ボーイ・ソプラノの歴史 
    
1 ボーイ・ソプラノの歴史
   

     (1)   教会音楽とボーイ・ソプラノ

 ヨーロッパの歴史は、キリスト教と共にあると言っても過言ではありません。教会や修道院の中で聖歌隊が生まれたのは11世紀頃と言われていますが、世界最古といわれるスペインのモンセラート修道院聖歌隊のように1000年の歴史をもっているところもあります。また、古い歴史をもつ聖歌隊の一つであるライプツィヒの聖トーマス教会の聖歌隊は1212年に作られ、いろいろな宗教儀式の中で歌ってきています。ところが、その源泉をたどって行くと、キリスト教が誕生する以前の時代にさかのぼります。キリスト教の母胎ともなったユダヤ教の礼拝においては、聖歌の歌唱に少年が呼び出されたと言います。キリスト教においては、中世からルネッサンスを経てバロックに至る声楽ポリフォニー(多声音楽)は、歌手がすべて男声と少年であるような男声合唱の歴史において、延々と発展をとげてきました。
  さて、仏教でも、女人禁制の場所などというようなものが現存しますが、キリスト教でも同様で、宗教上のおきてや、教会における複雑な規約のため、典礼への女性の参加は制限されていました。この点について、金谷めぐみと植田浩司は、『カストラートの光と陰」(2014)の中で、「キリスト教聖歌の多くは中世に起源をもつ。聖書に記されている(ここで引用)パウロの教えに従い、女性は教会で歌うことが許されなかった。したがって、礼拝における聖歌はすべて男性により歌われた。ローマでは6世紀に教皇付きの聖歌隊が存在し…」と述べてており、その中でパウロの教えについて、コリント人への第1の手紙14章34-35を引用しています。(引用文献:西南女学院大紀要論文)
14:34婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。
14:35もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。
 教会の中で語ることさえ許されないのであれば、ましてや歌うことが許されるはずもないでありましょう。戒律の厳しさを感じます。そのため、教会音楽のソプラノの女声の代わりとして、変声期前の少年の声が使われるようになったのが、ボーイ・ソプラノが音楽史に登場するようになった始まりと言えそうです。従って、ボーイ・ソプラノは、自然発生したというよりも、むしろ、宗教上の理由から生まれたと言ってもよいでしょう。
 素質のよい少年を訓練していけば、その出し得る音域は、高音部においてはほぼ2オクターブとなり、音色の清純さでは遥かに女声を凌ぐといいます。汚れなき少年の喉から出る声が信仰深い人々に、天使の声や神の御告げのように聞こえるので、ボーイ・ソプラノは、「天使の歌声」と呼ばれるようになりました。このボーイ・ソプラノの代名詞のような「天使の歌声」という言葉の起源を探ると、ローマ法王ピオ11世がウィーン少年合唱団を指して言ったという記録が残っていますが、それ以前に言った人もいたかもしれません。また、教会堂に特有の長い残響が、音量の乏しい少年の声とマッチして、独特の宗教的雰囲気をかもし出すというのも事実でありましょう。
 ヨーロッパでは、そのようなことから、音感がよく、美しいボーイ・ソプラノを持っている少年は、教会や宮廷附属の聖歌隊や合唱団に入り、寄宿生活をしながら音楽を勉強し続けることが多かったようです。このような聖歌隊や少年合唱団出身の音楽家は、決して少なくありません。バッハは、アイゼナハのラテン語学校生徒として聖歌隊で歌っていました。ハイドンやシューベルトは、ウィーン少年合唱団出身です。ブルックナーは、ザンクト・フローリアン修道院合唱団出身で後年この合唱団の指導者をしていました。20世紀に入ってからも、ウィーン少年合唱団では、指揮者のクレメンス・クラウスやロブロ・フォン・マタチッチなどが育ち、最近ではOBのノルベルト・バラチュが芸術監督として迎えられたこともあります。ドレスデンの聖十字架合唱団では、テノールのペーター・シュライアーやバスのテオ・アダムらの名歌手が育っていきました。

      (2) ボーイ・ソプラノのための音楽

 これらの合唱団や聖歌隊にとって、グレゴリオ聖歌やオラトリオ、バッハの受難曲等の宗教曲は一番の本領であるにもかかわらず、キリスト教徒が少なく教会音楽に親しむことの少ない日本では、なじみが薄いものです。また、キリスト教徒であっても、なじみ深いのは賛美歌であり、キリスト教徒以外の者にとっては、わずかに「きよしこの夜」や「もみの木」や「赤鼻のトナカイ」等いくつかのクリスマスソングを知っているというところが実情でありましょう。戦後、宗教系の私立学校はともかく、国公立の小中学校では、特定の宗教に関する教育をしてはいけないことから、戦後教科書に宗教曲が掲載されることは、「きよしこの夜」を除き、ほとんどありません。しかし、明治になって外国から入ってきた曲に日本語の歌詞を付けた曲の中には、原曲が讃美歌であったものやその影響を受けたものもあります。「蛍の光」は、教科書にはスコットランド民謡と記されていますが、原曲は讃美歌370番「めさめよ わがたま」です。また、「天長節の歌」など、作詞・作曲とも日本人による作品ですが、旋律進行やハーモニーは讃美歌の影響を受けています。
  ボーイ・ソプラノのために作曲されたわけではありませんが、フォーレの『レクイエム』のソプラノ・パートの「ピェ・イエズ」や合唱パートを少年が歌うと、つややかな女声とは違うストイック(禁欲的)な雰囲気をかもし出すので、あえてそのようなCDを買い求める人も少なくありません。また、ボーイ・ソプラノの愛好家としても知られるブリテンは、少年合唱のための「キャロルの祭典」なども作曲しています。最近では、『オペラ座の怪人』などミュージカル作曲の第一人者であるロイド・ウェッパーの『レクイエム』の「ピェ・イエズ」は、女声とボーイ・ソプラノの二重唱で初演され、現在でもその形態で歌い継がれています。
  
 少年合唱が世界的に盛んになった時期は、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのヨーロッパやアメリカ合衆国でのことが知られています。この時期には、合唱に対する人々の関心が高まっていたことや、音楽教育の発展が背景にありました。
 この時期には、少年合唱のための曲を作曲した作曲家も多く現れ、以下のような人々がいます。なお、この中には、「合唱曲」として作曲され、少年合唱によって演奏されることもあるという曲もあります。
・レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams 1872-1958)- イギリスの作曲家で、「ミサ曲 ト短調」「味わい見よ」などを作曲しています。
・ベーラ・バルトーク (Béla Bartók 1881 - 1945) - ハンガリーの作曲家で、多くの合唱曲を作曲しました。中でも、彼の「合唱組曲」は、多くの少年合唱団によって演奏されています。
・カール・オルフ (Carl Orff 1895 - 1982) - ドイツの作曲家で、「カルミナ・ブラーナ」などの合唱曲が有名です。彼は、少年合唱団のための音楽教育の改革者でもありました。
・ベンジャミン・ブリテン(Benjamin Britten 1913 - 1976)- 英国の作曲家で、多くの少年合唱曲を作曲し、その中には「みどり児はお生まれになった」「金曜日の午後」「キャロルの祭典」などがあります。
・レナード・バーンスタイン (Leonard Bernstein 1918 - 1990) - アメリカの作曲家で、合唱曲やオペラなどを作曲しました。彼の「チチェスター・サイクル」という曲は、少年合唱団によってよく演奏されています。
・ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ (Hans Werner Henze 1926 - 2012) - ドイツの作曲家で、少年合唱団のための曲やオペラなどを作曲しました。彼の「合唱交響曲」などは、少年合唱団によってよく演奏されています。
・ジョン・ラター (John Rutter 1945 - ) - イギリスの作曲家で、少年合唱団のための多くの曲を作曲しています。彼の作品は、ヨーロッパやアメリカを中心に、世界中で演奏されています。少年合唱曲「天使の歌声」や「子守歌」が広く知られています。

 日本では、1955年のウィーン少年合唱団の初来日以来、外国の少年合唱団の公演が盛んですが、本格的なクラシックファン以外は宗教曲に人気はあまりなく、各国の歌曲や民謡に人気があります。例えば、最近は毎年来日しているウィーン少年合唱団の公演プログラムは、平成の初めぐらい前までは3部構成になっており、第1部・宗教曲、第2部・オペレッタ、第3部・歌曲、民謡、ウインナ・ワルツとポルカとなっていました。この順序は、人気の順序でもあったと言えるでしょう。現在は、2部構成で、第1部の中で古今の宗教曲が紹介されています。また、レコード・CDの売り上げも、以前はほとんどが、歌曲や民謡であって、宗教曲がベストセラーになることはこれまであまりありませんでした。ところが、21世紀に入る頃から、突然グレゴリオ聖歌がブームになったり、イギリスの聖歌隊のトップソリストばかりを集めて組織した「ボーイズ・エアー・クワイア「ピェ・イエズ」」の「少年のレクイエム」がヒットになったりするといった新傾向も見られました。しかし、そのファンは殆どが女子の中学生・高校生や20代の女性であり、これがきっかけでクラシックファンになることも多いのですが、このファン層は移り気であることも否めません。このあたりが日本の特殊性で、ヨーロッパでは、ボーイ・ソプラノのファン層の中心は、むしろ成人であり男性ファンが多いそうです。この辺りに文化の差を感じます。なお、「ボーイズ・エアー・クワイア」は、数枚のCDを残して短期間で解散しました。いわゆる「企画もの」という感じもします。
 さて、18世紀以後は、それ以前ほどボーイ・ソプラノは重要視されなくなってきましたが、オペラにおいては、合唱あるいはソロで、様々な場面に用いられています。例えばオペラの合唱としては、プッチーニの『ラ・ボエーム』や『トスカ』、ビゼーの『カルメン』、フンパーディンクの『ヘンゼルとグレーテル』、ソロとしては、モーツァルトの『バスティアンとバスティエンヌ』のタイトルロール、『魔笛』の三童子、プッチーニの『トスカ』の牧童(舞台裏のかげ歌になることが多い)、ブリテンの『ねじの回転』のマイルズ少年の役などにボーイ・ソプラノが使われています。 主演が与えられるオペラとしては、メノッティの『アマールと夜の訪問者』のアマールが挙げられます。上演時間1時間のほとんど出ずっぱりの大役と言えましょう。
   また、オペラから、オペレッタを経て発展してきたミュージカルにおいては、ボーイ・ソプラノが演じる演目が増えてきています。作品名・初演の年・役名とを挙げると次のようです。『王様と私』(1951)のチュラロンコーン王などの王子、『サウンド・オブ・ミュージック』(1959)のフリードリッヒとクルト、『オリバー!』(1960)のオリバーとドジャー、『レ・ミゼラブル』(1985)のガブローシュ、『エリザベート』(1992)の少年ルドルフ 、『ライオンキング』(1997)のヤング・シンバ、『メリー・ポピンズ』(2004)のマイケル・バンクス 、『ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~』(2005)のビリーとマイケル、『キンキーブーツ』(2012)のヤングローラ等が挙げられます。
 とりわけ、日本の演劇界でも、これらのミュージカルは採り上げてはいましたが、とりわけ21世紀になってから、ミュージカル『レ・ミゼラブル』のガブローシュ、『ライオンキング』のヤングシンバ、『エリザベート」の皇太子ルドルフ、『ビリー・エリオット』のタイトルロール、『オリバー!』のオリバーとドジャーなど本格的に歌って踊れる少年を求める動きが出てきて、倍率の高い厳しいオーデションに参加する少年達も増えてきているようです。

   (3) カストラート盛衰記

 ボーイ・ソプラノは、その別れを惜しむかのように、変声の直前に最もよく響き、美しいと言われています。まさに、燃え尽きる前のろうそくの輝きにも似て。そのことに気が付いた教会の音楽監督は、声変わりさせず、この美しい声を永久のものにしようとして、精巣を手術により除去(去勢)することによって、身体の他の部分の発育に関係なく、ボーイ・ソプラノを保とうとしました。このような発想がどうして出てきたのでしょうか。おそらく、家畜を去勢することによって、おとなしくなったり、雌のような特徴を示すことに気付いたことがきっかけでありましょう。この今から考えれば極めて非人道的なことが、ヨーロッパ、特にイタリアで大流行しました。クレメンス8世は、教会の合唱団に男性ソプラノを採用して女性を遠ざけ、最盛期であった18世紀には、イタリアでは毎年4000人の少年が去勢されたといいます。この去勢された歌手のことをカストラートといいます。カストラートがヨーロッパに出現するのは16世紀後半です。
 カストラートは、やがて、教会音楽だけでなく、当時誕生した新芸術のオペラに進出します。この新芸術は、圧倒的な人気を博しました。人々は、二枚目役を歌うカストラートに熱狂しました。一流のカストラートの出演料は、オペラ作曲家の作曲料の十数倍だったと言われています。だから、成功すると、莫大な富と名声を手に入れることができました。そして、カストラートにされるのは、ほとんどが貧しい家の8~10才ぐらいの子どもだったようです。当然ながら、歌手として成功する確率は極めて低いと考えられます。それでも、貧しさにあえぐ親は、一獲千金を夢見て我が子を手術台に送ったのです。子どもの幸せを本当に考えたのでしょうか。倫理観が現代とは違うとはいえ何とも悲惨な話です。また、外科手術技術の向上もあり、人口増加に伴う口減らしの手段として、去勢は行われました。また、当時はデビュー前のカストラートたちを訓練する教育機関も存在しました。ナポリを中心とする音楽院では、約十年にわたる徹底的な歌唱訓練が行われました。
カストラートのために作曲された曲も多くあります。例えば、モンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」の初演には、二人のカストラートが出演したことが確認されています。ヘンデルやロッシーニなどの作曲家は、これを盛んに使ってオペラを作っていました。ヘンデルのオペラ「セルセ(クセルクセス)」の中の有名なアリア「オンブラ・マイ・フ」は、カストラートのためのものです。現在ソプラノによって歌われるモーツァルトの「アレルヤ」も、カストラートのための歌です。それ以後のオペラの二枚目役はたいていテノールですから、音域も違うわけです。17世紀は、シェークスピア等の劇の女役は少年が受け持っていたし、オペラと同時代に生まれた日本の歌舞伎でも、男が女の役をする女形があるのは偶然の一致でしょうか。この問題については、永竹由幸の「オペラと歌舞伎」に詳しく述べられています。
 カストラートが、声楽史上に果たした役割の一つは、ベル・カント唱法を完成したことが挙げられます。現在も、使われている声楽の基礎練習は、ソルフェージュですが、これは、もともと、スカルラッティとポルポラによって作られたカストラートのためのテキストです。
 さて、カストラートは、18世紀末から次第に衰退していきます。グルックのオペラ改革やコミック・オペラの隆盛が音楽的には直接の原因です。また、政治的には、カストラートのなかった国・フランスのナポレオンのイタリア征服が挙げられます。ナポレオンは、カストラートを禁止しました。また、そのころから女性歌手が、カストラートのテクニックを身につけていくことによって、オペラ劇場に進出してきました。だんだん飽きられてきたカストラートは、それでも、今世紀の初めまでシスティーナ礼拝堂のソプラノ歌手として細々と余命を保っていました。最後のカストラート アレッサンドロ・モレスキは、1922年に亡くなっています。私は、かなり以前NHKラジオの『音楽夜話』で、世界で唯一残っている20世紀初頭のカストラートの歌声の録音を聞いたことがあります。しかし、録音も古くて音質が悪く、また、普通のソプラノとあまり変わらなかったような印象を持ちました。少なくとも、「天使の歌声」とは思えませんでした。ところが、21世紀に入る直前頃、モレスキのCDを1650円という安値で手に入れました。1902年と1904年の録音ということで、音質はきわめて貧しいのですが、予想したよりは人間的な歌が聴かれます。しかし、この人が、カストラートとして一流であったかどうかは疑問でありましょう。むしろこの歌声の最後の生き残りとしてのトキ的な価値があると考えられます。ちなみに、このCDはSPのアナログ・レコードであったならば、「お宝」として大変高価な稀少品であったと思われます。
 最近、バロック・オペラが再評価されてきて、ヨーロッパでは、その当時のオペラを復刻して上演することもしばしば見られるようになってきました。ところが、現在、カストラートは存在しませんから、その役は、カウンター・テノールや、男声アルトによって、歌われていることが多いようです。カウンター・テノールは、伝統的にイギリスに多いけれども、最近では、ドイツのヨッヘン・コヴァルスキやロシアのオレグ・リャーベツのような男性アルトや男性ソプラノの人気歌手も次々出現しました。カウンター・テノールについては後で述べますが、それによって、当時の雰囲気を想像することがある程度可能です。でも、それだけでは満足できなくて、半分冗談ではありましょうが、音楽評論家の堀内修のように、本当のカストラートをつくろういう過激なことを言う人間まで現れました。それほどにこの声は、魅力的なのでしょうか。

    (4) カストラートの評価

 カストラートが生きていた時代、それは、同時代の人々にどのように評価されていたのでしょうか。カストラートの不思議な響きは、一度聴いたら忘れられないぐらい魅力的だったそうです。音域は、軽く4オクターブに及び、息の長さは、トランペットやフルートをしのぐ18世紀最大の歌手のファリネッリまで現れました。当時の王侯貴族は、争ってこの大歌手を迎えようとしました。その結果、スペインの宮廷に迎え入れられたファリネッリは、政治的にも重用され、実質的な宰相と言われるまでになりました。これは、まるで中国の宦官のようです。ファリネッリについては、映画「カストラート」の主人公としても知られています。
 さて、個々の歌手について言うと、例えば、ワーグナーは、カストラートのサッサローリのことを、
「この巨大な丸いおなかをしたイタリアのソプラノ歌手は、その高い女の声、 驚く程よく廻る弁舌や高い笑い声で、すっかり私を魅了してしまった。しかし、この人間は私には幽霊のように気味悪く思われた。彼がイタリア語で話したり歌ったりしたのを聞くと、まるで悪魔の仕業のように思われた。」
と述べています。
 また、フェリックスの手記によると、
「ソプラノ歌手は、たいてい去勢した鶏のように肥って脂肪が多く手足や首は 女のようである。もし、社交場に彼等が出現して、あの巨大な身体から子供らしい声が出るかと思うとびっくりさせられる。彼等はたいていおとなしいが内容がない。彼等の声は児童合唱団のような明るい音声を持っていて、強いいつも堅い乾いた感じがするが、素晴らしく鮮やかでその声域も広い。」
ということです。去勢することによって、ひげも生えず、身体の脂肪沈着がよくなり、肉付きも女性のように柔らかくなります。また、四肢の発育はよくなるが、筋力や忍耐力は減少し、頭の動きも鈍くなるといいます。カストラートは、少年時代に自分の意志と関係なく去勢されることが多かったため、どうしてもそれがコンプレックスとなって、性格的には極端に自己顕示欲の強い、また、うぬぼれの強い人間になりやすかったとも言われています。これも、人々に飽きられる一因だったかもしれません。
 さて、ベートーベンが少年時代、聖歌隊で美しいボーイ・ソプラノであったために、教会の先生から、声変わりさせるのが惜しいから、カストラートにしようということになりかけたという逸話も残っています。幸い、父の反対でそうさせられませんでしたが、もしカストラートにされていたら、当然の事ながら、作曲家としてのベートーベンはこの世に存在しなかったでしょう。

      (5)カストラートの遺骨の解析より

  カストラートには、いくつかの特徴がありますが、科学的に検証されることは、これまでほとんどありませんでした。イタリア・パドヴァ大学の研究チームが、18~19世紀に活躍したカストラート歌手ガスパーレ・パッキェロッティ( Gaspare Pacchierotti 1740?-1821)の遺骨を解剖学的に精査したと、2016年6月28日付の「Daily Mail」が報じています。カストラート歌手の身体的特徴に科学的にアプローチする画期的な試みは、6月28日付の「Nature」に掲載されるや、すぐに世界的に大きな反響を呼びました。
 さて、カストラート歌手は、同世代を生きてきた人より、下肢が長く、長身であると言われてきましたが、今回発掘されたパッキェロッティも、大腿骨並びに頸骨が大きく、身長191センチメートルもの巨体であったと推定されています。また、上腕骨も大きく発達しており、身長に加え、四肢すべてが当時の普通の体格の男性を凌駕していたようです。また、通常は35歳ごろに消失するはずの骨盤の骨の一部である腸骨稜にみられる骨端線が、81歳で亡くなったはずのパッキェロッティに残っていたそうです。他にも、CTスキャンによって、パッキェロッティが、骨粗しょう症を発症し、脊椎を骨折していたことも分かってきました。これらは去勢によりホルモンのバランスを崩した結果だとみられています。さらに、研究者らによると、肩甲骨に残された跡は、歌唱中に頻繁に腕を動かしていたためできたと考えられるそうです。さらに、頚椎にみられる磨耗に関しても、パッキェロッティの独特の歌唱姿勢が大きく影響していた可能性が高いそうです。声帯と顎を歌唱に適した位置に固定するために、首の後ろを引き伸ばして歌っていたことが原因だとみられています。このような歌唱に対する厳しい訓練が、骨格にまで影響を与えていることがわかってきました。
https://www.nature.com/articles/srep28463/

      (6) 蓄音機の発達とボーイ・ソプラノの録音

  蓄音機は音声を録音し再生する機械であり、音楽やいろいろな音声の普及に大きな影響を与えた歴史的な装置と言えます。
 アメリカの発明王トーマス・エジソン(Thomas Alva Edison 1847 - 1931)は、1877年、最初の商業的に成功した蓄音機であるフォノグラフを発明しました。フォノグラフは録音と再生ができる装置で、録音には回転する円筒型の蝋管に針で溝を刻む方式を採用していました。
 ドイツ出身のアメリカの発明家エミール・ベルリナー(Emil Berliner、1851 - 1929)によって1887年に開発されたグラモフォンは、円盤状のレコードを使用する蓄音機でした。グラモフォンはフォノグラフよりも簡単に操作でき、より広範な普及を実現しました。
 1925年頃、電気蓄音機の登場によって、蓄音機の録音方式がメカニカルな方式から電気的な方式に進化しました。電気蓄音機はマイクロフォンを使って音声を電気信号に変換し、アンプとスピーカーを通じて再生する方式でした。これにより、音質の向上とより高品質な録音が可能となりました。
 また、20世紀初頭から中頃、蓄音機用のレコードは徐々に改良され、再生時間が延び、音質も向上しました。最初は78回転のシェルアック製レコードが主流でしたが、後に33 1/3回転のビニール製レコード(LP)と45回転のシングル盤が登場しました。
 その後、1960年代にはカセットテープが普及し、1980年代以降は、デジタル技術の進歩により、音楽の録音・再生がデジタル化されましたCD(コンパクトディスク)の登場によって、高品質な音楽再生が可能になりました。2000年代以降になると、インターネットの普及により、音楽の配信とストリーミングが一般化しました。

       ボーイ・ソプラノの録音の発展

 ボーイ・ソプラノの録音技術は、時代とともに進化してきました。ボーイ・ソプラノの録音に関する変遷を挙げると次のようです。
 録音技術の初期段階(19世紀末~1924年頃)では、機械によるアコースティック録音が主流でした。これは、演奏家(ボーイ・ソプラノ)が大きなラッパ型の録音ホーンに向かって歌い、音は蓄音機の録音針によって直接刻まれるという方法です。この時期の録音では、ボーイ・ソプラノの声もアコースティックな環境で録音されました。
 電気録音技術の普及により、ボーイ・ソプラノの声をより忠実に録音することが可能になりました。1920年代から1930年代にかけて、マイクロフォンとアンプの技術が進歩し、声の微細なニュアンスや表現力を捉えることができるようになりました。また、ボーイ・ソプラノの録音は、それ以降、スタジオ環境で行われることが一般的になりました。スタジオの設計や音響処理の改善により、ボーイ・ソプラノの声をよりクリアに録音することができるようになりました。また、マルチトラック録音技術の発展により、複数の音源を分離して録音することが可能になりました。これにより、ボーイ・ソプラノの声を他の楽器やバックグラウンドボーカルと組み合わせて録音することができるようになりました。
 この時期の初期に該当するボーイ・ソプラノは、アーネスト・ロフ(Ernest Lough 1911~2000)が挙げられますが、著名な英国国教会員のエルドン・バンクス判事は、ロフの所属するテンプル聖歌隊がレコードを作るべきだと提案しました。 1927年3月15日、グラモフォン社は新しい移動録音装置をテンプル教会に持ち込み、聖歌隊がフェリックス・メンデルスゾーンの「私の祈りを聞いてください」を録音しました。 当時15歳だったロフは、有名なソロ「O for the Wings of a Dove(鳩のように飛べたら)」を歌いました。 マイクに十分近づくためには、二冊の大きな本の上に立つ必要があったと言われています。なお、この録音は1962年までに100万枚以上売れ、RIAAからゴールドディスクを授与されました。HMVは 1927年6月にこのレコードを発売しました。これはすぐにヒットし、1927年のHMVの最大の売り上げとなりました。これにより、この曲、合唱団、ソリストのアーネスト・ロフが世界的に有名になりました。 日曜日の礼拝ではロフの歌を聞くために大勢の人々が教会に詰めかけ、録音された彼の歌声は非常に美しいと考えられ、最後の一音を歌い終えた後に亡くなったという伝説さえ生まれました。オリジナルのマスター録音が劣化したため、翌1928年にそれに代わる第2バージョンを録音する必要さえありました。なお、アーネスト・ロフは、他にも数多くの録音を行った後、1929年に変声期を迎えました。
 1972年より始まったデジタル録音技術の普及により、より高品質なボーイ・ソプラノの録音が可能となりました。デジタル録音はアナログ録音よりも正確な周波数再現ができるため、ボーイ・ソプラノの声の細部や微妙な表現をより忠実に捉えることができます。また、音響処理技術の進歩により、ボーイ・ソプラノの声のエコーやノイズを効果的に制御することも可能となりました。また、レコードも1948年頃からSPからLPへと徐々に変化してきました。
 以上のような要素が組み合わさり、ボーイ・ソプラノの録音技術は進化してきました。現代の録音技術では、高品質なマイクロフォンや録音機材を使用し、スタジオ環境や音響処理を最適化することで、ボーイ・ソプラノの声をより鮮明に録音することが可能になってきました。

 なお、この分野のYouTubeチャンネル“BoySopranolover2”に、
「最近、ボーイ・ソプラノの歴史研究家がアーネスト・ロフ以前の人物に関する伝記情報を探しています。」
という紹介文がありました。“BoySopranolover2”は、現在消えていますが、この分野の世界的な研究家のスティーヴン・ビート(Stephen Beet)氏、ブライアン・ピアソン(Brian Pearson)氏からの情報によると、その少年の名は、ウォルター・ローレンス(Walter Lawrence)。ニューヨーク州マンハッタンのオール・エンジェルス・プロテスタント聖公会のボーイ・ソプラノ・ソリストで、1912年8月20日から1914年3月16日までコロンビアで録音した人物ということが判明しております。当然、時代的にアコースティック録音になります。
 ウォルター・ローレンスについては、アメリカ人のボーイ・ソプラノにもかかわらず、アメリカの誰もが彼の出自等がわからず、ネットにもあげてないため、現在判明していることは、① 当該教会から歩いて2.3分の距離に住んでいたその少年とおぼしき年齢の少年がいたこと、② 1900年代初期の連邦国勢調査には、ウォルター・フレデリク・ローレンス(1898~1983)の名があったこと。③ 1912年10月号のTalking Machine World(蓄音機の世界)誌にその年の8月に13歳で録音したWith verdue cladという曲とVillanelleという曲が紹介されていたことがあります。
Walter Lawrence "A spring morning "(columbia2517) (1914)   https://www.youtube.com/watch?v=JpOaw7wUadw
Walter Lawrence "Summer (Chaminade) "(columbia2517) (1914)   https://www.youtube.com/watch?v=g-YhU_9dJts

   ウォルター・ローレンスの録音の1年後、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグのトリニティ教会(現在のトリニティ大聖堂) のボーイ・ソプラノウィリアム・ピッケルズ(William Pickels)が、オペラ『ラ・ボエーム』の第2幕で、「ムゼッタのワルツ」という名前で知られる「私が街を行けば」などを録音しており、アメリカにおいて、ボーイ・ソプラノの録音はなされていたことがわかってきました。ただ、ウィリアム・ピッケルズのプロフィール等については不明です。なお、この直後ぐらいの第一次世界大戦後(1918~1920)に、通称「スペイン風邪」と呼ばれるインフルエンザが世界的に流行しました。そのような意味で、アーネスト・ロフ以前のボーイ・ソプラノの録音は存在することになります。
William Pickels  "Mattinata (Morning Serenade)"(Victor)(1915https://www.youtube.com/watch?v=fKXTOCP2Bu8
William Pickels  "Love in springtime" (1915)https://www.youtube.com/watch?v=GdXW73vIRKI
William Pickels"Musetta Waltz" from Boheme (Quando me'n vo) (Victor 17876) (1915) https://www.youtube.com/watch?v=zz7xLF68Z4I
William Pickels "Just A-Wearyin' For You" (Victor 17905) (1915) https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=8jJS9IzNnLk

   少年合唱の録音技術は、時間の経過とともに大きな進歩を遂げてきました。前述したアーネスト・ロフとその所属するテンプル聖歌隊の録音は、新しい移動録音装置をテンプル教会に持ち込んで行われました。ウィーン少年合唱団の録音は、1928年に始まったという記録もあり、第二次世界大戦前にアメリカで録音されたレコードはCD化されています。そこで、以下に、その発展のいくつかの要点を挙げます。
  アナログ録音: 初期の時代、少年合唱の録音はアナログ技術に依存していました。テープレコーダーやビニール盤(LP)などが使用され、スタジオでの生録音が主流でした。録音技術そのものは比較的限られたものでしたが、録音機材の改良により、より高品質な録音が可能になっていきました。
 デジタル録音: デジタル技術の普及に伴い、1980年代以降、少年合唱の録音はデジタル録音に移行していきました。デジタル録音はアナログ録音に比べてノイズが少なく、音質がよりクリアになる特徴がありました。また、デジタル処理により編集やエフェクトの追加が容易になり、より多様な音楽表現が可能になりました。
 音響技術の進歩: 録音スタジオの音響技術も大きく進歩しました。マイクロフォンの品質向上、音響処理の高度化、スタジオの防音設備など、よりリアルで鮮明な録音が可能になりました。また、ステレオ録音からマルチチャンネル(5.1chや7.1chなど)のサラウンド録音への移行も進みました。
 インターネットとデジタル配信: インターネットの普及により、少年合唱の録音はオンラインでの配信や販売が一般的になりました。音楽ストリーミングプラットフォームやダウンロードサイトを通じて、世界中の人々に少年合唱の音楽が届けられるようになりました。また、ソーシャルメディアの台頭により、録音された音源やパフォーマンスがより広く共有されるようになりました。
 これらの進歩により、少年合唱の録音はより高品質かつ広範囲に提供されるようになりました。

     (7) 映画『カストラート』とカウンター・テノール

 平成7(1995)年、パリで大ヒットしたジェラール・コルビオ監督の映画『カストラート』が日本でも公開され、日本でもにわかにカストラートやカウンター・テノールに対する関心が高まってきました。それに関連した本も数冊発行されました。ファリネッリの伝記を脚色したこの映画は、絶滅したカストラートの声を再現するために、現在活躍中のカウンター・テノール デレク・リー・レイギンが低音部を担当、その声に合うソプラノ エヴァ・マラス=ゴドレフスカが高音部を担当して、その声をフランス国立現代音楽研究所の音声分析班がコンピュータを駆使して統合して創ったといういわくつきのものです。映画に先だって発売されたサウンドトラックのCDを聴いただけでは、歌が機械的に聞こえることもありました。しかし、映画そのものはヒューマンなもので、その主題は、兄によってカストラートにされたファリネッリが単なるテクニック・マシーンではなく人の魂を揺さぶる音楽家に成長しようとする苦悩でした。そして、そのターニングポイントになる歌が、有名なヘンデルのオペラ「リナルド」の「涙を流させてください」です。それまでの、声のきらびやかさをひけらかす歌と違って、本当に聴かせる歌を歌っています。とはいえ、このようなことは映画だからできることで、今、それに近いものを求めようとすれば、カウンター・テノールの優れた歌手の歌を聴くほうがよいでしょう。
 ヨーロッパで、カウンター・テノールの伝統を作ったのは、イギリスのアルフレッド・デラー(1912~1979)であり、その後前述したヨッヘン・コヴァルスキを始め、ジェームス・ボウマン、アンドレアス・ショル、ルネ・ヤーコブス、ジェラール・レーヌなどの優れた歌手が相次いで登場しました。とりわけ、フランスのドミニク・ヴィスの歌は、不思議な魅力があります。その声はボーイ・ソプラノの延長線上にあり、それよりもう少し色気があるように感じます。大人の男だから当然と言えば当然でありましょうが。カウンター・テノールには、テノール出身とバリトン出身があるようです。当然ながら、発声法も違うでしょう。さて、最近ではロシアのオレグ・リャーベツやエマニュエル・ツェンチッチのような男性ソプラノが少数ながら(世界に3人という説もありますが、実際にはもっといると考えられます。)登場してきました。この人には変声期はあったのだろうかなどと想像を掻き立てます。おそらく、ウィーン少年合唱団出身のツェンチッチは、ボーイ・ソプラノの発声を身につけて、それを変声後も磨き上げていったのではないでしょうか。
 日本でも、岡田孝、太刀川昭、米良美一などのカウンター・テノールが登場しましたが、特に若手の米良美一はマスコミにも多く登場し、その歌も次々とCD化され、『もののけ姫』では、一躍時代の寵児となりました。ところで、日本におけるカウンター・テノールの歴史は意外に古く、昭和8(1933)年に奥田良三がたった一曲残した「梅元節」が残っています。それにしても奥田良三の歌は、本領のテノールは言うに及ばず、カウンター・テノールも清潔で、心のある歌です。
 最近、日本でも男性ソプラノ(ソプラニスタ)岡本知高(1976~  )が、マスコミにもよく登場し脚光を浴びています。最初はビジュアル系の歌手といった外面的なことや、音域の希少さによって評価されている向きがありますが、CDのアリア集や日本の歌を聴くと、声楽的な基礎もしっかりしておりまた歌心もあります。東京オリンピック2020の閉会式では、英語で「オリンピック讃歌」を独唱し、神々しい歌声と高く評価されています。これからも、真摯な声楽家として評価されることを期待しています。また、藤木大地(1980~  )は、もともとテノールで出発しましたが<カウンター・テノールに転向し、2014年以来NHKニューイヤーオペラコンサートに連続出場しています。また、ウィーン国立歌劇場と3シーズン連続の客演契約を結び、2017年4月にアリベルト・ライマン作曲の『メデア』におけるヘロルド役で、日本人カウンター・テノールとして史上初めて同歌劇場にデビューし、現地メディアから絶賛されるとともに、ウィーンの聴衆からも熱狂的に迎えられただけでなく、日本人カウンター・テノールとして史上初めての快挙として、日本国内でも大きな話題となっています。この分野においても、国際的に高く評価される声楽家が誕生したことになります。

       (8) 癒しの音楽とボーイ・ソプラノ

 ストレスの多い現代社会の中で、「癒し」とか「ヒーリング」という言葉がもてはやされるようになってきました。21世紀が始まった頃には、「のほほん」という一見怠惰な言葉が共感されブームの様相を呈するようになってきました。しかし人生は緊張と弛緩のバランスこそ大切です。それが崩れたとき悲劇が起こります。そのような時代背景の中、この二十数年、「アダージョ」の音楽にそのような癒しの効果があるということで、器楽の分野では、カラヤン指揮の「アダージョ」などがベストセラーとなり、声楽の世界ではカウンター・テノールやボーイ・ソプラノに対する関心が高まってきました。イギリスの少年聖歌隊のトップ・ソリストを集めて組織された「ボーイズ・エア・クアイア」による「少年のレクイエム」「ビリーブ」「ブルーバード」やリベラの合唱曲がヒットした背景には、ボーイ・ソプラノに心を癒す何かがあることが分かってきたためではなかろうかと考えられます。人はいつの時代にも清純なものを求めていることが、このブームの中から感じられます。しかし、ブームは長続きするものではありません。永続していくためには、歌い手の育成とともにファンの定着化・質的向上も求められるのではないでしょうか。

        (9) より本物志向のボーイ・ソプラノを求めて

 前述した「ボーイズ・エアー・クアイア」は、1996年10月にロンドンで結成された少年合唱団で、セント・ポール大聖堂聖歌隊をはじめとする英国聖歌隊のトップ・ソリスト7人から8人の少数精鋭で構成され、変声期前の美しいボーイ・ソプラノで観客を魅了し続けましたが、世界的な広がりをもつに至らず、3度の日本公演はあったものの、2005年頃に活動停止しました。このグループは、音楽史的には、ヒーリング・ミュージックの系列に位置づけられるでしょう。
 また、セント・フィリップス少年合唱団を前身とする「リベラ」は、聖歌を基本としたユニークなサウンドを作るという方針に転換し、それに併せて名前を現在の「リベラ」へとと改名し、映画や世界のトップアーティストのアルバムにも参加することで、ボーイ・ソプラノの魅力を伝える独自な方向性を出して世界的な活躍をしています。また、テレビ・映画の主題歌への起用だけでなく、CM楽曲、挿入歌やBGMとしてもバラエティーやドキュメンタリー番組で多数使用されています。このようにしてみると、もとより柔らかい発声で聖なる世界を現してきたイギリスのトレブルの系列に属するボーイ・ソプラノの片手は、ヒーリングミュージックにつながっていると言えるでしょう。
 その一方で、21世紀になってからも、本格的なボーイ・ソプラノのソリストは、誕生しています。アロイス・ミュールバッハーや、ヨナ・シェンケルや、アクセル・リクヴィン等です。これらのボーイ・ソプラノは、少年合唱団(聖歌隊)出身ではありますが、そのトップソリストであるだけでなく、独自の世界を現出し、ボーイ・ソプラノ本来の魅力を表現しているように思います。アロイス・ミュールバッハーは、変声後もメール・ソプラノとしてオペラに進出し、アクセル・リクヴィンは、変声するまで一貫してバロックから古典派の音楽にこだわって演奏してきました。特にドイツ・オーストリア出身のボーイ・ソプラノは、オペラにつながる音楽を志向しているように感じます。
 これは、どちらの方向がよいというのではなく、ボーイ・ソプラノの志向性の差と言えるでしょう。21世紀前半は、より本物志向のボーイ・ソプラノを求めての模索が行われている時代と言えるのではないでしょうか。

      (10) 疫病と聖歌隊

 これまでも人類は、古くは天然痘やペスト、20世紀以降も、インフルエンザウイルスなどによるパンデミック(世界的大流行)を経験してきました。1918年~20年に流行し、世界で約6億人が感染したと推計されるスペイン風邪はその後消滅しましたが、1968年に始まった香港風邪は、季節性インフルエンザの一つとして今なお残っています。新型コロナの場合も、たとえ有効なワクチンが普及してもウイルスは消滅せず、人類は共存を迫られる可能性があります。そのような意味で、新型コロナウィルスは、「人類史上、最悪のウイルス」(感染症の専門家)と位置づけられつつあります。新型コロナは発症前や無症状の感染者からもウイルスが感染するため、感染拡大を防ぎにくいことが背景にあります。新型コロナは、中国で初の感染者が確認されてから1年余りで1億人以上が感染しました。新型コロナをめぐっては、イギリスなどで厳しい外出制限を課す「ロックダウン(都市封鎖)」が敷かれています。ただ、外出制限の違反者も相次ぎ、無症状の感染者らによる感染拡大を完全に止めるのが難しいようです。日本でも、与野党の妥協の産物で成立した「改正新型コロナ特別措置法と感染症法」がどれほどの効果をもたらすかは、未知数ですが、ヨーロッパでは、14世紀のヨーロッパ全土で広がったペスト禍の後に、北イタリアにルネサンスの芸術が開花しました。また、ペストは17世紀のイギリスや30年戦争時のドイツで大流行しましたが、この時期に既に存在した各国の聖歌隊は、どのようにしてこの時期を乗り切ったのだろうかということに関心が高まってきました。

 米田かおり(桐朋学園大学)は、『中世・ルネッサンス期の音楽と楽器』において、
「現在においては、趣味や娯楽、心の癒しとして音楽が親しまれていますが、中世ヨーロッパにおいては、社会的安定機能として音楽が非常に重要な役割を もっていました。人の流入の激しい商業地においては、娯楽と人々の心の安定として 教会でのコンサート活動がさかんに行われていました。教会において、祈りの中での音楽とりわけ歌は、耳を通して人々に信仰を伝える役目があり布教の手段として利用されていました。例えばグレゴリオ聖歌 のように初期の音楽は、言葉の抑揚だけで歌がつくられていました。その当時は、カトリックにおいては、オルガン以外の楽器は身分が低い者が使う物と考えられていた ので、神聖な音楽には用いられることはありませんでした。その後、聖歌隊の不足パートの穴埋めとして、管楽器が教会にはいりました。トロンボーン、ティンクが人間の声に近いため声の代わりに“補う”という意味 で用いられるようになったのです。楽器パートとしての演奏が加えられるようになったのは、16世紀の終わり頃からになります。それは、戦争や疫病の流行による聖歌隊の人手不足によるもので、社会的理由による必然的なものでした。」
と、語っています。

 このことから、疫病の流行は、歴史的にも聖歌隊を追い詰めたことがわかります。また、それを乗り越えてきたからこそ、今に残っているということも言えます。コロナ禍の今、世界の少年合唱団・聖歌隊が、練習・発表もままならないため、苦境にあることは、歴史的に見ても、繰り返されてきたことです。日本においては、インフルエンザは毎年多かれ少なかれ流行していますが、それによって少年合唱団が解散に追い込まれることはなく、解散は別の理由によります。今回、特に合唱やカラオケがクラスターの一要因であると言われ、世界の少年合唱団・聖歌隊でも、団(隊)員を集めることが難しくなっているとは思いますが、この困難を乗り越えて、合唱・歌の魅力を伝えることを願ってやみません。

      (11)レーゲンスブルグ大聖堂少年聖歌隊の近況から
 1000年の歩み、女性初採用へ ドイツの名門少年合唱団      2021年06月16日20時31分

 【ベルリンAFP時事】1000年以上の歴史を持ち、世界的に知られるドイツ南部レーゲンスブルクの少年合唱団 レーゲンスブルク大聖堂聖歌隊が、来年以降、初めて女性団員を受け入れる方針であることが明らかになった。大聖堂付属学校が15日発表した。

 聖歌隊は975年創立。現在まで存続する合唱団としては世界で最も古いものの一つで、ドイツ語の名称は「大聖堂のスズメたち」の意味を持つ。聖歌隊が所属するカトリック系付属学校は特に音楽に重点を置くカリキュラムで知られ、これまで少年と若年男性だけしか入学が許されなかった。
 初めてとなる女性隊(団)員は2022~23年の学年度から受け入れを開始。女性だけでつくる合唱団を創設する見通しだが、名称は未定という。
 首席指揮者の男性は、学校は「未来において考えられる限りの最高のポジションにわれわれを導く、そういった道を切り開いていく」と強調。女性隊(団)員は男性と「全く同じ扱いを受け、彼女たち自身の音をつくり出す」と期待を表明した。
 付属学校には現在、431人が在籍し、3分の2が寄宿舎で生活している。

 この記事だけでは、例えば、男女の混声合唱になるのか、それぞれ別の聖歌隊として活動するのか不明なこともあります。また、その背景として、男女(ジェンダー)平等やポリティカル・コレクトネス等に関する思想的潮流がどれほどかかわっているかもこの記事だけでは明らかではありません。
 伝統ある聖歌隊で初の女子合唱団公演 ドイツ

【12月24日 AFP】世界的に有名な少年聖歌隊を擁するドイツの学校で、創立1000年を超える歴史の中で初めて女子聖歌隊によるクリスマス公演が行われた。
 西暦975年に南部バイエルン(Bavarian)州レーゲンスブルク(Regensburg)で設立されたレーゲンスブルク大聖堂聖歌隊(Regensburger Domspatzen、「大聖堂のスズメたち」の意)は、現存する世界最古の合唱団の一つ。併設されるカトリックの寄宿学校と中等学校は、音楽に重点を置いた男子対象のカリキュラムで知られてきた。
 その同校が今年9月、女子にも門戸を開くと同時に女子聖歌隊を発足。入学した女子生徒33人はクリスマス前のアドベント(Advent、待降節)期間中の18日、伝統的なクリスマスソングによる初公演を行った。
 妹の歌を聞きに来たというネポムク・ディリツァーさん(17)は、かつて自分も少年聖歌隊のメンバーだったと話し、「新たな歴史が刻まれました」と語った。祖母のマーガレット・ディリツァーさんは、学校側が女子に門戸を開いたことを称賛し、「男女の平等は重要です」と語った。
 現在、混声合唱団立ち上げの予定はなく、女子聖歌隊の出番はレーゲンスブルク大聖堂の日曜礼拝に限られる見込みだが、首席指揮者のクリスチャン・ハイス(Christian Heiss)氏は、活動範囲が男子と同程度まで広がることを期待している。

   このニュースを観れば、男女の合同混声合唱ではなかったようで、女子聖歌隊だけの演奏だったようです。ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート2023は、ウィーン少年合唱団、ウィーン少女合唱団が、合同で出演し、演奏しましたので、そのような動きがみられるかと思いましたが、そこまではいかなかったようです。しかし、この傾向は、広がりを見せる可能性がありますので、注視する必要があります。

      (12) ヨーロッパにおける聖歌隊の少年少女混声合唱団化の動き
   
 「なぜ男の子だけが歌えるの? 350年間だれもしなかった改革に踏み出した合唱団」という題で、ニューヨークタイムズのアレックス・マーシャル(Alex Marshall)記者は、2022年8月19日に、イギリスケンブリッジのセントジョンズカレッジ合唱団における少年少女混声合唱団への移行の動きをレポートしています。https://globe.asahi.com/article/14684486
    イギリス ケンブリッジのセントジョンズカレッジ合唱団を率いる音楽監督アンドリュー・ネスシンハは、女子を合唱団に入団させ、350年間だれもしなかった改革に踏み出しました。イギリスにおいて、あまり知られていないスコットランド・エディンバラの聖マリア聖歌隊などが、1970年代に少年合唱団から混声合唱団に移行していましたが、まだ少数に限られていました。イギリスでは、音楽と暮らしという点では少年の聖歌隊は象徴的な存在にもなっており、少年たちは、聖歌隊と関係する学校に学費免除で通っていました。ちなみに、セントジョンズカレッジの少年合唱団の子どもたちは、17世紀に創建された学校を母校としています。
 1990年代には、多くの大聖堂が少女合唱団を独自に結成するようになってきていましたが、これは、少年少女混声合唱団ではありません。そのような意味で、この決断は、現在も賛否両論を生んでいます。ただ、現状では、イギリス大手合唱団の多くは、日常的に混声活動をすることはないようです。例えば、ロンドンのセントポール大聖堂合唱団は2022年5月、独自の少女合唱団を2025年に結成すると発表しました。
 少年合唱団の混声移行について苦悶しているのは、イギリスだけではありません。ドイツではベルリン最古の少年合唱団の一つに女子(9歳)が入ろうとして、2019年に裁判所が認めなかったという判例もあります。合唱団と言っても、その実態は聖歌隊であり、その聖歌隊が所属する教会を支えるのは信者ですから、その意見も無視できません。なお、ニューヨークタイムズは、かねてよりリベラル(民主党左派的な)な論調を持ち、それは、とりわけ政治記事と社会記事において顕著ですから、この記事も、少年少女混声合唱団を推進する立場から書かれているということも考えられます。一方、この問題を、男女平等の考えというより、キリスト教会自体の衰退にあると捉え、教会に人が集まらなくなり、聖歌隊の人員も少ないので、それを「補欠」するには、女性を入れるしかなくなったという説を唱える人もいます。そこで、この問題については、幅広い意見を収集していきたいと考えております。
   2023年10月時点の情報では、スペインのモンセラート少年聖歌隊も女子合唱団を加えた体制に変わるようです。ただ、少年少女聖歌隊を作るわけではありません。少女合唱団をつくることによって、少年聖歌隊は、毎週末のミサを少女と交替で行うことができることになるようです。これは、やがて、混声合唱を目ざしているのかどうかは現時点では不明です。
 近年発覚したカトリック教会での聖職者による性虐待スキャンダルは、フランスやスペインでも数多く起きていることが明らかとなり、そのようなことを含め、教会の権威が低下してきています。また、ポリティカル・コレクトネスの思想が浸透することによって、女子の参加を拒否することができにくくなっていることを感じます。今年(2023年)のウィーンニューイヤーコンサートで、ウィーン少年合唱団が少女合唱団と共演しましたが、これも音楽的というよりも政治的なものではないかと思っています。
 日本において、少年合唱団が少年少女合唱団になった原因は、少年(男子)の人数不足が主ですが、その結果、団員のほとんど全員が少女になってしまったところもあります。近年、学校などで名前を呼ぶときの敬称に、以前は、男子に「君」、女子に「さん」を用いていたのを、男女とも「さん」で呼ぶこと多く行われるようになってきました。令和の小学生は、名簿も男女混合が主流ですが、これらも、ポリティカル・コレクトネスの考えが根っこにあります。
https://theworld.org/stories/2023-09-26/spain-all-boys-choir-finds-new-tune-and-admits-girls


       偽作その1  「猫の二重唱」

 長年にわたって、ロッシーニ(1792~1868)作曲の作品と言われていた「猫の二重唱」は、最近になって偽作であったことがわかってきました。さて、「猫の二重唱」において特徴的なのはその歌詞で、すべて猫の鳴き声「miaou(ミャーオ)」のみで作られているところです。この曲はロバート・ルーカス・パーサールという作曲家が、フリードリヒ・ヴァイゼの「Katte-Cavatine 猫のカヴァティーナ」という作品を編曲したもので、その中で、曲の中間部分の8分の6拍子部分はパーサール本人の作曲、最後の早い部分のメロディはロッシーニの歌劇「オテロ」の第2幕の“Rodrigoロドリーゴのアリア”から引用、といった風に曲同士を合体させて「猫の二重唱」が作られたのです。ロッシーニが、ユーモアにあふれた人柄で、また、自分の曲を他の曲でも使い回しすることも多く、使い回しの名人であることから、ロッシーニ作曲と言われても、疑う人がいなかったのではないでしょうか。初めの楽譜はパーサールが1825年にG.Bertholdというペンネームで出版したのですが、最後の部分のメロディが有名だったせいで、1971年にSchott Musicから出版された楽譜で『ロッシーニの作曲』と誤解されて広まったようです。なお、ロッシーニは、2月29日生まれですから、80歳になってやっと成人ということは、・・・あるわけないよね。それでは、パリ木の十字架少年合唱団の二人のソリストによる二重唱をお聴きください。

PCCB - Le duo des chats      https://www.youtube.com/watch?v=EjtVDG0drG0


     2 ボーイ・ソプラノのエピソード

 前節がボーイ・ソプラノの歴史におけるいわゆる「正史」なら、本節は古今東西のボーイ・ソプラノのエピソード(逸話)を集めた「外史」です。従って、録音をもとにその歌唱の特性を書くのではありません。この人の少年時代には、こんなこともあったのかと興味本位で読んでいただければよいと考えます。このたび、日本編と外国編に分けて、年代順に書き直してみました。

 日本編 

      (1) 小学生時代から学校にファンがいた田谷力三

 浅草オペラのスーパースターとして、89歳で亡くなる直前まで生涯現役を貫いた田谷力三(1899~1988)は、東京市神田区(現・東京都千代田区)に旗本の血を引く家系の家に生まれました。幼時から広目屋(チンドン屋)の後をついていくような音楽好きな子どもだったようです。家が没落したため学資の不要な場所を求めていた10歳の時に、日本橋にある三越で少年音楽隊に出会い、すぐに「三越少年音楽隊」に入門。当初はヴァイオリン、ホルンなどの器楽を学びましたが、既に楽器経験者の団員が多かったため、はじめは成績優秀ではなかったようです。市立練成尋常小学校に入学して、音楽の時間は、「庭の千草」や「才女」(アンニー・ローリー)などの唱歌をきれいなボーイソプラノで力三が歌うと、教師をはじめ生徒はうっとりと聞き惚れ、廊下にはほかの組の先生や生徒たちが立ち止まって耳を澄ましていたそうです。中学卒業後、V・ローシー(ヴィットリオ・ロッシ)にその天性の美声を認められて声楽家として早くも頭角を現しました。1917年に18歳のときにローヤル館でオペラ歌手として満を持してデビューし、その後浅草オペラで金龍館を中心に活躍し、鈴の音のように美しい頭声で響かせる高音は絶品で、一世を風靡しました。関東大震災で、浅草オペラが壊滅してからも、(昭和6(1931)年には、トーキー映画『巴里の屋根の下』の主題歌も歌い、占領中も米軍キャンプで歌い、その後も、「恋はやさし」など浅草オペラの歌を歌い続け、亡くなるまでその歌声は衰えませんでした。
https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0016010158_00000

      (2)讃美歌をほめられたことがきっかけで声楽の道に進んだ奥田良三

 昭和の日本を代表するテノール歌手として活躍した奥田良三は、明治36(1903)年、北海道札幌市の開業医の家の生まれました。声楽家を志したきっかけは、長兄、祐安と北大生、植村泰二の影響で音楽開眼し、小学校6年生のクリスマスのとき植村のオルガン伴奏で札幌独立基督教会で「ああベツレヘムよ」などを歌いました。当日、無事に歌い終わると植村さんたちが盛んに「いい声だ」とほめたので、「ひょっとして僕は、声楽家に向いているんじゃないか」考えるようになったそうです。その頃から、レコードで聴いた世界一流声楽家のテノールの歌声に魅せられました。両親の反対を押し切り15歳で単身上京。3年間の受験勉強を経て大正11(1922)年に東京音楽学校(現:東京藝術大学)に入学します。しかし、まもなく発生した関東大震災で国内での勉学を断念しイタリア留学を決意。体の小さい自分にはオペラは向かないと考え、歌曲の修行に励み、一時帰国の折にリサイタルで楽壇デビュー。さらにドイツ留学を経て帰国後は、演奏会、レコード、ラジオで、クラシックからポピュラー、歌謡曲まで幅広いレパートリーで人気を集めました。戦後は全国の学校を巡回して演奏会を開き、日本の叙情歌や唱歌の魅力を伝え、さらに横浜国立大学や昭和音楽大学などで教鞭をとり、歌の言葉と、歌う心を大切にすることを説き、多くの音楽家を育てました。 90歳の誕生日にシューベルトの「美しき水車小屋の娘」を歌い引退する予定でしたが、その直前平成5(1993)年に亡くなられたのは、惜しまれます。

      (3)レコード吹込み計画もあった小学生の芦野宏

 シャンソン歌手で、声楽家の芦野宏(1924~2012)は、紅白歌合戦10回という出場記録も残っています。親類縁者にはだれ一人音楽をやる人間がいないのに、小学校に入るころから歌うことが好きで、初めて大勢の人の前で歌ったのは、小学校3年生の学芸会の舞台で「春の小川」を独唱したことです。学芸会には、4年生、5年生のときも歌ったそうですが、曲名は覚えていないそうです。4年生のときに、音楽の平松たか子先生が家の応接間に現れて、某レコード会社からの吹き込みの申し出の話ありましたが、
「男子のすることではない。」
という父の一口で中止になったそうです。

   (4) 小学生の頃からファンができた五十嵐喜芳のボーイ・ソプラノ

 日本声楽界の大御所で、昭和音楽大学学長で新国立劇場オペラ芸術監督でもあった五十嵐喜芳(1928~2011)が、少年時代からすばらしいボーイ・ソプラノであったことは、自伝のエピソード等によってかなり知られています。音楽との出会いは美しい声を持った母に連れられて、外国の音楽映画を見たことも大きな影響を与えたと考えられます。小学校の二年生の頃、甘いテノールのヤン・キープラが主演した「今宵こそは」や、ディアナ・ダービンが主演した「オーケストラの少女」は、特にお気に入りだったそうで、彼女の歌うモーツァルトの「アレルヤ」のレコードを買ってもらい、それに合わせて歌ったこともあるそうです。
 この映画を1日4回、合計10回見たという近所のおばさんは、学芸会で五十嵐少年が独唱することになると、家まで応援にきてくれたり、当日は一番前の席にきて、聞いてくれたりしました。後年、「我らのホープ」と呼ばれ、テノールの至宝として多くのファンをもつことになった五十嵐喜芳のファン第一号は、このおばさんと言えましょう。

     (5) 天性の舞台度胸 フランキー堺のボーイ・ソプラノ

 喜劇俳優、ジャズドラマー、落語家、脚本家、大学教授など、多才な活躍をしたフランキー堺(1929~1996)の本名は堺正俊。鹿児島市に生まれた堺は、父親が音楽好きで、小オルガンやレコードのある当時としては音楽的環境に恵まれた家庭で育ちました。鹿児島県立男子師範附属小学校に入学した当初から非凡なボーイ・ソプラノとして注目され、1年生の学芸会で「汽車」を独唱しました。翌年、日本放送協会鹿児島放送局が開局しますが、開局記念として地元小学生による合唱番組が放送されることになります。堺少年も選抜されて参加することになりますが、にわかづくりの合唱団の中で1年生は一人だけ。本番の「鯉のぼり」では、緊張のため歌詞を忘れてしまいますが、口パクで切り抜けたそうです。このあたりに、天性の舞台度胸を感じます。
  翌年には全九州小学生歌唱コンクールの鹿児島県代表として、ラジオ放送で独唱するという晴れがましい場を与えられることになります。今度は緊張することなく「背くらべ」と「太平洋行進曲」を歌い終えます。指導の先生からは別な選曲をという声もありましたが、堺少年は、「太平洋行進曲」を歌った波岡惣一郎の華麗な歌いっぷりに心酔しており、たいへんお気に入りだったそうです。しかし、この歌は軍歌でもあり、小学生らしくないという理由からか、残念ながら入賞を逃してしまったそうです。

     (6)  中学時代は、声楽部に入っていた黛敏郎

 黛敏郎(1929~1997)は、昭和後期を代表するクラシックと現代音楽の作曲家ですが、昭和4(1929)年神奈川県横浜市に船長の息子として生まれ。家にはオルガンがあり、幼少期から楽器を鳴らすことと音楽を聴くことが好きでした。昭和10(1935)年、横浜栗田谷小学校に入学。翌年には母の女学校時代の友人に自ら望んでピアノを学び、3~4年間師事したそうです。高学年の頃には、下總晥一の『和声学』などで独習しつつ、ピアノ曲、歌曲、室内楽曲など20~30曲を作曲しました。1941年(昭和16年)、旧制横浜一中(現在の神奈川県立希望ヶ丘高等学校)に入学。美しいボーイ・ソプラノであったことから、声楽部に入って合唱やハーモニカバンドで活動しました。東京音楽学校(現東京藝術大学)に入学して、橋本國彦、池内友次郎、伊福部昭に師事しています。後年作曲家となってからの作品は、ジャズの影響を受けた前衛音楽や、『涅槃交響曲』をはじめ、大作映画『天地創造』、オペラ『金閣寺』などの作品もありますが、一般の人には、日本テレビ系の「スポーツ行進曲」が一番よく知られており、『題名のない音楽会』の初代の司会者としての活動が一番なじみがあるのではないでしょうか。

       (7) 『われは海の子』と不思議な縁があった坂本博士

 80歳を過ぎても現役の声楽家でサカモト・ミュージック・スクールの校長でもあった坂本博士(ひろし 1932~2022)は、もともと両親や祖母が音楽好きだったので、4歳でピアノを始めるなど自然と音楽に馴染んで育ちました。ところが母が、小学校4年生の時亡くなりました。学校で母の危篤を告げられて帰宅した坂本は、まだかすかに息のある母がこよなく愛した海洋少年団の制服に素早く着替えると、母に敬礼しながら、母が大好きだった『われは海の子』を歌いました。ところがその後に、海洋少年団の中から代表の一人に選ばれてNHKで歌うことになったとき、そこで歌ったのが『われは海の子』だったそうです。しかも、放送前の練習に指導に来られたのが、当時有名な声楽家にして音楽教育の第一人者・城多又兵衛先生で、やがて、中学生になってから師事し、坂本博士の生涯の師となります。

     (8) 加賀美一郎のボーイ・ソプラノに衝撃を受けた美輪明宏

  シャンソン歌手、俳優、演出家はもとより、身上相談まで多才な活躍をしている美輪明宏(1935~   )は、自伝「紫の履歴書」で、少年時代における音楽との出会いを語っています。長崎の水商売の家で育った美輪明宏は、美しい自然や洋風の文化と共に、社会的地位のある人の裏表や原爆で荒れ果てたまちを見て育ちます。10歳のとき、校則違反で行った映画「僕のお父さん」に出演していた加賀美一郎のボーイ・ソプラノに衝撃を受けて、バリトンの一ノ瀬克己に師事して歌を学ぶようになり、エンリコ・カルーソーやベニアミーノ・ジーリのようなオペラ歌手かコンサート歌手を夢見る少年へと育っていきます。実際に童謡よりは、「スワニー川」「埴生の宿」「シューベルトの子守歌」の方が好きだったようです。さらに、中学では、シューベルトの「鱒」「アヴェ・マリア」から、ヴェルディの歌劇「椿姫」の「ああそは彼の人か」、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」の「恋とはどんなものかしら」まで歌ったといいますから、その実力は相当なものだったと推測できましょう。また、シャンソンとの出会いも中学生のときでした。
 美輪明宏は、日本におけるシンガーソングライターのはしりでもあります。歌と人生が結びついたその作品のすばらしさは、代表作でもある「ヨイトマケの唄」や「ふるさとの空の下で」で遺憾なく発揮されています。また、77歳で紅白歌合戦初出場・3年連続出場という記録ももっています。

       (9) 鶏の鳴き声を聴き分けた内藤國雄

  内藤國雄(1939~    )は、将棋棋士で15才で故・藤内金吾八段に入門し、昭和49(1974)年に9段に昇格。阪田三吉の孫弟子にあたり、“自在流”と呼ばれる豪胆な棋風で知られ、多くのファンを魅了していましたが、余技である演歌歌手としては、昭和51(1976)年から翌年にかけて「おゆき」が100万枚以上を売り上げる大ヒットとなりました。歌手名表記は「内藤国雄」。当時は、テレビ、ラジオ出演とタレント顔負けの大活躍。また執筆活動でも優れた才能を発揮。その多彩ぶりは将棋界に新風を吹き込み、またかつての棋士特有のイメージを払拭した新しい棋士像を広くアピールしました。桂文枝(当時は桂三枝)との対談で、少年時代のことを語っていますが、小学校5年生のころはニワトリの飼育に凝っており、大人になったら養鶏場主になろうと思ってニワトリの本を買ってきては勉強していました。また、ニワトリの言葉が分かるとのことで、卵を産む直前のメスのニワトリの声や、危険を知らせる声など子供の頃から聞き分けていたということで、ニワトリの言葉で盛り上がっていました。このことから、耳のよいこともわかります。なお、「おゆき」が突出して有名ですが、8枚のシングルレコード、4枚のアルバムもリリースしています。

      (10) 上高田少年合唱団出身の高橋元太郎

 長寿番組を超えて、国民的時代劇となった「水戸黄門」において、30年間にわたってうっかり八兵衛役を演じてきた高橋元太郎(本名 風間元太郎 1941~   )が、1960年代初頭スリーファンキーズの一員として、またソロ歌手として活躍していたことを、同時代を生きてきた人はかなりよく知っています。ところで、、その音楽のルーツは、中野区立上高田小学校の4年生ときに上高田少年合唱団に入団したことにあるといってもよいでしょう。その辺りの詳細は、自伝「うっかり八兵衛半生記」に描かれています。1学年2クラスで合唱団員に選ばれるのは7~8人ということですから、子どもたちは選ばれることに誇りをもっていたことでしょうが、高橋は「選ばれたことの嬉しさより、あの紺の半ズボンと白のワイシャツを着られることに、小躍りしたことを昨日のことのように思い出します。」と書いています。また、奥田先生の指導については、「非常に温厚な先生で、身ぶり手ぶりで、発声方法から楽譜の読み方までいろんなことを教えてくださいました。練習は毎日、放課後に行われましたが、いろんな新しい歌と出会えるために、毎日うきうきしながら学校に通ったものでした。それにしても音楽の力というのは恐ろしいものです。たとえば私が今日覚えたての歌を家に帰って歌うだけで、見違えるように家が明るくなり、母や祖母の1日の疲れが癒えていくのが目に見えるようでした。パートはソプラノで、入団した年、上高田少年合唱団は、毎日新聞社主催の「第4回全国日本学生音楽コンクール東日本大会で優勝を飾ったそうです。なお、上高田少年合唱団が、ラジオで「赤胴鈴之助」や、童謡・唱歌を歌って全国的に知られるようになるのは、その後のことになります。

    (11) 変声期がなかった?小田和正

 J-POP(ニューミュージック)界に長く君臨する小田和正(1947~     )は、女声域までもファルセットを使わずに出せる澄んだ歌声が大きな特徴です。そのため、オフコース初期には、バンドに女性ボーカルがいると間違われることもしばしばだったと言います。(古くはムードコーラスグループのマヒナスターズにもそういうことがありましたが、これはハワイアン特有のファルセットです。)さて、小田和正のボーイ・ソプラノがそのまま残っているような歌声に対して、変声期を経ずに成長したのではないかとの見方もあります。この点について、本人はインタビューに答えて、「声変わりはした記憶がないですね。ようするにちっちゃい時から、ずっとこんな声だね、たぶん、かすれてて。そいで、そのまんまだね。」と述べていますが、2005年のコンサートの中では、「医者に尋ねてみたが、声変わりしていないという事は有り得ないそうだ」と、その認識に変化があったことをほのめかしています。話す声はわりあい低く聞こえ、歌声とのギャップが大きいという声も聞かれますが、それは、ボーイ・ソプラノを維持しようと歌い続けていたために、高音域が開発されたのかもしれません。ボーイ・ソプラノからメール・ソプラノに移行した声楽家にも同じようなケースが見られます。

   (12) 協調性を身につけるため合唱団に入団させられた羽田健太郎

  平成19年6月2日に急死した作曲家、編曲家、ピアニストの羽田 健太郎(1949~2007)が、幼児期東京少年少女合唱団に在籍していたことは、かなりよく知られています。1歳の時に父を亡くし、母親と祖父によって育てられた羽田は、チャンバラ好きのわんぱく少年だったので、情操教育上よくないと考えた祖父の意向で歌を習わせられました。最初は独唱(童謡)のため、これでは協調性を学ぶことにはならないということで、東京少年少女合唱団に入れられました。しかし、そのパートの声域にも合わないことから、小学校2年生の時にはピアノに転向しています。従って、羽田 健太郎のボーイ・ソプラノがどのようなものであったのかを知ることができませんが、和声の基本と協調性をそこで身につけたのは確かでしょう。

    (13) 金沢少年合唱団出身の鹿賀丈史

 日本にも少年合唱団出身の声楽家はいますが、ミュージカル俳優で、「料理の鉄人」の司会などでもおなじみの鹿賀丈史が少年合唱団に所属していたことは、ファンの間では知られています。昭和25(1950)年、鹿賀は金沢市の大正時代から北陸唯一のゴム風船製造業を営む裕福な家庭の次男として生まれました。金沢市立材木町小学校入学してからは、今は解散した金沢少年合唱団に入団して、ボーイ・ソプラノとして活躍していました。ウィーン少年合唱団金沢公演の時、金沢少年合唱団代表として獅子頭の贈呈を行ったというエピソードも残っています。その後東京に2年あまり住んでいましたが、そのとき初めて見たミュージカルが一生を変えます。再び金沢に戻ってからは、金沢少年合唱団にも復帰して中学二年生まで所属していました。今では大柄で容貌魁偉といったイメージがある鹿賀ですが、当時は小柄で、変声期も遅かったそうです。その後、石川県立金沢二水高校でもコーラス部に所属し、毎年全国大会に出場し、将来は声楽家(バス・バリトン)をめざそうとしますが、音声障害のため断念します。しかし、歌への情熱は止まず劇団四季に入り、退団後も、舞台、テレビ、映画など多方面で活躍。歌手としてもレコード、CDを出しています。

     (14) 少年時代から歌もうまかったさだまさし

 現代の日本を代表するシンガーソングライターであると共に、タレントや小説家でもあるさだまさし(本名 佐田 雅志)は、昭和27(1952)年4月10日長崎市で生まれました。3歳よりヴァイオリンを習い始め才覚を現しますが、父の事業の失敗により、経済的に厳しい状況に陥りながらも、ヴァイオリンを続け、小学校5年生のとき毎日学生音楽コンクール西部地区(九州地区)大会で3位、小学校6年生で同大会2位となります。ヴァイオリン指導者として高名な鷲見三郎に認められ、小学校卒業後、中学1年生のときヴァイオリン修行のため単身上京するという人生遍歴は、自伝的小説『かすてぃら 僕と親父の一番長い日』や『ちゃんぽん食べたかっ!』に詳しく描かれています。フォーク・デュオ「グレープ」の頃から、少年時代は繊細なボーイ・ソプラノではなかったかと感じさせる歌を歌っていましたが、『「ちゃんぽん食べたかっ!』には、同級生の保と二人でクラス代表で歌わされたことが書かれています。

    (15) エド・サリバンショーにも出演した山本達彦

 J-POP(ニューミュージック)シンガーの山本達彦は、30歳を前に前半生の自伝『夜のピアノ』を出版していますが、昭29(1954)年に東京に生まれ、昭和35年暁星小学校入学しています。入学当時は、暁星小学校には今でこそ有名になった聖歌隊はありませんでした(昭和39年誕生)。2年生の時東京少年少女合唱隊に入隊しますが、自分から歌を歌いたいと思ったのではなく、小学校の先生と合唱団の先生が友人関係にあって、毎年何人かを推薦していて、たまたま選ばれたというのが実際ということです。しかし、それがきっかけで、テレビ番組に出演したり、レコーディングしたりするだけでなく、小学4年生の時には、アメリカでコンサートツアーを行い、世界のあらゆる芸術・芸能ジャンルのスターが出演するバラエティ番組 エド・サリバンショーにも出演するというなかなかできない体験をしています。ただ、合唱隊で学んだクラシック中心の音楽よりもビートルズなどのポップスの方に関心が移っていき、小学校卒業前後に変声期を迎えたこともあって合唱隊をやめ、中学生になるとバンドを結成ました。このように、児童合唱団出身で違うジャンルの音楽に進んだ少年もかなりいるものと考えられます。

    (16) 合唱も芸能界へのワンステップと考えた片岡鶴太郎

 昭和29(1954)年、荒川区西日暮里に生まれた片岡鶴太郎は、幼い頃から寄席好きの父に連れられて上野や浅草の寄席に行き、そのものまねを家や学校で披露して人気者になりました。これが高じて、小学校5年の時にテレビの素人参加番組「しろうと寄席」に出演し、動物のものまねで審査員の絶賛を受けました。この頃から“芸人”に憧れ、将来の仕事にしたいと思うようになっていきました。その頃、荒川区で少年少女合唱隊を作る話があり、音楽の先生に勧められてオーディションを受けたところ合格し、荒川少年少女合唱隊の一期生となりました。入隊の動機は、歌がうまいとか、音楽の成績が良いからということではなく、将来芸能界に入りたいので、少しでもそれに近い活動をしたいという気持ちからだったそうです。
 その後、声帯模写の片岡鶴八師匠のもとに弟子入りし、寄席で活躍した後、バラエティ番組「おれたちひょうきん族」出演で一躍人気者になり、さらにドラマ、映画で多くの賞を獲得するなど幅広い活躍を続けています。また、墨彩画でも毎年個展を開くなど幅広い才能を発揮しています。

      (17) 童謡歌手として出発した石井健三

 石井健三(1955~2019)は、東京都出身の声楽家(テノール)、ミュージカル俳優(元劇団四季所属)ですが、3歳より松田トシ(うたのおばさん)に師事して、最初は童謡を学んできました。幼年期キングレコードの専属童謡歌手として歌をレコーディングしています。その当時のエピソードは、亡くなられた今も残されている公式ブログの中のコラム「KENZO歴史秘話」に描かれています。
http://han-ni-ball.cocolog-nifty.com/blog/kenzo/index.html
 その後は、声楽の道に進み宗教曲、歌劇、歌曲、ミュージカルと幅広く活躍してきました。また、オペラ脚本を書くなどその周辺の分野でも活躍してきました。

     (18)  マルチタレント小堺一機の歌のルーツ

  ものまねなどの「お笑いタレント」としてだけでなく歌,ドラマ、舞台、ミュージカル、CM等、幅広く活躍している小堺一機(こさかい かずき)は、昭和31(1956)年千葉県生まれ。やがて東京に移り住み、東京放送児童合唱団に所属し、「歌はともだち」等のテレビ番組にも出演しました。タレントになった後も歌のうまさには定評があり、レコード、CDも数枚リリースしています。また、タップダンスの名手でもあることからリズム感においても非凡なものをもっていることがわかります。

     (19) 身体も夢もビッグだった佐渡裕

 日本の少年合唱団出身者で、音楽の道に進んだ人もかなり存在しますが、その中で世界的に有名な音楽家になった人と言えば、指揮者の佐渡裕でしょう。昭和36(1961)年京都市に生まれた佐渡裕は、母がピアノの教師をしながら声楽の勉強を続けていたこともあって、2歳頃から本格的なピアノのレッスンを開始。小学5年生からは京都市少年合唱団にも所属。小学6年生からはフルートを学び、小学校の卒業文集には「オペラ歌手になって世界の歌劇場で歌うか、ベルリン・フィルの指揮者になる」と書きました。現在187cmと巨漢ですが、小学6年生の時には既に175cmあったそうです。もう、変声期なんか乗り越えてしまっていたのでしょう。当時から身体も夢もビッグだったことがわかります。その辺りのことは、自伝『僕はいかにして指揮者になったのか』に詳しく載っています。しかし、当時の声質(パート)は著書からはわかりませんでしたが、同時期に団員だった方から第2ソプラノであったことを知らせていただきました。ただ、京都市少年合唱団は少年少女合唱団で、男子部(みやこ光)が、独立したステージをもつという伝統があります。なお、佐渡裕は、京都市で育ち、京都市少年合唱団で育まれたことを誇りとし、創立50周年の記念行事には中心的な存在として活躍をしています。

       (20) 北大路欣也の結婚式に聖歌隊として参加した香川照之

 俳優、歌舞伎役者、昆虫研究家(カマキリ先生)として有名な香川照之は、昭和40(1965)年東京都生まれです。小・中・高一貫教育の暁星学園の出身ですが、小学校時代に記憶した言葉、「困苦や欠乏に耐え進んで鍛錬の道をえらぶ気力のある少年以外はこの門をくぐってはならない。」という言葉が自分の人生の源となることに後に気づいたそうです。また、暁星小学校に通っているときは、カトリック信者ではなかったが、小学校3年から6年まで聖歌隊メンバーとして聖歌を歌っていました。さて、その頃のエピソードとして、暁星学園出身の北大路欣也が、校内の教会で結婚式をあげていたところに遭遇、「俺の記憶が間違ってなければ、11月3日。なぜ祝日に駆り出されなきゃならないんだ」と憤慨しつつも「教会で賛美歌を歌わされて、どうやら結婚式をあげているのは北大路さんだと気づいた。」ということをテレビ番組「ぴったんこカン・カン」打ち明けました。また「後にこの人に『出向を命ずる』と言われるとは…」と大ヒットドラマ『半沢直樹』で共演する北大路のセリフを真似て笑いを誘いました。

       (21) 愛唱歌は「小さな木の実」だった木山裕策

 木山裕策 (きやま・ゆうさく)は、昭和43(1968)大阪市出身。平成20(2007)年、テレビの歌番組に出演したことをきっかけに、平成21(2008)年2月にシングル「home」でデビュー。同年の第59回NHK紅白歌合戦に初出場しました。最近では、『F 守りたい君へ』を発売しています。なお、歌手活動は週末のみで平日は会社員として働いていましたが、令和2(2020)年にレコード会社を移籍し、現在は歌手活動と講演活動を中心とした生活を送っています。木山は、闘病生活を通してさらに深みを増した人間愛を歌ったメッセージ性のある歌を歌い続けています。さて、日経DUALのインタビュー記事によると、物心ついたときから、歌うことが大好きな少年で、道を歩くときは必ず童謡を口ずさんでいたそうです。お気に入りはNHK教育の『みんなの歌』で流れていた「小さな木の実」。ちょっとさみしげで、せつない歌が好みだったようです。小学生の頃は家で一人っきりで歌うのが日課だったそうです。また、高学年になると、さだまさしさんや松山千春さんの歌にはまってフォークやポップスを歌うようになりました。歌うのは、必ず「一人」。もともと内向的で一人でいることが幸せなのに加えて、僕は“みんなと歌う”ということが苦手だったんです。歌が大好きなくせに合唱は楽しめなかった。周りの友達とは声の質が合わなかった、ということもあると思います。声変わり前はボーイソプラノで高い声で、歌うと高い声をからかわれてしまう。だから音楽の授業では仕方なく歌っていたぐらいで、家に帰って好きな歌を一人で思いっきり歌っていました。誰の目も気にすることなく、自分のためだけに。」ということで、そのような豊かな内面性が歌にも反映しています。(出典:日経DUAL 2016.5.18)

      (22) ファルセットが自然に身についた森山直太朗

 森山直太朗(昭和48(1973)~    )は、シンガーソングライター、作詞家、作曲家、俳優など多方面で活躍していますが、ジャズトランペット奏者の森山久さんを祖父に、歌手の森山良子さんを母に持つ音楽一家に生まれ、幼少期から当たり前のように昭和歌謡曲を聴いて育ったそうです。森山直太朗の代表曲の一つに「さくら」がありますが、そこには、ファルセット(裏声)が使われています。森山直太朗が「男だからって裏声を出すことに羞恥心がなかったのはこの曲のおかげ」と語るのは、1977年にリリースされた石川さゆりさんの歌う『津軽海峡・冬景色』というエピソードもあります。しかし、少年時代はサッカーが上手く、プロを目指していた程。そのため歌手になる事は学生時代に考えたことがなかったそうです。

    (23) 「レ・ミゼラブル」初演に出演した山本 耕史

 俳優、歌手として活躍している山本 耕史(昭和51(1976)~    )は、0歳から赤ちゃんモデルとして活動していたため、年齢即芸歴という珍しい経歴を持っています。とりわけ、昭和62(1987)年、日本における「レ・ミゼラブル」初演において、少年革命家ガブローシュ役を務め、後年マリウス役も務めるなどミュージカル子役として出発してこの分野で大成したことは特筆されます。山本 耕史を全国的に有名にしたのは、トレンディドラマの「ひとつ屋根の下」の文也役です。もともとやり直しのきかない舞台俳優として出発したので、歌・踊り・演技には確かなものがあり、テレビ・映画・舞台に大活躍しています。また、平成17(2005)年NHK紅白歌合戦の白組司会に抜擢されたことは特筆されます。また、歌手としては、バンドを組み、自作楽曲をCD化しています。

      (24) 少年時代聖歌隊で歌っていた井上芳雄

 ミュージカル俳優として今脚光を浴びている井上芳雄は、昭和54(1979)年福岡市に生まれました。特に早期からの音楽教育を受けてはいませんでしたが、クリスチャンの両親のもとに生まれ、お腹の中にいた頃から教会へ通い、物心つく前から賛美歌を聴いていたことから、毎週日曜日には教会の聖歌隊に入って歌っており、その歌のうまさに注目する人もいました。小学4年生の時に家族で福岡で劇団四季のミュージカル『キャッツ』を見た感動が人生を方向付けます。中学1年生の時、父の仕事の関係で1年間アメリカに住むことになり、そのときに見たブロードウエーでのミュージカル体験が決定打となり、帰国後ダンスと歌のレッスンを開始します。福岡の高校に通いながら、東京藝術大学を目指し、月に1度、日帰りで東京でのレッスンも受けるようになり、東京芸術大学の声楽科に現役合格。しかし、声楽科はクラシックを勉強するところなので、基本はオペラが中心であることから、方向性に悩んでいたところ、大学2年生のとき、数少ないミュージカルの授業に舞台演出家の小池修一郎氏が講師としてやって来て、オーディションに誘われたのがきっかけで、デビュー作となるミュージカル『エリザベート』の皇太子ルドルフ役を獲得します。その後『モーツァルト』『ミスサイゴン』『ハムレット』などに出演しています。声質はテノールで、180cmの身長とあいまって希少価値があり、人気を集めています。ソロのCDも発売されています。平成30(2018)年1月3日のニューイヤーオペラコンサートでは司会者に抜擢されました。

      (25) ガブローシュ役から名優へ 高橋一生

  高橋一生(昭和55 1980~   )といえば、平成29(2017)年のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の小野政次、TBSドラマ『カルテット』の家森諭高と、全くタイプの違う役を演じ分け、各世代から高い評価を受けています。高橋一生は、平成2(1990)年、10歳の時に映画「ほしをつぐもの」に初出演し、子役としてデビューし、1991年には、東宝ミュージカル「レ・ミゼラブル」で、ガブローシュ役を熱演しています。そのような意味で、芸歴の長い役者と言えます。現在の高橋一生は、低めのややこもる声をしていますが、少年時代の声はどうだったのでしょう。高橋一生は、中学生の頃、スタジオジブリのアニメにも声優として『おもひでぽろぽろ』『耳をすませば』の2本に出演しています。特に『耳をすませば』は主人公の月島雫が想いを寄せる天沢聖司役が有名ですが、今の声とはかなり違います。ガブローシュ役から大人の俳優として大成している人も出てきていますので、今後に期待しましょう。

       (26) 帝国劇場最年少で主役を演じた黒田勇樹

 黒田勇樹(昭和57 1982~   )の名前を聞いて何を思い出すかはその人によってかなり違うのではないでしょうか。黒田勇樹は、1歳からモデルとしてCMや雑誌などで活動していましたが、その後、昭和63(1988)年にNHK大河ドラマ『武田信玄』で信玄の孫・武田信勝役で、俳優活動を始めています。音楽の世界では、平成元(1990)年に帝国劇場のミュージカル『オリバー!』で2792倍のオーディションを経て8歳で主役のオリバーに抜擢され、帝国劇場最年少で主役となっています。舞台だけに、当時の舞台映像などを見ることは難しいですが、ポスターやパンフレッドで、その可愛い姿を見ることができます。また、平成4(1993)年 写真家安珠の写真絵本『星をめぐる少年』や平成7(1996)年 写真集『眠らない夢』にその少年時代の姿を見ることができます。ところが、平成6(1994)年、ドラマ『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』にいじめの主犯格の同級生・武藤和彦役として出演し、最高視聴率28.9%を記録するものの、同級生を死にまで追い込むえげつないいじめをする役は、悪役としてのイメージをつけてしまい、その後にも影響しています。平成10(1998)年、山田洋次監督の『学校III』に小島富美男役として出演し、キネマ旬報賞新人男優賞、日本映画批評家大賞新人賞、日本アカデミー賞新人俳優賞、全国映連賞男優賞を受賞しましたが、平成22(2010)年に俳優を引退し、フリーランスとなってからは、ハイパーメディアフリーターの肩書きでインターネット上で活動の幅を広げています。

      (27)Nコンに打ち込んだ小学生時代の柿澤勇人

 柿澤勇人(かきざわ はやと 昭和62 1987~ )は、日本のミュージカル俳優であるだけでなく舞台やドラマにも幅広く出演する俳優です。曾祖父は浄瑠璃の語り手で重要無形文化財保持者(人間国宝)の清元志寿太夫、祖父は三味線奏者で同じく人間国宝(父子二代としては初)の清元榮三郎という邦楽の一家に生まれ育った柿澤勇人は、少年時代はサッカーに熱中し、サッカーの名門である東京都立駒場高校保健体育科に一般入試で入学し、サッカー部に所属。将来はプロを目指していたことが知られていますが、同時にピアノも学び、小学生時代は、成城学園初等学校で合唱部の部長をしており、パートはソプラノでした。平成11(1999)年第66回NHK全国学校コンクール小学校の部の東京都予選(この年の課題曲は、「ほほう」)にも出場したことがあるそうです。その演奏の録画は残っていますが、合唱ですので、個人の声を特定できません。

      (28) 出会いがきっかけで歌手となった林部智史

  山形県出身の林部智史(はやしべ さとし 昭和58 1988~  )は、甘く澄んだ歌声が、多くの人を魅了して、「本当に泣ける歌声」「稀代のクリスタルボイス」と高い評価を得ています。幼少の頃から歌が好きで、幼稚園時代にすでに歌手になりたいと思っていましたが、それを口に出すことはありませんでした。しかし、歌の技術を独学で習得し、小学5年生でビブラートができていたといいます。歌手への夢を口にせず、現実的ではないと思っていた林部智史が、本格的に歌手をめざし始めたのは、2010年に、礼文島のホテルで出会った男性の「その声で歌手にならないのはおかしい」という言葉がきっかけでした。「THEカラオケ★バトル」という番組のAIマシーンという機械による採点には、常々疑問を持っていますが、平成27(2015)年1月に初優勝を飾ると、10月には予選・決勝戦ともに100点をたたき出し、堂々チャンピオンの座に登りつめたことがきっかけで、本格的にシンガーソングライターとして活躍しています。

       (29) ヤングシンバ役から若手名優に 池松壮亮

 ミュージカル『ライオン・キング』のヤングシンバ役を演じたミュージカル子役は数多くいますが、たいていは青年期に芸能界から去ることが多いものです。その中で、今若手の俳優として多くの映画やドラマに主要な役を演じている俳優に池松壮亮(そうすけ 昭和63 1990年~)がいます。もともと児童劇団に所属していた姉日佳瑠とともに福岡で『ライオンキング』の子役オーディションを一緒に受けるよう親から勧められたことがデビューのきっかけです。当時10歳の池松壮亮は当時野球にしか興味がなかったため最初は抵抗しましたが、「野球カードを買ってあげるから」という言葉につられて受け、坂本九の『上を向いて歩こう』を下を向いて歌って合格しデビューを果たしたというエピソードが残っています。当時のプログラムには、「観に来てくれた人に夢と希望を与えたい。」という言葉が書かれています。その役を2年務め、次第に役者魂を磨いていきます。2003年、ハリウッド映画『ラストサムライ』で映画初出演。主人公・オールグレン(トム・クルーズ)と心を通わす少年飛源役を演じて、第30回サターン賞では若手俳優賞にノミネートされました。その後、2005年、映画『鉄人28号』で主人公・金田正太郎役を演じ、映画初主演を果たすなど、順調に芸歴を重ねていきます。この頃までは変声前で、DVDでその声を聴くことができます。その後、大学は日本大学藝術学部映画学科で監督コースを選びながら、卒業後は役者一筋で多彩なジャンルの役に挑んで、数々の映画やドラマで、独特な存在感を放つ実力派俳優として活躍しています。

    (30)  少年時代から芸達者だった浅利陽介

 ミュージカル「レ・ミゼラブル」のガブローシュ役を演じた子役で成人後も俳優として活躍している人のひとりに、浅利 陽介(昭和63 1990~)がいます。浅利 陽介は4歳の頃から子役で芸能界入りということですので芸歴は長いのですが、全国的に有名になったのは、小学6年生の頃、NHK連続テレビ小説『あすか』でヒロインの幼馴染で結婚相手(速田俊作=ハカセ)役の少年時代や、翌年児童虐待を描いた問題作『永遠の仔』の主演のジラフの少年時代を演じるなどドラマなどで活躍してきました。また、小学4年生の時には、ミュージカル「レ・ミゼラブル」のガブローシュ役で出演しています。ミュージカルはこの時が初出演ですが、ガブローシュは、子どもだけれども大人っぽいところがあるので、不良っぽく演じたいと語っていました。その演技は、やがて2001年、『キッズ・ウォー3』で不良少年の一平役で開花していきます。『永遠の仔』の頃までは変声期前で透き通った上品な声質でしたが、変声期後は声質がかなり変わっています。最近では2010年公開の映画『手のひらの幸せ』で映画初主演、2011年のテレビドラマ『ひとりじゃない』でドラマ初主演を務め、今後の活躍が期待されます。

      (31) 姉弟揃ってミュージカル志向だった海宝 直人

 最近では、子役の頃からはっきりとミュージカル志向で、その道に進んだミュージカル俳優もいます。海宝直人(平成6   1996~   )もその一人で、姉弟そろって子役からミュージカル俳優になっているようです。舞台デビューは7歳の時、劇団四季ミュージカル『美女と野獣』(1996~1998)のチップ役。当時ミュージカル『アニー」に出演していた海宝あかね(姉・現在、劇団四季に所属)の姿を見て自分もミュージカルに出てみたいと劇団四季の子役オーディションに応募して合格しました。なお、当時の『美女と野獣』ビースト役は石丸幹二。また、チップ役はトリプルキャストをウエンツ瑛士と共にまわしていました。
 その後同劇団四季ミュージカル『ライオン・キング』の初代ヤングシンバ役として1999~2001年舞台に立っています。『ライオン・キング』には姉の海宝あかね(ヤングナラ役)と共に姉弟出演していました。オリジナルジャパニーズキャストとしてCDにおいても歌唱しています。なお、弟は劇団四季のミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』に子役として出演していた海宝潤(元ジャニーズJr.)です。かつて子役ヤングシンバ役として出演していた劇団四季ミュージカル『ライオン・キング』に、主演シンバ役として2016年春から出演しました。ヤングシンバ役であった俳優がシンバ役として同作品に戻ってくるのは、初めてのことです。
 なお、海宝直人は、ミュージカル俳優であるだけでなく、ロックバンド「CYANOTYPE シアノタイプ」のボーカルを務める歌手でもあり、ミュージカル以外の芝居の俳優でもあり、声優でもあります。

      (32)   クラシック音楽を身近なものにするために努める近藤喬之

 東京ヴィヴァルディ合奏団のクリスマスコンサートにおいて、2回もソリストを務めたグロリア少年合唱団出身の近藤喬之は、「日本のソリスト」に掲載したい一人なのですが、その歌声を聴いたことがないので、載せていませんでした。しかし、平成27(2015)年に発行された地域情報誌の「タウンニュース」では、逗子市の体験学習施設内にある「CAFE CHOCOTTO」で行われる「ちょこっとライヴ」のプロデュースを手掛ける近藤喬之(たかゆき)さん として紹介されていました。そこでは、「0歳から楽しめるクラシック音楽」をコンセプトに、毎月行われる無料の音楽会を開催しているとのこと。国立音大声楽科を卒業。自らも演奏者の一人として舞台に立ちながらも、垣根が高いと思われがちなクラシックを広く日常に浸透させ、若手演奏家に活動の場を提供するという夢や理想を追い続けているのは、一人の人の生き方として、尊敬に値するものだと思います。

https://www.townnews.co.jp/0503/2015/05/15/283567.html

 
          偽作その2「モーツァルトの子守歌」

 中学2年の音楽の教科書にフリース作曲「モーツァルトの子守歌」を発見した時、なんじゃこれは?という気持ちになったことを思い出します。しかし、当時それを調べるすべもなく、きっと「モーツァルトの子守歌」と思われていたものが、後になってフリースの作曲であることがわかったのではないだろうかということで納得していました。「モーツァルトの子守歌」と伝えられていた曲は、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ゴッター作詞、ベルンハルト・フリース作曲による歌曲で、長年、モーツァルトが作曲したものとされ、ケッヘル作品番号K.350 までががつけられていましたが、後年の研究により、モーツァルトと同時代の医師で、作曲もたしなむというアマチュア作曲家フリースの作品であることが判明しました。それによって、ケッヘル番号の訂正も行われましたが、それが行われたのは、約50年前の1964年の第6版以降のことです。しかし、長年の慣習から、この曲は今でも「モーツァルトの子守歌」と呼ばれています。この曲は、①ウィーン少年合唱団と、リチャード クレーダーマンのピアノ、②シェーネベルグ少年合唱団の合唱で聴き比べてください。
   ①ウィーン少年合唱団 https://www.youtube.com/watch?v=CPOzkkHBAqo
  
 ②シェーネベルグ少年合唱団https://www.youtube.com/watch?v=l-_vBoeNw94

 
 外国編

  (1) 遺伝学の研究対象にもなったバッハ

 ヨハン・セバスチァン・バッハは、「音楽の父」として、音楽史の本には必ず出てくる名前ですが、約250年の間に約60人の音楽家を輩出したということで、遺伝学の研究対象とされました。
 ヨハン・セバスチァン・バッハ(1685~1750)は、ドイツのアイゼナハでその町の楽師の父ヨハン・ アンブロージウス・バッハの八番目の子として生まれました。バッハ一族は、ドイツ中部テューリンゲン地方で代々音楽を生業としていました。そのため、おそらく、父からヴァイオリンを、伯父からオルガンを教わっていたと考えられます。7歳で聖ゲオルク教会付属ラテン語学校に入学しますが、成績も飛び級するほどよかったそうです。また、学校の合唱団で歌っていましたが、そのボーイ・ソプラノはたいへん美しかったと伝えられています。
 しかし、父母が相次いで亡くなり、10歳で孤児となったバッハは、14歳年上の長兄のヨハン・クリストフに引き取られ、そのもとで音楽的才能と教養を身につけます。やがて、14歳で独立し、リューネブルクの聖ミカエル教会の合唱団で、ボーイ・ソプラノ歌手として月給をもらいながら 学業を続けます。やがて変声期を迎えますが、 優れた音楽的才能が認められヴァイオリンやヴィオラ奏者として教会に雇われることになります。
 バッハにあまり面白い逸話がないのは、時代が古いため文書に残っていないこともありますが、勤勉な性格と幼いときよりルーテル派のキリスト教に帰依していたため、はめを外すことがなかったからでしょう。

  (2) いたずらで聖歌隊をやめさせられたハイドン

 オーストリアの作曲家のフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)が、ウィーン少年合唱団の前身であるウィーンの聖シュテファン大聖堂の少年聖歌隊に入っていたことは有名です。現在、ウィーン少年合唱団には、4つのグループがありますが、その一つに「ハイドンコア」という名が残されてます。
 さて、ハイドンは、オーストリアの東のはずれにあるローラウという小さな町に12人兄弟の2番目として生まれました。祖父も父も車大工の職人でしたが、父は素人ながら美しいテナーの声の持ち主で、夕食後には自作ののハープをひきながら民謡などを家族で歌って楽しんでいたそうです。そのような遺伝や音楽的環境のおかげで、ハイドンは少年時代には美しいボーイ・ソプラノで8歳から17歳まで聖シュテファン大聖堂の少年聖歌隊に在籍しています。5年後には、弟のミハエルも入隊しています。ハイドンは、かなりいたずらっ子だったようで、教会の改築の足場に登って叱られたりしたそうです。
 ところで、ハイドンが聖歌隊をやめた(やめさせられた)理由は、変声期にさしかかった頃、授業中に新しいはさみの切れ味を試そうとして、前に座っていた子の髪を切り落としたいたずらの罰としてということです。 しかし、少年聖歌隊に在籍したことが、後年の音楽家としての基礎を築いたことはまちがいありません。

  (3) 少年時代はボーイ・ソプラノを披露していたモーツァルト

 2006年はモーツァルト(1756~1791)の生誕250年の年で、世界各地で記念行事が行われています。ところで、少年時代のモーツァルトは、どんな歌声だったのでしょうか。記録によると、少年モーツァルトはなかなかの美声の持ち主で、歌も得意だったようです。ヨーロッパ各地を演奏旅行して神童ぷりを披露する際、中心となるのは当然のことながらピアノの演奏でしたが、ボーイ・ソプラノの歌声を披露することも多かったようです。実際、8歳から9歳にかけて長期滞在したロンドンでは、当時人気絶頂のカストラートのマンツォーリから、無料で歌唱法の指導を受けています。当地で少年モーツァルトの歌唱を聴いたある英国紳士の報告によれば、「披の声はか細く、まさに子どもの声だが、その歌いぶりは実に見事で、これ以上のものはないと思うほど」だったと言います。パリでモーツァルト一家の世話をした文人のグリム男爵は、「文芸通信」の記事の中で、少年モーツァルトの「趣きと情感を兼ね備えた歌い方」を讃えています。
 そんなモーツァルトが声変わりを迎えたのは、彼が14歳の1770年の夏、イタリア旅行中のポローニャでのことでした。当時としては早い声変わりだったと言えそうです。父のレオポルドは、ザルツブルグにいる妻への手紙の中で息子が変声期を辛がっている様子を書き綴っています。以後モーツァルトは人前で歌声を披露することはなかったようです。カストラートのための曲をかなり作曲したモーツァルトですが、その後、教会や聖歌隊とも関わりが少なかったために、少年のためにつくられた作品は決して多くありません。しかし、今ではその声楽曲が多くのボーイ・ソプラノによって歌われています。


    (4) カストラートにされそうになったベートーベン

 後世「楽聖」と呼ばれるようになったルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベン(1770~1827)は、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンで、テノールの宮廷歌手であった父ヨハンの長男として生まれました。幼少より児童虐待に近い音楽のスパルタ教育を受けましたが、ボーイ・ソプラノの歌い手としても稀有な才能をもっていたため、周囲からカストラートになることを望まれていたけれども、これについては、このときばかりは父の反対でカストラートにはならなかったというエピソードが残っています。父は、息子に楽器の名手になることを望んでいたようです。もし、カストラートになっていたら、ベートーベンは、後世に残るような作曲家になることはなかったでしょう。

      (5) 美人に対しては名演技をするロッシーニ

 1792年2月29日生まれのロッシーニは、厳密に言うと、4年に1回しか誕生日がないという珍しい誕生日です。アドリア海に面した港町のペーザロ生まれましたが、大変なやんちゃ坊主だったようです。歌の才能は母親譲りのようですが、幼児期から才能を示したわけではありません。一家は1804年に一家はボローニャに移りました。彼は美しいボーイ・ソプラノの声を持っていましたので、教会の児童合唱隊で歌うようになるとともに、劇揚でも歌い、オルガンやトランペットやチェロまでこなせるようになります。これらは劇場のオーケストラの穴埋めには結構役に立ったとそうです。
  そうかといって素直なおとなしい少年に変身したわけではありません。こんなエピソードを残しています。子役となって舞台に出ていたときに、彼は「ああお母さん、私の大好きなお母さん!」といってプリマ・ドンナに抱きつく役をもらいました。ところが、母親役はダブル・キャストで、一人は美人で、もう一人はそうでありませんでした。かれは美人の母のときは真に迫った名演技を見せたが、そうでないときはまるで気のないしぐさで、抱きつくところまではしなかったそうです。
  やがて、教会で歌っていたかれの声が、ペルティカーリ伯爵夫人の注意を引いた。事情を聞いた夫人はかれに正式に音楽の勉強をすることをすすめ、ボローニャの音楽学校に入学させました。1807年の3月20日、ロッシーニ15歳の時です。これが音楽家への道を拓くことになりました。このように、パトロンづくりも名人だったようです。

    (6) 教科書にも載ったシューベルトのエピソード

  かつて、小学校3年生の国語の教科書にシューベルトの少年時代のエピソードが載っていました。ウィーン少年合唱団の前身である宮廷少年合唱団の入団試験で、貧しい服装のため、「粉屋の息子」とあだ名されていたフランツ少年が一旦歌い出すと、その美しい歌声に周囲が魅了されるというストーリーを覚えている人もいるでしょう。
 フランツ・シューベルト(1797~1828)は、ウィーン郊外のリヒテンタールに生まれました。幼い時から小学校の校長をしていた父や兄のもとでヴァイオリンとピアノを学び、早熟な才能を発揮します。更にホルツァーに師事して歌唱、オルガン、通奏低音、和声法を学びましたが、ホルツァーも、「何かを教えようとするとこの少年はもう既に知っていた」と語るほどの早熟振りでした。11歳の時、宮廷少年合唱団の入団試験に合格(これが教科書に載っていたエピソード)。更に帝立神学校へ入学して、寄宿舎生活に入りますが、そこでの家族と離れた陰鬱な生活の中でも生涯の友人シュパウンと出会います。シュパウンは、貧しいシューベルトのために五線紙を差し入れるほどでした。また、そこでサリエリに師事して学んだことが後年開花したとも考えられます。早熟というと声変わりも早かったように考えられがちですが、変声は16歳と推定されています。その後、父の学校で代用教員を勤めたこともあり、そのエピソードは、創作ではありますが、映画「未完成交響曲」でも描かれています。


     (7) 幸せを運んだアンデルセンのボーイ・ソプラノ

 デンマークの国民的文学者(童話作家・詩人)であるハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805~1875)は、オーデンセの貧しい靴直し屋の家に生まれ、幼少の頃から父にアラビアンナイトなどの物語を読み聞かされ育ちました。貧しい家に生まれ育ったのにかかわらず、両親から可愛がられて育てられたことが、アンデルセンの性格形成によい感化を与えたようです。芝居好きの父の影響もあってコペンハーゲンの王立劇場の一座がオーデンセに来たとき、子役が足りず、当時13歳のアンデルセンは、羊飼いの少年役で舞台に上がります。美しいボーイ・ソプラノが評判になり、それがきっかけで、オペラ俳優をめざしました。やがて、オーデンセのナイチンゲールと呼ばれ、大金持ちや貴族の家に呼ばれるようになりました。14歳の時、コペンハーゲンの王立劇場に入ろうとしますが、変声期と風邪をこじらせたことが重なって声を痛め、オペラ歌手になることを断念します。しかし、「声はつぶれても詩人になることはできる。」と考え、道を拓いていきます。その後も挫折を繰り返しますが、困難に出会ったとき、デンマーク国王や政治家のコリンはじめ有力な後援者が次々と現れ、やがて文学の世界で後世に名を残します。とりわけ、約150編の童話は、今も世界中で読み続けられています。
 「私の生涯は一編の美しい童話である。それほど豊かで幸福なものであった。」
自伝で、アンデルセンは自分の人生を振り返ってこう述べていますが、少年時代より有力な後援者を得たきっかけの一つは、天真爛漫な性格と、美しい話や歌を進んで人に提供でき、人を幸せな気持ちにさせたことではないでしょうか。

   (8) 謙虚さそれとも自信のなさ ブルックナー

 後期ロマン派の作曲家 アントン・ブルックナー(1824~1896) は、小学校教員兼オルガン奏者を父として、オーストリアの片田舎アンスフェルデンで生まれました。そのような家庭環境から、少しスタートは遅く感じるのですが、13才より聖フロリアン修道院の少年聖歌隊で歌い、音楽に親しみました。 1841年にまだ17歳で小学校教員になり、このころから作曲を独習し始めます。その後1845年から聖フロリアン修道院の教師兼オルガン奏者、1855年からリンツ大聖堂のオルガン奏者と、音楽的研鑽を積んでいき、当然のことながら、多くの宗教曲の合唱曲を作曲しています。また、大編成で長大な交響曲を作曲していますが、そこには、オルガン的な響きが感じ取られます。敬虔なカトリック教徒でありましたが、作曲した作品を批判されると、すぐに書き直すなど、自信のない性格であったと言われています。

      (9) 少年時代はストリートミュージシャンだったエンリコ・カルーソ 

 1951年のハリウッド映画『歌劇王カルーソ』(マリオ・ランツァ主演)で、大きく脚色された伝記映画が公開されたエンリコ・カルーソ(Enrico Caruso 1873~1921)は、「世紀の名テノール」とも呼ばれています。また、この言葉は、他の人には使いたくない言葉です。エンリコ・カルーソは、イタリアのナポリで貧しいアルコール依存症の父親の7人きょうだいの3番目の子どもとして生まれました。当時のイタリア王国は、イタリア統一運動の流れの中で1861年に統一国家として成立しましたが、地域格差は大きく、彼は初等教育をほとんど受けることもできず、指揮者のヴィチェンツォ・ロンバルディーニから簡単に音楽を学びました。9歳のときに教区合唱団に参加した音楽少年でしたが、彼の初期の収入はナポリ民謡やセレナーデを歌うことでした。また、少年時代の声質はアルトであったと言われています。変声後、18歳でグリエルモヴァージネについて声楽を学ぶまで正式な音楽トレーニングを受けていませんでした。1894年にナポリのマリオ・モレッリのラミコフランチェスコでヌオーヴォ劇場でデビュー。 4年後、彼のレパートリーにいくつかの印象的な役割を追加した後、彼はミラノでのウンベルトジョルダーノの「フェドーラ」の初演でロリスの役割を作成するように依頼されました。 彼はセンセーションを巻き起こし、すぐにモスクワ、サンクトペテルブルク、ブエノスアイレスの劇場で契約しました。 彼は1900年にプッチーニの「ラ・ボエーム」でスカラ座デビューを果たしました。 カルーソを世界的に有名にしたのは、舞台と共にレコ-ドの発達とも関係しています。既に19世紀末から円盤型のレコード録音は発明されていましたが、カルーソーは、1902年より録音を開始し、翌年ニューヨーク市を訪れ、メトロポリタン歌劇場で歌った年から、米ビクター社に電気吹込み以前のレコード録音をし、死の前年の1920年まで実に多くの録音を残しています。カルーソの歌声は、生誕100年の1973年には全集が発売されたり、20世紀末には、コンピュータの発達により、雑音を除去した録音によって現代に復活しています。

      (10)聖歌隊の歌声の伝統を引き継いだジョン マコーマック

 ジョン・マコーマック(John McCormack 1884~1945)の清澄で高貴とも言える美しい歌声を聴いたとき、きっと聖歌隊の伝統の下で育ったのではないだろうかという想いが浮かび、その経歴を調べてみました。マコーマックは、1884年6月14日にアイルランドのウェストミース州アスローンで生まれました。アンドリュー・マコーマックとその妻ハンナ・ワトソンの11人の子供(うち5人は乳児期または小児期に死亡)の次男と5人目です。彼の両親は両方ともスコットランドのガラシールズ出身で、父親が職長だったアスローンウールミルズで働いていました。彼は1884年6月23日にアスローンのセントメアリー教会で洗礼を受けました。
 マコーマックはアスローンのマリストブラザーズから初期の教育を受け、後にスライゴのサマーヒル大学に通いました。彼は、生地のアスローンの旧サンピエトロ教会の聖歌隊で、聖歌隊指揮者のマイケル・キルケリーの下で歌いました。家族がダブリンに引っ越したとき、彼はヴィンセント・オブライエンによって発見されたセントメアリー大聖堂の聖歌隊で歌いました。このような聖歌隊で学んだ歌の基盤が、後年の声楽家としての活躍の素地となり、1902年ダブリンの声楽コンクールに優勝。1905年ミラノでサバティーニに師事し、翌年イタリアでオペラの初舞台を、さらに、ロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場に「カヴァレリア・ルスティカーナ」のトゥリッドゥで初舞台を踏み、アメリカの各場に出演し、アメリカの市民権を獲得。1928年ローマ法王から伯爵の称号を授与されるなど、20世紀を代表する名テノール歌手で、アイルランド民謡を歌っては当代一と言われるようになりました。

      (11) 名伯楽の小学校の教師に才能を見つけられたティト・スキーパ

 ラッファエーレ・アッティリオ・アメデオ・スキーパ(Raffaele Attilio Amadeo "Tito" Schipa 1889~1965)は、イタリアでも最貧困地域であったレッチェの極貧家庭(父 ルイジ・スキーパは税関職員)の4人目の子どもとして生まれました。戸籍上は1889年1月2日生まれと記録されていますが、新生児が生まれた父親はその年の兵役を免除される、という慣例を利用して入営を忌避しようとした彼の父の計略で、実際には1888年12月の誕生と考えられています。スキーパは、少年時代からその美声は教会で知られるところとなり、彼の超自然的な声の贈り物は、彼の小学校の教師であるジョバンニ・アルバーニによってすぐに見い出され、次にすべてのレッチェによって、実際には常に彼を「パトリアの預言者」と見なしていました。当時の真のタレントスカウトである司教ジェンナロトラマのニープルズ(1902年)は、ニックネームを「Tito(小さいという意味)」を芸名とし、地元の神学校に入る機会があり、そこで彼は歌と作曲を学びます。20歳になったばかりの1909年2月、スキーパは、早くも北イタリア、ヴェルチェッリの小劇場でヴェルディ『ラ・トラヴィアータ』アルフレード役でデビュー、当初は大した評価は得られませんでしたが、地方劇場を回るうち『リゴレット』マントヴァ公爵役、プッチーニ『ラ・ボエーム』ロドルフォ役、ロッシーニ『セビリアの理髪師』アルマヴィーヴァ伯爵役などリリカルな役どころでレパートリーを増やしていきます。特に1911年、ジュール・マスネの『ウェルテル』題名役がローマで高評価を得たことはトスカニーニなど有名指揮者に用いられるきっかけとなります。このウェルテル役は彼にとって生涯を通じての十八番となります。また、1917年に、彼はプッチーニの『つばめ』の初演でルッジェーロ役を演じました。その後、イタリアだけでなく、南米やアメリカのメトロポリタン歌劇場で活躍しました。スキーパの歌声は、代表的な「テノーレ・ディ・グラツィア」(軽妙な声のテノール)として高い人気を誇りました。共演したオーケストラの団員の言葉によると、「スキーパの歌声は、オーケストラ席からは聞こえないほど大きくありませんが、優美な抒情性のある歌で観客を泣かせた。」と伝えられています。日本声楽界の大御所でもあった五十嵐喜芳も、イタリア留学中にスキーパの弟子で、その歌唱を聴くと、その影響を受けていることがわかります。また、作曲を学んだスキーパは、“sei tu”等の歌曲を作曲し、歌っています。亡くなる4年前の1961年に「自伝」を残していますが、現時点で入手できません。

   (12) 母を救ったチャップリンのボーイ・ソプラノ

 映画の喜劇王 チャーリー・チャップリン(1889~1977)は、ロンドンの貧民街で生まれ育ちます。 両親は共にミュージックホールの芸人で、母ハンナは3歳の兄シドニーを連れて再婚しました。やがてバリトン歌手だった父は、チャップリンが5歳のときにアルコール中毒で死亡し、そのショックが原因で母は精神の安定を失い発狂してしまいます。家庭はますます貧しさのどん底へと落ちていきます。彼はそのころから街角で歌い踊って、客が投げてくれたわずかな金でパンを買い、病気の母に食べさせ、教会が配る慈善スープで空腹をしのいでいました。その後は孤児院を経て、いろいろな職業を転々としましたが、後年の名作「キッド」をはじめとする情愛豊かな彼の作品には、少年時代のそのような悲痛な体験が直接間接に盛り込まれています。
 リチャード・アッテンボロー監督の伝記映画『チャーリ』」では、母ハンナが舞台の上で突然声が割れて歌えなくなり、観客の罵声を浴びるが、5歳の少年チャーリーが、母の急場を救うため舞台に出て、見よう見まねで覚えた歌と踊りを披露し、観客の喝采を得るというエピソードが描かれています。
 若き日のチャップリンの夢はヴァイオリニストかチェリストになることで、左利きのハンディを克服するため楽器の改造をし、1日4~5時間の練習をしたそうですが、こちらの分野では大成しませんでした。しかし、自分の作品に付けた映画音楽の分野では、『ライムライト』の「テリーのテーマ」をはじめ、後世に残る作品を数多く作っています。また、歌は、『モダンタイムズ』でその片鱗を披露しています。

      (13) 少年時代「鐘楼のカナリア」と騒がれたベニアミーノ・ジーリ

  伝説的なエンリコ・カルーソの唯一で真の後継者であると考えられているイタリアのテノール ベニアミーノ・ジーリ(1890~1957)は、カルーソより17年後の1890年3月20日に、アドリア海沿岸のアンコーナ近くのイタリアの小さな町、レカナーティで生まれました。彼は幼い頃から歌うことに強い興味を示し、7歳になる前に地元の大聖堂聖歌隊に入隊し「鐘楼のカナリア」と騒がれました。マエストロは、大聖堂のオルガン奏者キリーノ・ラッツァリーニで、その指導によって才能を伸ばしました。しかし、彼は、教育が不十分であるか年齢が高いという理由で、ローマの聖歌学校へのへの入学を拒否されました。 当時ジーリは17歳で、年齢制限は15歳でした。そのため、彼はローマでマエストロ デ・ステファニ、マエストロ デ・マルティーノ、アグネーゼボヌッチニ師事して研究し、1911年に21歳で、月額60リラの奨学金を獲得しました。ローマのサンタ・チェチーリア音楽院(当時はリセオムジカーレ)で学び、そこで著名な教師でありベテランのバリトンであるアントニオ・コトニ、そしてその後有名な声楽教師であるエンリコ・ロザッティによる授業を受けました。貧しい家庭の彼は、研究と一緒に、最初は薬局で働き、それから家事をしていました。音楽を愛する後援者の大佐は、彼の研究の中断を受けないようにローマで彼の軍事的義務を果たしたことを確認しました。その後、1914年にパルマで行われた国際歌唱コンテストで1位を獲得、1914年、ジーリは、「ラ・ジョコンダ」で、でエンツォとしてプロとしてデビューしたとき、アメリカに渡って行ったカルーソーに代わるテノールとして評価されるようになってきました。また、28歳の時には、トスカニーニに招かれてスカラ座のひのき舞台を踏み、カルーソーの後継者という評価を受けて世界中で歌いまくり、「ジーリ時代」と呼ばれる一時代を築きました。ジーリのベル・カント唱法は、高い声に張りがあって弱声は、蜂蜜のように滑らかで甘い特色をもっています。1955年の引退後は自伝を書き、2年後の1957年ローマで亡くなりました。なお、五十嵐喜芳は、留学時にジーリの盛大な葬儀に出遭ったそうです。

      (14) ステージパパに鍛えられたユッシ・ビョルリンク

 ユッシ・ビョルリンク(Jussi Björling 1911~1960)は、1911年2月にスウェーデンのダーラナ州ボルレンゲに生まれました。ボルレンゲは、ストックホルムの北西220kmにあります。 彼の父ダビデはテノール歌手であると同時に声楽教師であり、幼い頃から子どもたちを訓練しました。 すでに1915年に、彼の3人の子ども、長男のオーレ、次男のユッシ、三男のヨースタは、教会で彼らの最初の公演を行いデビューしました。また、兄弟たちもプロの歌手になりました。父ダビデは息子たちと一緒にビョルリンク四重唱団として演奏しました。彼らは、父親とスウェーデンで、そして1919年から1921年まで米国で広範囲にわたってツアーを行い、1920年には6回の録音が行われました。この3兄弟で重唱した曲の録音は、現在も残っています。しかし、父ダビデは1926年に亡くなり、カルテットが解散しました。その結果、ユッシ・ビョルリングはイスタードでランプのセールスマンとして働いていましたが、1928年、ラジオでデビューしました。 同年、ビョルリングはジョンフォーセルのオーディションを受け、オペラスクールとスウェーデン王立音楽院に入学しました。そこから道が開け、1930年8月20日、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」でドン・オッタヴィオ役としてデビューしました。その後は、世界に活躍の場を広げ、世界的なテノールとして各国の舞台に立ち、オペラから歌曲まで多くの録音を遺していますが、心臓病のため、1960年に若くして亡くなりました。

     (15)母の希望で聖歌隊に入っていたローレンス・オリヴィエ

 イギリスの名優 ブライトンのオリヴィエ男爵ローレンス・オリヴィエ(Laurence Kerr Olivier, Baron Olivier of Brighton OM, 1907~1989)は、俳優、映画監督、一代貴族であり、アカデミー賞を受賞し、シェイクスピア俳優としても有名であることから、20世紀の名優として多くの映画人から称賛されています。
   ローレンス・オリヴィエは、イギリスのイングランド サリーのドーキングに生まれ、父はイングランド国教会牧師であったジェラルド・カー・オリヴィエで、芸能界とは関係がない人ですが、この環境を、のちにオリヴィエは自伝において「上品だが貧しく、野心を抱くには最も適した環境に育った」と記しています。3歳の時にロンドンへ移り、母の希望で9歳でオール・セインツ教会聖歌隊に所属し、音楽を学ぶかたわら演技の勉強もしました。しかし、12歳のときに母を病気で亡くしてしまいます。その後、1921年にオックスフォードのセント・エドワーズ・スクールに学び、1922年にはオリヴィエの最初のシェイクスピア劇出演となる聖歌隊の公演である『じゃじゃ馬ならし』でケイト役に扮し、続いて1923年に学校劇で『夏の夜の夢』のパック役を演じて大成功を収めます。この頃からはっきりと俳優になることを決心し、また貧しい家庭環境で息子が世に出るには演劇の道しかないと判断した父親から風呂の中で「お前は俳優になるのだろう?」と言われたこともあり、1924年に17歳でロンドンのセントラル・スクール・オブ・スピーチ・アンド・ドラマに入学しました。

      (16) 「豆カルーソー」というニック・ネームをつけられたフェルッチョ・タリアビーニ

 1913年8月14日、北イタリアのレッジョ・エミーリヤで生まれたフェルッチョ・タリアビーニ(1913~1995)は、両親の慈愛の下で健やかに成長、学校や教会で美声を認められ、教会の合唱で歌ったり、独唱したり、またヴァイオリンにも親しみましたが、正式の音楽教育は受けることなく過ごしました。10歳をすぎた頃、『大通り』というオペレッタの学校公演で、病気になった主役の代りをつとめ、豆カルーソーというニック・ネームをつけられたりしましたが、本人は、当時は電気技師になることを望んでいました。しかし、息子の美声がご自慢の父は、パルマの音楽学校のコンコルソの受験を強くすすめ、こで認められた彼は奨学金を貰えることになりました。間もなく軍務に服し、除隊後、パルマの音楽学校で学び、1938年、そこを卒業した年に奇しくも電気技師の免状も手に入れることができました。それから間もなくフィレンツェのベルカント・コンコルソで優勝、それが日本に誤報されて、彼をノド自慢上がりと陰口を叩く者までいました。しかし彼はこれを機会に歌手で立つべく有名なアマディオ・バッシの下で7ヶ月レッスンを受け、1939年10月28日、フィレンツェの市立劇場にロドルフォ役でデビュー。それからは好評続きで、イタリアの三大劇場や中劇場、フィレンツェの音楽祭などに出演、ジーリの後継者とみられスターになりました。しかし、タリアビーニの歌声は、スキーパと同様リリコ・レジェーロという細くて甘い声質のため、レパートリーは多くなかったようです。チェトラに録音したオペラの全曲は、CD化されて今でも聞くことができますし、ナポリ民謡の系列の歌も、独特の甘い節回しが特徴です。日本にも何度も来日しているし、映画『忘れな草』にも出演しているので、日本人のファンも多くいます。

      (17) 神父より歌手を選んだマリオ・デル・モナコ

  輝かしい声を持ち、ドラマティックな役柄で高く評価され「黄金のトランペット」と呼ばれたマリオ・デル・モナコは、1915年7月27日にイタリア中部のラツィオ州ラティーナ県にあるガエータに生まれました。小さい頃から歌うのが大好きだったそうですが、少年時代は神父になるつもりだったそうです。13歳の時、神学校に入ろうか迷っていたとき、たまたまオペラのアリアを歌っているのを父親が聴いて、歌手になった方がいいのでは、とアドバイスしたことがきっかけで、方向転換することになったそうです。13歳からヴァイオリンを、16歳から本格的に声楽を学び、ペーザロの音楽院でメロッキという名教師に発声を学びました。その後、名指揮者のトゥリオ・セラフィンに招かれ、ローマ歌劇場で研鑽を積み、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』でピンカートンを歌ってデビューしますが、その後第2次世界大戦のためイタリア軍に徴兵され、一時は活動を停止せざるを得ませんでした。しかし、戦争終結後、すぐに活動を再開し、1949年にミラノ・スカラ座で成功してからは、世界中のオペラハウスで活躍。最高の当たり役となったヴェルディのオペラ『オテロ』と出会い、218回もこの役を歌い、1959(昭和34)年イタリア歌劇団の来日公演でも、この歌を歌いました。マリオ・デル モナコの歌声は、バリトンをそのまま高い音域で歌った感じがします。そのような強く張りのある英雄的な声からは想像できないほど、マリオ・デル モナコは繊細な人物だったそうです。声を休めるために、海外への移動は飛行機ではなく船を使い、本番2日前は声のために一切しゃべらず、会話は筆談で行っていたと言われていますし、本番が終わるとその日の演奏を録音したテープを聴きなおして次回に備えていたといいます。食事にも極力気を使い、夜遊びなどはできるだけせず、まるで修行僧のような生活をしていたそうです。このようなエピソードが、数多く残っています。イタリア歌劇団の来日公演の『オテロ』の舞台で共演したバス歌手の岡村喬夫は、「デル モナコは一声一声出すために生きている、だから聞く人の心に響く。」と回想しています。なお、晩年は交通事故を跳ね返して活躍しましたが、1982年10月16日に亡くなっています。

     (18)  時代の寵児となったマリオ・ランツァ
 
 フィラデルフィアでアルフレッド・アーノルド・ココッツァ(Alfredo Arnold Cocozza)として生まれた彼は、イタリア人の両親により、幼い頃からクラシックの歌唱に親しんできました。父の影響で、幼少の頃から音楽に興味を持ち、歌唱やステージに興味を抱いていました。既に1932年に舞台に出演し、1940年にはプライベートレコーディングを行なっています。16歳までに彼の声の才能は明らかになりました。まだ10代の頃からYMCAオペラカンパニーのためにフィラデルフィアの地元オペラ作品に参加し始め、後に長年(1924年から1949年)ボストン交響楽団の首席指揮者を務めたセルジュ・クーセヴィツキーの注目を集めるようになりました。1942年、クーセヴィツキーは若きココッツァに、マサチューセッツ州タングルウッドのバークシャー音楽センターへの全額学生奨学金を提供しました。クーセヴィツキーは彼に「あなたの声は100年に一度聞こえるような声だ。」と語ったそうです。
 マリオ・ランツァ(Mario Lanza 1921~1959)は、力強い独特なテノールの歌唱でコンサート、ラジオ番組への出演等を通じ、第二次世界大戦後の一時期、時代の寵児となりました。特に20世紀前半を代表する世界的な名歌手エンリコ・カルーソーの生涯をドラマチックに描いた伝記映画『歌劇王カルーソ』はランツァの人気を決定的なものとし、その後本格的なオペラ歌手を目指しましたが、身体と精神を患い夭折しました。


       (19) 恥ずかしがり屋でも人を楽しませるのが好きだったディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ

 声楽家でも、テノールに比べ華やかさのないバリトンの人物の伝記は、数少ないのですが、20世紀後半を代表する声楽家 ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ (Dietrich Fischer-Dieskau 1925~2012)ぐらいになると、評伝も出版されています。なお、フィッシャー=ディースカウは、オペラ歌手、指揮者、音楽教育者、画家、著述家、朗読者であり、声楽家だけではないことも特筆できます。3人兄弟の末っ子として生まれたフィッシャー=ディースカウは、幼い頃、恥ずかしがり屋な子どもでしたが、それでも人を楽しませるのが好きでした。彼は人形劇を上演し、時には1人の聴衆のために、すべての部分を声に出して演じました。その聴衆とは身体的および精神的に障がいのある兄弟、マーティンで、二人は部屋を共有していました。このことが、将来人の前で演じることにつながったともいえそうです。なお、変声前の声質はアルトだったようです。

       (20) 不遇の中で働きながら学んだフリッツ・ヴンダーリヒ

 フリッツ・ヴンダーリヒ(Fritz Wunderlich 1930~1966)は、2オクターヴを超える輝くような澄んだ抒情的な声をもち、その芸風は、自然でわざとらしさのない演技、かつ高い技術を決して失わない歌い方で知られていました。そのようなことから、20世紀最大のリリック・テノールと評価する人も多く、少なくともドイツの声楽家として史上最も重要な歌手の一人と見なされています。フリッツ・ヴンダーリヒは、現在のラインラント=プファルツ州に生まれ、父パウルはテューリンゲン出身でチェロ奏者、カペルマイスター、合唱指揮者として活動した人物で、母アンナはエルツ山地出身のヴァイオリニストという音楽一家に生まれました。音楽家と言っても生活は決して楽ではなく、食堂を経営した後、父パウルは音楽活動を再開しましたが、この時期のドイツはナチスの独裁下でもあり、地元のナチスによって地位を奪われた上、戦争で重傷を負い、絶望してフリッツが5歳の時に自殺しました。そのため、家族の暮らしは厳しかった。アンナは音楽教師をし、フリッツは幼い頃から各種楽器を習得して、母や姉妹と合奏をする中で音楽を学びました。後には、音楽の勉強の学費を稼ぐためにダンス音楽の演奏などもしました。フリッツは若い頃よりさまざまな集まりで娯楽音楽を演奏し、カイザースラウテルンで声楽の手ほどきを受けました。伝えられるところでは若い頃のフリッツはパン屋で働いており、彼の天性の美声と音楽的素質を見た近所の人々や通りすがりの人々の繰り返しの勧めで声楽の勉強を始めたと言われています。声楽家としての当たり役にはモーツァルト『魔笛』のタミーノ、『後宮からの誘拐』のベルモンテ、ロッシーニ『セビリアの理髪師』のアルマヴィーヴァ、リヒャルト・シュトラウス『無口な女』のヘンリーなどがある。特に当代最高のモーツァルト歌いとして知られています。しかし、声楽家としてその頂点にある35歳で、階段からの転落事故によってその命を絶たれたことは、惜しまれます。

      (21) 父の見果てぬ夢をかなえたルチアーノ・パバロッティ

 ルチアーノ・パバロッティ(Luciano Pavarotti 1935~2007)の父、フェルナンド・パバロッティは、パン焼職人アマチュアのテナーでしたが、歌手としては成功することができませんでした。しかし、イタリアのモデナで生まれた幼いパバロッティは、父親の録音を聞いて育ったので、音楽に興味を持ちましたが、少年時代のの夢は、サッカーのゴールキーパーになることでした。歌では、ユッシ・ビョルリンク、ティト・スキーパなども好きでしたが、一番のお気に入りは、ジュゼッペ・ディ・ステファーノでした。彼は幼少期には、貧しい家庭で、両親と一緒に賃貸シングルルームのアパートに住んでいましたが、同郷で同い歳の名ソプラノ歌手、ミレッラ・フレーニとは幼なじみの上、同じ乳母によって育てられました。9歳のとき、地元の教会の聖歌隊で歌い始めましたが、声質はアルトだったそうです。師範学校を卒業後、アリゴ・ポーラに師事して声楽を学び、テノールとして成功するために訓練しました。そして、1955年、ウェールズのスランゴスレンで開催された国際Eisteddfodに、コラレ・ロッシーニ声合唱団のメンバーとして参加し、一等賞を受賞しました。そしていたっりあだけでなく、世界の歌劇場で主役を歌うことで、父の果たせなかった夢を次々とかなえ、世界的に成功し、“神に祝福された声”、“キング・オブ・ハイC(二点ハの王者)”、「三大テノール(ルチアーノパバロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス)と呼ばれるようになりました。テノールとしての声質も、もともとは、リリコ・レジェーロの軽いものでしたが、後年はリリコ・スピントのかなり重い役柄まで演じています。

      (22) サルスエラ劇団の子役からスタートしたプラシド・ドミンゴ

 ホセ・プラシド・ドミンゴ・エンビル(José Plácido Domingo Embil KBE  1941~    )は、スペインのマドリード生まれました。両親はサルスエラ(スペインの叙情的オペラ音楽。スペイン語で台本が書かれていたこと、台詞が多く音楽に比べて重視されることに特色がります)歌手であったことから、1949年、8歳の時にサルスエラ劇団を経営する家族とともにメキシコに移住し、両親の一座で子役として舞台に立っていました。ドミンゴは男の子のための歌唱コンテストで優勝し、彼の両親は時折、サルスエラの作品における子供たちの役割のために彼と彼の妹を募集しました。当時の録音は残っているかどうか不明ですが、映画的手法を終始最大限に活用した歌劇『トスカ』(1976)の映像で、息子のプラシド・ドミンゴ・ジュニアが羊飼いの少年役で出演していますので、その歌声からある程度想像することができます。また、イゴール・マルケヴィッチが教える指揮クラスにも参加し、レナート・ザネッリの兄弟であるカルロ・モレッリの下で声を学びました。その後、1955年にメキシコシティの国立音楽院に入学してピアノと指揮を学び、歌手としては、1957年にキシコシティにて両親が主宰するサルスエラ劇団でバリトン歌手としてデビューしました。その後、テノールに転向しましたが、元来はより重いリリコ・スピントの声質でした。しかし、ドミンゴは、その陰翳を帯びた声質と自在な表現力を生かして、30代で数あるテノールの役の中でも特に重厚な歌唱を要するオテロ(ヴェルディ作曲『オテロ』)さえもレパートリーに加えました。ドミンゴのオテロは彼の世代の第一人者と見なされています。また、ドイツオペラにも出演しています。

   (23) 聖歌隊のオーディションに落ちてしまったポール マッカートニー

 1960年代に活躍し、それ以後の音楽界に大きな影響を与えた「ザ・ビートルズ」のメンバーであるポール マッカートニー(1942~   )は、少年時代リバプール教会の聖歌隊のオーディションに落ちたという経歴を持っています。ポールの父親、ジム・マッカートニーは、若い頃にバンドをやっていたこともあって、息子にも音楽をやらせようとしたよいですが、最初はイギリスでは、ステータスでもある聖歌隊に入れようとしました。しかし、11才ののポールは、オーディションテストでクリスマスキャロル「Once In Royal David's City」をわざとしわがれ声で歌いました。この辺りにもプロテスト精神を垣間見ることができます。その後、短期間だけ、セント・バーナバス教会の合唱隊に入っていたこともありますが、長続きしませんでした。後年、合唱用に初めて作曲して教会に戻っているというエピソードもあります。

        (24) 人生逆転の主人公、オペラ歌手ポール・ポッツの少年時代

 映画『ワン チャンス』の主人公でもあるオペラ歌手ポール・ポッツ(Paul Potts 1970~   )は、イングランド西部の港湾都市ブリストル出身で、10歳から教会で聖歌隊として歌い始めました。しかし、生い立ちが恵まれず、幼少期は周囲からいじめられ続けていたが、「歌っている時だけは唯一、自分に自信が持てた」と後のインタビューで語っています。
 幼いときに映画「E.T.」を見てジョン・ウィリアムズ(John Williams)の映画音楽を聴くようになり、やがて他のクラシック音楽を聴くようになりました。ドボルザークやチャイコフスキー、ブラームスなどの音楽を聴いてオペラにも関心を持つようになっていきます。そして、1986年に、ホセ・カレラス(Jose Carreras)が、ロドルフォ役を演じたオペラ『ラ・ボエーム』を聴いてオペラ歌手になりたいと思うようになりました。彼が白血病で抗がん治療を受けながらステージに立っていることに感動したのです。
 その後、セントマーク&セントジョン大学では人文学を専攻し、1993年に優等学位を得て卒業しました。大学卒業後はスーパーマーケットに就職。この間に自由民主党のブリストル市議員(1996年 - 2003年)も務めました。このように、一度はプロの道は断念したものの、その後も地元のアマチュアのオペラ劇団でオペラを学び、ボイストレーニングを続け、2007年3月に「ブリテンズ・ゴット・タレントオーディション」を受け、同年6月に準決勝および決勝のTV放映が行われました。オーディションでオペラ『トゥーランドット』の「誰も寝てはならぬ」を歌い、会場を熱狂させました。このような回り道をしながらも、チャンスを生かしたことが、自叙伝とは別の脚本による映画『ワン チャンス』にも描かれています。映画と実話の違いにも着目してください。


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 偽作その3「カッチーニのアヴェ・マリア」

 「アヴェ・マリア」という名の歌は、キリスト教国、とりわけカトリック教徒の多い国では、グレゴリオ聖歌はもとよりさまざまな楽曲が存在します。しかし、1995年前後になって、イネッサ・ガランテ(ラトビア出身)やスラヴァ(ベラルーシ出身)等、旧ソ連のアーティストによる「カッチーニのアヴェ・マリア」のCDが登場することによって、埋もれていたカッチーニ(1545年頃~1618)の作品かと注目されましたが、間もなく、ソ連のギタリスト・リュート奏者・作曲家のウラディーミル・ヴァヴィロフ(1925~1973)によって作曲された歌曲であることが明らかにされました。録音も楽譜も90年代前半まで知られていなかったのも不思議です。また、歌詞がただ"Ave Maria"を繰り返すだけという内容もバロックの様式とは相容れません。それまでにも、ヴァヴィロフは自作を古典作曲家の名前を借りて発表する事がよくありましたが、自身が共演しているIrene Bogachyovaの1972年の録音において、既に「作曲者不詳」の『アヴェ・マリア』として発表していました。ヴァヴィロフは、ソ連における古楽復興の立役者でもありますが、そのような偽作をたくさん発表したため、評価は分かれます。なお、チェコ少年合唱団ボニ・プエリのCD「From the Heart of Europe」(ArcoDiva UP0179-2 131) には、カッチーニとヴァヴィロフが併記されています。それでは、マイキー・ロビンソンの独唱でお聴きください。

Ave Maria - Caccini ( Boy Soprano ) Mikey Robinson  https://www.youtube.com/watch?v=crInNtSk94o


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