童謡運動の裏面・・その知られざる真実


  童謡は80年以上前に始まった、当時と今とは社会の状態は大きく違う・・次のコラムにはいいことが書かれてる。・・今の日本は、技術を大きく発展させ豊かにはなったが、それに酔いしれて、先人たちから引き継いだ何らかの精神を失っていないだろうか。日本の歌・童謡・・には、酔いしれ、たいせつな何かを失う前に持っていたものを少し思い出させてくれる。・・
  日本のうた        
 http://www.whi21.com/column/20030910.htm

  ・・歌を聴いていると、日本でも貧しさゆえに自分の子どもを「奉公」に出すと言う辛い時代があったのかなあと思う。そして、私たちはいつのまにか豊かになりそんな時代の人たちより幸せになった、はずであるが果たしてそうだろうか。 そのような時代にそのように育っていった人たちが子どもを育て、その子どもたちが作り上げたのが今の日本である。技術を大きく発展させはしたが、それに酔いしれて先人たちから引き継いだ何らかの精神を失っていった。 ・・・・と。

  昭和20年代、30年代に田舎で子供時代を送った者・・親が大正から昭和のはじめに子供だった人・・は、相当高い確立で、親から(親が)子供の頃に奉公に出された話を聞いてるはずだ。映画「二十四の瞳」は昭和3年から始まるが、小学校中途で奉公に出される話がでてくる。昔は義務教育は小学校までで、小学校を出ると男は丁稚奉公、女は子守奉公や女中奉公に出るのがあたりまえだったという。あの紡績工場ではたらく女子工員の生活を書いた「女工哀史」という本が出たのは、大正14年のことだが、女工とは、12,3−4の、小学校を出たばかりの女の子。

  昭和30年代でさえ、田舎では高校進学率は30%くらいだった。童謡が作られた80年以上前の大正時代ともなれば、今では想像もできない貧しい時代だったに違いない。「野麦峠」という映画にもなり、過酷な労働条件や虐待のありさまを描いてるが、それでも家よりも良かったのだそうだ。当時は、どんなに成績が良くても、進学(中学)させてもらえない、あるいは、高等小学校に行かせてもらえたら幸せというのは普通だった。 

  鈴木三重吉が「赤い鳥」発刊にあたっては、既存の雑誌(・・「少年倶楽部」などか・・)が、子供に見させるものとして俗悪ということだったようだが、それ以上に当時子供をめぐる状況は、このように厳しいものがあったはずである。「赤い鳥」は子供のためだったが、あまり子供には普及せず、圧倒的に「少年倶楽部」などが見られたようだ。鈴木三重吉の「志」は大変良かったが、「赤い鳥」以外のものを模倣とか、童謡を侮辱するものと非難した。・・・・・「赤い鳥」自体、大正5年1月創刊の、浜田広介、水谷まさる等の児童向け文学雑誌第一号「良友」(コドモ社)の評判を聞いてこれをモデルに出したということなのだが。
 童謡運動は、大正時代、童話・童謡運動としてスタートし、やがて昭和に入ると、サトーハチロー、武内俊子、葛原しげる、河村光陽、佐々木すぐる、海沼実など新たな詩人・作曲家の時代に入ると同時に、童謡・新民謡運動へと変質して行き、新民謡運動が今日の歌謡にも関係していくのだが、それまでの童謡運動は言われるようにそんなに崇高なものではないようだ。テレビで「トホホな人物伝・・忠臣蔵の真実」・・言われてることと真実とのギャップ・・をやってた。同じような、童謡運動が始まって、広まっていく大正の半ばから昭和の初めにかけての、人物を中心としたその知られざる真実・・裏面史とでもいうものを参考にまとめてみた。・・・

  「赤い鳥」は、途中休刊したが、三重吉がガンで亡くなった昭和11年の8月まで存在した。しかし実際 「赤い鳥」運動はせいぜい10年間に過ぎなかった。
さらにいえば、『赤い鳥』が光を放っていたのは、せいぜい4,5年だった。大正11年、北原白秋と、考え方をことにした西條八十が、『赤い鳥』を離れ「童話」に拠ったあたりから役割は実質終わったといえる。かって『赤い鳥』をにぎわした若手の詩人たちは、赤い鳥童謡会(本居長世)を中心に創刊を続け、雑誌『赤い鳥』とはもはや直接のかかわりをもたなかった。「赤い鳥」より先にあった[良友][少女号]や、さらに「金の船」「小学男生」「小学女生」「童話」「コドモノクニ」など優れた雑誌がたくさん出た。そして、三重吉がなくなる2年前、三重吉は北原白秋と方針の違いから絶交して破綻は決定的となった。

 本居長世の初期の名曲に「人買船」♪人買船に買われて行った・・というのがある。野口雨情の作品、人買というのは、現在も世界のあちこちであり、日本でも「安寿と厨子王」の時代から戦後まで、貧しさゆえのそういうことがあったようだ。売られてゆくのは、「山ほととぎす」だが、背景には大正7年の全国的な米騒動にからむ社会不安があったようだ。大正7年7月23日、米価の値上がりが原因で、魚津・滑川などの漁民の主婦の間から起こった米騒動のショックは全国に波及し、参加者は約70万人、鎮圧のための軍隊出動は88ヵ所を数えたといわれる。内閣(寺内)倒壊・経済大恐慌の引き金となった。大正7年といえば、「赤い鳥」童謡運動が始まった年(大正7年7月)は、同時にスペイン風邪・・世界中で2,500万人、日本で38万人が死亡・・が猛威を振ることになった年、また米騒動が起こって寺内内閣崩壊に向かう年でもあった。
 
 あまり出てこないが、鈴木三重吉は、わがままで、漱石にたいしてもそうだったという。少年の頃からケンカで生傷が絶えなかったという。鈴木三重吉と似て酒豪で剛毅、乱闘騒ぎを起こしたり、未決房に入ったりしたという豪快な北原白秋は、どちらかといえば、世情のことに関心は持た(て)ない「高踏派」(芸術至上主義ともいう)といわれるのに対し、野口雨情はどちらかといえば「社会派」とも言われる。

 山田耕筰は、同じく豪快で親分肌が白秋・三重吉とよく似ていたが、雨情、長世はそうした豪快さを嫌う面があったようだ。「雨」「城ヶ島の雨」「雨降り」「からたちの花」「落葉松」「かやの木山」・・など白秋がどちらかといえば、主に<情景・叙情>に優れた作品が多いのに対し、野口雨情に、『雨降りお月さん』など以外に、「人買船」「七つの子」「赤い靴」「十五夜お月さん」などどちらかといえば<抒情・情愛>・・心の内面に深く入った・・を歌った優れた作品が多いのはこのためだろう。

 さて、山田耕筰は、野口雨情などとは対照的で、とにかく幼い頃から、勝気で向こう気の強い子だったという。音楽学校では、クリスチャンであるが、外国人教師の教え方がきついのに腹を立てて、教員室に押しかけチェロの弦をへし折ったという有名な話もある。目上の者も、師も何のその・・、このことが後で、いろいろ災いする・・ほとんが1年以上長続きしないのだ。実際、彼にはこうした「点」の活動をそのまま延長してつないでしまうようなところがあって、いいとこ取りになってしっている点は否めないだろう。

 協会活動は別として、肝心の楽団の活動など、なかなか1年と続かない。大正11(1922)年9月、北原白秋と「詩と音楽」(アルス)という雑誌をおこしたが、これも大正12(1923)年9月、関東大震災を機にちょうど1年でおしまい。

 しかし、1941年に、大日本音楽文化協会(徳川義親会長)副会長にまつりあげられた。自ら「音楽戦士」と名乗り,終戦まで「音楽挺身隊」隊長として、自作の軍服に軍刀、「音楽大元帥」気取りで闊歩したのは有名。・・「音楽大元帥」は、少なくとも童謡を作った者には,あまり相応しくないのではと思うのだが。
  大学時代は、あまりよい生活をしていなく、成績もよくなかったが、宣教師や牧師に支えられて学びを進め、卒業後は、ひょんなきっかけで、ドイツに三年半ほど留学することになった。 帰国後1914年、耕筰は、作曲しても演奏する楽団がなかったので、今の東京フィルハーモニ交響楽団につながる音楽鑑賞団体、東京フィルハーモニー会の中に「管弦楽部」というオーケストラを作った。しかしそれが1年でうまくいかなくなるや、今度はアメリカへ行った。31歳のときだった。耕筰は、運良く翌年にはカーネギー・ホールで指揮をして成功を収めた。

 1920(大正9)年4月には、浅草オペラ下火を見て、日本における本格的なオペラの上演を目指し、また、東京フィルハーモニー会のときに一旦は挫折したオーケストラの夢をかけて、日本楽劇協会を設立し、ドビュッシーの『放蕩息子』などを初演。

 1924年(大正13年)4月、山田耕筰の個人経営として「日本交響楽協会」が商標を登録された。同年5月にはドイツに留学し作曲法や指揮法を学んでいた近衛秀麿が帰国し、日本交響楽協会に参加する。日本のプロとしての本格的なオーケストラ活動は、山田耕筰と近衛秀麿によってもたらされたとされているのだが。

  山田耕筰が日本での活動を中心としていたのに対し、欧米に広く活動していた最初の日本人指揮者は、近衛秀麿だった。
近衛秀麿(1898-1973)は、山田耕筰(1886−1965)より一回り年下で子爵。公爵・貴族院議長・近衛篤麿の次男で、兄は後の総理大臣・公爵・近衛文麿。学習院、東大美学中退後、パリ、ベルリンに留学。1924年には、ベルリン・フィルを指揮しヨーロッパデビュー。

  1925年には山田耕作、近衛秀麿らを中心に日本交響楽協会の楽員とハルピン在住を中心としたロシア人音楽家との合同オーケストラによる演奏会「日露交歓交響管弦楽演奏会」が企画され、新築間もない東京の歌舞伎座で、コンサートが開かれた。日本で本格的オーケストラだった。

  ところがである・・1年半しか経たない、1926年(大正15年)10月5日、近衛秀麿は、山田耕作と対立し日本交響楽協会を脱退してしまう。そして、近衛秀麿は行動を共にした楽員とともに「新交響楽団」を結成した。・・したがって、耕筰主宰の楽団機能は以後ほぼ無くなったに等しくなった。(あちこちでテンポラリで指揮することはあっても、自らの主宰するそれなりのところでというわけにはいかなくなっってしまったよう。)

  (この秀麿の「新交響楽団」は、後に、1942年財団法人「日本交響楽団」となり、1951年にNHKの全面的な支援を受け、財団法人「NHK交響楽団」と改称。)

  山田耕筰にとっては、東京フィルハーモニー会の悪夢の再燃というべき状態だったに違いない。多額の負債を背負った耕筰さんは、協会(日本楽劇協会)の中に出版部を作り、「童謡百曲集」を作って出版することになる。山田耕筰作曲の内、数曲を除くほとんどの童謡は、この中に入る。
このあたり、一般に・・当時新しく誕生した「放送」というメディアとも、耕筰は密接な関係をもった。さらに耕筰は「出版」のメディアも積極的に利用する。さまざまな著作を上梓するいっぽう、みずからも出版事業を起こし、『童謡百曲集』を続々刊行した。・・とさりげなく前向きな表現としている。

  (山田耕筰作曲のもので、北原白秋作詞のものは、白秋の詩は相当早く「赤い鳥」などに載ってるためか、作詞の年で書かれることが多い、このため相当早い出来のように錯覚してしまうし、本にもそう書かれてるのが多いのだが、実際はほとんどが、この『童謡百曲集』が作られた年、または一部については、そのちょっと前位・・大正末・なのだ。)

  大正15(1926)年10月5日に分裂・破綻したのだが、早くも一月後には、車中に詩集を持ち込み、その余白に楽譜を書いてゆく。11月7日に、第1号「すかんぽの花咲く頃」他7曲を作曲。以後ノルマをこなすかのように、一日数曲を作曲。年末も、12月30日まで、年明けは6日より始まっている。もう書斎でなどというものではないようだ・・詩のイメージがどう浮かんだかは知らないが、その努力?の甲斐あってか「ちんちん千鳥」を最後に翌・昭和2(1927)年3月24日(2曲)までに大方作曲。残念ながら童謡の崇高な目的というものをそこに感じ取ることはできるだろうか。

  本居長世が、全国行脚の途中、東海道線の車中で,「汽車ポッポ」を作曲したのがこの頃である。
そして、1927年6月〜11月にかけて「童謡百曲集」第1、2,3集刊行。
続いて、1928年2月第4集刊行l、1929年4月第5集刊行(残り)。
これが交響楽と指揮を中心とする洋楽に精力を傾けていた山田耕筰さんと、童謡との大方の接点と考えてよいだろう。このうち歌われているのはごく限られているといってよいだろう。

  主なものは、・・酸模[すかんぽ]の咲くころ(北原白秋) 、「砂山」(北原白秋)、「捨てた葱」(野口雨情)、「俵はごろごろ」(野口雨情) 「兎のダンス」(野口雨情) 、「河原鶸」(野口雨情)、「カッコ鳥」(野口雨情)「箱根の山」(野口雨情)「よいよい横町」(野口雨情)、「あわて床屋」(北原白秋)、「雲雀」(三木露風)、「赤とんぼ」(三木露風) 、「青い小鳥」(川路柳虹)、「この道」(北原白秋)、「お山の大将」(西條八十)、「ちんちん千鳥」(北原白秋)・・・・・

  この中には後で盗作疑惑(*)を持たれたりしているのもある。一日に15曲も書いたる異常なときもあるほどだから。

 *海外で「赤とんぼ」そっくり?を耳にした三島由紀夫が、後でシューマンの曲(「序奏とアレグロ」)と知って驚く。盗作とする三島に、山田耕筰は抗議文を送った。

 http://ramroh.air-nifty.com/anoma/2004/05/jasrac.html

  抗議文を送ったのは,戦後、音楽評論家山根銀二から,戦争中の行動を批判されてしたのと同じ。(藍川由美が「演歌のすすめ」のなかで、言ってる「ふと聞いた曲が、自分のものかどうかわからない作曲家・・」とは、このあたり(抗議文)のことをさしているのだろう。)

 詩人(詩)としては、だいたい野口雨情(30)、北原白秋(29)、三木露風(17)、川路柳紅(13)、西條八十(10)などである。競作状態のもたくさんある。・・「山田耕筰は、児童雑誌「赤い鳥」の童謡運動に参加、多くの名曲を発表。」・・と、NHK「そのとき歴史は動いた・かなりや」でも言っていた。しかし、「赤い鳥」の童謡運動に参加というより、そのほとんどは、「赤い鳥」の童謡運動もすでに終わっていた大正末から昭和にかけてのたかだか4ケ月半・・たとえば、本居長世が全国行脚に10年費やしたのに対しあまりに短い・・の間をメインに、今日は誰、明日は誰と、詩が載ってる本をかき集めて、列車に乗って・・一日数曲(最高一日に15曲)の「作曲作業」をしたというのが実態だろう。
このうち今日歌われてるのは1割に満たなく、特に作曲したのは野口雨情のが一番多いのに、ほとんど顧みられていないようだ。

 あの中山晋平でさえ、かって最初に「金の船」の斉藤佐治郎に雨情の詩に作曲を依頼されたとき、「さすらいの唄」とか、「カチューシャの唄」とかしか作っていなかったので、野口雨情の日本的な詩に自分は相応しくないとして、師である本居長世を推挙。ここに本居長世の童謡が始まるのだが、彼は、おかまいなしに日に何曲も作曲していったようだ。   

 一般に山田耕筰は北原白秋とコンビで、たくさん作ったといわれるが、童謡では、むしろ弘田龍太郎のほうが多い。北原白秋の一部のものが有名なのは、北原白秋は「抒情派」といわれるように、日本的「抒情・情景」を歌ったものは、「情愛」と違って入りやすいのか。

 歌われる童謡で一番数が多いとされる中山晋平は、大正時代がメインであるが、昭和にはいってからも、平井英子を始め、多くの優れた童謡歌手を発掘し育て童謡普及に貢献している。童謡に限らず、中山晋平は、歌手を育てるのが天才的だったし、そのことにも力をいれていた。童謡歌手では、平井英子、平山美代子、中山梶子・・・平山美代子にいたっては、中山晋平の歌に限らず一人で600曲近くレコーデイングしている。童謡普及の最大の功労者は童謡歌手たちだとさえいわれる。山田耕筰などが、こういう点に力を入れた様子は見当たらない。

 沢山の作品を持つ中山晋平は晩年、昭和23年、その大きな功績によって、日本のすべての音楽分野で、著作権を管轄する、日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長となり、音楽著作権の問題と取組み、貢献している。

(参考)
CD「人買船―野口雨情の世界」(藍川由美作品集)(カメラータ28CM-645)2000年
上村直己「北原白秋・山田耕筰 主幹『詩と音楽』総目次及解題 」
(日本文学研究会『文学研究』第52号
山田耕筰と山根銀二の戦争責任論争:「東京新聞」(昭和20.12.23〜24、25)


                                                            
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