(1)   教会音楽とボーイ・ソプラノ

 ヨーロッパの歴史は、キリスト教と共にあると言っても過言ではありません。教会や修道院の中で聖歌隊が生まれたのは11世紀頃と言われていますが、世界最古といわれるスペインのモンセラート修道院聖歌隊のように1000年の歴史をもっているところもあります。また、古い歴史をもつ聖歌隊の一つであるライプツィヒの聖トーマス教会の聖歌隊は1212年に作られ、いろいろな宗教儀式の中で歌ってきています。ところが、その源泉をたどって行くと、キリスト教が誕生する以前の時代にさかのぼります。キリスト教の母胎ともなったユダヤ教の礼拝においては、聖歌の歌唱に少年が呼び出されたと言います。キリスト教においては、中世からルネッサンスを経てバロックに至る声楽ポリフォニー(多声音楽)は、歌手がすべて男声と少年であるような男声合唱の歴史において、延々と発展をとげてきました。
 さて、仏教でも、女人禁制の場所などというようなものが現存しますが、キリスト教でも同様で、宗教上のおきてや、教会における複雑な規約のため、典礼への女性の参加は制限されていました。そのため、教会音楽のソプラノの女声の代わりとして、変声期前の少年の声が使われるようになったのが、ボーイ・ソプラノが音楽史に登場するようになった始まりです。従って、ボーイ・ソプラノは、自然発生したというよりも、宗教上の理由から生まれたと言ってもよいでしょう。
 素質のよい少年を訓練していけば、その出し得る音域は、高音部においてはほぼ2オクターブとなり、音色の清純さでは遥かに女声を凌ぐといいます。汚れなき少年の喉から出る声が信仰深い人々に、天使の声や神の御告げのように聞こえるので、ボーイ・ソプラノは、「天使の歌声」と呼ばれるようになりました。このボーイ・ソプラノの代名詞のような「天使の歌声」という言葉の起源を探ると、ローマ法王ピオ11世がウィーン少年合唱団を指して言ったという記録が残っていますが、それ以前に言った人もいたかもしれません。また、教会堂に特有の長い残響が、音量の乏しい少年の声とマッチして、独特の宗教的雰囲気をかもし出すというのも事実でありましょう。
 ヨーロッパでは、そのようなことから、音感がよく、美しいボーイ・ソプラノを持っている少年は、教会や宮廷附属の聖歌隊や合唱団に入り、寄宿生活をしながら音楽を勉強し続けることが多かったようです。このような聖歌隊や少年合唱団出身の音楽家は、決して少なくありません。バッハは、アイゼナハのラテン語学校生徒として聖歌隊で歌っていました。ハイドンやシューベルトは、ウィーン少年合唱団出身です。ブルックナーは、ザンクト・フローリアン修道院合唱団出身で後年この合唱団の指導者をしていました。今世紀に入ってからも、ウィーン少年合唱団では、指揮者のクレメンス・クラウスやロブロ・フォン・マタチッチなどが育ち、最近ではまたOBのノルベルト・バラチュが芸術監督として迎えられました。ドレスデンの聖十字架合唱団では、テノールのペーター・シュライアーやバスのテオ・アダムらの名歌手が育っていきました。

 (2) ボーイ・ソプラノのための音楽

 これらの合唱団や聖歌隊にとって、グレゴリオ聖歌やオラトリオ、バッハの受難曲等の宗教曲は一番の本領であるにもかかわらず、キリスト教徒が少なく教会音楽に親しむことの少ない日本では、なじみが薄いものです。また、キリスト教徒であっても、なじみ深いのは賛美歌であり、キリスト教徒以外の者にとっては、わずかに「きよしこの夜」や「もみの木」等いくつかのクリスマスソングを知っているというところが実情でありましょう。ボーイ・ソプラノのために作曲されたわけではありませんが、フォーレの「レクイエム」のソプラノ・パートの「ピェ・イエズ」や合唱パートを少年が歌うと、つややかな女声とは違うストイック(禁欲的)な雰囲気をかもし出すので、あえてそのようなCDを買い求める人も少なくありません。また、ボーイ・ソプラノの愛好家としても知られるブリテンは、少年合唱のための「キャロルの祭典」なども作曲しています。最近では、「オペラ座の怪人」などミュージカル作曲の第一人者であるロイド・ウェッパーの「レクイエム」の「ピェ・イエズ」は、女声とボーイ・ソプラノの二重唱で初演され、現在でもその形態で歌い継がれています。
 日本では、最近外来の少年合唱団の公演が盛んですが、本格的なクラシックファン以外は宗教曲に人気はあまりなく、各国の歌曲や民謡に人気があります。例えば、最近は毎年来日しているウィーン少年合唱団の公演プログラムは、20年ぐらい前までは3部構成になっており、第1部・宗教曲、第2部・オペレッタ、第3部・歌曲、民謡、ウインナ・ワルツとポルカとなっていました。この順序は、人気の順序でもあったと言えるでしょう。また、レコード・CDの売り上げも、以前はほとんどが、歌曲や民謡であって、宗教曲がベストセラーになることはこれまであまりありませんでした。ところが、21世紀に入る頃から、突然グレゴリオ聖歌がブームになったり、イギリスの少年合唱団のトップソリストばかりを集めて組織した「ボーイズ・エア・クワイア「ピェ・イエズ」」の「少年のレクイエム」がヒットになったりするといった新傾向も見られます。しかし、そのファンは殆どが女子の中学生・高校生や20代の女性であり、これがきっかけでクラシックファンになることも多いのですが、このファン層は移り気であることも否めません。このあたりが日本の特殊性で、ヨーロッパでは、ボーイ・ソプラノのファン層の中心は、むしろ成人であり男性ファンが多いそうです。この辺りに文化の差を感じます。
 さて、18世紀以後は、それ以前ほどボーイ・ソプラノは重要視されなくなってきましたが、オペラにおいては、合唱あるいはソロで、様々な場面に用いられています。例えばオペラの合唱としては、プッチーニの「ラ・ボエーム」や「トスカ」、ビゼーの「カルメン」、フンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」、ソロとしては、モーツァルトの「バスティアンとバスティエンヌ」のタイトルロール、「魔笛」の三童子、プッチーニの「トスカ」の牧童(舞台裏のかげ歌になることが多い)、ブリテンの「ねじの回転」のマイルズ少年の役などにボーイ・ソプラノが使われています。 主演が与えられるオペラとしては、メノッティの「アマールと夜の訪問者」が挙げられます。上演時間1時間のほとんど出ずっぱりの大役と言えましょう。

 (3) カストラート盛衰記

 ボーイ・ソプラノは、その別れを惜しむかのように、変声の直前に最もよく響き、美しいと言われています。まさに、燃え尽きる前のろうそくの輝きにも似て。そのことに気が付いた教会の音楽監督は、声変わりさせず、この美しい声を永久のものにしようとして、精巣を手術により除去(去勢)することによって、身体の他の部分の発育に関係なく、ボーイ・ソプラノを保とうとしました。このような発想がどうして出てきたのでしょうか。おそらく、家畜を去勢することによって、おとなしくなったり、雌のような特徴を示すことに気付いたことがきっかけでありましょう。この今から考えれば極めて非人道的なことが、ヨーロッパ、特にイタリアで大流行しました。クレメンス8世は、教会の合唱団に男性ソプラノを採用して女性を遠ざけ、最盛期であった18世紀には、イタリアでは毎年4000人の少年が去勢されたといいます。この去勢された歌手のことをカストラートといいます。カストラートがヨーロッパに出現するのは16世紀後半です。
 カストラートは、やがて、教会音楽だけでなく、当時誕生した新芸術のオペラに進出します。この新芸術は、圧倒的な人気を博しました。人々は、二枚目役を歌うカストラートに熱狂しました。一流のカストラートの出演料は、オペラ作曲家の作曲料の十数倍だったと言われています。だから、成功すると、莫大な富と名声を手に入れることができました。そして、カストラートにされるのは、ほとんどが貧しい家の8〜10才ぐらいの子どもだったようです。当然ながら、歌手として成功する確率は極めて低いと考えられます。それでも、貧しさにあえぐ親は、一獲千金を夢見て我が子を手術台に送ったのです。子どもの幸せを本当に考えたのでしょうか。倫理観が現代とは違うとはいえ何とも悲惨な話です。また、外科手術技術の向上もあり、人口増加に伴う口減らしの手段として、去勢は行われました。また、当時はデビュー前のカストラートたちを訓練する教育機関も存在しました。ナポリを中心とする音楽院では、約十年にわたる徹底的な歌唱訓練が行われました。
カストラートのために作曲された曲も多くあります。例えば、モンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」の初演には、二人のカストラートが出演したことが確認されています。ヘンデルやロッシーニなどの作曲家は、これを盛んに使ってオペラを作っていました。ヘンデルのオペラ「セルセ(クセルクセス)」の中の有名なアリア「オンブラ・マイ・フ」は、カストラートのためのものです。現在ソプラノによって歌われるモーツァルトの「アレルヤ」も、カストラートのための歌です。それ以後のオペラの二枚目役はたいていテノールですから、音域も違うわけです。17世紀は、シェークスピア等の劇の女役は少年が受け持っていたし、オペラと同時代に生まれた日本の歌舞伎でも、男が女の役をする女形があるのは偶然の一致でしょうか。この問題については、永竹由幸の「オペラと歌舞伎」に詳しく述べられています。
 カストラートが、声楽史上に果たした役割の一つは、ベル・カント唱法を完成したことが挙げられます。現在も、使われている声楽の基礎練習は、ソルフェージュですが、これは、もともと、スカルラッティとポルポラによって作られたカストラートのためのテキストです。
 さて、カストラートは、18世紀末から次第に衰退していきます。グルックのオペラ改革やコミック・オペラの隆盛が音楽的には直接の原因です。また、政治的には、カストラートのなかった国・フランスのナポレオンのイタリア征服が挙げられます。ナポレオンは、カストラートを禁止しました。また、そのころから女性歌手が、カストラートのテクニックを身につけていくことによって、オペラ劇場に進出してきました。だんだん飽きられてきたカストラートは、それでも、今世紀の初めまでシスティーナ礼拝堂のソプラノ歌手として細々と余命を保っていました。最後のカストラート アレッサンドロ・モレスキは、1922年に亡くなっています。私は、20年近く前NHKラジオの「音楽夜話」で、世界で唯一残っている20世紀初頭のカストラートの歌声の録音を聞いたことがあります。しかし、録音も古くて音質が悪く、また、普通のソプラノとあまり変わらなかったような印象を持ちました。少なくとも、「天使の歌声」とは思えませんでした。ところが、21世紀に入る直前頃、モレスキのCDを1650円という安値で手に入れました。1902年と1904年の録音ということで、音質はきわめて貧しいのですが、予想したよりは人間的な歌が聴かれます。しかし、この人が、カストラートとして一流であったかどうかは疑問でありましょう。むしろこの歌声の最後の生き残りとしてのトキ的な価値があると考えられます。ちなみに、このCDはSPのアナログ・レコードであったならば、「お宝」として大変高価な稀少品であったと思われます。
 最近、バロック・オペラが再評価されてきて、ヨーロッパでは、その当時のオペラを復刻して上演することもしばしば見られるようになってきました。ところが、現在、カストラートは存在しませんから、その役は、カウンター・テノールや、男声アルトによって、歌われていることが多いようです。カウンター・テノールは、伝統的にイギリスに多いけれども、最近では、ドイツのヨッヘン・コヴァルスキやロシアのオレグ・リャーベツのような男性アルトや男性ソプラノの人気歌手も次々出現しました。カウンター・テノールについては後で述べますが、それによって、当時の雰囲気を想像することがある程度可能です。でも、それだけでは満足できなくて、半分冗談ではありましょうが、音楽評論家の堀内修のように、本当のカストラートをつくろういう過激なことを言う人間まで現れました。それほどにこの声は、魅力的なのでしょうか。

  (4) カストラートの評価

 カストラートが生きていた時代、それは、同時代の人々にどのように評価されていたのでしょうか。カストラートの不思議な響きは、一度聴いたら忘れられないぐらい魅力的だったそうです。音域は、軽く4オクターブに及び、息の長さは、トランペットやフルートをしのぐ18世紀最大の歌手のファリネッリまで現れました。当時の王侯貴族は、争ってこの大歌手を迎えようとしました。その結果、スペインの宮廷に迎え入れられたファリネッリは、政治的にも重用され、実質的な宰相と言われるまでになりました。これは、まるで中国の宦官のようです。ファリネッリについては、映画「カストラート」の主人公としても知られています。
 さて、個々の歌手について言うと、例えば、ワーグナーは、カストラートのサッサローリのことを、
「この巨大な丸いおなかをしたイタリアのソプラノ歌手は、その高い女の声、 驚く程よく廻る弁舌や高い笑い声で、すっかり私を魅了してしまった。しかし、この人間は私には幽霊のように気味悪く思われた。彼がイタリア語で話したり歌ったりしたのを聞くと、まるで悪魔の仕業のように思われた。」
と述べています。
 また、フェリックスの手記によると、
「ソプラノ歌手は、たいてい去勢した鶏のように肥って脂肪が多く手足や首は 女のようである。もし、社交場に彼等が出現して、あの巨大な身体から子供らしい声が出るかと思うとびっくりさせられる。彼等はたいていおとなしいが内容がない。彼等の声は児童合唱団のような明るい音声を持っていて、強いいつも堅い乾いた感じがするが、素晴らしく鮮やかでその声域も広い。」
ということです。去勢することによって、ひげも生えず、身体の脂肪沈着がよくなり、肉付きも女性のように柔らかくなります。また、四肢の発育はよくなるが、筋力や忍耐力は減少し、頭の動きも鈍くなるといいます。カストラートは、少年時代に自分の意志と関係なく去勢されることが多かったため、どうしてもそれがコンプレックスとなって、性格的には極端に自己顕示欲の強い、また、うぬぼれの強い人間になりやすかったとも言われています。これも、人々に飽きられる一因だったかもしれません。
 さて、ベートーベンが少年時代、聖歌隊で美しいボーイ・ソプラノであったために、教会の先生から、声変わりさせるのが惜しいから、カストラートにしようということになりかけたという逸話も残っています。幸い、父の反対でそうさせられませんでしたが、もしカストラートにされていたら、当然の事ながら、作曲家としてのベートーベンはこの世に存在しなかったでしょう。

   (5) 映画「カストラート」とカウンター・テノール

 平成7年(1995年)、パリで大ヒットしたジェラール・コルビオ監督の映画「カストラート」が日本でも公開され、日本でもにわかにカストラートやカウンター・テノールに対する関心が高まってきました。それに関連した本も数冊発行されました。ファリネッリの伝記を脚色したこの映画は、絶滅したカストラートの声を再現するために、現在活躍中のカウンター・テノール デレク・リー・レイギンが低音部を担当、その声に合うソプラノ エヴァ・マラス=ゴドレフスカが高音部を担当して、その声をフランス国立現代音楽研究所の音声分析班がコンピュータを駆使して統合して創ったといういわくつきのものです。映画に先だって発売されたサウンドトラックのCDを聴いただけでは、歌が機械的に聞こえることもありました。しかし、映画そのものはヒューマンなもので、その主題は、兄によってカストラートにされたファリネッリが単なるテクニック・マシーンではなく人の魂を揺さぶる音楽家に成長しようとする苦悩でした。そして、そのターニングポイントになる歌が、有名なヘンデルのオペラ「リナルド」の「涙を流させてください」です。それまでの、声のきらびやかさをひけらかす歌と違って、本当に聴かせる歌を歌っています。とはいえ、このようなことは映画だからできることで、今、それに近いものを求めようとすれば、カウンター・テノールの優れた歌手の歌を聴くほうがよいでしょう。
 ヨーロッパで、カウンター・テノールの伝統を作ったのは、イギリスのアルフレッド・デラー(1912〜1979)であり、その後前述したヨッヘン・コヴァルスキを始め、ジェームス・ボウマン、アンドレアス・ショル、ルネ・ヤーコブス、ジェラール・レーヌなどの優れた歌手が相次いで登場しました。とりわけ、フランスのドミニク・ヴィスの歌は、不思議な魅力があります。その声はボーイ・ソプラノの延長線上にあり、それよりもう少し色気があるように感じます。大人の男だから当然と言えば当然でありましょうが。カウンター・テノールには、テノール出身とバリトン出身があるようです。当然ながら、発声法も違うでしょう。さて、最近ではロシアのオレグ・リャーベツやエマニュエル・ツェンチッチのような男性ソプラノが少数ながら(世界に3人という説もありますが、実際にはもっといると考えられます。)登場してきました。この人には変声期はあったのだろうかなどと想像を掻き立てます。おそらく、ウィーン少年合唱団出身のツェンチッチは、ボーイ・ソプラノの発声を身につけて、それを変声後も磨き上げていったのではないでしょうか。
 日本でも、岡田孝、太刀川昭、米良美一などのカウンター・テノールが登場しましたが、特に若手の米良美一はマスコミにも多く登場し、その歌も次々とCD化され一躍時代の寵児となりました。ところで、日本におけるカウンター・テノールの歴史は意外に古く、昭和8年(1933年)に奥田良三がたった一曲残した「梅元節」が残っています。それにしても奥田良三の歌は、本領のテノールは言うに及ばず、カウンター・テノールも清潔で、心のある歌です。
 最近、日本でも男性ソプラノ(ソプラニスタ)岡本知高が、マスコミにもよく登場し脚光を浴びています。今はビジュアル系の歌手といった外面的なことや、音域の希少さによって評価されている向きがありますが、CDのアリア集や日本の歌を聴くと、声楽的な基礎もしっかりしておりまた歌心もあるので、今後は真摯な声楽家として評価されることを期待しています。

      (6) 癒しの音楽とボーイ・ソプラノ

 ストレスの多い現代社会の中で、「癒し」とか「ヒーリング」という言葉がもてはやされるようになってきました。21世紀が始まった頃には、「のほほん」という一見怠惰な言葉が共感されブームの様相を呈するようになってきました。しかし人生は緊張と弛緩のバランスこそ大切です。それが崩れたとき悲劇が起こります。そのような時代背景の中、この二十数年、「アダージョ」の音楽にそのような癒しの効果があるということで、器楽の分野では、カラヤン指揮の「アダージョ」などがベストセラーとなり、声楽の世界ではカウンター・テノールやボーイ・ソプラノに対する関心が高まってきました。イギリスの少年聖歌隊のトップ・ソリストを集めて組織された「ボーイズ・エア・クアイア」による「少年のレクイエム」「ビリーブ」「ブルーバード」やリベラの合唱曲がヒットした背景には、ボーイ・ソプラノに心を癒す何かがあることが分かってきたためではなかろうかと考えられます。人はいつの時代にも清純なものを求めていることが、このブームの中から感じられます。しかし、ブームは長続きするものではありません。永続していくためには、歌い手の育成とともにファンの定着化・質的向上も求められるのではないでしょうか。



     2 ボーイ・ソプラノのエピソード

 前節がボーイ・ソプラノの歴史におけるいわゆる「正史」なら、本節は古今東西のボーイ・ソプラノのエピソード(逸話)を集めた「外史」です。従って、録音をもとにその歌唱の特性を書くのではありません。この人の少年時代には、こんなこともあったのかと興味本位で読んでいただければよいと考えます。このたび、日本編と外国編に分けて、年代順に書き直してみました。

 日本編 

  (1) 小学生の頃からファンができた五十嵐喜芳のボーイ・ソプラノ

 日本声楽界の大御所で、昭和音楽大学学長で新国立劇場オペラ芸術監督でもあった五十嵐喜芳(1928〜2011)が、少年時代からすばらしいボーイ・ソプラノであったことは、自伝のエピソード等によってかなり知られています。音楽との出会いは美しい声を持った母に連れられて、外国の音楽映画を見たことも大きな影響を与えたと考えられます。小学校の二年生の頃、甘いテノールのヤン・キープラが主演した「今宵こそは」や、ディアナ・ダービンが主演した「オーケストラの少女」は、特にお気に入りだったそうで、彼女の歌うモーツァルトの「アレルヤ」のレコードを買ってもらい、それに合わせて歌ったこともあるそうです。
 この映画を1日4回、合計10回見たという近所のおばさんは、学芸会で五十嵐少年が独唱することになると、家まで応援にきてくれたり、当日は一番前の席にきて、聞いてくれたりしました。後年、「我らのホープ」と呼ばれ、テノールの至宝として多くのファンをもつことになった五十嵐喜芳のファン第一号は、このおばさんと言えましょう。


    (2) 天性の舞台度胸 フランキー堺のボーイ・ソプラノ

 喜劇俳優、ジャズドラマー、落語家、脚本家、大学教授など、多才な活躍をしたフランキー堺(1929〜1996)の本名は堺正俊。鹿児島市に生まれた堺は、父親が音楽好きで、小オルガンやレコードのある当時としては音楽的環境に恵まれた家庭で育ちました。鹿児島県立男子師範附属小学校に入学した当初から非凡なボーイ・ソプラノとして注目され、1年生の学芸会で「汽車」を独唱しました。翌年、日本放送協会鹿児島放送局が開局しますが、開局記念として地元小学生による合唱番組が放送されることになります。堺少年も選抜されて参加することになりますが、にわかづくりの合唱団の中で1年生は一人だけ。本番の「鯉のぼり」では、緊張のため歌詞を忘れてしまいますが、口パクで切り抜けたそうです。このあたりに、天性の舞台度胸を感じます。
  翌年には全九州小学生歌唱コンクールの鹿児島県代表として、ラジオ放送で独唱するという晴れがましい場を与えられることになります。今度は緊張することなく「背くらべ」と「太平洋行進曲」を歌い終えます。指導の先生からは別な選曲をという声もありましたが、堺少年は、「太平洋行進曲」を歌った波岡惣一郎の華麗な歌いっぷりに心酔しており、たいへんお気に入りだったそうです。しかし、この歌は軍歌でもあり、小学生らしくないという理由からか、残念ながら入賞を逃してしまったそうです。


      (3) 『われは海の子』と不思議な縁があった坂本博士

 80歳を過ぎても現役の声楽家でサカモト・ミュージック・スクールの校長でもある坂本博士(1932〜)は、もともと両親や祖母が音楽好きだったので、四歳でピアノを始めるなど自然と音楽に馴染んで育ちました。ところが母が、小学校四年生の時亡くなりました。学校で母の危篤を告げられて帰宅した坂本は、まだかすかに息のある母がこよなく愛した海洋少年団の制服に素早く着替えると、母に敬礼しながら、母が大好きだった『われは海の子』を歌いました。ところがその後に、海洋少年団の中から代表の一人に選ばれてNHKで歌うことになったとき、そこで歌ったのが『われは海の子』だったそうです。しかも、放送前の練習に指導に来られたのが、当時有名な声楽家にして音楽教育の第一人者・城多又兵衛先生で、やがて、中学生になってから師事し、坂本博士の生涯の師となります。


    (4) 加賀美一郎のボーイ・ソプラノに衝撃を受けた美輪明宏

  シャンソン歌手、俳優、演出家はもとより、身上相談まで多才な活躍をしている美輪明宏(1935〜)は、自伝「紫の履歴書」で、少年時代における音楽との出会いを語っています。長崎の水商売の家で育った美輪明宏は、美しい自然や洋風の文化と共に、社会的地位のある人の裏表や原爆で荒れ果てたまちを見て育ちます。10歳のとき、校則違反で行った映画「僕のお父さん」に出演していた加賀美一郎のボーイ・ソプラノに衝撃を受けて、バリトンの一ノ瀬克己に師事して歌を学ぶようになり、エンリコ・カルーソーやベニアミーノ・ジーリのようなオペラ歌手かコンサート歌手を夢見る少年へと育っていきます。実際に童謡よりは、「スワニー川」「埴生の宿」「シューベルトの子守歌」の方が好きだったようです。さらに、中学では、シューベルトの「鱒」「アヴェ・マリア」から、ヴェルディの歌劇「椿姫」の「ああそは彼の人か」、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」の「恋とはどんなものかしら」まで歌ったといいますから、その実力は相当なものだったと推測できましょう。また、シャンソンとの出会いも中学生のときでした。
 美輪明宏は、日本におけるシンガーソングライターのはしりでもあります。歌と人生が結びついたその作品のすばらしさは、代表作でもある「ヨイトマケの唄」や「ふるさとの空の下で」で遺憾なく発揮されています。また、77歳で紅白歌合戦初出場・3年連続出場という記録ももっています。


   (5) 上高田少年合唱団出身の高橋元太郎

 長寿番組を超えて今や国民的時代劇となった「水戸黄門」で、30年間にわたってうっかり八兵衛役を演じてきた高橋元太郎(本名 風間元太郎 1941〜)が、1960年代初頭スリーファンキーズの一員として、またソロ歌手として活躍していたことを、同時代を生きてきた人はかなりよく知っています。ところで、、その音楽のルーツは、中野区立上高田小学校の4年生ときに上高田少年合唱団に入団したことにあるといってもよいでしょう。その辺りの詳細は、自伝「うっかり八兵衛半生記」に描かれています。1学年2クラスで合唱団員に選ばれるのは7〜8人ということですから、子どもたちは選ばれることに誇りをもっていたことでしょうが、高橋は「選ばれたことの嬉しさより、あの紺の半ズボンと白のワイシャツを着られることに、小躍りしたことを昨日のことのように思い出します。」と書いています。パートはソプラノで、入団した年、上高田少年合唱団は、毎日新聞社主催の「第4回全国日本学生音楽コンクール東日本大会で優勝を飾ったそうです。


   (6) 変声期がなかった?小田和正

 J−POP(ニューミュージック)界に長く君臨する小田和正(1947〜)は、女声域までもファルセットを使わずに出せる澄んだ歌声が大きな特徴です。そのため、オフコース初期には、バンドに女性ボーカルがいると間違われることもしばしばだったと言います。(古くはムードコーラスグループのマヒナスターズにもそういうことがありましたが、これはハワイアン特有のファルセットです。)さて、小田和正のボーイ・ソプラノがそのまま残っているような歌声に対して、変声期を経ずに成長したのではないかとの見方もあります。この点について、本人はインタビューに答えて、「声変わりはした記憶がないですね。ようするにちっちゃい時から、ずっとこんな声だね、たぶん、かすれてて。そいで、そのまんまだね。」と述べていますが、2005年のコンサートの中では、「医者に尋ねてみたが、声変わりしていないという事は有り得ないそうだ」と、その認識に変化があったことをほのめかしています。話す声はわりあい低く聞こえ、歌声とのギャップが大きいという声も聞かれますが、それは、ボーイ・ソプラノを維持しようと歌い続けていたために、高音域が開発されたのかもしれません。ボーイ・ソプラノからメール・ソプラノに移行した声楽家にも同じようなケースが見られます。


  (7)協調性を身につけるため合唱団に入団させられた羽田健太郎

  平成19年6月2日に急死した作曲家、編曲家、ピアニストの羽田 健太郎(昭和24(1949)〜平成19(2007))が、幼児期東京少年少女合唱団に在籍していたことは、かなりよく知られています。1歳の時に父を亡くし、母親と祖父によって育てられた羽田は、チャンバラ好きのわんぱく少年だったので、情操教育上よくないと考えた祖父の意向で歌を習わせられました。最初は独唱(童謡)のため、これでは協調性を学ぶことにはならないということで、東京少年少女合唱団に入れられました。しかし、そのパートの声域にも合わないことから、小学校2年生の時にはピアノに転向しています。従って、羽田 健太郎のボーイ・ソプラノがどのようなものであったのかを知ることができませんが、和声の基本と協調性をそこで身につけたのは確かでしょう。


   (8) 金沢少年合唱団出身の鹿賀丈史

 日本にも少年合唱団出身の声楽家はいますが、ミュージカル俳優で、「料理の鉄人」の司会などでもおなじみの鹿賀丈史が少年合唱団に所属していたことは、ファンの間では知られています。昭和25(1950)年、鹿賀は金沢市の大正時代から北陸唯一のゴム風船製造業を営む裕福な家庭の次男として生まれました。金沢市立材木町小学校入学してからは、今は解散した金沢少年合唱団に入団して、ボーイ・ソプラノとして活躍していました。ウィーン少年合唱団金沢公演の時、金沢少年合唱団代表として獅子頭の贈呈を行ったというエピソードも残っています。その後東京に2年あまり住んでいましたが、そのとき初めて見たミュージカルが一生を変えます。再び金沢に戻ってからは、金沢少年合唱団にも復帰して中学二年生まで所属していました。今では大柄で容貌魁偉といったイメージがある鹿賀ですが、当時は小柄で、変声期も遅かったそうです。その後、石川県立金沢二水高校でもコーラス部に所属し、毎年全国大会に出場し、将来は声楽家(バス・バリトン)をめざそうとしますが、音声障害のため断念します。しかし、歌への情熱は止まず劇団四季に入り、退団後も、舞台、テレビ、映画など多方面で活躍。歌手としてもレコード、CDを出しています。

    (9) 少年時代から歌もうまかったさだまさし

 現代の日本を代表するシンガーソングライターであると共に、タレントや小説家でもあるさだまさし(本名 佐田 雅志)は、昭和27(1952)年4月10日長崎市で生まれました。3歳よりヴァイオリンを習い始め才覚を現しますが、父の事業の失敗により、経済的に厳しい状況に陥りながらも、ヴァイオリンを続け、小学校5年生のとき毎日学生音楽コンクール西部地区(九州地区)大会で3位、小学校6年生で同大会2位となります。ヴァイオリン指導者として高名な鷲見三郎に認められ、小学校卒業後、中学1年生のときヴァイオリン修行のため単身上京するという人生遍歴は、自伝的小説「かすてぃら 僕と親父の一番長い日」や「ちゃんぽん食べたかっ!」に詳しく描かれています。フォーク・デュオ「グレープ」の頃から、少年時代は繊細なボーイ・ソプラノではなかったかと感じさせる歌を歌っていましたが、「ちゃんぽん食べたかっ!」には、同級生の保と二人でクラス代表で歌わされたことが書かれています。

  (10) エド・サリバンショーにも出演した山本達彦

 J-POP(ニューミュージック)シンガーの山本達彦は、30歳を前に前半生の自伝「夜のピアノ」を出版していますが、昭和29(1954)年に東京に生まれ、昭和35年暁星小学校入学しています。入学当時は、暁星小学校には今でこそ有名になった聖歌隊はありませんでした(昭和39年誕生)。2年生の時東京少年少女合唱隊に入隊しますが、自分から歌を歌いたいと思ったのではなく、小学校の先生と合唱団の先生が友人関係にあって、毎年何人かを推薦していて、たまたま選ばれたというのが実際ということです。しかし、それがきっかけで、テレビ番組に出演したり、レコーディングしたりするだけでなく、小学4年生の時には、アメリカでコンサートツアーを行い、世界のあらゆる芸術・芸能ジャンルのスターが出演するバラエティ番組 エド・サリバンショーにも出演するというなかなかできない体験をしています。ただ、合唱隊で学んだクラシック中心の音楽よりもビートルズなどのポップスの方に関心が移っていき、小学校卒業前後に変声期を迎えたこともあって合唱隊をやめ、中学生になるとバンドを結成ました。このように、児童合唱団出身で違うジャンルの音楽に進んだ少年もかなりいるものと考えられます。


  (11)合唱も芸能界へのワンステップと考えた片岡鶴太郎

 昭和29(1954)年、荒川区西日暮里に生まれた片岡鶴太郎は、幼い頃から寄席好きの父に連れられて上野や浅草の寄席に行き、そのものまねを家や学校で披露して人気者になりました。これが高じて、小学校5年の時にテレビの素人参加番組「しろうと寄席」に出演し、動物のものまねで審査員の絶賛を受けました。この頃から“芸人”に憧れ、将来の仕事にしたいと思うようになっていきました。その頃、荒川区で少年少女合唱隊を作る話があり、音楽の先生に勧められてオーディションを受けたところ合格し、荒川少年少女合唱隊の一期生となりました。入隊の動機は、歌がうまいとか、音楽の成績が良いからということではなく、将来芸能界に入りたいので、少しでもそれに近い活動をしたいという気持ちからだったそうです。
 その後、声帯模写の片岡鶴八師匠のもとに弟子入りし、寄席で活躍した後、バラエティ番組「おれたちひょうきん族」出演で一躍人気者になり、さらにドラマ、映画で多くの賞を獲得するなど幅広い活躍を続けています。また、墨彩画でも毎年個展を開くなど幅広い才能を発揮しています。


   (12)  マルチタレント小堺一機の歌のルーツ

  ものまねなどの「お笑いタレント」としてだけでなく歌,ドラマ、舞台、ミュージカル、CM等、幅広く活躍している小堺一機(こさかい かずき)は、昭和31(1956)年千葉県生まれ。やがて東京に移り住み、東京放送児童合唱団に所属し、「歌はともだち」等のテレビ番組にも出演しました。タレントになった後も歌のうまさには定評があり、レコード、CDも数枚リリースしています。また、タップダンスの名手でもあることからリズム感においても非凡なものをもっていることがわかります。


 (13) 「ちびっこのどじまん」で優勝した野口 五郎

 1970年代アイドル歌手 新御三家の一人として人気を集め、その後もミュージカル歌手や俳優として活躍している野口 五郎(本名 佐藤 靖 昭和31(1956)年〜)は、美濃市出身で幼時より歌い始め、10歳の時には、フジテレビの人気番組「ちびっこのどじまん」で荒木一郎の『今夜は踊ろう』を歌い、優勝しました。また、中部日本放送の「どんぐり音楽会」に出演し、ザ・ワイルド・ワンズの『青空のある限り』を歌い1位になり、この録音は今でも残っています。明るい声質のボーイソプラノで歌いあげる歌唱は、アイドル時代にも歌そのもので勝負するというスタンスにつながっており、歌唱力に自信を持っていたことの証でもあります。それは、後年、ミュージカル「レ・ミゼラブル」のマリウス役でも一時代を画したことにつながっています。


   (14) 身体も夢もビッグだった佐渡裕

 日本の少年合唱団出身者で、音楽の道に進んだ人もかなり存在しますが、その中で世界的に有名な音楽家になった人と言えば、指揮者の佐渡裕でしょう。昭和36(1961)年京都市に生まれた佐渡裕は、母がピアノの教師をしながら声楽の勉強を続けていたこともあって、2歳頃から本格的なピアノのレッスンを開始。小学5年生からは京都市少年合唱団にも所属。小学6年生からはフルートを学び、小学校の卒業文集には「オペラ歌手になって世界の歌劇場で歌うか、ベルリン・フィルの指揮者になる」と書きました。現在187cmと巨漢ですが、小学6年生の時には既に175cmあったそうです。もう、変声期なんか乗り越えてしまっていたのでしょう。当時から身体も夢もビッグだったことがわかります。その辺りのことは、自伝「僕はいかにして指揮者になったのか」に詳しく載っています。しかし、当時の声質(パート)は著書からはわかりませんでしたが、同時期に団員だった方から第2ソプラノであったことを知らせていただきました。ただ、京都市少年合唱団は少年少女合唱団で、男子部(みやこ光)が、独立したステージをもつという伝統があります。なお、佐渡裕は、京都市で育ち、京都市少年合唱団で育まれたことを誇りとし、創立50周年の記念行事には中心的な存在として活躍をしています。

  (15) 「レ・ミゼラブル」初演に出演した山本 耕史

 俳優、歌手として活躍している山本 耕史(昭和51(1976〜))は、0歳から赤ちゃんモデルとして活動していたため、年齢即芸歴という珍しい経歴を持っています。とりわけ、昭和62(1987)年、日本における「レ・ミゼラブル」初演において、少年革命家ガブローシュ役を務め、後年マリウス役も務めるなどミュージカル子役として出発してこの分野で大成したことは特筆されます。山本 耕史を全国的に有名にしたのは、トレンディドラマの「ひとつ屋根の下」の文也役です。もともとやり直しのきかない舞台俳優として出発したので、歌・踊り・演技には確かなものがあり、テレビ・映画・舞台に大活躍しています。また、平成17(2005)年NHK紅白歌合戦の白組司会に抜擢されたことは特筆されます。また、歌手としては、バンドを組み、自作楽曲をCD化しています。


  (16) 少年時代聖歌隊で歌っていた井上芳雄

 若手のミュージカル俳優として今脚光を浴びている井上芳雄は、昭和54(1979)年福岡市に生まれました。特に早期からの音楽教育を受けてはいませんでしたが、毎週日曜日には教会の聖歌隊で歌っており、その歌のうまさに注目する人もいました。小学4年生の時に家族で見たミュージカル「キャッツ」の感動が人生を方向付けます。中学1年生の時、父の仕事の関係で1年間アメリカに住むことになり、そのときに見たブロードウエーでのミュージカル体験が決定打となり、帰国後ダンスと歌のレッスンを開始します。東京芸術大学の声楽科に現役合格後、在学中にミュージカル「エリザべート」のルドルフ皇太子役のオーディションに合格。その後「モーツァルト」「ミスサイゴン」「ハムレット」などに出演しています。声質はテノールで、180cmの身長とあいまって希少価値があり、人気を集めています。ソロのCDも発売されています。

(17)全国童謡コンクールからミュージカル俳優へ進んだ山崎育三郎

 最近、ミュージカル俳優・歌手として活躍している山崎育三郎は、昭和61(1986)に東京で生まれました。山崎育三郎がこの道に進んだききっかけは、母親が宝塚やミュージカルが大好きで、山崎家では、母親の弾くピアノにあわせて四兄弟が歌を歌うというような家庭に育ったことが挙げられます。少年時代野球が好きな少年でしたが、引っ込み思案で常に母親の後ろを付いて回るような性格だったようです。そんな息子をいつも心配していた母は、当時8歳の育三郎を連れて、ミュージカル『アニー』を観劇。すると、育三郎は劇中歌『トゥモロー』を歌うではありませんか。これをきっかけに内向的な性格を変えられればという願いを込めて、近所の音楽教室に入れたことが歌の道に進むでした。才能はすぐに開花し、11歳の頃には、全国童謡コンクールにて審査員特別賞を受賞。その翌年には、小椋佳企画のアルゴミュージカル『フラワー』のオーディションを受け、3000人の中から主役を勝ち取りました。小学校6年生での初舞台以来、舞台やテレビなどで活躍を続けていた育三郎は、中学3年生のときに変声期を迎え苦しみましたが、それを克服し、基礎から声楽を学ぶために東邦音楽大学附属東邦高等学校の声楽科に進学。高校在学中には、1年間アメリカ留学も経験。英語を身につけると同時に、引っ込み思案だった性格も変わりました。高校を卒業すると、 東京音楽大学声楽演奏家コースに進みましたが、仕事との両立が難しかったため2年生のときに中退しました。その後は、2007年にオリジナル演出版ミュージカル「レ・ミゼラブル」のマリウス役で本格デビュー。その甘く気品のある歌声、確かな演技力で、多くの観客を魅了し、現在はミュージカルを中心に数多くの舞台へ出演しています。

  (18)ヤングシンバ役から若手名優に 池松壮亮

 ミュージカル『ライオン・キング』のヤングシンバ役を演じたミュージカル子役は数多くいますが、たいていは青年期に芸能界から去ることが多いものです。その中で、今若手の俳優として多くの映画やドラマに主要な役を演じている俳優に池松壮亮(そうすけ 昭和63 1990年〜)がいます。もともと児童劇団に所属していた姉とともに福岡で『ライオンキング』の子役オーディションを一緒に受けるよう親から勧められたことがデビューのきっかけです。当時10歳の池松壮亮は当時野球にしか興味がなかったため最初は抵抗しましたが、「野球カードを買ってあげるから」という言葉につられて受け、合格しデビューを果たしたというエピソードが残っています。その役を2年務め、次第に役者魂を磨いていきます。2003年、ハリウッド映画『ラストサムライ』で映画初出演。主人公・オールグレン(トム・クルーズ)と心を通わす少年飛源役を演じて、第30回サターン賞では若手俳優賞にノミネートされました。その後、2005年、映画『鉄人28号』で主人公・金田正太郎役を演じ、映画初主演を果たすなど、順調に芸歴を重ねていきます。この頃までは変声前で、DVDで声を聴くことができます。その後、大学は日本大学藝術学部映画学科で監督コースを選びながら、卒業後は役者一筋で多彩なジャンルの役に挑んでいます。

  (19)  少年時代から芸達者だった浅利陽介

 ミュージカル「レ・ミゼラブル」のガブローシュ役を演じた子役で成人後も俳優として活躍している人のひとりに、浅利 陽介(昭和63 1990〜)がいます。浅利 陽介は4歳の頃から子役で芸能界入りということですので芸歴は長いのですが、全国的に有名になったのは、小学6年生の頃、NHK連続テレビ小説『あすか』でヒロインの幼馴染で結婚相手(速田俊作=ハカセ)役の少年時代や、翌年児童虐待を描いた問題作『永遠の仔』の主演のジラフの少年時代を演じるなどドラマなどで活躍してきました。また、小学4年生の時には、ミュージカル「レ・ミゼラブル」のガブローシュ役で出演しています。ミュージカルはこの時が初出演ですが、ガブローシュは、子どもだけれども大人っぽいところがあるので、不良っぽく演じたいと語っていました。その演技は、やがて2001年、『キッズ・ウォー3』で不良少年の一平役で開花していきます。『永遠の仔』の頃までは変声期前で透き通った上品な声質でしたが、変声期後は声質がかなり変わっています。最近では2010年公開の映画『手のひらの幸せ』で映画初主演、2011年のテレビドラマ『ひとりじゃない』でドラマ初主演を務め、今後の活躍が期待されます。

 
 外国編

  (1) 遺伝学の研究対象にもなったバッハ

 ヨハン・セバスチァン・バッハは、「音楽の父」として、音楽史の本には必ず出てくる名前ですが、約250年の間に約60人の音楽家を輩出したということで、遺伝学の研究対象とされました。
 ヨハン・セバスチァン・バッハ(1685〜1750)は、ドイツのアイゼナハでその町の楽師の父ヨハン・ アンブロージウス・バッハの八番目の子として生まれました。バッハ一族は、ドイツ中部テューリンゲン地方で代々音楽を生業としていました。そのため、おそらく、父からヴァイオリンを、伯父からオルガンを教わっていたと考えられます。7歳で聖ゲオルク教会付属ラテン語学校に入学しますが、成績も飛び級するほどよかったそうです。また、学校の合唱団で歌っていましたが、そのボーイ・ソプラノはたいへん美しかったと伝えられています。
 しかし、父母が相次いで亡くなり10歳で孤児となったバッハは、14歳年上の長兄のヨハン・クリストフに引き取られ、そのもとで音楽的才能と教養を身につけます。やがて、14歳で独立し、リューネブルクの聖ミカエル教会の合唱団で、ボーイ・ソプラノ歌手として月給をもらいながら 学業を続けます。やがて変声期を迎えますが、 優れた音楽的才能が認められヴァイオリンやヴィオラ奏者として教会に雇われることになります。
 バッハにあまり面白い逸話がないのは、時代が古いため文書に残っていないこともありますが、勤勉な性格と幼いときよりルーテル派のキリスト教に帰依していたため、はめを外すことがなかったからでしょう。


  (2) いたずらで聖歌隊をやめさせられたハイドン

 オーストリアの作曲家のフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809)が、ウィーン少年合唱団の前身であるウィーンの聖シュテファン大聖堂の少年聖歌隊に入っていたことは有名です。現在、ウィーン少年合唱団には、4つのグループがありますが、その一つに「ハイドンコア」という名が残されてます。
 さて、ハイドンは、オーストリアの東のはずれにあるローラウという小さな町に12人兄弟の2番目として生まれました。祖父も父も車大工の職人でしたが、父は素人ながら美しいテナーの声の持ち主で、夕食後には自作ののハープをひきながら民謡などを家族で歌って楽しんでいたそうです。そのような遺伝や音楽的環境のおかげで、ハイドンは少年時代には美しいボーイ・ソプラノで8歳から17歳まで聖シュテファン大聖堂の少年聖歌隊に在籍しています。5年後には、弟のミハエルも入隊しています。ハイドンは、かなりいたずらっ子だったようで、教会の改築の足場に登って叱られたりしたそうです。
 ところで、ハイドンが聖歌隊をやめた(やめさせられた)理由は、変声期にさしかかった頃、授業中に新しいはさみの切れ味を試そうとして、前に座っていた子の髪を切り落としたいたずらの罰としてということです。 しかし、少年聖歌隊に在籍したことが、後年の音楽家としての基礎を築いたことはまちがいありません。


  (3) 少年時代はボーイ・ソプラノを披露していたモーツァルト

 2006年はモーツァルト(1756〜1791)の生誕250年の年で、世界各地で記念行事が行われています。ところで、少年時代のモーツァルトは、どんな歌声だったのでしょうか。記録によると、少年モーツァルトはなかなかの美声の持ち主で、歌も得意だったようです。ヨーロッパ各地を演奏旅行して神童ぷりを披露する際、中心となるのは当然のことながらピアノの演奏でしたが、ボーイ・ソプラノの歌声を披露することも多かったようです。実際、8歳から9歳にかけて長期滞在したロンドンでは、当時人気絶頂のカストラートのマンツォーリから、無料で歌唱法の指導を受けています。当地で少年モーツァルトの歌唱を聴いたある英国紳士の報告によれば、「披の声はか細く、まさに子どもの声だが、その歌いぶりは実に見事で、これ以上のものはないと思うほど」だったと言います。パリでモーツァルト一家の世話をした文人のグリム男爵は、「文芸通信」の記事の中で、少年モーツァルトの「趣きと情感を兼ね備えた歌い方」を讃えています。
 そんなモーツァルトが声変わりを迎えたのは、彼が14歳の1770年の夏、イタリア旅行中のポローニャでのことでした。当時としては早い声変わりだったと言えそうです。父のレオポルドは、ザルツブルグにいる妻への手紙の中で息子が変声期を辛がっている様子を書き綴っています。以後モーツァルトは人前で歌声を披露することはなかったようです。カストラートのための曲をかなり作曲したモーツァルトですが、その後、教会や聖歌隊とも関わりが少なかったために、少年のためにつくられた作品は決して多くありません。しかし、今ではその声楽曲が多くのボーイ・ソプラノによって歌われています。


    (4) カストラートにされそうになったベートーベン

 後世「楽聖」と呼ばれるようになったルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベン(1770〜1827)は、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンで、テノールの宮廷歌手であった父ヨハンの長男として生まれました。幼少より児童虐待に近い音楽のスパルタ教育を受けましたが、ボーイ・ソプラノの歌い手としても稀有な才能をもっていたため、周囲からカストラートになることを望まれていたけれども、これについては、このときばかりは父の反対でカストラートにはならなかったというエピソードが残っています。父は、息子に楽器の名手になることを望んでいたようです。もし、カストラートになっていたら、ベートーベンは、後世に残るような作曲家になることはなかったでしょう。


    (5) 教科書にも載ったシューベルトのエピソード

  かつて、小学校3年生の国語の教科書にシューベルトの少年時代のエピソードが載っていました。ウィーン少年合唱団の前身である宮廷少年合唱団の入団試験で、貧しい服装のため、「粉屋の息子」とあだ名されていたフランツ少年が一旦歌い出すと、その美しい歌声に周囲が魅了されるというストーリーを覚えている人もいるでしょう。
 フランツ・シューベルト(1797〜1828)は、ウィーン郊外のリヒテンタールに生まれました。幼い時から小学校の校長をしていた父や兄のもとでヴァイオリンとピアノを学び、早熟な才能を発揮します。更にホルツァーに師事して歌唱、オルガン、通奏低音、和声法を学びましたが、ホルツァーも、「何かを教えようとするとこの少年はもう既に知っていた」と語るほどの早熟振りでした。11歳の時、宮廷少年合唱団の入団試験に合格(これが教科書に載っていたエピソード)。更に帝立神学校へ入学して、寄宿舎生活に入りますが、そこでの家族と離れた陰鬱な生活の中でも生涯の友人シュパウンと出会います。シュパウンは、貧しいシューベルトのために五線紙を差し入れるほどでした。また、そこでサリエリに師事して学んだことが後年開花したとも考えられます。早熟というと声変わりも早かったように考えられがちですが、変声は16歳と推定されています。その後、父の学校で代用教員を勤めたこともあり、そのエピソードは、創作ではありますが、映画「未完成交響曲」でも描かれています。



     (6) 幸せを運んだアンデルセンのボーイ・ソプラノ

 デンマークの国民的文学者(童話作家・詩人)であるハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805〜1875)は、オーデンセの貧しい靴直し屋の家に生まれ、幼少の頃から父にアラビアンナイトなどの物語を読み聞かされ育ちました。貧しい家に生まれ育ったのにかかわらず、両親から可愛がられて育てられたことが、アンデルセンの性格形成によい感化を与えたようです。芝居好きの父の影響もあってコペンハーゲンの王立劇場の一座がオーデンセに来たとき、子役が足りず、当時13歳のアンデルセンは、羊飼いの少年役で舞台に上がります。美しいボーイ・ソプラノが評判になり、それがきっかけで、オペラ俳優をめざしました。やがて、オーデンセのナイチンゲールと呼ばれ、大金持ちや貴族の家に呼ばれるようになりました。14歳の時、コペンハーゲンの王立劇場に入ろうとしますが、変声期と風邪をこじらせたことが重なって声を痛め、オペラ歌手になることを断念します。しかし、「声はつぶれても詩人になることはできる。」と考え、道を拓いていきます。その後も挫折を繰り返しますが、困難に出会ったとき、デンマーク国王や政治家のコリンはじめ有力な後援者が次々と現れ、やがて文学の世界で後生に名を残します。とりわけ、約150編の童話は、今も世界中で読み続けられています。
 「私の生涯は一編の美しい童話である。それほど豊かで幸福なものであった。」
自伝で、アンデルセンは自分の人生を振り返ってこう述べていますが、少年時代より有力な後援者を得たきっかけの一つは、天真爛漫な性格と、美しい話や歌を進んで人に提供でき、人を幸せな気持ちにさせたことではないでしょうか。


   (7) 謙虚さそれとも自信のなさ ブルックナー

 後期ロマン派の作曲家 アントン・ブルックナー(1824〜1896) は、小学校教員兼オルガン奏者を父として、オーストリアの片田舎アンスフェルデンで生まれました。そのような家庭環境から、少しスタートは遅く感じるのですが、13才より聖フロリアン修道院の少年聖歌隊で歌い、音楽に親しみました。 1841年にまだ17歳で小学校教員になり、このころから作曲を独習し始めます。その後1845年から聖フロリアン修道院の教師兼オルガン奏者、1855年からリンツ大聖堂のオルガン奏者と、音楽的研鑽を積んでいき、当然のことながら、多くの宗教曲の合唱曲を作曲しています。また、大編成で長大な交響曲を作曲していますが、そこには、オルガン的な響きが感じ取られます。敬虔なカトリック教徒でありましたが、作曲した作品を批判されると、すぐに書き直すなど、自信のない性格であったと言われています。


   (8) 母を救ったチャップリンのボーイ・ソプラノ

 映画の喜劇王 チャーリー・チャップリン(1885〜1977)は、ロンドンの貧民街で生まれ育ちます。 両親は共にミュージックホールの芸人で、母ハンナは3歳の兄シドニーを連れて再婚しました。やがてバリトン歌手だった父は、チャップリンが5歳のときにアルコール中毒で死亡し、そのショックが原因で母は精神の安定を失い発狂してしまいます。家庭はますます貧しさのどん底へと落ちていきます。彼はそのころから街角で歌い踊って、客が投げてくれたわずかな金でパンを買い、病気の母に食べさせ、教会が配る慈善スープで空腹をしのいでいました。その後は孤児院を経て、いろいろな職業を転々としましたが、後年の名作「キッド」をはじめとする情愛豊かな彼の作品には、少年時代のそのような悲痛な体験が直接間接に盛り込まれています。
 リチャード・アッテンボロー監督の伝記映画「チャーリー」では、母ハンナが舞台の上で突然声が割れて歌えなくなり、観客の罵声を浴びるが、5歳の少年チャーリーが、母の急場を救うため舞台に出て、見よう見まねで覚えた歌と踊りを披露し、観客の喝采を得るというエピソードが描かれています。
 若き日のチャップリンの夢はヴァイオリニストかチェリストになることで、左利きのハンディを克服するため楽器の改造をし、1日4〜5時間の練習をしたそうですが、こちらの分野では大成しませんでした。しかし、自分の作品に付けた映画音楽の分野では、「ライムライト」の「テリーのテーマ」をはじめ、後世に残る作品を数多く作っています。また、歌は、「モダンタイムズ」でその片鱗を披露しています。


   (9) 聖歌隊のオーディションに落ちてしまったポール マッカートニー

 1960年代に活躍し、それ以後の音楽界に大きな影響を与えた「ザ・ビートルズ」のメンバーポール マッカートニーは、少年時代リバプール教会の聖歌隊のオーディションに落ちたという経歴を持っています。ポールの父親、ジム・マッカートニーは、若い頃にバンドをやっていたこともあって、息子にも音楽をやらせようとしたよいですが、最初はイギリスでは、ステータスでもある聖歌隊に入れようとしました。しかし、11才ののポールは、オーディションテストでクリスマスキャロル「Once In Royal David's City」をわざとしわがれ声で歌いました。この辺りにもプロテスト精神を垣間見ることができます。その後、短期間だけ、セント・バーナバス教会の合唱隊に入っていたこともありますが、長続きしませんでした。後年、合唱用に初めて作曲して教会に戻っているというエピソードもあります。
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