごろ成立か)が著されたのもこのころと言われています。義持は猿楽よりも田楽好みであったため、義満のころほどは恩恵を受けられなくなってきます。さらに、義持が没し足利義教の代になると、弾圧が加えられるようになって、1434年に佐渡国に流刑されます。後に帰洛したとも伝えられますが、不明なことも多いようです。世阿弥がいつどこで亡くなったのかは全く不明です。観世家の伝承では1443年のこととされています。世阿弥の作品とされるものには、『高砂』『井筒』『実盛』など50曲近くがあり、現在も能舞台で上演されています。

       ② 「幽玄」と「花」

 世阿弥の功績は数多くありますが、先ず第一に、新たな美しさの概念を創り出したことが挙げられます。そして、「能」という芸術を“幽玄”という言葉によってブランド化しました。“幽玄”とは、そのもの自体が美しく、計り知れないほどの趣があることを表しています。しかし、この“幽玄”とは、あくまでも日本文化の美の概念であり、西洋の文化の概念ではありません。かつて少年合唱による西洋の古典的な宗教曲の評論に、作者の名は記憶にありませんが、この“幽玄”という言葉を使ったものを読んだことがあります。しかし、その表現は本来の“幽玄”と違うのではないかと思います。ただ、曲の題材が日本の伝統的なものを起源とするものである場合、“幽玄”という言葉を使うこともありうるでしょう。

 『風姿花伝』におけるキーワードは“花”です。世阿弥は、能を考察する上で、“花”をとても大切にしていました。現在でも、「花が(の)ある」という言葉は、ときどき使われています。しかし、それは、「華が(の)ある」という意味で使われていることが多いです。例えば、「アントニオ猪木は、華のあるプロレスラーだった。」のように。この場合の“華”の意味は、華やかさや華々しさを備えた様子を表す語であり、世阿弥の言う“花”と同じ意味ではありません。世阿弥の言う“花”とは、華やかさではなく、大事なもの、真実なもの、という意味があり、世阿弥は、芸道に励む中で常に、花のある能役者を目指しており、観客に感動を与えられるような自分だけのオリジナルな花を求め続けました。

 世阿弥は、『風姿花伝』の中で、“花”を使った言葉をいくつも生み出しています。その中でも有名なものは、「珍しきが花」「秘すれば花」「時に用ゆるをもて花と知るべし」「年々去来の花を忘るべからず」「住する所なきを、まず花と知るべし」などがあります。ここでは、一つ一つその解説をしませんが、“花”という概念は、他の芸術にも通じることがあります。例えば、「珍しきが花」は、少年合唱のコンサートがいつもワンパターンの曲の構成だったら次第に観客に飽きられていくことにもつながり、「秘すれば花」は、例えば、コンクールのときの切り札となる曲は、隠し持っておくことが大切であるということにもつながります。

      ③ 年齢に応じた稽古・練習 (7歳) 

 日本では、古くから数え年が使われていたので、満年齢で年を数えることが当然のことになっている現在、「風姿花伝」における7歳は現在の5.6歳、12.3よりは、11~12歳、17.8よりは、15~16歳であり、しかも、栄養摂取等の面から、変声期は現在より2~3年遅かったことを踏まえて読むべきでしょう。ただ、入ってくる情報量は当時と現代では大きく違っても、人間としてのものの考え方は、それほど大きく変わらず、今を生きる人に示唆するところもあるのではないかと考えられます。ここでは、世阿弥の言葉を現代語訳するだけでなく、ボーイ・ソプラノの練習とも重ね合わせながら述べていきましょう。

   「風姿花伝 第一 年来稽古條々」は、現代語に訳すと、「年齢に応じた稽古・練習について」ということになります。7歳は、現在の5.6歳の幼稚園児から小学1年生に当たりますが、芸能の世界では、この頃から入門しています。伝統芸能の「稽古始め」は6歳の6月6日がよいとされ、能、狂言、歌舞伎でも「初稽古」と呼んで、その日に稽古を始めるべしとしています。この年頃では能の稽古・練習は本人が自然とその気になって始めることがその年頃の能力にふさわしいと言えます。また、舞や演技の稽古の合間にも音楽、伴奏などについては、意識的にやらなくても、ふとしたきっかけでやる気になるまで、好きなようにさせておくべきです。

 また、稽古や練習の時に、 決して「良い」とか、「悪い」とか言って叱ってはいけません。そうすれば、子どもはやる気をなくして、能が面倒くさいと思って、伸びる力を失ってしまいます。また、音楽や演技、舞の稽古を急がせてはなりません。また、子どもが大人の真似をしていても、それをとやかく言ってはなりません。また、大きなイベントや公演があっても決して出してはいけません。その日の3番目か4番目の演目の中で本人が得意なことをさせるべきです。

 このように、世阿弥は、親は子どもの自発的な動きに方向性だけを与え、導くのが良いという考え方を示しています。親があまりにも子どもを縛ると、親のコピーを作るだけにとどまって、親を超えて伸びていく子どもにはなれないという言葉とその言葉を生み出した考えには、深いものがあります。

       (12.3歳)

 室町時代の12.3歳の年頃は、現代では、成長に個人差はありますが、11~12歳(小学校高学年~中学1年生)ぐらいの変声期前と考えたらよいでしょう。この時期の少年は、稚児の姿といい、声といい、それだけで幽玄を体現していて美しいと、世阿弥はこの年代の少年に対して最大級の賛辞を贈っています。すなわち、この年頃から声も明瞭になり、能の演技も理解できるようになるので、演目の数を増やして教えてもよいけれども、まだ子どもなので子どもの役としてはそれなりにこなすことができるが、決して難しい役をさせてはなりません。なぜなら、それはその時だけの「時分の花」であり、本当の花ではないからです。だから、どんなにその時の声や姿が良いからといって、生涯のことがそこで決定するわけではない、とあえて警告しています。

 従って、この時期には、稽古・練習は得意なことに花(みせどころ)をつくり、演技を丁寧にすべきです。なお、これは、ボーイ・ソプラノの最も美しい時期とも重ねて考えることができます。成長が早くなった現代の少年は、小学生で変声期を迎えることも少なくありませんが、多くの少年はこの時期に、ボーイ・ソプラノのピークを迎えます。従って、このような少年期の華やかな美しさに惑わされることなく、しっかり稽古することが肝心であると強調しています。

        (17〜18歳)

 この年齢は、当時の少年の変声期と考えてよいでしょう。現在の日本では、栄養等が改善して成長が前傾化し、11~14歳ぐらいで変声期を迎える子どもが多くなってきましたが、変声期における歌の練習と重ね合わせて読めば、そこから得ることは多くあると考えます。
 世阿弥は、この時期を人生における最初の難関がやってくる頃(「声変わりすれば、第一の花は、失なわれる。」)と言っています。能では、少年前期の声や姿に「花」があるとしていますが、声変わりという身体上の変化が加わることで、その愛らしさがなくなるこの時期は、第一の難関にあたります。そのようなな逆境をどう生きるかについて、世阿弥は、「たとえ人が笑おうとも、気にせずに、自分の限界の中で無理をせずに声を出して稽古せよ。」と説いています。
 世阿弥は、周りからも、本人も才能があると思っていたのに、身体の発育・変化という自分ではどうしようもないことにぶつかり絶望する。しかし、そういう時こそが、人生の境目で、諦めずに努力する姿勢が後になって生きてくる。だから、進歩がない時には、じっと耐えることが必要で、そこで絶望したり、諦めたりしてしまえば、結局は自分の限界を超えることができなくなるから、無理のない範囲で稽古を続けることが、次の飛躍へと続くと説いています。
 声変わりの時期は、その人の声の質にもよりますが、黄鐘(おうしょう・ 中音域)と盤渉(ばんしょう・低音域)の間の音程をとったらいい。もしも、声の調子をなおざりにすると、それが姿勢にも現れるし、後年になってからも困った癖が残ると、生涯教育的な観点から、この時期の過ごし方を説いています。

      (24〜25歳の頃)

 この頃には、声変わりも完全に終わり、声も身体も一人前となり、若々しく上手に見えます。人々に誉めそやされ、競技の場において、いわゆる「名人」を相手にしても、新人の珍しさから勝つことさえあります。なぜならば、新しいものは新鮮に映り、それだけで世間にもてはやされるのです。そんな時に、本当に名人に勝ったと勘違いし、自分は達人であるかのように思い込むことを、世阿弥は「あさましきことなり」と、厳しく切り捨てています。
  新人であることの珍しさによる人気を本当の人気と思い込むのは、「真実の花」には程遠く、そんなものはすぐに消えてしまうのに、それに気付かず、いい気になっていることほど、おろかなことはありません。そういう時こそ、「初心」を忘れず、稽古に励まなければならないのです。自分を「まことの花」とするための準備は、「時分の花」が咲き誇っているうちにこそ、必要であると述べています。世阿弥は、この時期は、大成するための準備期間であると捉えています。

   (34〜35歳の頃)

 世阿弥は、「上がるは三十四、五までのころ、下がるは四十以来なり」と述べています。芸が伸びていくのはこの年頃までであり、40を過ぎれば、落ちていくのみであるから、ここで高い評価を得られなければ、「まことの花」とは言えないと述べています。
 だから、この年頃に、自分の生き方を振り返って、これからの人生を見極める時期であるということです。声楽の世界で、「テノールは40から」という言葉を聞いたことがありますが、それは、40歳から伸びていくのではなく、それまでに学んできたことが40歳を過ぎても衰えずに通じるようになるという意味かもしれません。
 従って、この時期は、自分がそれまでに学んできたことを反省し、また、これから先、どのように進んでいくべきかをよく考えるべきであるということです。

      (44〜45歳の頃)

 「よそ目の花も失するなり」という言葉で、世阿弥は、この時期を表しています。言い換えれば、どんなに頂点を極めた者でも、この年になると衰えが見え始め、観客には「花」があるとは見えなくなってくるという厳しい言葉です。もしも、この時期でも、まだ花が失せないとしたら、それこそが「まことの花」であるけれども、この時期になると、あまり難しいことをせず、自分の得意とすることをすべきである、と世阿弥は説いています。
   むしろ、この時期に一番しておかなければならないこととして世阿弥が挙げているのは、「後継者の育成」ということです。体力も気力もまだまだと思えるこの時期にこそ、自分の芸を次代に伝えることが最適であると述べています。世阿弥は、「ワキのシテに花をもたせて、自分は少な少なに舞台をつとめよ」ということばを残しています。言い換えれば、後継者に花をもたせて、自分は一歩退いて舞台をつとめるようにすべきであるということで、「自分の限界を知る人こそ、真の名人といえる。」と説いています。

(50歳以上)

  織田信長が「敦盛」の舞で、人間五十年と謡ったのは、世阿弥の後の世代ですが、当時は、乳幼児の死亡率が高かったので、鈴木隆雄(1996)の推計では、平均寿命は室町時代では、男15.2歳、女17.3歳と低かったようですが、それでも、50歳という年齢は、当時としては、かなり高齢と言えましょう。
 世阿弥は、『風姿花伝』を書いた時は、30代後半であったと考えられますが、父である観阿弥のことを思って、能役者の人生最後の段階として、50歳以上の能役者について語っています。観阿弥の舞は、あまり動かず、控えめな舞なのに、そこにこれまでの芸が残花となって表われたといいます。これこそが、世阿弥が考えた「芸術の完成」の姿であったと考えられます。

  世阿弥が説く7段階の人生は、生きていく中で、次第に何かを失っていく衰えの7つの段階であるともいえます。少年の愛らしさが消え、青年の若さが消え、壮年の体力が消える。人は、このように、人は、何かを失いながらその人生を辿っていきます。しかし、この過程は、失うと同時に、何か新しいものを得る試練の時、つまり「初心」の時とも言え、「初心忘るべからず」とは、後継者に対し、一生を通じて前向きに挑み続けなければならないという世阿弥の願いの言葉とも言えます。

    時分の花 (要約)

 能楽の完成者として知られる世阿弥は、その芸術を論じた「風姿花伝(花伝書)」で芸における生涯教育論を述べています。これは、人間が成長していくそれぞれの段階でいかなる教育をすべきかについて書かれた教育論でもあります。そして、若い頃の芸を「時分の花」という含蓄深い表現で表しています。例えば十二、三歳の頃は、あまりやかましく言わず伸び伸びとやらせるのがよいといいます。なぜなら、この頃は、だいたい何をやっても可愛いので、それはそれなりに規制せず、舞と謡いという基本だけをしっかり練習することが大切だと言います。ただ物まねは教えないほうがよろしい。というのは、その役柄を評価できる判断力が備わるまで待つべきであるというのです。
 翻って考えれば、つまり、この頃の年齢の芸は、その姿形、声の可愛らしさに依拠しているところが大きく、もし、それが失われたとき、その基盤を失ってしまうので、まだ本当の芸とは言えないということを述べているのです。この考えは、ボーイ・ソプラノとその指導にも通じる考え方と言えるのではないでしょうか。そして、世阿弥は、「マコトの花」が咲くように背伸びをせず土台をしっかりと作るべきだと厳しく言い切っています。

       (3)   芸に生きるということ

  「子役は大成しない」という言葉があります。事実、そのようなことが多いようです。最近、「あのスターは今」というようなタイトルで、往年の名子役や、青春スター、あるいは、アイドル歌手が、今何をしているかを追跡したスペシャル番組が不定期に放映されていました。すると、たいていが、芸能界を去ったり、無名の一タレントとして細々と生きている姿が写し出されます。別の道で頑張っていたり、平凡な市井の人として平和に暮らしているのなら幸せですが、いつまでも過去の栄光を追い求めているならば、決してその人生は幸せとは言えないでしょう。それだけに、ある意味ではたいへん残酷な番組です。しかし、何故大成しないかを考えてみると、いくつかの理由が挙げられましょう。まず第1に、子役はたいした芸を持っていないのに、可愛らしさによる人気だけが先行することが挙げられます。だが、可愛らしさはいつまでも続くものではないし、年齢によって求められるものは変わってきます。第2に、この人気が曲者です。人気は、文字通り人の気持ちで、移りやすいものです。これらのスターのファン層は、同世代や、中高生が中心です。この時期の好みは変化しやすいものであるだけに、いつまでも人気が続くとは限りません。第3に、自分を深く見つめることができない時期に人気だけが出てしまうと、
周りからチヤホヤされて、甘やかされることで、スター意識だけが身について、自分を見失うことになりがちです。これらの理由から、子役は大成しにくいのではないでしょうか。また、実際には、子役をお稽古事としてやっているので、最初から俳優を職業として選択しないというケースも多いでしょう。

   以前、昭和40年代後半の人気番組だった「○○屋ケンちゃん」シリーズの人気子役 宮脇康之(後に「健」に改名)の自伝が出版され、またその再現ドラマが放映されて注目されましたが、そこでは人気に溺れ、自分を見失っていた少年スターの姿が克明に描かれていました。また、子どもの人気のため夫婦・兄弟間の絆が切れ、家庭までがもろくも崩壊していた事実までが生々しく告白されていました。暖かい家庭の中ですくすくと成長するケンちゃんの姿に理想の家庭像を見た人もいることでしょう。日本の子役史上最大の人気スターの舞台裏の実態を知り、虚像と実像の落差に愕然としたものです。

 このように、少年俳優から青年俳優になるためには大きな壁があります。その壁の前で少年俳優たちは苦闘するのでしょう。テレビドラマ『北の国から』や映画『男はつらいよ』で子役から青年役までこなした吉岡秀隆は、成功した例の一つでしょうが、やはり、少年期から青年期に移るとき大きな悩みを持って、寅さん役の渥美清に人生と職業について相談したこともあるそうです。なお、最近では、子役出身で大人の俳優としても演技力が評価されている俳優(山田孝之・神木隆之介・染谷将太等)もいますが、「子役が大成する比率は低い」と言うべきでしょう 。

  「百年に一人のボーイ・ソプラノ」と呼ばれたアレッド・ジョーンズの人生を概観すると、少年時代に得た栄光がかえって声楽家として大成する妨げになってしまったのではないかとさえ感じられます。今も、イギリスでは名の通った“BBC Young Chorister Of The Year”の司会者を務めるなど、少年合唱とかかわる仕事をしていますが、その位置づけは、「声楽家」ではなく、歌のうまい「テレビ・タレント」であり、同時期にアニメ映画「スノーマン」の主題歌、「Walking in the air」を歌ったアニメ映画「スノーマン」の主題歌、「Walking in the air」を歌ったピーター・オーティがテノールの声楽家として大成したのと比べると、声楽家として大成したとは言えません。それをどう捉えるかは、あくまでも、本人の問題です。

  さて、どの芸術分野においても、「芸に生きる」ということはなみたいていのことではありません。声楽家として、大成するためには、男女を問わず、変声後、歌の勉強と同時に、人間としての勉強を積み重ね、学び続けなければなりません。また、現在の日本では、コンサート活動だけで生きていける声楽家は、きわめて少数です。たいていが、教師を兼務して生きているのが現状です。島田祐子は、その声楽の師、人生の師・柴田睦陸から、次の様な言葉を繰り返し聞かされたと言います。
「歌がとびきりうまくなって、歌手として成功する。しかし、それは小さなことに過ぎない。人間として、大きくなることがなければ、それは歌を習ったことにも、音楽を勉強したことにもならない。」
また、歌は高等な趣味にとどめておいて、別の職業を持ちながら趣味として歌い続ける方が、かえって美しい歌の世界を維持できるかもしれません。そして、そのような道を選んだ人も少なくありません。その選択は、その人の才能と努力と人生観とによります。

   
  (4)  ボーイ・ソプラノの鑑賞

  それでは、ボーイ・ソプラノの鑑賞について、いくつかの切り口から述べてみましょう。先ず、最初は、ボーイ・ソプラノの分類から。

     
 ① ボーイ・ソプラノの分類の必要性

 大人の声、例えばテノールにも、ファルセットをもとにしたカウンター・テノールは別としても、軽い方から重い方へ、レジェーロ、リリコ・レジェーロ、リリコ、リリコ・スピント、ロブスト、ドラマティコ、ヘルデン等と声の質によって分類が行われています。これは、オペラの場合、役柄などとも密接に関係してきます。自分の声にあった歌を歌わないと、その個性を生かすことができないばかりか、喉を痛めることになりかねません。日本声楽界の大御所であった 五十嵐喜芳のデビューは、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」のトゥーリドゥですが、後年になって、
「その頃は歌わせてくれたら何でも嬉しくて歌っていたけれども、トゥーリドゥは、自分の声には重すぎて合っていない。」
ということを述べています。  このことは、大人の声だけでなくボーイ・ソプラノにも言えるのではないでしょうか。

   
② ヨーロッパのボーイ・ソプラノの分類

 イギリスBBC放送の合唱指揮者J・H・トーマスは、優秀なボーイ・ソプラノを「聖歌隊員的なもの」と「ソリスト的なもの」の二種類に分けて、前者は、「良い耳、ピッチの正確なセンス、楽譜を正確に読む、音楽の知識、などを十分トレーニングし、本人がそれを吸収できれば、優れた歌手になる」とし、後者は、「本人に強い声と、優れた資質さえあれば、ソリストとして成功する。」「だが、この二種類が合体することは殆どない。」と述べています。そして、その僅かな合体の例として、アレッド・ジョーンズを挙げてます。この発言があった時点ではまだ活躍していなかったコナー・バロウズなども、その例と言えましょう。
  増山法恵(のりえ)は、これを参考にしながらも、これに満足せず、ボーイ・ソプラノのタイプを分類しています。それによると、ボーイ・ソプラノは3つに大別できるといいます。
  第1は、前述した二つを合体したもので、女声ソプラノと同様声が太くて安定しているボーイ・ソプラノです。その代表として、アレッド・ジョーンズの他に、ベジュン・メータや、マックス・エマヌエル・ツェンチッチを挙げています。
  第2は、細く透明で硬質な歌声のボーイ・ソプラノで、イギリスの聖歌隊のトップ・ソリストに多いものです。この声は、女声とは全く異なり、「少年にしか出せない声」である。ドイツやオーストリアの少年合唱団のソリストも、この系列に入りますが、イギリスの少年よりややソフトです。声は細いが歌は総じてうまいのも特徴です。このタイプの代表として、ニコラス・シリトー、アラン・ベルギウスなどを挙げています。
  第3は、「子供っぽいボーイ・ソプラノ」というタイプです。このタイプは「可愛らしい」という印象が強いために、評価が別れます。声質の愛らしさによって特徴づけられるタイプです。このタイプの代表としては、サイモン・ウルフを挙げています。
  当然のことながら、その中間タイプもあり、また、フランスやスペインの「明るく朗々とした輝くようなソプラノ」や旧東欧の合唱団によく見られる「地声発声」のボーイ・ソプラノまで入れると、さらに細分化されるといいます。

        ③ 日本ののボーイ・ソプラノの分類

  それでは、日本のボーイ・ソプラノはこの分類に当てはまるのでしょうか。私がこれまでに聴いた日本のソリストについて考察してみましょう。
 クラシックや童謡・唱歌系の歌唱に絞ってみますと、録音が残っている日本のボーイソプラノと言えば、たいていが元気のよい凛々しさと青竹のような素直さか、あるいは甘みのある可愛らしさがその特徴です。これは、童謡歌唱の影響が大きいと考えられます。前者の代表としては、加賀美一郎、岩瀬寛、福村亮治、神林紘一。後者の代表は岡田孝、岡浩也。これら両方の要素をもっているのに坂本秀明、鈴木賢三郎、小川歩夢が挙げられます。
 これとは、別の系統のヨーロッパと日本の歌唱が融合したタイプとして、林牧人、村上友一、小澤賢哲、小野颯介が挙げられます。最近のTOKYO FM少年合唱団のソリストたちの歌唱は、この系統にあると言えましょう。
 また、20世紀の終わりごろから、日本でも純粋なヨーロッパ系の希少な歌声をもつ少年が現れてきました。東京少年少女合唱隊の隊員の水谷任佑(フォーレの「レクイエム」のソロをCDに残しています。声はややアルト系)、横須賀芸術劇場少年少女合唱団の秋山直輝、フレーベル少年合唱団の栗原一朗、大垣少年少女合唱団の松野孝昌、テアトル・アカデミーの阿部カノンが、この系列にあげられるでしょう。

 また、歌謡曲の系統には、唱歌に近い大慶太から、妖艶なナルまで幅広くいます。最近ではロック系、フォーク系、J-POP系、ミュージカル系(これには役に応じていろいろなタイプがありますが、歌のうまさでは、これまで鑑賞した中では、未来和樹が優れています。歌芝居としては川口調の圧倒的な表現力に心を動かされます。)等といろんなタイプのボーイ・ソプラノがいますので、声質だけでの分類が難しくなってきました。

  さて、結論として、増山法恵(のりえ)は、「どの少年の声に惚れ込むか」という個人的な価値判断が一番重要で、その上で、できるだけ多くのボーイ・ソプラノを聞き込んで耳を肥やすことが何より大切であると結んでいます。確かに、マニアックなファンにとっては、声の分類もボーイ・ソプラノを聴く楽しみの一つでありましょう。しかし、より大切なことは、自分の好きなタイプの声や歌を見つけることです。この点に関して、私は、増山法恵(のりえ)と同意見です。このような考え方は、他の音楽、いや芸術すべてに通じることです。

      5.ボーイ・アルトの魅力

 「ボーイ・ソプラノ」という言葉は、広義には、変声期前の少年の歌声あるいは歌手について用いられる言葉であり、このホームページ「ボーイ・ソプラノの館」のボーイ・ソプラノという言葉もそれを指していますが、狭義には、ソプラノの音域に恵まれた少年の歌声あるいは歌手に使われることもあります。それならば、音域において、より低いアルトの少年もいるのですが、その場合は、「ボーイ・アルト」という言葉を用いて、あえて区別することがあります。なお、少年合唱のアルトのパートの中には、変声期に入って高い声が出にくくなったために、ソプラノのパートからアルトのパートに移った少年もいますので、厳密には、ボーイ・アルトとは分けて考えるべきです。
 さて、ボーイ・アルトが独唱する機会は少なく、トリオ(三重唱)、あるいはソプラノとのデュエット(二重唱)の曲に登場することがほとんどです。私がはじめてボーイ・アルトを意識して聴いたのは、ウィーン少年合唱団が1960年代に歌ったヨハン・シュトラウスⅡの「芸術家の生涯」(フィリップスのLPに収録)の第1ワルツのソプラノのデュエットとアルトのデュエットを対比的に聴いたときですが、ボーイ・ソプラノの華やかな響きに対して、ボーイ・アルトのしっとりとした響きは、また違う魅力を感じさせました。ボーイ・アルトだけのCDは、ペーター・シュライアー(おそらく年代的にSPからの復刻)やアレックス・プライア-やアクセル・アラカッペなど極めて限られています。また、ボーイ・アルトは、合唱曲においては主旋律を与えられないので、メインにはなりにくい面があります。しかし、合唱曲において、アルトの支えがあってこそはじめて、重厚かつ安定感のある曲になります。ウィーン少年合唱団は、最近では毎年来日していますが、そこでは、魅力的なボーイ・アルトに出会うこともしばしばあります。私が日本の少年合唱団でボーイ・アルトのソロを聴く機会があったのは、TOKYO FM 少年合唱団の歌劇『アマールと夜の訪問者』のメルヒオール王やバルタザール王を歌った団員たち、例示すると、村上諄の「大きな古時計」や中川健太郎の「キャロルの典礼」の中の「その幼な子」ぐらいで、これはかなり限られています。
 世界の少年合唱やソリストを集めた事典的意味ももっているホームページ「the Boy choir&Solist directry」に採り上げられたボーイ・ソプラノは、2018年4月現在、1753人に対して、ボーイ・アルトは122人です。人数的には単純比較して約14分の1ですから、それだけボーイ・アルトは希少価値があるとも言えます。それでは、ボーイ・アルトの歌声の魅力はどこにあるのでしょうか。ボーイ・アルトの魅力は、「しっとりとした」「たおやかな」「落ち着いた」「重厚な」「高貴な」「絹のように艶やかな」「ビロードのような」といった言葉や例えが当てはまるもので、それが気品のある姿勢で歌われた時、落ち着いたゆったりした気持ちや幸福に直結する感情を抱くことができるのではないでしょうか。

       
6.「ボーイ・ソプラノの独唱と少年合唱の観賞」
 
 学校における音楽の授業にとって「演奏」と「鑑賞」は、どのような関係にあるのだろうかと考えたことがあります。私の結論は、よい曲や演奏を鑑賞することによって得た感動が、よりよい演奏につなげようという意欲につながるということでした。ここでは、学校教育における鑑賞教材の在り方について述べるのではありません。趣味としてのボーイ・ソプラノの独唱と少年合唱の観賞について述べていきます。さて、多くの社会人にとって、合唱団に所属する人やバンドを組んで演奏する人は限られており、また、カラオケの発達した現代においても、演奏の場は、すべての人に与えられているわけではないので、「演奏」と「鑑賞」は、それぞれ独立していることの方が圧倒的に多いと言えます。ここでは、表題でもある「ボーイ・ソプラノの独唱と少年合唱の観賞」について、その共通点や相違点を考えながら、自分の考えを述べてみましょう。
 
 「ボーイ・ソプラノ」は、その定義の仕方によって変わるところもありますが、変声期前にソプラノの音域に恵まれた少年について用いる語であるならば、それは、すべての少年に与えられているものではありません。また、「ボーイ・アルト」は、音域を除けば、「ボーイ・ソプラノ」と同じように捉えることも可能です。ここでは、「変声前の少年の声」という定義のもとに考えていきます。また、当然のことながら、それは、一生与えられるものでもありません。音楽は文芸などと共にその形式や作品が、純粋に時間的に運動・推移し、発展することによって秩序づけられ、人間の感覚に訴えるゆえに「時間の芸術」と言われますが、ボーイ・ソプラノは、前述したようにそれとは多少違って、特定の人にある限られた時間だけ与えられたと声という意味での「時間の芸術」と言えます。

 「ボーイ・ソプラノの独唱」を楽しむ場合は、一人一人に与えられた個性的な声質や、楽譜には描かれていないその独特の節まわしを楽しむことが中心になります。多くの歌声を鑑賞することによって、観賞力を洗練していくことが求められます。そしてどの声や節まわしにに惚れ込むかということが大切です。広島少年合唱隊の隊長であった平田昌久は、第48回定期演奏会のプログラムのあいさつで、・・・声というものは一人ひとりに与えられた世界で唯一のすばらしい楽器です。声には持主の性格や考え方、生き方があらわれてきます。歌に込められたメッセージを表現するためには、声楽的な技術だけではなく隊員自身の精神的な成長が大切だと考えています。・・・と述べていますが、それはけだし至言であると言えましょう。ただ、日本においてボーイ・ソプラノのソロを生演奏で鑑賞する機会は極めて少ないというのが現状です。また、歌声をLP・CD化した少年(その背景には保護者がいると考えられます。)も極めてわずかです。主として海外の少年のCDを入手して鑑賞するのが近道です。

 一方、「少年合唱」の場合は、指導者が求める歌声が明るさや輝きを求めているか、あるいは硬質であるか軟質であるかと同時にハーモニーという要素が加わります。かつて、日本では、昭和30(1955)年にウィーン少年合唱団が来日して、そのような歌声こそが理想であるという考えが全国的に広まり、小学校の学習指導要領にも「頭声発声」が明記されましたが、その後、多くの児童(少年)合唱団が来日して、その独特の歌声を披露し、また日本の児童(少年)にあった発声の在り方やいろいろなジャンルの歌を歌う場合に合った発声を考究する中で、現在の学習指導要領では、「自然で無理のない,響きのある歌い方で歌う」ことに収斂してきています。しかし、鑑賞する立場から言えば、そこに個人の好みが加わります。例えば、ヨーロッパの聖歌隊(宗教にかかわらない少年合唱団を含む)も、大きく5つぐらいに大別されます。①イギリス・北欧系 ②ドイツ・オーストリア系 ③ラテン系 ④東欧系 ⑤ロシア系 ①と②を比較すると、①の方がやさしく柔らかい声質で、②は、やや硬質です。もちろん、パリ・木の十字架少年合唱団のように、かつてのような甲高い発声から、現在のように大きく変化してきた合唱団もあり、指導者によっても歌声は変わるということもできます。しかし、これとても、鑑賞という立場からすれば、好みの問題であり、どの合唱団の歌声やハーモニーに惚れ込むかということが大切です。また、日本には少年合唱団は数が少なく、旅をしない限り、その歌に接する機会は限られています。また演奏の録音・録画は内部ではしているでしょうが、対外的に発売されていることはめったにありません。海外の少年合唱団の場合は、以前日本において児童合唱が盛んであった時期には、毎年夏休みの時期を中心に1年に数団体~10数団体が来日していましたが、現在は、1年に3団体前後ではないでしょうか。ただ、そのコンサート会場では、その少年(児童)合唱団が歌ったCDなどを発売していることもあります。

        7.「ボーイ・ソプラノ」と「トレブル」について

 このホームページで表記している「ボーイ・ソプラノ」は、米語のboy sopranoを日本語で表現したもので、・(中点)のない「ボーイソプラノ」と同じと考えています。従って、文献から引用する場合には、原典を重視して「ボーイ・ソプラノ」あるいは「ボーイソプラノ」を使っています。例えば、『ボーイ・ソプラノ ただひとつの歌声』(ボーイソプラノただひとつのうたごえ、Boychoir)は、2014年のアメリカ合衆国のドラマ映画ですが、この名称で公開されていますので、それに従っています。コンサートのプログラムで、歌い手の声質を表記する場合は、「ボーイソプラノ」を使うことが多いのではないでしょうか。このboy sopranoという用語は、ニューヨークのセシリアン合唱団の合唱団長であるヘンリー・スティーブン・カトラー博士( Dr Henry Stephen Cutler 1825–1902)によって使われるようになり、公会堂でコンサートを行う際に合唱団のメンバーとソリストの両方を合唱しました。発見された最も古い使用法は、1866年5月にニューヨークのアービングホールで行われた合唱祭に遡ることができます。理論上はボーイ・メゾソプラノ(ボーイメゾソプラノ)やボーイ・アルト(ボーイアルト)と分けられますが、実際はまとめてボーイ・ソプラノ(ボーイソプラノ)と呼ばれます。変声前の少年がごく短い期間に持っている高音の声は独特の魅力があり、世界中の宗教音楽や世俗音楽に利用されてきました。現在でもオーストリアのウィーン少年合唱団やイギリスのリベラなど、ボーイソプラノを中心としたグループ(ユニット)は多く存在し、世界的に知られています。ごく稀ですが、成人後もボーイ・ソプラノとほぼ変わらない声と音域を持つ男性歌手もおり、そのような歌手はソプラニスタと呼ばれています。ソプラニスタは、生まれながらにして、そして変声期を経てもソプラノの音域を持つ者で、世界でもほんのわずかしかいないそうです。世界に3人という文献もありますが、これは、はっきり何人と決められないでしょう。

 ところが、「トレブル」は、イギリス英語のtrebleが語源です。イギリスの英国国教会(聖公会)と英国カトリックの典礼の伝統(少女と女性が教会の合唱団で歌わなかった)においては、若い男性の聖歌隊は通常「少年ソプラノ boy soprano」ではなく「トレブル」と呼ばれていましたが、今日では「少年トレブル」という用語が使われています。「トレブル」という用語は、13世紀と14世紀のモテットで3番目と最高の範囲を示すラテン語のトリプラムに由来します。これは、テナーパート(曲を運ぶ)とアルトパートの上で歌われました。その範囲のもう1つの用語は「超」です。 「トレブル」という用語自体は、15世紀に初めて使用されました。キリスト教の典礼音楽における高音(およびファルセット)の使用は、キリスト教以前の時代にまでさかのぼることができます。「女性は教会で沈黙すべきである」という聖書に記されているパウロの教え(コリント人への第1の手紙14章34-35)に従って、女性は教会で歌うことが許されませんでした。したがって、礼拝における聖歌はすべて男性により歌われました。従って、古い文献によると6世紀以来、当然のことながら、中世からルネサンス、バロックまでの声のポリフォニーの発達は、すべての声の部分が男性と少年によって歌われたすべて男性の合唱団の文脈の中で、排他的ではないにせよ主に行われました。イギリスの聖公会やカトリック教会では、ソプラノ音域を歌う少年歌手、いわゆる「ボーイ・ソプラノ」の意味で使われています。今日では、聖歌隊のソプラノ声部に少女の歌手が参加する機会も増えつつあることから、このような少女のソプラノ歌手を「ガール・トレブル」(girl treble)と言い表すようになってきています。しかし、このような用語法への反対意見も多いのも事実です。トレブル(treble)の語源は、「トリプル」に同じく、「3倍」や「三重の」の意味を持つラテン語「トリプルス」(triplus)に由来し、この語は、中世の聖歌隊で最高声域を担当する歌手に使われたのが習慣化し、定着したものでです。当時のポリフォニー聖歌では、テノール声部が定旋律であるグレゴリオ聖歌を歌い、対旋律すなわち第2のパートとしてディスカントゥス(今日のアルト声部)がそこに対置され、さらに装飾的なパートとして、今日で言うソプラノ音域が加えられました。つまりトレブルとは、「第3の声部」の意味だったのである。従って、「トレブル」という用語は、宗教音楽(ユダヤ教やキリスト教)を歌うソリストに使われる用語と区別しておくとよいでしょう。1980年代の終わりから1990年代の初めにかけて、音楽評論家の増山法恵(のりえ)が音楽雑誌「ショパン」において、「ザ・トレブル」という題で世界のソリストを紹介しましたが、これは、本来のトレブルを紹介しながら、話題をその周辺まで拡げています。

 従って、このホームページ「ボーイ・ソプラノの館」で扱っている対象は、変声前の少年の歌声、またその声で歌う少年のことですから、日本においても諸外国においても音楽のジャンルにはこだわっていません。また、さらに広義に、声の美しい少年声優(ボーイ・ソプラノの話し声)にまで拡大しています。歌声の美しい少年は、話し声が美しいことも多く、これらには重なりがあります。ここでは、「ボーイ・ソプラノ(ボーイソプラノ)」と「トレブル」の言葉の定義をすることで、その共通点と相違点を明らかにしました。

                                              (この節続く)
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