TOKYO FM 少年合唱団

 今回はオペラ出演について紹介する。

 この年はオペラ出演を2回観た。一つはクリスマスシーズンに催された東京室内歌劇場の『ヘンゼルとグレーテル』(旧第一生命ホール)、もう一つは2月の二期会『カルミナブラーナ』(東京文化会館)だ。『ヘンゼルとグレーテル』は北村協一先生の指揮、主要なソリストはトリプルキャスト、この中に太刀川悦代先生の名前があったように思う。児童合唱団は杉並児童合唱団と交互出演だった。この作品は子ども向けのため、歌だけではなく所々にセリフが入った。この中では魔女(桐生郁子さん。ベテランの味)がおもしろかった。魔女がヘンゼルを捕まえて「ウオンテッド」(当時、ピンクレディーの同名のヒット曲)と大きな声を出す、喜んだ魔女がほうきに乗って空を飛ぶ(魔女の絵がステージ上部のレールに沿って動く)、同じく魔女がグレーテルに釜戸に火をおこすように命じると、グレーテルが「やり方がわかりません」と答えた。それを聞いて「知らないのかい? ・・・近頃の母親の躾はなってないね」とぼやくところだ。この魔女が登場する場面は小さい子どもたちも注目していた。合唱隊が登場する場面もおもしろかった。森の中でイチゴ取りを終えたヘンゼルとグレーテルが疲れて眠っている場面だ。合唱隊が天使として登場し、敬虔な祈りを捧げていると、一人のいたずら天使(下級生)が集団から離れ、イチゴの入ったバスケットを舞台の隅に持って行って一人で食べている、それに気づいた年上の天使が怒った表情で「返してこい」という仕草をする、残念そうにバスケットを戻した後、天使たちがヘンゼルとグレーテルを見守りながら退場する場面でいたずら天使が指をくわえながらバスケットを見ていたことだ。セリフではなく演技だけで表現するのはかなりの練習を要したはずだ。歌だけでなく演技力もあると感心した。また二期会の『カルミナブラーナ』はオペラ形式で演技が加わるものだった。この演技も、歌いながら表情や体の動きで表現するものだ。大人の歌手や合唱団と遜色はなく、オペラに溶け込んでいた。当時の二期会史で調べたら、キャストの中にビクター少年合唱隊の名前もボチボチあった。オペラ出演の流れを受け継いできたのだろう。

 『魔笛』の童子は少年が相応しい
    
2015年7月16日(木) 東京文化会館

 
 7月16日(木)の夜、二期会の『魔笛』を観に行った。特に注目したわけではないが、宮本亜門演出と童子役が少年ということで行ってみようかと出かけた。これは予想に反しておもしろかった。昔ながらの演出ではなく、コンピューターゲームの中の出来事を大がかりな舞台装置ではなくコンピューターグラフィックを使った映像で表していた。タミーノはゲームの世界に入り込んでしまう追いつめられた男、パパゲーノは鳥の羽根の衣装ではなくピエロ風の衣装、小鳥を獲るのではなく風俗店の裏口で女性をナンパする男の設定、3人の侍女は風俗店の従業員風、夜の女王はその風俗店のママ風、モノスタトスは黒ではなく普通の肌の色といったように伝統的な演出とは違う。このような演出で歌手のレベルが低いと舞台はつまらなくなるがどの歌手もレベルが高く、観客は舞台に集中していた。全体像をレポートすると長くなるので3人の童子に焦点をあてよう。この日は3人ともTOKYO FM少年合唱団だった。大人の歌手に引けを取らず強く、きれいなハーモニーを披露した。衣装はTシャツやポロシャツ姿でキャップをかぶっている。どこにでもいそうな男の子だが違うのは背中に白い羽をつけていることで人間の子ではなく天使を表していると判断した。話しは変わるが昔観た演出は童子を空中ゴンドラに乗せて歌わせるやり方で地に足がつかない分、歌がよくなかった。それに対し今回は地に足をつけたやり方だったので少年たちは伸び伸びと歌うことができた。

  楽しかったのは、沈黙の試練中のパパゲーノに「STILLE(沈黙)」と書いた垂れ幕(なぜか縦書き)を何枚も上から落とす─この場面、同じ場所にいるタミーノには「MUT(勇気)」と書いた垂れ幕を一枚だけ示す─場面でパパゲーノが「うるさい」という仕草で落ちてきた垂れ幕を集める場面、パミーナの自殺を止めた後、パミーナが自分の両脇にいる童子にキスをする、それを見た離れた処にいる童子がひがむとパミーナが傍に駆け寄ってキスをすると童子が「やった」という動きをする場面、首を吊ろうとしているパパゲーノを止めるところ、ここはモノスタトスがヒモや踏み台を用意しているのだがそのモノスタトスを追い払い、「MUT(勇気)」と書いた垂れ幕を出し、紙吹雪を散らしながら明るく歌う場面だ。この後の『パパパの二重唱』でも軽快に動きいていた。このように要所要所でオペラのアクセントになっていた。これらの場面は少年が歌い、演技するから味が出るので女性歌手ではこの面白さは出なかっただろう。終演後のカーテンコールでも童子3名は大きな拍手を受けていた。

 「すごくおもしろかったね」「もう一度観たいな」「20日に来ようよ」「袖触れ合うも多少の縁です」。わが家の童子4体組が言った。というのはすぐ近くの席にダブルキャストで童子TとUを歌うTFMのメンバーがいたからだ。「満席になる前に早く予約しよう」という声に押され、会場で20日のチケットを購入した。

 3人で一つの役わり
2015年 7月20日(月) 東京文化会館

「3人の童子は元々夜の女王の使いだよ。それがいつのまにかザラストロの方についている。おかしいよ」「このオペラは難しいことを考えないで楽しむものらしいよ」「そうかな」「では、きょうも楽しく観ましょう」「道楽さん、オペラグラスを借りよう」。ということで2回目の『魔笛』観賞となった。

 『魔笛』はソロも重要だがそれ以上に重唱部分が多い。従って突出した声ではなくアンサンブルが重要になる。二期会のオペラはアンサンブルに重きを置く傾向があった。これが今でも健在なのは昔の愛好会会員にとってはうれしいことだ。童子役3名もアンサンブルが良く気持ちが合っていた。前回の童子は、神様の下で修業をしている天使という印象だった。それに対し、この日の童子は普段、サッカーなどして遊んでいる男の子がそのままのノリでタミーノとパパゲーノをサポートしているように感じた。素朴で人間的と言ったらいいだろうか。前回の童子とは違う魅力があった。この組はT、UがTFM、Vはシンフォニーヒルズ少年少女合唱団の男の子が演じた。違う合唱団にもかかわらず気持ちを一つにして演技し歌っていた。普段は借りないオペラグラスで童子を観ていると客席にいた時よりも大きく見えた。「良い声を出す姿勢だからです」「姿勢がいいと大きく見えるよ」。何事も基本は大切だ。この日、印象に残った場面はパミーナの自殺を止めるところだ。パミーナを見つけた童子Tの短いソロにはっとして気持ちが舞台に向かった。これに続く重唱も緊迫感があった。3人が「大変だ。止めなきゃ」と歌う場面は必死になる気持ちが表れていた。パミーナとのやり取りの部分は自分自身も力が入った。そして自殺を思いとどまった時に力が抜けた。こんな気分を味わうのは久しぶりで観に来た甲斐があった。場面変わってパパゲーノの自殺を止める時はユーモラスに演じて観客の笑いを誘った。やはりこの役は少年がやってこそ生きてくる。この日も座席はほとんど埋まっていて終演後のカーテンコールも盛大だった。「前回も今回も童子は良かったね」「どっちの組もチームワークもアンサンブルもが良かった」「同じように歌っても違う持ち味が出ます」「だからおもしろい」「あってはいけないけど、どっちかの、例えば童子Tの都合が悪くなったらもう一人の童子Tがピンチヒッターで歌うのかな?」「それだとアンサンブルに影響するからまずいと思います」「1+1+1=3じゃなくて1にしないといけないね」「そうすると全員交代するしかないよ」「そうならないように祈るだけです。もう1回倉吉で公演ありますから」。合唱なら一人いなくてもなんとかなるけれど童子役はそうはいかない。3名1組というのはソロ歌手より大変な部分があると思った。

 幸か不幸かスケジュールが空いたので倉吉にも出かけた。開場前にホールのある建物内を歩いていると20日の童子たちが思い思いに過ごしていた。何かあった時に備えてのことだろう。出番がなくても会場に来て準備している彼らに舞台人の気概を見ることができた。

 カルメンと少年合唱団

 2021年7月の新国立歌劇場『カルメン』のチケットを予約した。町の子どもたちとして出演するTOKYO FM少年合唱団を観てみようと考えたからだ。より深く鑑賞をするため、1980年5月の二期会による『カルメン』の記憶をたどってみることにした。この時は指揮:小澤征爾、演出:栗山昌良、装置:妹尾河童、カルメン:西 明美、ドンホセ:小林一男、エスカミーリョ:栗林義信、ミカエラ:中沢 桂、他の出演、町の子どもたちはビクター少年合唱隊だった。会場は東京文化会館、三日間の公演の中日に鑑賞した。

 当時、二期会愛好会に入っていたのでオペラ鑑賞は度々していた。この当時、日本のオペラ公演はいつ行っても当日券はあったがこの公演のチケットは売り切れだった。小澤征爾指揮の『カルメン』が話題になったからだろう。歌手の西 明美さんと小林一男さんは若手として注目を浴びており、この先の公演でも大役を演じた。西 明美さんは初のカルメン役で悪女ぶりを発揮、小林一男さんはピンカートンなどテノールの主役を演じて着実に実績を築きつつありこの日も本格的なテノールを披露した。この公演は日本で初めてとなる版で、歌と歌の間をレシタヴィーヴォではなくセリフでつなぐものだった。これについて当時の資料を読むと、普段演奏しているグランドオペラ版とは違うビゼーが書いたセリフのある版がフランスで見つかった。小澤征爾さんがこの版で演奏する希望を伝えて二期会との話し合いの結果、グランドオペラ版とセリフ版を合わせた二期会版で演奏することになったとある。これとは別に最終場面でカルメンがホセに刺される時、カルメンが「さあ、やりなさい」という感じで両手を開いてホセに向かっていく演出が話題になった。過去に日本で上演された『カルメン』とは違うものというわけだ。

一幕が始まり、町の子どもたちはホセの率いる兵隊たちと一緒に行進してきた。この日の人数は約30名だったと思う。二列縦隊できちんと行進していたのが印象に残っている。当時は何も考えなかったが今から思うと元気な子どもたちを表現するなら、もっとバラバラ感があっても良かったのではと思う。しかし舞台上には歌手たちがいること、装置も置いてあることできちんと行進しないと危険があったのだろう。見方を変えれば子どもたちは兵隊さんの真似をしてきちんと行進しているのだろうとも考えられた。歌声は元気な声と言うよりきれいな声だった。ミュージカルだともっと違った歌い方になるはずだがオペラは伝統的なものが求められるのだろう。普段、合唱をする時は静止した状態で指揮者を見ながら歌う。足裏を床に付けるイメージをもち、姿勢を意識し、気持ちを集中しなければならない。オペラはこれに動きが加わる。行進しながら歌うのは一見簡単そうだが隊列を組み歩調をそろえなければいけない。この状態で歌うことは、普段と違うので練習が必要だ。この当時は舞台での練習時間は限られていたはずだ。そのため、動きの練習は二期会の稽古場で、ここに建物があるつもり、段差があるつもり等、イメージで行ったのだろう。場慣れしたプロの歌手はいいとしても少年たちにはハードルが高そうだ。このような制約があるから本番初日は歌と動きだけで精いっぱいだったのではと思う。この日の終演後、「ちょっと物足りないけれどこんなものか」と思った。この日良かったのは栗林義信さんの輝かしい声と、中沢 桂さんのホセを想うアリアだった。

後日、新聞、雑誌の評は好評とその反対に分かれていた。自分の感想を裏付けるものとして歌手たちが伸び伸びと歌っていなかったという記事があった。少年合唱隊に関する記事はなかったが影響はあっただろう。
今回観る『カルメン』は新演出となる。昔と違い、舞台練習の時間も確保されているようだ。どのような『カルメン』になるか、少年合唱団はどのように演じ歌うか楽しみだ。少年合唱団に望むことを考えてみた。彼らは主役ではない。脇役陣の一角を担う存在だ。脇役が良い悪いかで全体の仕上がりに影響が出る。この日、二幕でカルメンと一緒に『ジプシーの歌』を歌ったジプシー役の女性たち、密輸業者の男性たちが良かったことを記憶している。ここで少年合唱団に希望することを述べる。彼らは舞台に出ている時間は少ない。観客にどう印象付けるかが大切だ。それには、自分たちのもつ感性を素直に出して欲しい。そうすれば観客も楽しくなる。難しい面はあるが観客に「今回のオペラ『カルメン』はとても良かった。少年合唱団の表情が良かった」と思ってもらうことを期待したい。

この文章を書き終えた後、HPで公演のことを読んだら過去のものとは設定が違うことを知った。一般的な演出とは違う斬新なもののようで実際に観てみないとわからない。固定観念を捨てて観賞しなければならないだろう。

 のびのびとした歌と演技
『カルメン』に出演したTOKYO FM少年合唱団

2021年7月17日(土) 新国立劇場

 
 大野和士指揮の東京フィルハーモニー交響楽団の序曲を聴きワクワクした気分になった。これなら「良いオペラになるな」の期待通りの内容だった。ここでは少年合唱団のことだけをレポートしました。演出等については新国立劇場のHPをご覧ください。
 一幕の小さな兵士の場は「わああ」という元気な声とともに少年たちが舞台に登場した。舞台上の場所は、現代の東京のコンサート会場の通用口(自分にはそのように見えた)で少年たちの服装は白いカッターシャツにグレイの半ズボン、白い通学帽で、学校の社会見学で訪れた雰囲気だった。少年たちは、舞台左右に二列で広がり足踏みをしながら両手でラッパを吹く格好をし、次に重心を足にかけ銃で撃つ仕草をしながらきれいなハーモニーをのびのびと披露した。スニガが前に出て少年たちの方を向いて指揮をした。それに対して礼儀正しく敬礼したと思ったらすぐにスニガを銃で撃つ仕草をした。よろめくスニガを見て笑いながら退場していくのは少年らしさの表れで面白かった。
 二幕の闘牛士を迎える場面での「闘牛士が来たぞ」の歌もきれいでのびのびとした歌が聴けた。服装は私服に変わり、手を振ったり屈んだりしながらの演技もあった。機械的な演技ではなく一人ひとりの表情が豊かで舞台を楽しんでいる雰囲気が伝わった。全幕を通し、出番は少ないが少年合唱団ならではの表現力で、悲劇の舞台に爽やかな風を吹かせた。
終演後、二度目のカーテンコールで、舞台最前列で拍手を受けていた指揮者とソリストのみなさんが自分たちの後ろに並んでいた少年合唱団に最前列へ出るように促した。ソリストのみなさんが少年たちに良い印象をもっていると感じた。最前列に出た22名の少年たちは大きな拍手に応えた。観客も好意的で少年合唱団を応援する立場としてうれしいことだった。

 終演後、気持ちが昂っていて新宿駅まで歩きたい心境だったが「暑いからやめよう」「それより印象新たなうちにどこかで振り返りをしましょう」。童子の提案でファーストフードの店に入りコーヒーを飲みながら話をした。気になる箇所はいくつかあったけれど今まで自分が観たカルメンの中では聴き応え、見応えとも最高だった。


 カルメンとの出会い

  『カルメン』という曲を知ったのは中学1年時のオーケストラ鑑賞だった。その時のオーケストラの名前や指揮者の名前、どんな曲が演奏されたかは覚えていないが最初の曲は『カルメン』の序曲だった。これは自分をワクワクさせた。事前学習でレコードを聴いたはずだがこちらは印象に残っていない。生の演奏でないと印象に残らないからだろう。鑑賞後、自宅で『カルメン』の話をしたら父が「自分も欲しかったから」とLPレコードを買ってきた。それはマリアカラスのカルメンでパリの劇場でレコード作成のために録音したものだった。当時、我が家にはオーディオ装置がなくレコードプレーヤーしかなかった。これでは生の音楽を上回ることは無理だ。それと全曲を聴く忍耐力はなかったので物語の筋はつかめなかった。主役のマリア・カラスが偉大な歌手と知るのはかなり後のことだ。この時代、お笑い番組で『カルメン』をパロディ化したものを見てどんなオペラかがおぼろげにわかってきた。パロディとはいっても演じたのは一流のコメディアンだったから記憶に残ったのだろう。

 それから時がたった1976年、NHKの『歌はともだち』の公開放送を見に行った。この日は、二期会の春日成子さんがゲスト出演した。同じくゲスト出演の和田アキ子さんが春日さんに質問する形式で話が進行した。
和田「ご紹介します。オペラの春日成子さんです。・・・すごい衣装ですね。なんの衣装ですか?」
春日「オペラ『カルメン』の衣装です」
和田「私カルメ焼きは好きなんですがどんな話なんですか?」
(中略)
春日「カルメンというのはスペインの女の人の名前でよくある名前なんです。日本でいえば花子さんのようなものです」
と解説し大筋を話した。話が終わると春日さんは、ボニージャックスと東京放送児童合唱団のコーラスで『ハバネラ』と『ジプシーの歌』を歌った。放送のため、ピンマイクを使ってはいたが『ハバネラ』の最後の部分での空気を振動させる声、心に響いてくる『ジプシーの歌』を聴き感動した。最後に和田さんがホセの役になりカルメンを殺害する場面を演じたがお二人の掛け合いは迫力があった。本物を見てみたい、それが実現するのは1980年の初夏だった。これは以前にレポートしたので省略するがこのオペラはテレビとFMラジオで放送された。これとは別に『題名のない音楽会』でも取り上げられた。この時、印象に残ったのはダンカイロ、レメンダード、フラスキータ、メルセデス、カルメンによる五重唱についてで「歌だと早口になるので歌詞をゆっくり言ってみてください」と司会の黛 敏郎さんが要望すると、ダンカイロ役の小田清さんが「詐欺、語り、盗み、やるときゃいつでも うまくゆくものさ、女がいるときゃ、美人がいなけりゃ、うまくいかねえのさ 美人がいるときゃ うまくいくものさ・・・・」と紹介した。当時の日本のオペラは訳詩が大半で日本語が聴き取りにくいことがあったので「なるほど、そうか」と思ったのを覚えている。思わぬ事後学習となり、このことが『カルメン』に親しみをもつ一歩になった。

 この先、1986年、ザルツブルグ音楽祭で『カルメン』を観た。この時はカルメンがマーガレット・プライス(だったと思う)、ホセがホセ・カレラス、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤンという豪華なもので期待は大きかった。しかし現地に行ったら、マーガレット・プライスがカラヤンと喧嘩をして帰ってしまったという話を聞いた。悪い予感はしたが代わりの歌手はレベルが高いのだろうという期待は裏切られた。この内紛は深刻だったようで全体に影響が及んだのだろう。ホセ・カレラスは聴かせどころの高音が裏声になる、代役のカルメンは雰囲気がない、他の歌手や合唱団のことは印象に残らなかった。その中で唯一印象に残ったのは老いたカラヤンを見たことだった。「これなら二期会のカルメンの方が良い」と言ったら同行者に「それは言い過ぎ」とたしなめられた。人間関係のトラブルがあると一流の人たちを集めてもだめになることを知った。

 その後、1980年代後半に二期会の『カルメン』を一度だけ観た。特に印象には残らなかったがこの日は何かの記念公演で、希望すると終演後の懇親会に参加することができ、ビールとオードブルで歓談した。舞台で輝いて見えた歌手の皆さんが着替えてしまうとごく普通の人になってしまうのが発見だった。参加者は年配の方ばかりで昔の話をいろいろと聞くことができた。その中で「カルメンと言えば〇〇さん」という話が出た。

 2005年の3月、東京の音楽レストランで食事をしていたら、出演していた歌手の一人が公演チラシを配りに来た。「『カルメン』でダンカイロをやります。よろしかったらいらしてください」とのことだった。チラシをよく見たら児童合唱がフレーベル少年合唱団だった。迷わずその場でチケットを購入し、演奏会当日に墨田区のホールへ出かけた。指揮者、ソリストはプロ、オケは区民オーケストラ、合唱団は区民合唱団だった。この合唱団の大半は年配の方たちだった。兵隊役の男性のみなさんは再雇用された感じだったが女性は違った。たばこ工場の場で出てきたみなさんは年齢にかかわらず魅力を放っていた。合唱をする女性は気持ちが若く表現力があることを知った。お目当てのフレーベル少年合唱団は汚れた顔にメイクし、町の子どもたちを元気に演じ歌った。少年合唱団の存在は悲劇的結末となるオペラに一抹の光を加えるので欠かせない。兵隊の真似をするのは男の子の方が自然なので少年合唱団は似合っているのだろう。

 この数年後、フレーベル少年合唱団は定期演奏会で『カルメン』を行った。これはこれで面白かったが少年たちに『カルメン』の雰囲気を求めるのは難しかった。それでも全員一生懸命なのは良かった。印象に残ったのはホセ役の子が「なんでこんなことになったんですか?」と聞かれ、「魔がさしたんです」と答えたことだ。これを聞き、「確かにそうだ」と気づかされた。

 ここまで書いてきて主役のカルメンは自分の中で印象が薄いことに気づいた。カルメンを全幕歌い演じるのは並大抵ではないこと、そのためにカルメン歌手と言われる歌手の存在があることを知った。

 魔笛 少年が演じる童子は面白い
2021年9月11日 東京文化会館

 
 今回の二期会『魔笛』は宮本亜門演出によるもので2015年の再演である。演出は場によって多少の違いはあるが概ね2015年と同じだった。

序曲と同時に舞台では物語が始まる。おじいさんと三人の孫がゲーム『君もヒーローになれる』というゲームで遊んでいるところに父親が荒れた状態で帰宅してくる。本意でない配置転換を命じられたか、リストラされたのだろう。父親が暴れて家族に当たり散らしたことが原因で家庭争議になる。その父親が、ゲームの画面に飛び込んでしまい、彼がタミーノになるところからオペラは始まる。したがって話はすべてゲームの世界のこととなる。ゲームにふさわしく大蛇に襲われる場面や街中の情景はコンピューターグラフィックスで表される。またオペラの冒頭、舞台袖の字幕スクリーンには『叡智』、『友情』、『愛』というこのオペラのテーマが表示された。この他にも劇中で『勇気』、『沈黙』、『義務』など人として必要なことがいくつか出てき現代人の生き方を考え直すヒントが暗示されていた。今回も童子に焦点をあてて書いてみた。

 タミーノとパパゲーノを導き手助けする3人の童子はTシャツ、ハーフズボン、キャップに運動靴、背中に白い翼をつけたTOKYO FM 少年合唱団だ。やはりこの役は少年がやってこそ味が出る。少年たちは空中のゴンドラに乗るのではなく舞台に立って歌う演出だった。これなら歌いやすく演技に幅が出せる。それは少年たちの最初の登場する場面で早速表れた。侍女たちの「3人の賢い少年が導いてくれます」の歌で出てくる時は一列になってコミカルに小走りでやってきた。侍女たちがタミーノとパパゲーノに名残を惜しんでいると、童子は離れた場所から「もういいよ、おばさんは引っ込んでて。後はぼくたちがやるから」と言っているように見える演技が面白かった。物語が進み、タミーノに「この道を真っすぐ行きなさい、大切なことは毅然、忍耐、沈黙」と歌う時は真面目な表情で歌った。ここは前のコミカルな雰囲気との差が面白かった。歌については少年らしさを素直に表現していて好感が持てた。

 2幕始め、タミーノとパパゲーノが試練の向かう時、童子たちはザラストロの国の住民と一緒にいて二人を見守っている。話が進み、試練の場所では高い位置にいてタミーノには「Mut(勇気)」と縦書きされた幕が一本だけ落とされ、パパゲーノには「Still(沈黙)」と書いた幕が落とされた。パパゲーノが「うるさいなあ」というふうに幕を片付けると同じ幕が次々と落とされるのが観客の笑いを誘った。

 場が変わり、パミーナが母親に渡された短剣で自殺しようとしている時、童子は弁者と一緒にやってきて「どうしよう」という表情になり指示を受けながら行動するのは新しい演出だ。童子がパミーナから短剣を取り上げられないでいると弁者がサッと取り上げるのも新しい演出だ。このやり取りは緊迫感があった。パミーナは誤解していたことが分かると両隣の童子にキスをし、してもらえなかった童子が怒るとあらためてキスをされ「やった」と喜ぶ演技は2015年と同じだ。弁者が持っていた魔笛をパミーナに渡し、四人が楽し気に立ち去る場面では緊張が解けた。次の場面、タミーノが試練に立ち向かおうとしている時、童子がパミーナを連れてくるのも効果的だ。パミーナが「魔笛は私たちを導いてくれるでしょう」という歌には力があった。

 パパゲーノが首を吊ろうとする場面はモノスタトスが手を貸そうとしている。舞台は枯れ木と朽ちかけた十字架がある薄暗い荒地だ。童子が登場しモノスタトスを追い払いパパゲーナが出てくると舞台は明るくなり枯れ木に花が咲くのはパパゲーノの心を映したものだろう。『パパパの二重唱』では童子が「Mut(勇気)」の幕を出して紙吹雪を散らせ、二人の間を楽し気に走り回る姿は心が和んだ。

 試練を乗り越えたタミーノが元の世界に戻り、家庭争議が和解するところで幕となる。カーテンコールでは童子たちに大きな拍手が贈られた。今回も歌唱だけでなく演技も自然で観ていて楽しかった。大人の歌手ではなく少年が演じるからそう感じるのだろう。

 この日の童子たちは三兄弟
2021年9月12日 東京文化会館

  前日に続いて二期会の『魔笛』を観に来た。本日はダブルキャストのもう一つの組だ。どちらの組もすばらしかった。さて、今回の指揮者ギエドレ・シュレキーテさんはリトアニア出身の女性だ。初めて振ったオペラが『魔笛』でこの作品には思い入れがあるそうだ。ある時は歌手たちを見ながら楽しそうに体を動かし、またある時はタクトを持たずに手先を微妙に動かしていた。女性とはいえ大柄な体格なので見栄えがした。その影響で歌手たちもゆとりをもって演じていた。舞台に心を奪われているうちに一幕が終わり休憩となった。ロビーでの飲食は禁じられているが水分補給は必要だ。蓋つきのペットボトルならいいだろうとミネラルウォーターで水分補給をした。コロナ禍の影響でビュフェは営業休止だ。「ワインとは言わない。せめてオレンジジュースかコーヒーがあればな」。我が家の童子たちに話しかけると彼らは話に夢中になっていた。

「昨日の童子と動きが違うよ」
「そう、登場する場面で一列になって出てくるのは同じだけれど右足を高く上げ、左足は摺る感じ。どこかの国の兵隊さんみたいだった」
「動きが、ぎこちないように見えたよ」
「タミーノとパパゲーノが近づいていくと逃げるようにしていました」
「歌い方がおとなしかった」
「人見知りで引っ込み思案に見えました」
「2015年も出演者で違うキャラクターだったけれど今回もそうだね」
「二幕を見てからまた感想を出そう」。
ぼくたちはそう決めると水で気分転換をした。「パパゲーノの気持ち分かるなあ」。
 
 二幕ではタミーノが試練を受ける資格があるかどうか僧侶たちが話し合っている。ザラストロの「彼は騎士でも王子でもない。普通の人間だ。だからこそ成長しなければならない」という発言で決まりとなりタミーノは試練を受けることになる。死を覚悟しなければならない試練に真摯に立ち向かうタミーノと「自分は食べ物、酒、自然な環境、そして彼女がいればいい」という人間臭さのあるパパゲーノとの対比がおもしろかった。沈黙の試練に我慢できないパパゲーノはタミーノの気を引こうと『もはや飛ぶまい、この蝶々』をハミングしながらタミーノのそばに行き、客席を向いて「少し笑った」と日本語で言った(前日はなかった)。これは気分転換になった。そこへパミーナが来て「私に口をきいてくれない」と嘆きのアリアを歌って退場した後、パパゲーノが「こんなの我慢できない」と大声を出すと非常警報が鳴り城の外へ出されてしまう。試練を続けられなくなるわけだがここはパパゲーノに同情した。普通の人間ならそう言ってもおかしくはない。外に出されたパパゲーノは僧侶からワインボトルをもらい『恋人か女房がいれば』と歌っていると老婆に変装したパパゲーナが出てくるのはいつものことだ。パパゲーナが本来の若い娘に戻った時、僧侶に止められる。ここでパパゲーナが「試練なんてもうたくさん」と泣きながら退場する。この試練は時に人間性を捨てなければならない非情なものと分かる。だからそれに耐えるタミーノはザラストロに選ばれた者だ。ただ、ここでのタミーノは家庭争議の原因を作り、妻に出ていかれた男だ。そのことを後悔していると同時に半ば開き直っているようにも見えた。でもそれで良かった。その気持ちで試練に立ち向かった結果、パミーナと一緒に魔笛の力を借りて最後の火と水の試練を乗り切ることができた。試練を終え、元の世界でやり直そうと決意したのだろう。元の世界では妻が戻り、父親と息子たちも彼を迎えてくれた。

 終演後、ぼくは童子たちについて考えたことを話した。
「昨日の童子たちはゲームの世界にいる童子たちだ。でも今日の童子たちはあの家の息子たちだ。だから童子たちがぎこちなく、引っ込み思案に見えたのは当然だ」
「なぜそう考えたんですか?」
「引っ込み思案に見えた理由を考えてみて、そこから推測したんだ。最初の家庭争議の場の三兄弟もお父さが心配で後を追いかけ、ゲームの世界に来たんだ。母親が家出して父親はゲームの世界に入ってしまった。息子たちは気が動転する。おそらく三男が何も考えずに追いかけた。長男も次男も一瞬迷ったけれど『放っておけない』と追いかけた」
「おじいさんはどうなの?」
「もちろん慌てたけれど、嫁さんにことの次第をメールしたんだ」
「直接話さなかったんですか?」
「そこが年の功だよ。怒っている嫁さんには何を言っても聞く耳はもたないだろうから」
「それから?」
「彼女は時間が経って気持ちが落ち着いてくるとメールを読んだ。旦那はともかく息子たちが心配になった。そこで取りあえず帰ると舅にメールした。それでおじいさんは家に残ったんだ」
「そこまで想像したんですか?息子たちがどうなったか教えてください」
「三人は最初に侍女に出会った。そこで訳を話した。侍女は夜の女王と相談した。その結果、三人の息子たちを童子として父親を手助けさせることにした。だから父親とパパゲーノとの最初の出会いの時、正体が分からないように避けたんだ」
「でも父親に道を教えるよ」 
「あの時、童子は父親の正面ではなく少し離れた位置にいた。だから父親は自分の息子たちだと気付かなかった。まさか息子たちがここにいるとは思ってもみないしね」
「歌い方が大人しいのはバレたらどうしようと不安になっていたから?」
「そうだよ。バレたらどうしようという不安、初めての異世界の体験での不安が重なった」
「次の沈黙の場では小さな隙間から歌うから正体はわかりません」
「その通り。そうは言っても不安は続く。パミーナが自殺しようとしている場では弁者に寄り添うようにして出てきた」
「昨日の童子は眠そうに出てきました。夜明けを表現するのが狙いだったんでしょう」
「その通り。そこがゲームの童子と違うところだよ。三人はお父さんと同じく弁者から事実を教えられた。弁者はおじいさんに雰囲気が似ているから親しみをもち、心を許したんだ」
「弁者の助けを借りてパミーナの自殺を救い、これが自信になった」
「パパゲーノの自殺を止める時は伸び伸びと歌っていた。自信がついたからだね」
「不安と戦いながらやり遂げたんだから自信になります」
「童子たちもお父さんとは違う試練を受けたんだね」
「無事にお父さんが試練を乗り切ったことを確かめると、童子たちは一足先に元の世界へ戻った。多分弁者が手助けしたんだよ」
「すごい想像力ですね」
「でも、想像でしょう。事実かどうかはわからない」
「そう、確かに想像の話です。でも面白いです」
「見えないことを想像するから楽しめるんだね」
「童子たちはザラストロの国に受け入れてもらえたよ」
「お父さんを心配して追いかけてきたことが分かったからだよ。ザラストロの国は愛と平和に満ち溢れているからね」
「ザラストロの国で長い時間を過ごしたのに元の世界ではお母さんが戻ってくるのは早くない?」
「現実の時間と異世界の時間は違うからだよ」
「いいね、これだけでお芝居の台本が書けるよ」

 『ボリス・ゴドゥノフ』に出演したTOKYO FM少年合唱団
                         シリアスな演技と歌
                                                        2022年11月26日(土)新国立歌劇場

 このオペラを知るきっかけはバス歌手の岡村喬夫著「髭のオタマジャクシ世界を泳ぐ」を1983年に読んだことがきっかけだ。岡村氏がドイツ在住の頃、バイエルン歌劇場(ドイツの超一流歌劇場)でボリス役が急病のため、代役として舞台を務めた。ご存知のようにオペラにはいくつかの版がある。岡村氏がバイエルンから声がかかった理由はドイツの所属歌劇場で歌ったボリスの版がバイエルンと同じだったからだそうだ。この時、本番まで三日間しかなかった。公演当日はスタッフを始め、中でも優秀なプロンプターの支援を受けた結果、大成功だったそうだ。これがきっかけとなりその後数年間、ミュンヘンで一流のバス歌手と交互にボリスを歌った。岡村氏がボリスを歌うため、バイエルン歌劇場の所在地ミュンヘンを訪れると地元新聞の文化欄にその旨が掲載されたそうだ。これを読み、数少ないバスが主役のオペラはどういうものかに興味をもった。そこへ今回の公演を知り、児童合唱がTOKYO FM少年合唱団ということもあり迷わずチケットを購入した。
 鑑賞当日は最終日だった、劇場内には空席が見当たらなかったから評判は良かったのだろう。オペラの大筋は以下のようなことだ、ボリスは王位に就くため、本来なら王位に就くはずの幼い皇子を殺害した、その罪の意識に怯えながら日々を送る心理劇のようなものだ。最後は王位を狙う残虐な偽皇子の一派に捕まり処刑されて終わる。権力を得るための策略、裏切りはいつの時代でもあることを示す重い内容だった。
 歌手のレベルは総じて高かった。そのような中、少年合唱団の出番は3幕だった。「王の冠は鉄だ」とからかう処から始まり愚者の持っている小銭を取り上げる。これは飢饉で飢えた民衆の行動を表すものなのだろう。少年合唱団の人数は16名で少年の姿で登場せず被り物姿だった。被り物のため、歌いにくいのではと思ったが杞憂だった。少年たちは他の出演者に劣らぬしっかりとした調和の取れた合唱を披露した。被り物の顔は坊主頭で恨めし気に目をつぶり口が開いていた。これは飢饉で苦しむ民衆そのものだった。最後は全員が床に倒れて出番を終えた。少年らしさは王の冠をからかう時だけで後は飢えた民衆の演技だった。言うまでもなく歌詞はロシア語でハードルが高そうな上、演技を加えるので大変だったことと思う。それでも持てる力を存分に出し切ったように映った。自分の知る限りオペラに出てくる児童合唱団は明るい役が多い。このような役もあることを初めて知った。
 今回のオペラは岡村喬夫氏が歌った版とは違うもので予備知識はあまり役に立たなかった。それでも開演中一時も目を離せなかった。重い内容だったがカーテンコールの時、少年たちへの称賛の拍手で緊張感が抜けた。少年たちは被り物を手に持ち素顔で登場した。その素顔は晴れ晴れとしていた。
指揮 大野和士 演奏 東京都交響楽団
  空「少年合唱団はどうして被り物姿だったんだろう?」
 五月「舞台の上で役柄の表情をするのが難しかったからだと思う。」
  風「そう、少年合唱団は俳優ではないですから。」
  薫「被り物をつけたから歌に集中できたんだよ。そう考えれば被り物は意味がある。」