プロフィール |
グロリア少年合唱団特別演奏会 |
実に多様な「GLORIA」
「グロリアのGLORIA」という「かけ言葉」のような企画のコンサートは、これまでに聴いた日本の少年合唱団による宗教曲の演奏とは、かなり違う印象を受けました。これまでにも、TOKYO−FM少年合唱団の「クリスマスコンサート」、桃太郎少年合唱団の第4ステージ、広島少年合唱隊の平和と祈りの曲などで宗教曲を聴いてきましたが、グロリア少年合唱団による演奏には何か一本筋金の入ったものを感じました。しかも、「GLORIA」だけを取り出して演奏するというのは、世界の子守唄やセレナードを集めて演奏するのとは趣が違います。何故なら、「Gloria」は、ミサ曲の中で、「Kyrie」に続いて演奏される第2段という位置づけであるからです。ミサ曲全体がいろいろな曲の集合体であり、精神の安らぎと高揚が一つの大きな流れのように繰り広げられる中での「Gloria」は自ずからの位置付けが定まってきます。神の栄光を讃美する壮麗な曲ばかりを数曲連続して聴かされるとかえって単調な展開になるのでは?しかし、そのような心配は杞憂に終わりました。プログラムは、その曲が作曲された時代を縦糸に、「Gloria」というかたちをとった曲の多様性を横糸にして構成されており、さらに初めて聴く曲でも興味深く聴けるように、指揮者の松村努先生の聴きどころの解説入りという親切なステージでした。
簡素な舞台と気品ある演奏
舞台は、中央に十字架をかたどった白いライトに照らされた壇とピアノ・オルガンがあるだけの簡素なもの。この虚飾のなさが好きです。先ず第1部第1曲は聖衣に身を包んだ指導者の4人の先生方による男声のグレゴリオ聖歌の「Gloria」。残響を教会と同じように調整したということもあって、深みのある響きが実に心地よいのです。このような指導者の登場のしかたは、理想的なものです。
第2曲から少年たちの登場ですが、小学6年生ぐらいまでは、白いシャツに臙脂のネクタイ、紺の半ズボンに白いハイソックス、黒いローファ。それより年長は、変声後の男声部も含め上着は同じで紺の長ズボンという気品のある服装と着こなしで、その色彩的調和は秀逸です。また舞台上の動きも洗練されていて、聴く人に安心感を与えてくれます。第一声はこんなものかなと思っていた声も、次第に前に出るようになってよく響くようになり、一人一人に確かな歌唱力がついていることが伺えました。会場がもう3メートルずつ左右に広ければ、音響はさらに広がりをもつことでしょう。第2曲のバーンスタインの「グロリアティビ・グロリア」は、コンガという打楽器を採り入れたりしたため、おそらく発表当時はかなり異質な印象をもたれたのではないかと推察しましたが、バリトンと少年合唱がこれほどよく調和するとは嬉しい発見でした。難曲のプーランクの「Gloria」は、音程に不安を感じる部分はあったものの、大きな流れを掴んだ演奏でした。驚きはポール・パスラーの「MISSA
KENYA」でした。指導者の服部陽介先生の指揮を兼ねた独唱は、大地の香りのするこの曲の生命を伝えていました。いわゆる「つっころばし」の声質と巨大なエネルギーの塊が同居した服部先生の全身からかもし出すものは、聴く人に不思議な力を与えてくれます。思わずプログラムのプロフィールを目にすると、「主に変声した子どもたちの指導をしている」とのこと。きっと、悩み多き変声期の少年たちに元気を与えておられるのでは・・・そのような想像力をかき立ててくれる何かを感じました。
「もっとちゃんとしたものをやろうよ。」
第2部は、高校生ぐらいの少年のソロによる高田三郎の「典礼聖歌集」の「栄光の讃歌」という日本の「Gloria」でスタートしました。未完成の声がみずみずしく、歌う喜びのようなものさえ感じました。
驚きは、松村努先生による解説の言葉でした。
「現代曲ばかりやっていると、団員から『もっとちゃんとしたものをやろうよ。』という声が出てきました。」とのこと。この舞台にいる少年たちは同年代の日本の少年と何か違うものをもっていることは、一目舞台を見ただけでわかっていましたが、それがこんな言葉になって出てくるとは!この少年たちの中には、既に独特な「調和の世界」が形成されているでしょう。その言葉の後に聴くヴィヴァルディとモーツァルトの「Gloria」は、その醍醐味を味わう曲として歌われているのでしょうね。ヴィヴァルディを歌うデュエットの少年たちの歌声を聴くと、TOKYO−FM少年合唱団のソリストたちとの扱いの違いも見えてきます。TOKYO−FM少年合唱団では、一人一人の違いが魅力の根源で、「ボーイ・ソプラノの図鑑」を感じさせますが、グロリア少年合唱団では、ソリストたちも全体との調和の中で生かされているように感じました。
演奏時間は休憩も含めて1時間半。この時間は演奏する側からも、視聴する側からもちょうどよい時間。「もっと聴きたいなあ。」というところで終わるというのは、演奏時間上の理想です。そういうことも含め、グロリア少年合唱団は、持ち味を生かしながら、観客のことまでを考えるステージを創っていました。
グロリア少年合唱団モーツァルトの「レクイエム」 |
平成15年9月15日(月・祝)鎌倉芸術館大ホールで行われたグロリア少年合唱団によるモーツァルトの「レクイエム」に行って来ました。モーツァルトの人気曲とはいえ、宗教音楽のコンサートで1500席の会場がほぼ埋まるというのは、この地域の文化にグロリア少年合唱団が浸透していることの現れでもありましょう。
プログラム構成から
グロリア少年合唱団によるモーツァルトの「レクイエム」は、2部構成になっていました。それは、「レクイエム」そのものが約1時間の作品であるという消極的な理由もあったかもしれませんが、むしろ、そこに到るまでに聴く者の気分を高揚させてからという積極的な理由があったのではないでしょうか。
1500人を収容する鎌倉芸術館大ホールはほぼ満席でした。昨年も感じたことなのですが、場内放送がなくても観客のマナーはよく、音楽が始まると静寂で非常によい雰囲気になります。これもグロリア少年合唱団のコンサートの特色と言えましょう。
グノーの「神学校のためのミサ曲」第5番というのがどれほど有名な曲なのかは知りませんが、曲は端整な構成で格調の高いものです。服部先生の指揮による聖衣(侍者服)を着た20名ほどの男声合唱は、豊麗で深みのある音色が心地よく響いてきました。
続いて、指揮は松村先生に代わり、モーツァルトのディヴェルメントニ長調。「喜遊曲」という邦訳がふさわしい曲で軽快な中に軽い憂いがあるというモーツァルト独特の世界が広がってきます。コンサートアリア「あなたは忠実な心をお持ちです」は、ソプラノの櫻井悦代先生のソロでしたが、この曲は、装飾部分などロッシーニのアリアとも似ており、この時代の声楽はイタリア中心であったことを改めて感じました。グロリア少年・男声合唱団の魅力の一端と、モーツァルトの音楽の種々相を少しずつ味わいながら「レクイエム」へと向かうというプログラム構成には、ストーリー性が感じられました。
豊麗な歌声と声部のバランスのよさ
数々の伝説を生んだモーツァルトの「レクイエム」は、作曲後200年以上経った今でも、後世の作曲家によって版を重ね、論争が繰り返されています。映画「アマデウス」も、この「レクイエム」を題材にして新奇なモーツァルト像を創り上げました。
このようなモーツァルトの「レクイエム」をCDで聴くことはあっても、生演奏を聴くのは初めて。いったいどんな音響と歌声なのだろうというのが一番の関心でした。神秘な音色の前奏に続いて発せられた男声の第一声は予想したよりも深い音色で、それに変声前の声が絡むと、よいバランスで響きます。曲によっていろんなパートが前面に浮き上がってきても、このバランスのよさは変わりません。男声の人数比が高いと繊細なボーイ・ソプラノが消されてしまうということもありがちですが、グロリア少年合唱団は、ボーイ・ソプラノの声がよく前に出て、そういう心配はありません。しかも、男声と張り合っているという感じは全くしないのです。あくまでも調和しながら声は響きあっているのです。壮麗な「ディエス・イレ」など特にそういうことを感じました。また、多彩なドラマを展開しながら曲が進むにつれて、歌声はさらに豊麗さを増してきました。
ソロの4人は、それぞれ個性的ですが、明るく清澄なソプラノ、楚々としたアルト、叙情的なテナー、深みのあるバスという声の持ち味を活かしたアンサンブルが楽しめました。
特に心に残ったところを挙げますと、「キリエ」における劇的な曲の構築のしかた、「ラクリモサ」における悲しみに満ちた抒情性、「コンムニオ」における主を呼ぶ声の輝きなどです。
生涯教育の視点から
グロリア少年合唱団の演奏を聴きながら、この合唱団の魅力の一つはこの男声合唱にあるのではないかとさえ感じました。この歌声を聞きながら育った少年たちは、変声期に対して違った受け止めをするのではないだろうか。変声したり、小学校を卒業したら卒団という少年合唱団と違って、一生を通じて合唱を通じて人を育てていく、そのような面がグロリア少年合唱団にあることを強く感じました。
第17回 グロリア少年合唱団 メサイア演奏会 カトリック雪の下教会聖堂 12月23日 |
グロリア少年合唱団による「メサイア」も17回目を数えます。一言で言えば、「継続は力なり」という言葉の真実を感じる演奏でした。毎年続けることが、約2時間半の長丁場における力の配分を考え、聴かせどころのツボを押さえた演奏につながっていたのでしょう。また、C→B→G→Mクラス→男声と長期間にわたって在籍できる合唱団だからこそ可能な演奏と言うこともできます。
「メサイア」を成功させるためには、いくつかの要因がありますが、声楽的にはソリストの力量と合唱の盛り上げということに尽きると思います。このコンサートにおいて、ソプラノの櫻井悦代は輝きに満ちた声で印象深いアリアを歌い、アルトの木下泰子はアルトとしては明るい声質を活かし、テノールの横山和彦は大きな体躯から発する朗々とした声で聖堂を包み、バス(声質はバリトン)の水野賢司は、暗い底力のある歌を歌ってこの歌の骨格を形成していました。合唱においては、ソプラノに一人突き抜けるような輝かしい声の団員がいて全体を引っ張っていました。くすみがちなアルトにもこの曲には聴かせどころがあり、声楽的な技巧を楽しむことができました。男声陣にもそれぞれ曲の性格を歌い分ける歌唱によって大きな盛り上がり形作っていました。
この曲で、前半をがんばりすぎると、後半の盛り上がりがなくなってしまいます。誕生の喜びさえ、受難につながっているのです。イエス様は死ぬためにこの世に生まれてきたのだという本質がそこに包含されています。「ハレルヤコーラス」だけを単独で歌う合唱との違いがそこにあります。グロリア少年合唱団・男声合唱団は、そこをしっかりつかんで歌っています。だから、第2部以降が大きな盛り上がりを見せるのです。約2時間半の長丁場、少年たちは凛として歌っているだけでなく、座っているときも姿勢は崩れない。これは、今のたるみきった日本の教育界では奇跡なのではないかと。そういうことにも感動を覚えます。それは指導者への信頼なのか、それとも長年の合唱団という縦社会によって築かれてきたものなのか、宗教がもつ力なのか(団員のうち、カトリックの信徒はわずかと聞きますが。)私は、そのことに大きく心を動かされました。
「メサイア」の前には、幼稚園から小学校2年生の団員による「あめのみつかいの」とグノーの「アヴェ・マリア」が歌われました。「あめのみつかいの」は、「あれのの果てに」と同じ曲なのに歌詞が違うのは、カトリックとプロテスタントの違いなのかという邪念?も起きました。歌としてはまだまだ未成熟なのですが、一般の同年齢の子どもたちにこの歌をこんなに歌えるかと問い直したとき、この歌があってこそ「メサイア」があるのだと気づきます。また、最後に「神の御子は今宵しも」が、ラテン語で会場と一緒に歌われるとき、音楽は作る人、歌う人、聴く人の3つが揃って成立することを実感しました。
グロリア少年合唱団 ポルトガル・スペイン演奏旅行 帰国記念公演 平成18年8月27日(日)19:00〜 鎌倉雪ノ下カトリック教会聖堂 |
コンサートの前日、東京神田の古本屋街にある古レコード・CDショップで、ソプラノとメゾ・ソプラノのソリストが少年というモーツァルトの「レクイエム」はないだろうか(以前、ウィーン少年合唱団員がソリストというレコードがあったそうです。)と探したところ、残念ながらありませんでしたが、私はその店で1枚の不気味で戦慄すら覚える輸入盤のCDを発見しました。それは、衣をまとった灰色のどくろか死神の姿が描かれているものでした。「レクイエム」は鎮魂ミサ曲と訳され、死者を悼み、その霊を慰めるために作られるものですが、モーツァルトは、死の直前にこの曲を作曲し始め、完成を見ることなく亡くなったため、自分の死を悼むために「レクイエム」を作ったのではないかとさえ言われています。そのイメージがこのどくろか死神なのかと思いながら、このコンサートに臨みました。
天正少年使節が8年の長歳月をかけてローマ教皇とポルトガル・スペイン両国王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼する旅路の跡を訪ねて、今年の3月末から4月初めにかけてグロリア少年合唱団・男声合唱団が挙行したポルトガル・スペイン演奏旅行の成果を発表するというコンサートが本拠地の鎌倉雪ノ下カトリック教会聖堂で行われました。演奏に先立って聖堂正面の壁をスクリーンとして、映されたスライド写真を見ながら松村先生による演奏旅行の概説が過不足なく行われました。行き先ではどこでも大きな歓迎を受けたそうです。それが終わると、2階席から金管楽器によるファンファーレが鳴り響き、聖堂の奥で扇形に並んだ侍者服に身を包んだMクラスと思われる少年たちと男声団員によって聖歌が歌われ、入口から入場してくるのGクラスと思われる少年団員と合流しました。この入場の演出は、これから始まるモーツァルトの「レクイエム」への前奏曲としても実に優れたものでした。
同じ合唱団の歌であっても、3年前の9月に、1500席ぐらいの鎌倉芸術館の大ホールで聴いたモーツァルトの「レクイエム」と、今回教会の聖堂で聴く同曲は、響きがかなり違っていましたし、歌声も力強かったというのが第一印象です。それは、歌っている団員のメンバーが変わったというだけではありますまい。この曲だけでなく、宗教曲は残響が長く残る聖堂で歌うことを計算して作られているのでしょう。今では残響の時間を調節できるホールもありますが、聖堂でこそ、宗教曲は作曲者の意図した響きを示すと考えられます。この日の演奏を一言で言えば、緊迫感と壮麗さに満ちた演奏でした。この日の演奏では、とりわけアルトが輝いていました。内声のアルトは、役割的にも音質的にも目立たない存在で、ときにはくすんで聞こえることさえもあります。ところが、この演奏の中で一番輝きを示したのはアルトでした。前半は構成の厳格さを強く感じる演奏でしたが、後半には悲痛さを伴うようになり、最後はむしろ恐ろしい響きでこの曲は終わりました。そのとき、私の脳裏には、昨日見たCDジャケットの絵が甦りました。演奏が終わった直後静寂がよぎり、数秒してから拍手が起こりました。この日の観客がこの曲の終末を知らないわけがありません。この戦慄を覚える響きを聴いて一瞬拍手することを忘れてしまったのではないでしょうか。